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 ちりん、ちりん。




「――ええ。分かりました。どうも有難う御座います」

「いえいえ、此方こそ。
 ――それにしても、よく此処まで持ち直しましたねえ…これも偏に、坊っちゃんの御尽力の賜物ですよ」

「そんな、私だけの力で、どうして此処まで建て直す事など出来ましょうか。此処で働いている方をはじめ、色々な人のお陰ですよ。
 そして、貴殿方お客様にも。特に貴方には、私が生まれてくる前からずっと御世話になりっ放しで――本当に有難う御座います」

「ははは…私は何もした覚えは無いのですがねえ。
 只、此処の服が気に入って足繁く通っているだけなんですよ、坊っちゃん?」

「私達物売としては、そう言って頂けるととても嬉しいです。
 物売は、受けた恩を物を売るという事でしか還元出来ないので。――営業文句になってしまいますが、これからも御贔屓にして頂けたら幸いです」

「ええ、勿論これからも御世話になる積もりですよ、坊っちゃん」

「有難う御座います」

「――御父様も、きっとお喜びですよ。あの気弱な坊っちゃんが今や、こんな大きな店の店主に、なっているのですからねえ」

「ははは。でも未だ、父の背中は遥か遠く。精進あるのみです」

「坊っちゃんなら、今に追い越してしまいますよ。貴方には、商の才も、縫物の才も有るのですから」

「や、才なんてそんな大それた物じゃないですよ…」

「そんな事無いですよ。貴方に修繕して貰った箇所は、元のより遥かに丈夫なんですから。それは、立派な天分ですよ」

「…はは、そうですか。修繕程度なら、何時でも言ってください」

「ええ。頼りにして居ります。
 ――さて、私もそろそろお暇致しましょうかね。家内が待っているものですから。
 時に坊っちゃん、貴方は奥さんは欲しく無いのですか?」

「そうですねえ…いやはや、今は店の事で手が離せないもので。
 これから、和服離れが進みそうですので、今は少し持ち直したと言っても、またいつかどうなるか判りませんから。――今は未だ、そういう事は」

「そうですか。でも、奥さんの在る無しでは随分負担が違いますよ?ここはひとつ、私が――おっと、これはこれは。余計な気の回しでしたね。済みません」

「あっ…いやいや、謝らないで下さいよ。
 ――そうですね。嫁、か…」

「――あ、そう言えば、坊っちゃん。この間、家の娘がですね、外国に旅行に行ってきたんですよ――私は外国に詳しくないもので、地名は忘れて仕舞いましたが――。其処で、土産を買ってきてくれてですねえ。
 ――気は心、つまらないものですがどうぞ貰って下さい」

「そ、そんな…こんな大層高そうなオルゴールなんか、受け取れませんよ」

「そう仰らずに。いつも御世話になっている、本の御礼ですよ」

「そんな…御世話になっているのは此方の方で…」

「良いのです。どうか、お受け取り下さい」

「…分かりました。大事にします。――有難う御座います」

「いえいえ」

「…あの、貴方は此のオルゴールの音色は、お聴きになったのですか」

「いいえ、聴いておりませんが」

「あの、開けて鳴らしてみても、宜しいでしょうか?貴方にも、是非聴いて貰いたいのですが」

「本当ですか?坊っちゃんが宜しいのなら、是非」

「それでは、――」

「…………」

「…………」

「…良い音色だ…」

「綺麗な音ですね。素晴らしいです。西洋の絡繰りも凄いですね」

「ええ。娘も、たまには良い仕事をしてくれるものです」

「――本当に有難う御座いました」

「どう致しまして。お気に召された様で、幸いです」

「そんな、人から頂いた物に、けちなんて有りませんよ。とても嬉しいです」

「それは良かった。無理矢理にでも差し上げた甲斐が有るってものですよ、はは。
 ――ではこれにて、失礼させて頂きます――」




 ちりん、ちりん。




「――暑いなあ…くそう。
 全く、お天道様も加減というものを――」

「わあっ!」

「――うわあっ!?な、何だ!?」

「まーったく、変な声出すなですよ」

「だ、誰だ――っ………え――ええっ!?」

「ふふん、たのもーです!」




《とある呉服屋での出来事―八月十六日―》




 ちりん、ちりん。




「…………」

「…………」

「…………何故来た」

「私に質問する前に、おめぇは私に謝らないといけないのです」

「…は?」

「なぁーにが『…は?』ですか!素っ惚けるんじゃねえです!
 おめぇは私に『小さな呉服屋』と言ったですよね!?それがいざ来てみたら…何やらでっかい看板のある立派な屋敷の下で、とっても偉そうな人と話をしてるおめぇを見つけ、更にはこんな立派な応接間にまで連れて来られて…
 おめぇに騙された私の心は、深く傷付いたです!」

