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        ※

あの日。母がいなくなってからしばらくたった頃。ローゼンを偲ぶ会が開かれた日。
私の前にお父様の弟子を名乗る人間が現れた。

「やっと見つけることができた。君は実在が疑われていたが、師匠の遺言状には君のことが書いてあってね。」
どうしても気になって、探したんだよ。と槐さんは続けた。
槐さんが持ってきたのは形見分けの品。
肖像画、赤いドレス、そして人形ホーリエ。
お父様と私は一度も会ったことがないのに、その肖像画は私にそっくりだった。
「いや、それは君ではなく、アリスのデッサンなのだと思う」
「アリス?」

ドレスに袖を通した私を見て、槐さんは考え込んでいた。
「これは運命の悪戯、いや復讐なのだろうか?ローゼンの理想に最も近いものが彼の作品ではなく彼の娘であり、なおかつ生前に一度も見えることのないとは」

偲ぶ会では全ての人が、お父様を思って涙を流していた。一人の天才の夭折を嘆いていた。
そして、すれ違う人々が控えめに、けれど口々に私を称えた。

「これがローゼンの最高傑作?」
「馬鹿、あの子は人間だよ」

「あの子は誰?まさにローゼンメイデンのようだわ」

「ローゼンメイデン?…いや、むしろアリスそのものではないか」
「おお…まさに」

アリス、お父様が探したもの。

どんな花より気高くて
どんな宝石よりも無垢で
一点の穢れも無い
世界中のどんな少女でも敵わない程の至高の美しさを持った少女

会が終わって、槐さんは私に尋ねた。
「帰ろうか」
私は首を振る。
「桜田さん――伯父さんの家に連れて行ってください」
「もういいのかい?」
「いいんです」
「ずっと迷っていたの。伯父さんはとてもいい人たちで…」
自分の家を指して『この家は君の家でもある。』とも言ってくれた。
「でも私は桜田の人間ではない。今日よくわかりました」

母がいなくなって、私には何もなくなったと思っていたけれど。何をするべきなのか私には何もわからなくなっていたけれど。
この時から、私の中で全ては明確になった。
お父様が見つけることのできなかったアリス。それに最も近いのが私。
私はアリスを目指さなくてはならない。

槐さんはぽつりと言った。
「君は師匠に似ているね。外見だけでなく、その気高さも」

「他の誰より似ているよ」




【朝】

ここはもうすぐ人形展の始まる場所です。
けれど、今だ人形の運び込みも始まっていない展覧会は何も無い舞台のようでがらんとしています。
そんな場所できゃいきゃいと騒いでいるのは人形師たちではありません。

 緑の女の子が少年に言い聞かせています。
「こんなところで会うなんて、珍しい偶然ですね」
嘘つきの舌はくるくるよく回ります。
少年の横にいた赤い女の子がちらりと笑いました。傍から見ていると、翠星石があまりにもかわいかったからです。
「確かに意外だわ」
「に、人形には昔から興味があったんですよ。ほら、セルロイドとか」
少年は不思議そうに言いました。
「この人形展はビスクドールだけだよ」
「ち、ちょぉっと言い間違えただけですぅ」
翠星石は力技で少年の言葉をかき消します。少しでもジュンと一緒に居る時間を増やしたくって、人形展にまでくっついてきたというのに、
肝心な所で素直になれないのでした。

だんだんと、槐と水銀燈の話し声が近づいてきます。
槐は「君に得るものが多いと思う」と言って、ジュンを人形展に誘った張本人ですが、
会場に到着した水銀燈を迎えに行っていたのでした。三人が立っているのは、会場の一番最後、
トリを飾る槐のスペースです。
行く道々、人形師仲間達が挨拶をするようで、水銀燈の移動は聞いているだけでにぎやか。
やがて、大きな鞄を持った水銀燈が、現れます。
「あら、ジュン君おはよう。手伝いに来てくれたの?」
水銀燈に挨拶されて、ジュンは顔を赤らめました。翠星石は足を踏みました。もちろんジュンの。
そんなことをしていたので、先に気付いたのは、水銀燈の後ろにいた蒼星石でした。
「姉さん!?」
その声に翠星石も驚きます。
「蒼星石!?」

