きれい。
私はいつだって、この景色を見るのがすきだ。
いつだって、とは言っても。
結局のところ、短い時間しか出逢えないことを、もう知っている。
一年中、今、ならばいいのに。
そんな子供みたいな台詞を、今の私はもう言わない。
口にしない代わりに……手を動かそう。
景色を、いつまでも留めておくために。
この鉛筆一本あれば、何だって描けるのだから。
少し、風が強い――あんまりつよく、吹いては駄目なの。
折角の花びらが、散ってしまうから――
けれど、この風はやむこともなく。
ずっと花びらを、散らし続ける。
しろい光を、私の眼に映して。
溜息を少しついて、私はその様を見守りながら、鉛筆を握り締めた。
この瞬間さえ、描いてみせると。そう、思いながら。
まだ描かれていない真っ白なページと。
私の白いスカートの裾が、風に舞って翻った。
――――
【さくらのノート】
いつものように一日が始まって、私は早速外へ飛び出す。
ずっと部屋には居られない、私はあそこに居るのが、あまりすきではないから。
そんなことを言いつつも、私はきっと、部屋に戻ったときに怒られるのだろう。
怒られるのはきらい。けれど、大体「怒られないこと」を心掛けているときは、自分がつまらない。それが、言い訳。いつも一緒の、言い訳。
手元には、ちょっとしたものが入るバッグを持った。中身は、いつも通り。
向かう場所は、決まっている。桜の樹がたくさんある、森の入り口。
私は森の中へは入らない。ただ、森の入り口には白いベンチがあって、それは私にとっての特等席だった。
歩いて程なく、私はそこにたどり着いた。いつものようにベンチはあって、いつものように桜の樹々は風を受けてそよいでいる。
ざぁ、と、一際強い風が吹いたものだから、花びらが沢山散っていった。
いつものベンチに、人影が見える。うたた寝をしていた様子だったけれど、風の音で眼を覚ましたのか――顔を上げて、そしてこちらの方を見た。
「やあ、いい天気だね。――君は、誰だろう?」
きょとん、とした顔、だった。
「ひないちご。雛苺っていうのよ。あなたのお名前は、何?」
「僕か? 僕はジュン」
「そう、ジュンというのね。――今日は本当にいい天気。けど――」
「けど?」
「ちょっと風が、強すぎるの。このままじゃ、桜が散ってしまうわ」
見上げる。風はさきほどよりも穏やかになっていたけれど、それでも桜の花びらは、散り続けている。
「ん。けどまあ、良いじゃないか」
「どうして?」
「今の一瞬だから、きれいだって思うこともあるさ。桜の気持ちは僕はわからないけど、確かな今がうつくしい。そう考えても、良いんじゃないかと思う」
今の一瞬。こういうの、ほんの短い時間――刹那、という言葉を、何処かで聞いた。
「桜の花って、本当に桜色だなあ。ピンクって言ってもいいけど、桜色っていう響きがよく似合う」
「……」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないの」
私はバッグから、ノートを一冊取り出した。
「お隣、座ってもいい?」
「ああ、どうぞ」
鉛筆を握り締めた。桜色、か。思いながら少し、眼を閉じる。そうだ、桜は、あんな色をしていたっけ……
「絵を描くのか?」
「そう。私、この景色を描くのが、すきなの」
「ふぅん、何かいいな、そういうの。ちょっと見せてくれないか? それ」
ノートを手渡した。ぱらりぱらりと、彼は頁をめくっていく。
「へぇ……凄いな。よく見てる、って感じがする。色の濃淡なんか、これ、鉛筆画だろう。よくここまで光の調子を表せるもんだ」
「そう? えへへ……」
「そうさ。凄いよ」
私は色を使わない。だって私は、色がわからないから。
いつからかは、覚えていない。遠い記憶の中にある、『色付いた景色』――段々と薄れていく、その記憶。しかしそれが、私が今、『色の無い景色』の中に居ることを、教えようとする。
「ちょっと時間を貰ってもいい? ヒナ、絵を描きたいの」
「いいよ。僕もすることは無いし――」
きれい。ああ、本当にきれいな景色。
―――――
「出来たのか?」
「うん――」
ノートの一面に描かれた、私の眼に焼きついた一瞬が、手元に残る。
「きれいだ。うん、本当に、きれいだ」
「えへへ……ありがと」
言いながら、髪を撫でてくれる。
懐かしい。――懐かしい?
風が吹く。今の一瞬ですら、この手に留めておくことが出来ない。
この瞬間が、途方もない速さで過去になる。今が、遠い昔になっていく。
ああ、だから絵を描こうと思ったんだ。
いつまでも、残しておこうと思って。
あなたは、覚えていないのでしょう?
だって、遠い昔のお話だから。
あなたは、私にこの鉛筆と、ノートをくれたのよ。
あなたの持っている、その黒いトランクを開けて。
ページは実のところ、ほとんど埋まっていない。
このノートは、大切に使おうと思っているから。
頭の中では、数え切れない程の絵を描いた。
私は、この景色を描くのが、とてもすきなの。とても――
―――
「――眼が覚めたか?」
「うゅ、……」
あなたに髪を撫でられている間に、いつの間にやら眠ってしまっていたのだろう。
肩に預けていた頭を、起こす。
「まだ、そんなに時間は経ってない。せいぜい三十分位か。無理して早起きしたんじゃないか?」
「……ヒナ、そんなにお子様じゃないのよ?」
ぷぅ、と頬を膨らますと、本当に可笑しそうな様子であなたは笑った。
そうか、ごめんと。一言謝って、あなたは立ち上がる。
「そろそろ行くよ」
「森に、入るのかしら?」
「うん。今日は何だか、いろいろ歩いてみたくてね。ありがとう、楽しい時間だった」
そう言って歩き出そうとしたが、私は思わずそれを引き止めた。
「えと――これ、良かったら、貰ってほしいの」
先程描いた、桜の景色。そのページを、丁寧に破りとった。ちゃんと、私のサインもしておく。
「これ……いいのか?」
「うん、いいの。ジュンに、持っててほしいのよ。桜の絵なのに、しろくろだけど……」
「そうか、成る程。いや、綺麗な桜色の景色だよ」
え? と。一瞬、私は眼をまるくした。
「描いたのは鉛筆でも、この紙はうすい桜色をしているんだ。君の着ている服と、一緒だね。桜色の便箋に――君の手紙として、貰っておくよ。ありがとう」
――大事なものだから、しまっておかないとな。
そう言って。紙をトランクにごそごそと仕舞いこんでから、あなたは森へと入っていった。
―――
ベンチに座り、ひとり。桜はまだ、散り続けている。
ねえ、ジュン。あなたは、不思議なひと。あなたは、私の知らないうちに、桜の色を私にくれたのね。今だって、そうよ。私の服は、真っ白じゃなかった。この桜と同じ色に、包まれていたの。
もう忘れてしまったのだろうけど、――私は、確かめることなど、しないけど。
きっと次に逢った時は、覚えていてくれるかしら。
今が、遠い過去になっていくならば。それも、難しいかもしれない。
でも、それで、いいの。
今度また、あなたが私の名前を尋ねるのなら。私もあなたの名前を、尋ねよう。
――そしてまた、私の絵を、あなたにあげるから。
「今」が遠い昔になっても、何度だってやりなおせるのだもの。
今日という日の、桜。この景色を、もう一枚残しておこうと思って。
私は眼の前の様を、その一瞬を、焼き付ける。
やさしい風が、まだ描かれていない桜色のページと。
私の、桜色のスカートの裾を、そっと撫ぜていった。
最終更新:2008年01月09日 00:32