「そんな…自分から案内しろって言うから――」

「客人を中に入れるのは当たり前なのです!
 それに、客人にお茶の一杯も出さないなんて、どういう躾をされてきたんですか、おめぇは!?」

「だから、今来たばかり――ああ、もういい。お茶を淹れてくるよ。待っててくれ――」




 ちりん、ちりん。




「――はい、どうぞ」

「ん、ありがとです。――ぷはぁ」

「――…ふふっ」

「…何ですか?ニヤニヤして」

「や、何でも無いさ」

「そうですか?――この羊羹、何処のですか?」

「『明石屋』のだ。貰い物なのだがね」

「へえ、『明石屋』のですか。美味しそ…」

「ふふ、どうぞお食べ」

「でも…」

「ん、嫌いか?」

「や、そう言う訳じゃあ……でも…あんまり食べると…ふ、太っちゃう…です…」

「……へえ、君がそんな事を気にする性質の人だったとは。ふふっ」

「う、五月蝿えです!うう…」

「はは…大丈夫だ。高が羊羹三口で見違える様に太ってしまう程、体は柔な作りはしていないさ。
 それに、折角出したお茶請けだ。食べてくれよ」

「わ、分かったですよ……太ったらおめぇの所為ですよ!?」

「ああ、分かった分かった」

「じゃあ、頂きますですぅ――」

「……どうだ?美味いか?」

「――美味しい……
 …まあ、でも当たり前なのです。何たって『明石屋』の羊羹ですもの」

「そうか…それなら良かった」

「でも、私のスコーンだって負けず劣らず美味しいですよ?」

「おっ、あるのか?」

「お待ち、ですぅ!全く、男と云うのは、食い意地だけは張りやがるんですから…
 後で、です」

「うっ、そうか…――」




 ちりん、ちりん。




「――おめぇが、坊っちゃんですか」

「ふふ、可笑しいだろう?三十路手前の男に坊っちゃんなどと」

「皆おめぇの事を、そんな風に?」

「そうだな…付き合いの長い方は大概其の呼び名だ」

「………坊っちゃん」

「お前が言うな。小っ恥ずかしい」

「ふふっ、良いじゃねえですか。
 ――ところで、さっきの人、誰なのですか?」

「ああ。昔からの『常連』の方だ。僕の生まれる前からずっと御世話になっていてな。父の話だと、先々代からの付き合いらしい」
 
「へえ…やっぱり、そういう古くからの付き合いのお得意先って他にいるんですか?」

「ああ。結構いるんだよ、これが。だが、さっきの人までになってくると、此処で話をするんだ」

「――えっ!?此処でそういう如何わしい話を…」

「阿呆か。そんな話はしない。そもそも、そういう輩は最初からお断りだ。この家の敷居を跨がせなどさせん」

「へえ…でもでも、そうなると私は、そんな凄い人が来る部屋に今座ってるって事ですよね!?」

「まあ、そうなるな」

「…きゃー!凄いですぅ!何だか金持ちのお嬢様になった気分です!」

「……何だそれ」

「ふふん、お茶のお代わり持ってくるですよ、ほれほれ」

「…全く、現金な奴だ――はいはい、今持って来ますよ――」

「――失礼します。…御客様がお見えになっております」

「分かりました、直ぐ行きます――あ、この娘にお茶を差し上げて下さい」

「畏まりました――少々、御待ち下さいまし」

「と言う訳だ。悪いが、暫く待っていてくれ」

「…あ、はいですぅ…――」




 ちりん、ちりん。




「――…………
 うう、遅いですぅ…客人を待たせるなんて、一体どういう了見なんですか…
 …………………………
 はあ…――そうだ!ちょっとぐらいなら、屋敷の中を見て回っても良いですよね?
 これだけ広い屋敷なら、お宝のひとつやふたつ、きっと有る筈ですぅ!イーッヒッヒッヒ…
 よし、そうと決まったら、早速行くですよ――」