 驚いた拍子にジュンの足を踏んだままの踵がぐりっ。
「つぅ!」
思わずうめいたジュンに真紅が冷たく言い放ちます。
「ジュン、紅茶を買って来なさい」

 どたばた騒ぎの中、わざわざ最初にジュンへ声を掛けた事や、蒼星石を自分の背中に隠していたことが、
水銀燈の悪ふざけであることに気付いたのは槐だけでした。
特に咎めたりはしません。最近の水銀燈の緊張をよく知っていたからです。


【昼】

さっきまでみんな忙しく動き回っていました。
騒がしく人形師達が自らの宇宙を作ることに熱中していたからです。
しかし、その人形師たちも今は誰もが食い入るように一点を見つめています。

 「どうかしら?…これがホーリエ、ローゼンの残した一雫よ」
真紅はいとも気軽にホーリエの肩に手を置いて見せます。
驚喜、嫉妬、崇敬、挫折、人形師達が抱く感情はさまざまですが、皆沈黙していました。
まるで大きな爆弾が炸裂して、耳がつぶれてしまったかのように、長い長い沈黙だけがあります。

 自らの従者に向けられた、言葉よりも雄弁な賞賛を真紅は心ゆくまで楽しみます。
そして、ホーリエを見る人形師たちに共通の表情が浮かんでいるのを確認するのです。
太陽を見るかのような目。自分には遥か手の届かないものを仰ぎ見るときの表情です。
人形師だけでなく、そのほかの関係者すら人形の存在感に圧倒されています。

 蒼星石は目を涙でにじませていました。元々一日でも早く父の人形を見たくて人形展の準備に潜り込んだのですから。
(これが、お父様…なんて素晴らしい…)
蒼星石の胸は歓喜で打ち震えています。

 槐は隠者のようにホーリエを囲む輪の外側にいます。
自らの父の偉大さにみなし児達の心が癒されて行く様を、槐は眺めていました。

 ただ一人、ここに水銀燈はいません。


【夕方】

水銀燈は一番忙しく会場を飛び回っています。
搬入される資材の確認、人形師達の揉め事の仲裁、他にも人形展の中心人物としての仕事は
まだまだたくさんあります。
ジュンは槐さんの紹介で、何人かの人形師に縫い取りをお願いされていました。
翠星石はそのジュンのお手伝い「ありがたく思うですよ!」―やっぱり素直じゃありません。
蒼星石はホーリエフロアの設営――ローゼンを語るパネルが会場で一番広いフロアを占有して
います。
みっちゃんは全細胞のスイッチが入れられたかのように、手伝い、質問し、メモを取っています。
その熱狂は好感を持って迎えられているようでした。

 真紅は人形誌記者のインタビューを受けていました。
初公開されるローゼンの人形の所有者が、ローゼンの娘なのです。
耳目を集めないわけがありませんでした。

 記者は真紅をローゼンの最上級の人形であるかのように仰ぎ見ました。
記者が感嘆と共に言います。
「――まさにローゼンメイデンね」
きた。真紅はそう思いました。控えめに微笑み釣り針を出します。
「そうかもしれません」
記者は満足気に頷きました。真紅に誘導されたとも知らずに。
ホーリエと真紅を写真にとって、記者は帰っていきました。

興奮冷めやらぬ記者の背中を見送り。
(上手く行ったわ)
真紅は心の中で呟きます。

 真紅の何よりの目的は、自らがアリスとなる事。
そのための第一歩として多くの人に、自らをローゼンメイデン―ローゼンの最上級の作品達―
のイメージと重ね合わさせるのです。
記者を思い通りの方向に運ぶことができたのはやはり、この紅いドレスとホーリエのお蔭でしょう。
まったく、お父様との思い出などを根掘り葉掘り聞かれなくて助かりました。

