さら、さら、さら。
「――僕らは、小さい頃からよく苛められていたんだ。この眼の所為さ。僕は右が緑色をしているんだけど、姉は逆なんだ。どうやら、この眼が苔が生えてる様に見えたのだろうね。苔の双子って言われていたものだったよ。
姉さん――御免、姉さん、って読んでも良いかな――姉さんは、いつも僕を助けてくれたんだ。怒鳴り返して、男子とも互角に戦って、そして次第に僕達の事をからかう人もいなくなっていったんだ。
――でも、姉さんも平気だった訳じゃない。下手したら僕よりも、とてもとても傷付いていたのかも知れない。
偶にね、何も言わずに家を飛び出す事があったんだ。後を追ってみたら、近くの小川に居たんだ。
其処の小川の畔にはね、大きな樹があったんだ。其処で、泣いていたよ。思い切り、泣いていたんだ。その姿が、余りにも脆く見えてね。平素は気丈に振舞っていても、その内は硝子の様に脆く、壊れ易い。
いつも護って貰ってばかりじゃ、いつか彼女は壊れてしまう。僕もその頃から、立ち向かうようにしたんだ。これが意外と効いたのか、その頃から徐々に減っていったんだ」
「…………」
「ある日、姉さんと父が田舎の親戚の家に行く事があったんだ。僕はその日風邪を拗らせちゃって、母と留守を任されたんだ。
――その日はね、何故か警報が鳴らなかったんだ。気付いたら僕は倒れた箪笥と壁の隙間に居たんだ。隣には母が倒れていた。周りは火の手が上がっていて、僕は足が挟まっていて、動けなかった。熱かった、とても。段々、感覚も無くなってきてね、意識も薄れていったんだ。すると、近所の方々が皆で助けに来てくれたんだ。
幸い、母も僕も助けられたんだけど、火傷が酷くて、動けなかった。仕方が無いから、焼け残ったカーテンで担架を作って、近くの広場まで運んでくれたんだ。僕はもう、意識が朦朧としていて、姉さんの事しか頭に無かった。姉さんの安否の事ばかり考えていた。
――姉さんは、来てくれた。僕も姉さんも互いに、大丈夫で良かった、って言ったんだ――尤も、僕は声が出せなかったし、口も動かなかったんだけど――本当に安心したんだ。そうしたら、ふっ、と体が浮いて。刹那、体が何処かへ運ばれる気がして、気が付くと此処に居たんだ」
「……そうか……そうだったのか…――
君の姉さんは、本当に優しい方なのだな。最期の最期まで、君を見捨てる事は決して無かった。君の事を最期まで愛していた。そう、思う。僕と違って――」
「そう…君がそう言うのなら、きっとそうなのだろうね」
「ん?どうしてだ?」
「だって、君の言葉には、たましいが込もっているもの。君の気持ちも、この言葉に込もったたましいによって僕に伝わってくる。君の言霊が、僕のたましいを優しく包み込んでくれる。――そんな気がするんだ」
「成程。確かに、僕にも君のたましいが伝わってきている。君の姉に対する想いが、とても強く、痛い程強く伝わってきている」
「そう?
ふふ、言葉って、良いね。こうして面と向かって、言葉を伝える事って、大事だと思うんだ。やっぱり、直に気持ちを伝えられるからかな」
「そうだな。文で気持ちを綴るのも良いが、こうして言葉を声に乗せるのも良いものだ」
「君と僕は、気が合うなあ。でもね、姉さんは、面と向かって話すのが恥ずかしいから、言葉を綴る方が好きらしいけど」
「そうか、成程。そう言えば、似た者同士だったものな――」
さら、さら、さら。
「――ねえ、君。そろそろ、お別れの様だよ」
「えっ?何故だ?」
「君の、足。見て御覧」
「…うわっ、消えてる!?」
「どうやら、君の器が君を呼んでいる様だね。君は戻らなくちゃならない、もと居た世界に」
「そうか……君とも、お別れか。長いようで、短いな」
「そうだね。でも、出逢いなんてそんな物でしょう?唐突に出逢いは訪れ、また唐突に別れも訪れる。
そしてもう、逢うことは多分二度と無い」
「そうだな…一期一会、と言ったら在り来りになるが、そんな物なのだろうな」
「そうだね…
でも、この出逢いには必ず意味が有るんだ。僕はね、総て物事には意味が有ると思うんだ。意味の無い事なんて、無い――それこそ、虚ろじゃあないか」
「この邂逅の意味、か…ううん…」
「ふふ。いずれ、判るんじゃない?今は未だ分からない事でも、時が経って顧みてはじめて、気付く事だって有るさ」
「…ああ。そうだな。じゃあ、この問題は保留だ」
「ふふ。分かったら教えてね。
――ねえ、君。伝言を、頼めるかい?」
「ああ、別に構わないが…誰にだ?」
「ええとね…
『来てくれて有難う。逢えて、良かった。僕の事は忘れて、君の好きな様に生きておくれ』