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「――ううっ、仕舞ったですぅ…道に迷っちゃったですぅ…
 それにしても広過ぎです。御手伝いの人も大変ですね……はぁ、どうしよう………
 誰かぁ、居ないんですか?
 ――あ、何ですかね、此処は?
 ――わあ……綺麗な着物……高そうですぅ…
 ――ん??こっちの巻物は?――うわっ、何ですか、こりゃあ?…家系図?…長い……流石、ずっと前から続いてる店なだけありますね。由緒有る家系なんですかねぇ…
 ――この着物、着てみたい…うう、誰も見ていないからって、着ちゃ駄目ですよねぇ……でもでも、着てみたい……ちょっと袖を通すくらい、構わんですよね?どれどれ――」

「わあっ!」

「――きゃあっ!ごごごごご、御免なさいですぅ、御免なさいですぅ!つい魔が差して……決して猫糞を決めようとか、そんな事する心算は無かったですぅ!許してですぅ……」

「くく、くくくっ――あーっはっはっは!」

「…………え?」

「あはははっ……驚いたか?」

「あ…う…うう……ぐふ、ふふ…ふふふふふ……」

「……ど、どうした?」

「――くぉらあっ!」

「うっ――ひいっ!?」

「ふざけんなですぅ!!何て事しやがるですかあっ!もう怒ったですぅ!ううう……」

「いや、お返し――」

「喋り掛けるなですぅ!!」

「うわっ!ご、御免、許してくれ…」

「…………――」




 ちりん、ちりん。




「――…………なあ」

「…………」

「…………」

「……っ、うっ…」

「……もしかして、泣いているのか」

「五月蝿いです」

「…………」

「…乙女の恥ずかしい所を見られて、傷付かない人はいないです。
 もう、お嫁に行けないですよぉ……」

「乙女…………
 はぁ…どうしたものか……
 ――そうだ。なあ、…着物――着て、みないか?」

「…………」

「着たいんだろう、着物。
 背丈といい、華奢さといい、君は着物がとても似合うと思う。だから、な?」

「…………」

「…………」

「…………勝手にしやがれです」

「ふふ…分かった。良し、じゃあ、ちょっと待っておれ。人を呼んでくる」


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「――……ふふ……坊っちゃんが女の子を家に上げるなんて何年振り………
 御待たせ致しました――って、泣いておられるじゃありませんか」

「…………」

「いや…先程、一悶着あったから」

「まあ!女の子を泣かせるなんて!」

「う、ごめんなさい…」

「……くすっ」

「…………笑うなよ」

「誰が口を利いても良いなんて言ったですか」

「うっ…………」

「ふふ…坊っちゃんも大変ですね。じゃあ、此処からは男子禁制ですよ。覗いたりなんかしたら駄目ですよ!」

「いや、そんな事せんよ…」

「念には念を入れて、ね。
 ――さあ、お嬢さん。…ほら、笑って。可愛らしいお顔が台無しよ?…」

「……さて、暫し待つとするか。機嫌、直ると良いな――」
 



 ちりん、ちりん。




「――……厭に時間が掛かるものだな。ちと遅過ぎやしないか?――っと、そう言えば女の着付けか。駄目だ駄目だ。
 ……………………
 遅い。何をもたもたしておるのだ。
 ……まさか、僕に悪戯をしているのでは?……そうは問屋が卸さんぞ?よし、中を見てみよう――」

「――終りましたよ、坊っちゃん」

「……うわあっ!」

「何をそんなに驚いて――まさか坊っちゃん、覗いてたんじゃないでしょうねえ!?」

「ちっ、違う!余りにも遅いから、悪戯をしているんじゃないかと――」

「まーったく、着付けを覗くなんて、最低な下衆野郎なのですぅ」

「な、何だと――……」

「ふふ、どうですか坊っちゃん。…嘸かし、お似合いでしょう?」

「…………」

「えっと、まあ、私が着るんですから当然似合っているのですが…い、一応聞いておくです。
 ど、どうですか…似合ってるですか?」

「…………」

「なっ…感想も無しですか!?おめぇは余りにも女心という物をですねえ――」

「似合ってる。凄く」

「え…ほ、本当ですかぁ!?」

「これなら……
 ――あの、カメラを持ってきてくれないか?」

「えっ?…はいはい、分かりました。直ぐに持って来ますよ」

「…え?カメラ?一体何をする…」

「此の簪じゃあ、少し大き過ぎやしないか――笄も変えるべきか…や、簪を変えるのだから、変えざるべきか…ううん…」

「…え?ち、ちょっと!何処に行くんですか!」

「ついてきてくれ。中庭に行く」

「な、中庭!?」

「此処の突き当たりを左に曲がって、廊下を真っ直ぐ行ってくれ。中庭があるから。僕は探し物があるから、先に行っといてくれ」

「は、はあ…」


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「此処ですか。…いやあ…これまた広い中庭ですねえ。お金、掛かってそうですね…花も手入れがしっかり行き届いてるです」