 真紅はホーリエの頬を撫でました。
「いい子ね」
「ドロボウキャットみたいな目をしてるぞ」
ジュンがいつの間にかに来ていました。
「失礼な事をいってないで、早く紅茶を持ってきなさい」
「少しは手伝えよ」
ジュンはぶつぶつ言いながら、すでに買ってあった午後の紅茶を渡します。
「私は人形師じゃないもの。関係ないわ」
紅茶を一口。


【夜】

もうすっかり日も落ちて、月が昇っています。
翠星石・蒼星石は一葉老には秘密で来ているので、先に帰っています。
みっちゃんは門限を越えてまで粘っていたのですが、水銀燈に諭され、強制送還されました。
晩御飯のコロッケが残っているのかは微妙な所らしいです。

ジュンもまた頼まれていた作業が終わったところです。槐がジュンに話しかけました。
「おつかれさま。本当は見学程度に考えていたのだが、君はよく働いてくれたよ、ありがとう。」
「いえ…僕のしたことなんてたいしたことでは」
槐は手を上げて、ジュンの言葉を遮りました。
「この会場の人間に仕事を頼まれるほどの腕、もっと誇っていい。そして君は天賦の才があると
自覚すべきだ。」
ジュンは戸惑いました。
槐は表情を緩めます。
「話が大きすぎたか。要は自信を持ちなさいということさ」

槐さんはまだ仕上げの途中だったので、見送りを断ってジュンは正面玄関に向かって歩き始めました。
会場最後尾を飾る槐のスペースにいたのですから、遠回りになるのですが、他の人たちの作品を見たかったのです。

槐の「ヘンゼルとグレーテル」のようにグリム童話風のものから、着物や甲冑を着た和風の人形もいます。
また偶然、赤の人形の隣に緑の人形が座っていて、自然とコントラストを生み出しています。人間サイズの人形があります。人魚がいます。
様々な個性を持った人形達が、それぞれの世界を展開していて、それを眺めるジュンはまるで万華鏡を覗いているような気分です。

 「あれ?この場所」
ジュンが入り口の近くで足を止めました。唯一なんの準備もされておらず、ただ梱包された箱があるだけの一角があったからです。
「誰か休んだのかな?」
不思議に思ってジュンはしばらくそこにただずんでいました。
「そこは私の場所よ」
ジュンの背中に水銀燈が声をかけました。

水銀燈は着慣れた作業着に袖を通して、髪もシンプルに後ろで束ねていました。全体的にその格好は槐に似ています。
水銀燈が箱を開け始めました。
「今からですか?」
「まぁね」
「僕も手伝います」
ジュンは水銀燈が忙しく会場を飛び回っていたことを思い出しました。
人形展自体にかかわる仕事が多くて、自分の人形に取り掛かる時間がなかったのです。作業着にも今着替えてきたところなのでしょう。
「ありがと。でももう遅いから、箱だけ開けてくれたら帰りなさいね」

問題は金糸雀人形の小道具を取り出しているときに起こりました。

みっちゃんお手製ハート型の髪飾りが痛んでいました。
まだらに青や白が散っています。
「白カビ!?しまった…」
水銀燈が髪飾りを持ち上げると、薔薇付きのリボンがポロリと落ちました。
以前金糸雀が着けているのを見て、丁度いいかと思って持ってきたのですが…。
「運んでるだけの時間でなんでこんなになるのよ」
水銀燈の眉根がよります。