って。――ああ、姉さんに、伝えてくれ」
「……分かった。君の言葉、確かに預かった。…だが、僕は君の姉さんに逢っていないのかも知れないのだぞ?」
「ふふ、別に構わないよ。何でだろうね、君はやはり姉さんと逢っている。逢っていないとしても、きっと逢える――そんな気が、してならないんだ」
「そうか…成程、それならばきっと、大丈夫なのだろうな。はは」
「うん。――宜しく、頼みます」
「ああ、分かった。必ず伝える。君の――姉さんに」
「有難う。…ねえ、君。その伝言はね――君宛の伝言でもあるんだよ」
「えっ…」
「御免ね。僕、嘘、ついてた。君に逢うすこし前にね、女の人に逢ったんだ。何処と無く、僕に良く似た人だった。
その人も、色々な事を話してくれた。…君の話と寸分も違わなかった。暫く話をしていたら、急に彼女が黙り込みだして、涙を流したんだ。どうしたのって訊いたら、彼女の想い人が、彼女に話し掛けてきたみたいで。暫く泣き続けていたよ。
そうして、彼女は此処を去っていった。久し振りに声を聴いたら、安心したって。そして、彼女に伝言を頼まれたんだ。まだ生きている人に伝言だなんて、可笑しな事をするものだなあ、って思っていたのだけれど…きっと彼女は、その人が直ぐに此処に来る、と分かって居たのだろうね。
――そして、君が此処に来た」
「…………」
「…………」
「…彼女は」
「えっ」
「彼女は――どんな表情だった?」
「優しい、表情だった」
「そうか…」
「…………」
「彼女は」
「…………」
「彼女は――何処へ、行ったのだろうか」
「さあ。僕は判らない」
「そうか。――天国なんて陳腐な考えだが、彼女には天国に、居て欲しいな…」
「僕は天国、在ると思うよ。今頃きっと、楽しくやっているさ。笑っていると思う」
「そうだな…笑っていて欲しいな。ずっと、笑っていられるように――僕は、祈り続ける」
「ふふ。君は、優しいのだね。表には出さないのだけれども、君のたましいは、とても優しいのだよ?」
「ははは。そんな事初めて言われたよ。そうかなあ…
――だが、これはせめてもの、償いだ。彼女を見捨てた僕の唯一出来る、御祓だ」
「そんな、彼女はもう君の事は――」
「いや、良いんだ。此れは僕自身に対する罪の、御祓なんだ。だから――」
「…………」
「――君は、これからどうするのだ?」
「そうだな…僕は此処がそれなりに気に入ってるんだけど。
――旅に、出てみようかな。此の世界にも、きっと沢山のものが在る。確かめたいんだ。この眼で、確かに此処に在る、と言うことを。――もし彼女に逢ったら、その時は君にも教えてあげるよ」
「ああ。…楽しみにしているよ」
「…………」
「…………」
「君に」
「ん?」
「君に、逢えて良かった」
「そうか。僕もだ」
「君は」
「ん?」
「これから、どうするんだい?」
「そうだな…取り敢えず、店をもっと繁盛させなければな。――戦争の所為で、屋台骨が散々蝕まれてしまったのだが、最近漸く持ち直したところでね。これからもっと頑張らなければいけないんだ」
「そう…――お嫁さんは、欲しくないのかい?」
「えっ…いや、今は全く…それに…」
「ふふ…君は律儀な人だ。――大丈夫、彼女の許しは得てる」
「――え?な、何の事…」
「僕は、そのハンカチーフの持ち主と、幸せになって欲しい。
――そのハンカチーフ、大事にしておくれよ。それは彼女が大事にしていた物だ」
「え…――い、いつから!?――う…眩しい――」
「――ふふ。君に逢う前に、実は姉さんにも逢っていたんだ。――君と姉さんは、とてもお似合いだ。ああ見えてね――とても淋しがり屋なんだ。誰かが付いていないと、彼女は直ぐ淋しがるから。だから――姉さんを、宜しく頼む――
……………………」
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「――…う。
此処は…そうだった、電車の中だったか…
何だったのだろうか。夢――では、無いのか…それにしても、不可思議な邂逅だったな…
伝言、任されてしまったなあ…もう逢うつもりなど全く無かったのに。――あ、ハンカチーフを返さなければならないのか。ならば、序でにでも良いか…
全く…昨日の今日であの写真の娘に逢うとは…運がよいのか、悪いのか。――宜しく頼む、って言われてもな…まさかあの娘と……って、何を考えているんだ僕は。阿呆か。
……あ。駅、過ぎてる。…まあ、いいか。もう少し――」
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ガタン、ゴトン。
《とある小川での出来事》
おしまい。