「…済まん、待たせた」

「――あの、一体何をする心算ですか?」

「写真を撮る」

「いや、写真を撮るって言われてもですねえ――」

「――坊っちゃん、カメラ、持ってきましたよ」

「有難う。――ちょっと、後ろを向いててくれ」

「え、ええ。こうですか――って、ちょっと!?」

「ふふ。じっとしておいてね。こうなるともう坊っちゃんは止まらないのよ」

「――よし、出来た。簪を変えていたんだ。先程のは稍小さかったから、『びらびら』に変えたんだ」

「び、びらびら…?」

「よし。――それでは、其処の樹の下に立ってくれ」

「は、はあ…」

「もう少し左に――いや、右か…うーん――あ、良し。其処を動くな」

「んもう!い、一体何を――」

「坊っちゃんはね、着物が似合う人の写真を撮って、着物の参考例としてとっておいてるの。それも、相当似合っている人じゃないと撮ってはくれないのよ。やっぱり、それなりの方達が来てくださる処だもの。
 あれでも一応、職人の気質の持ち主。彼のお眼鏡にかなう人は、そう居ないのよ?」

「そうなんですか…って、そうなると、わわわ、私の写真が型録の中に…!?」

「ふふ、そういう事になるわねえ」

「――きゃあっ!凄い凄いですぅ!私が…
 うっし、張り切るですよぉ!綺麗に撮りやがれですよ!」

「おい、あんまりにっこり笑うな。画にならんだろう」

「う…は、はいですぅ…」

「…ああいうところが職人らしいと言うか…」

「そのまま動くなよ――顔が引き攣ってるぞ、もっと自然に!」

「あうう、はいですぅ…――」




 ちりん、ちりん。




「――や、やっと終わったですぅ…疲れたです…」

「ふふ、お疲れ様。はい、アイスキャンデー。どうぞ」

「あ、有難うです。――くーっ、冷たくて美味しいですっ」

「本当ねえ。ひんやりして美味しい」

「あの、お訊きしたい事があるのですが…」

「あら、何かしら?」

「…あの、貴女はこの家では、その、どういう仕事をしているのですか?あの人、貴女だけには敬語を使わないから…」

「ああ、その事。
 …私は、あの方の教育係、と言ったら宜しいのかしら?
 赤ちゃんの時からずっと付きっ切りで世話をしていてね。奥様を早くから亡くし、旦那様も此処の仕事が忙しくて、日が上る間の世話は代わりに私がしてきたの。
 ずうっと傍らで坊っちゃんを見てきた。もう、我が子の様に思っているのよ」

「そうなんですか…」

「ふふ。…坊っちゃんのあんなに生き生きした姿、何年振りに見たでしょうかね」
「えっ…」

「戦争が終わった時は、脱け殻の様に毎日ぼうっとしていたのよ。今でこそ此処まで立ち直ったものの、昔の様に――昔はね、もっと快活な性格だったのよ――昔の様に余り笑わなくなったの。
 何と言うか、心の内からの笑みを見せなくなったのよ。
 それがどうして、さっきの坊っちゃんの顔を御覧なさいよ。……あんなに無邪気な表情、もう二度と見られないと思ってた」