「僕が作り直しましょうか?」
槐さんとの会話がなければ、ジュンはこんな事は言わなかったでしょう。
けれど、ジュンは自信を持って、水銀燈に提案しました。

 「ジュン、帰るわよ」
真紅がフロアの入り口に立っています。
本当のところ、箱を開け始めたあたりから、2人のことを見ていたことは秘密です。

「ごめん真紅。僕は水銀燈さんを手伝うよ」
ただの連絡のつもりで言うジュンに、つかつかと真紅が近づきます。
「そんなことしてたら、電車だってなくなるわよ?」
ジュンが何かを言う前に真紅はまくし立てます。
「レディーに睡眠不足は大敵なのよ?」
軽く意味不明です。
ほんの少しの間。ジュンは何を言うべきなのか迷いました。
「そう…じゃあ好きになさい」
「ごめんなさい、ジュン君を借りるわぁ」
すいっ、と真紅は水銀燈に視線もくれずに立ち去っていきました。
「すいません水銀燈さん、普段はあんなやつじゃないんですけれど…」
ジュンがあわててフォローを入れます。
「ま、かまわないわ」
少し気まずい空気が流れます。
水銀燈が空き箱の上に置いていた紙粘土を手に取りました。
「これ、何だと思う?」
ジュンに紙粘土を見せます。
「サイですか?」
「猫よ」
「えぇ!?す、すいません」
「いいわよ、私は象だと思ったんだし、槐さんは『バクだな』って言ってたわ」
水銀燈はおかしそうに笑います。
つられてジュンも笑いました。



スペースを片付けてから、水銀燈は人差し指の背で、金糸雀人形のあごのラインをそっと撫でました。
そして囁きます。
「貴方は私の予想以上の出来だわ。だからもう一歩を与えてあげる。
貴方はそれを受け止めることができるもの。さぁ、羽ばたいて頂戴」
髪飾りを製作中のジュンが、不思議そうな目で水銀燈を見ました。
「人形は作って終わりじゃないってことよ」


【早朝】

「ん…ぁ」
ジュンは話し声に目を覚ましました。
すぐに水銀燈が気がつきます。
「あら、おはよう」
「すまない、騒がしかったかい?」
水銀燈の横の人――槐が声をかけてきます。
それともう一人、早起きして来たみっちゃんがジュンに会釈しました。
「そんなことないです。あまり眠れていませんでしたから」
水銀燈の寝袋を借りたのですが、そのせいでドキドキして眠りが浅かったのです。

「それにしても見事な出来だ」
槐が感心したように呟きました。
「完成したんですか!?」
ジュンは跳ね起きようとして、寝袋に足をとられました。もどかしげに寝袋を脱 いで、舞台に近づきます。
「うわぁ」
目にすると思わず、ため息がこぼれました。もちろん、金糸雀人形の世界が素晴らしい出来だったからです。

「ほんの一瞬の移り変わり…その瞬間を切り取ったのか」
槐の評が続きます。
「見立てが効果的に使われていて、物語の息吹すら感じさせる」
水銀燈は充実感のある笑顔を浮かべました。槐の評から、自分の表現したかったことが伝わっているとを実感したからです。

山の中の風景を切り取ったように一面に緑の草が生えていて、あたりには舞台の上に
は木の枝が何本か伸びています。また、小鳥やねずみ、猫といった小動物が何匹かいます。
そうやってすべてが陶器で作られた風景の中で金糸雀人形は横座りして、ほんの少しう
つむき加減です。
座る金糸雀人形をドーム上の網のようなものが覆っています。
網の目はとても粗く、造りかけの蜘蛛の巣のようで、金糸雀人形の姿を見る邪魔にはな
りません。網は少しだけ黄味がかった白で作られていて、太さは中指程度のものです。
ほんの少しうつむいた金糸雀は一体何をするところなのでしょう…?

「この子は祈ろうとしているんですか?」
ジュンは金糸雀人形から眼を離さずに聞きました。
「貴方にはそう見えるのね」
水銀燈はあえてはっきりと答えません。
「骨の檻に捕まって、終わりが近づく中で祈ろうとしているように見えます」
ジュンが言い終わると、勢い込んでみっちゃんが言います。
「私には歌いだす直前に見えます。他の動物たちはそれを聞くために集まってるんじゃ
ないかなって…」
放っておけば、金糸雀人形に飛びかかりそうなほどみっちゃんは興奮していました。
「私には殻を破り、今にも孵化せんとしているように見えるな」
槐が最後を引き取り、締めくくりました。
次の動作に移る瞬間を切り取ることで、『その先』を強く意識させる。そういう趣向の
作品でした。
金糸雀人形の伏し目がちの目はその象徴でしょう。
あの目はそのまま閉じられるのか、そのまま遠い所を見つめるのか、それとも開かれるのか。