「そう、ですか。やっぱり、…
 あの人もとても辛い経験をしたから、好きな人を……」

「あらまあ、知っていたの?」

「ええ…あの人から聞いたのですが」

「そんな事が…へえ……ふふっ」

「どうしたですか――」

「――現像を頼んできた。…お疲れ様」

「全くですよ!うだる様な暑さの中一時間も和服を着て立たされるなんて!もう懲り懲りです」

「や、済まなかった。――余りにも似合っていたものだから、つい気持ちが昂ってな」

「へ、へえ…そうですか…ふふっ」

「…何だ?」

「おめぇ、自分で変な事言ってるの、気付かないんですか?」

「え…そ、そうなのか?」

「さあ、どうでしょうかねえ、坊っちゃん?」

「…な、何だよ、もう…」

「ふふっ」

「…………ふむ」

「…ん、何ですか?」


「いや、本当に似合っているものでな…今まで見た人の中で一番かも知れん」

「なな、そんな事ほいほい言うもんじゃねぇですよぉ…は、恥ずかしいですぅ……」

「いや、だって本当に似合っているから…」

「…も、もう……あうう……」

「ふふ。何だか、若い頃を思い出しちゃうわ……
 ――さて、と。坊っちゃん、私はお夕飯の支度をして来ますね。今晩は、肉じゃがでもしましょうかねえ」

「おお、肉じゃが!久しぶりだなあ」

「何ですかおめぇ、肉じゃがが好き……あーっ!私も早く帰んなきゃですぅ!夕飯の支度があったですぅ!」

「あ、そ、そうか。…悪いな、長らく付き合わせて仕舞って」

「や、別に良いですよ。…でも今から着替えるとなると、間に合わんですねえ…」

「その服、やるよ。だからその侭帰ると良い」

「…ええっ、この着物を!?そ、そんな…良いですよ…」

「や、君にあげるよ。その着物は――君が一番、似合っている」

「そ、そうですか…じ、じゃあ、今度返しに…」

「貰って構わんと、言っているだろう?着物に限らず、総て物は相応しい処に還るのが一番だ」

「そうですか……あ、ありがとです!大事にするです!」

「ああ。其の服もきっと、喜んでいる。
 ――さあ、早く帰らなければならんのだろう?」

「…そ、そうでした!それじゃあ――ええと、…」

「――ジュン。桜田ジュンだ。…名前、教えて仕舞ったな」

「ふふっ。良いじゃないですか。――私は、翠星石です」

「そうか。じゃあな」

「んもう、折角名前教えたんですから、名前で呼ぶです」

「そ、そうか…
 ――じゃあな、翠星石」

「ジ、ジュン。じゃあ――またね、です――」


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「帰ったか。…はあ、何だか一週間分の疲労をまとめて背負い込んだ気分だ…
 まあでも、良いものが撮れた。これだけでも善しとしよう。
 そう言えばあの娘、何しに来たんだ?
 そもそも、どうやって此処が……ああっ!ハンカチーフ、返すの忘れてた!――彼女からの伝言も伝えておらんぞ…スコーンも!
 嗚呼、抜かった…また怒っているのだろうか…
 と言う事は、又来るのか……『またね』って言っていたしな…はあ…
 まあ、良いか…――」




 ちりん、ちりん。




「――只今ですぅ!」

「お帰り、翠星石――おや、どうしたんだい、その立派な着物は?」

「この間話した人の処に行って来たんですよ、ハンカチーフを返しに――ああっ、返すの忘れてたですぅ!」

「――ええ、桜田さんの処かい。立派な屋敷だったろう?」

「ええ。久し振りでしたが、相も変わらず、でっかい侭だったですよ」

「そうかい。彼処の息子さんは元気だったかね」

「ええ。相変わらず浮浪者みたいだったですよ」

「そうかい。それは、良かった。
 ――思い出すねえ、お前達二人の振袖を買いに行ったときの事を」

「そうですね…未だあれから十年経っておらんのですよ?未だ…十年前は…
 ――って、感傷に浸っている場合じゃ無いのですよ!それでですね、私のこの格好がなんと!彼処の店の型録に載るんですよ!」

「おやまあ、そうかい」

「…何ですか、感想はそれだけですか」

「だって、そんなもの当たり前じゃないかい。だから特に驚きもせんよ。何たって、私の孫だからねえ」

「……そうですか――ふふっ、そうですね。
 ――ところで、今日の晩御飯は何にするですか?」

「そうねえ…肉じゃがでもしようかねえ…」

「…そ、それなら私が一人で作るですぅ!おばばは休んでて良いですよ!」

「おや、そうかい?悪いねえ…」

「良いのですよ。うっし、頑張って美味い肉じゃが作るですよ!」

「――ふうん…そうかいそうかい」

「何です?」

「いいや。…近いうち、お前の子供が見れるかもしれないねえ」

「…ええっ!?なな、何でですか?」

「さあ、どうしてだろうね…――」




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 ちりん、ちりん。




《とある呉服屋での出来事―八月十六日―》

おしまい。
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