「この作品、なんと名づけるんだい?」
槐が水銀燈に聞きます。
「もちろん金糸雀です」
迷わず水銀燈は答えました。

【ふたたび、朝】

薔薇乙女の中で朝が弱いのは水銀燈と金糸雀だけです。
そのため人形展に関わる薔薇乙女は朝早くから揃っていました。
この後に起こった事は真紅と水銀燈の事件ですが、他の薔薇乙女もいなければ起こらなかったでしょう。
それとも薔薇乙女が集うことも含めて必然の運命だったのでしょうか。

翠星石が、金糸雀人形を見ています。
「金糸雀らしいかわいい感じですぅ。…ふふ、籠の中の鳥ですね」
「かわいい?」
翠星石は指差します。
「あの髪飾りが良いワンポイントになってて、とってもかわいいですよ」
これはもはや愛の奇跡、乙女の本能のなせる業でしょうか?
翠星石は気軽に尋ねます。
「ジュンはどこを手伝ったんです?」
「…あの髪飾り」
「はぅ」
翠星石は驚いてジュンを見ました。顔を赤くしたジュンと目が合います。
赤い顔をした2人をみっちゃんが思わず写真に撮りました。
「んな、なぁにをしてるですか!?」

蒼星石は骨のような網が、一部崩れているから廃墟のイメージを持ちました。
誰も聞くものがいない廃墟の中で金糸雀が歌っているイメージです。
ただ、ジュンと楽しそうにじゃれあう翠星石を眩しそうに見て、空気を壊さないように、廃墟だなんて陰気な事は言わないようにします。

 
 他の子供達がじゃれあっている中で、真紅は誰よりも真剣な目で金糸雀人形を見ていました。
金糸雀人形の前で右・左に動いて、難しい書物を読み解くかのように熱心にその人形を見ていました。
そうして、真紅の瞳に浮かんだ色は、失望です。深い深い井戸の底のように真紅の目は沈んでいきました。

「どう?」
そこに水銀燈が声をかけます。
普段めぐや金糸雀に人形を見せる時より、言葉少なです。
「ええ、よくわかったわ。人形を見せるということも、その他の事も」
真紅は笑います。その明るさを水銀燈は怪訝に思いました。
笑顔のまま真紅が聞きます。
「ホーリエをどう思う?」
「残念ながら、あれじゃ博物館」
ホーリエはただ一人そっけないガラスのケースに入れられて、座っています。他に一番広いフロアを埋めるのは、ローゼンを語るパネルだけです。
「ホーリエの魅力は殺されてしまっているのね、人が悪いわ水銀燈」
「スポンサー様の意向だったのよぉ。私が何かしたんじゃないわ」
「またまた。自分達の主旨である現代の人形作家の展示会。そこを曲げられたくなかったんでしょう。だからホーリエの展示に口を出さなかったんだわ。勝手に魅力を落とすって把握していたんでしょう」
「まさか」
水銀燈はよく気づいたわね。と思いました。

「これは一本とられたわ」
真紅はあくまで軽く言いました。顔も笑顔のままです。
「まぁ…」
水銀燈は真紅の言葉をさえぎりました。
「けれど、私はそういうことには興味がないのよ。」
真紅はほんの少し水銀燈を見上げます。それは切り込むような目。

「私は、私がアリスになるのよ。お父様の意思はアリスを作ること。誰かに作ってもらうことなんかじゃないわ」
 「現実と空想を混同してるわね」
水銀燈は固い言葉で真紅の話をさえぎろうとしました。普通なら笑うか、真剣さに飲まれるところです。
しかし水銀燈は拒否しようとしました。
「お父様は作品を娘と呼んでいたそうね。私達と同じく。」
真紅はそれよりも強い調子で水銀燈の言葉をさえぎります。
「私達はそれを目指すべき使命があるんじゃないかしら?」
水銀燈の表情は真紅の言葉を聞くたびに消えていきました。
「水銀燈もそうでしょう。…いいえそうだったんでしょう?」
真紅は熱に浮かされたような気持ちでした。もはや会話にもなっていません。ただぜんまい人形が歩みを 進めるように、自分の考えを話し続けます。
「私には、わかるわ。そうよ他の連中にはわからない。私にだけはわかるわ水銀燈」
確かにアリスから目を背ける翠星石も、動けない蒼星石もこの気持ちは確かにわからないでしょう。
真紅の脳裏に浮かんでいるのは、あの偲ぶ会の日、唯一自分より注目を浴びていた銀色の女の子です。
「貴女は諦めてしまった」
あの時水銀燈ははっきりと言いました。まるで歌うように。
『 アリス、お父様が探したもの。
どんな花より気高くて
どんな宝石よりも無垢で
一点の穢れも無い
世界中のどんな少女でも敵わない程の至高の美しさを持った少女

―わたしはそうなります 』
真紅はそれをはるか下、会場の後ろの席で聞いていただけです。
思い出して頂戴。と言う言葉を真紅は飲み込みました。
「…貴女はかつて、私と同じだった。貴女は貴女自身がアリスになりたかったのだわ、水銀燈!」
ローゼンの遺児として、壇上で父のことを、父の思い出を語っていた水銀燈。
まだ小さい金糸雀の手を引いて、会場から出て行った時。すれ違った私になんの興味もない一瞥をくれて通り過ぎていった私の姉。
そのときの真紅の感情をどう表現したらよいのでしょう。いろんな感情がごちゃ混ぜになった中で一番大きかったのは、悲しみです。自分でも自覚していませんでしたが。
 
 水銀燈に存在を認めてもらいたかった。同じ道を遥か先に行っているはずの彼女に。父に最も近い者に。
一番のお姉ちゃんに。けれど、その道から水銀燈はもう降りていたのです。
真紅はここでも一人でした。

真紅の叫びは計算されて出されたものではありません。しかしそれは偶然、雷雨のように水銀燈の心の
もっとも深くて弱い所を指弾しました。
水銀燈の傷。水銀燈自身が上手く隠していた心の傷。
このまま行けば壊れた陶器を金と漆で修繕するかのように、消え去ってしまうはずだったひどい傷です。
けれどそれは暴かれました。具体的なことは何も知らない妹に。
水銀燈はすっかり無表情です。

真紅は頭の片隅で水銀燈の無表情を美しいな。と思いました。まるで人形のようです。
けれど止まりません。十数年、誰もが目を背けていた姉妹にまつわる絡まった糸が、真紅を操っているかのようです。
真紅は操り人形のように両手を広げました。
「これはなに?」
その背後には金糸雀人形があります。
「こんなもの代償行為に過ぎないのだわ、水銀―」
「真紅ぅ!」

水銀燈は真紅の胸元を思い切り掴み、そして突き飛ばしました。
これ以上真紅の言葉を聞くことに耐えられなかったからです。
その怒号はフロア中に響き、誰もが水銀燈を見ました。
だから、その後の動きはみんなが見ていました。
突き飛ばされて、よろめいた真紅は大きく後ろに数歩下がりましたが、足を地に着け踏ん張ろうとしました。

けれど、次の瞬間真紅は不思議な動きをします。ぱん、と弾かれたように左足が持ち上がります。
真紅はその持ち前の運動神経で右足を軸に半回転して、今度こそ両足をちゃんと地面につけました。
そしてその勢いを腕を伸ばすことで殺しました。
 
 結局、真紅は転ばないですみました。ただ、ガシャンと陶器の割れる小さな音がしました。

「え」
何もかもを忘れて、水銀燈は芯の抜けた声を出しました。今までの人生で一度もなかったことです。
転ばないためにバランスをとった真紅の右腕は網をすり抜け、金糸雀人形の顔だけにぶつかっていました。

真紅は慌てて腕を引きました。けれどそれは小さな崩落の引き金でした。
真紅の拳が当たった場所を中心に、罅の入った金糸雀人形の顔は愛らしいおでこから顎まで、全てが崩れ落ちていきました。
真紅の顔色は青ざめ左手で右手を掴み胸元に寄せています。
細かな陶器の割れ落ちる音が止んだとき、そこには耳の痛くなるほどの沈黙がありました。

金糸雀人形の顔のあった場所には塗りつぶしたような黒がありました。周囲の舞台に緑が多いため、それは気味の悪いほどの暗黒を表現しています。もはやこの舞台は様々な幻想を抱かせる力を失ってしまいました。
表すことができるのは、死に代表される陰気ないくつかだけです。

こうして金糸雀人形は羽ばたく間もなく、死んでしまいました。
その存在は冷たく暗い遠くへと消え失せ、ただその残骸のみをさらしています。





金糸雀人形のいたフロアから離れた場所で双子が話しています。
「急にどうしたんでしょう、あの二人は」
「急、じゃないよ」
ボソボソと蒼星石が言います。
「姉さんだって、いつかこんな日が来る気がしていたんじゃないかな」
 「それは…」
翠星石は黙りました。そして蒼星石の手をとります。
「翠星石と蒼星石はずーっと一緒ですよ」
そのまま蒼星石の手を自分の胸に押し当てます。
「昔約束したじゃないですか、蒼星石と翠星石だけはいつだって一緒ですよ」
「うん…」
蒼星石は微笑み、ゆっくり目を閉じます。

ジュンはフロアを飛び出した真紅を見つけました。人気の無い小さなテラスで外を見ています。
真紅はゆっくりと胸元をなぞりました。
お父様から貰った胸元のブローチはすっかりへしゃげてしまっています。
「戻って水銀燈さんに謝ろう」
真紅は黙って首を振ります。
「真紅」
強い調子でジュンが言い、真紅の肩に手をかけようとしました。
黙って、真紅はジュンの手を振り払います。
「っ…勝手にしろよ!」
ジュンはその場を立ち去ります。
だから、誰も真紅が泣いていることに気がつきませんでした。

水銀燈が、金糸雀人形の破片を拾っていました。左目が見つかりませんでしたが、なかなかあきらめきれず、いつまでも水銀燈は左目を探しています。

そしてしばらくしてから事の顛末を知った槐は、黙って見えない空を仰ぎました。
「翼は折れたか…」
誰にも聞こえないように呟きます。
槐の見ている翼は黒色でしょうか。
 

 人形展の準備はいくつかの事故が起こりましたが、時間の遅れなく無事完了しました。


【準備のおわり】

展示会の事務室で男が紅茶を飲んでいました。
男はカップをひょいと持ち上げて、私に挨拶をします。
「やぁ、久しぶり。雪華綺晶」
そういえば見覚えがある気がします。
「…久しぶりですね、しろさぎ」
「白崎ですよ、お嬢様」
「そうでしたか?申し訳ないですけれど、私はあなたに興味がないのです」
私は通り過ぎていこうとしました。白崎はため息をつきます。
「私の心は覗こうともしてくださらない。傍観者のよしみ。少し私の戯言に付き合ってやってくださいませんか」
まだ何か言っていましたが、私は気にせず通り過ぎます。
白崎は唸ってから少し早口に言いました。
「水銀燈に突き飛ばされた後の真紅の足をひっかけたのは貴女でしょう?滑ったにしても不自然な足の動き方だったからね」
へぇ。あの場所にこの男もいましたっけ。
「こなれてきた今なら、ちょっとした力があるんでしょう?意外だったよ、貴女が」
私はもう事務室の壁をすり抜け、外に出ました。

 
 私はこれから、屋敷に戻って自分の器に金糸雀人形の目を握らせに行くのです。
鈍いお姉さまもこれなら私に気づいてくださるかしら。
私は楽しかった昨日の夜を思い出して笑います。
食事とベットに招いてくださったお姉さま。たくさん話しかけてくださった。
あの柔らかそうな頬、緑の瞳。なぜ自分に動く顎が、歯がないのかとあれほど自らの境遇を呪ったことはありませんでした。
けれど、それももうすぐ終わりです。
この展覧会の準備で、私はお姉さま方をちゃあんと見れました。その心の奥まで。
私がほうっておいても、絡まりあった糸はたくさんの衝突を招く事でしょう。

だから、もうすぐ見る時間は終わりです。
狩りの時間をはじめましょう。
考えただけでも、わくわくしてきます。
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