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薔薇乙女家族番外編 その二
~時計塔屋敷~

携帯電話の灯りを頼りに廊下を歩む。床は先刻ほど酷くはないが、如何せん汚い。衛生面は最悪と見て良いだろう。片隅にはゴキブリの死骸が虚しく転がっているのが見えて、一層不安を駆り立てられる。
窓には相変わらず気持ち悪い緑が泳いでいる。正直、窓達がここにある事が僕を心理的に追い詰めている一因だ。小さい身一つに対して、妙に解放感がある空間は肩身が狭い。
誰かがこちらに視線を向けているかの様な錯覚にも陥り、とてもではないが平静なぞ保てない。娘達が悲鳴を上げて姿を眩ますなんて事件があったのだからなおさらだ。
…そう言えば…水銀燈も見ない。誰か第三者がこの屋敷に侵入してきたと仮定すると彼女も危ういのではないか。
真紅、金糸雀、翠星石、雛苺、水銀燈…みんな一体どこに行ってしまったのか…。
やがて、廊下の脇に扉が見えてきた。この扉がどの部屋の物かはさっぱり分からない。だがもしかしたら、娘達がいるかもしれない。変質者が潜んでいそうな気もするが…僕は震えながらも意を決して扉を開いた。
キイ…バタン…。
軋みながら扉が開いた。音が暗闇に反響して耳に入る。恐る恐る中へと足を踏み込み、携帯電話で辺りを照らしてみると、本棚と何冊かの本が床に散らばっているのが目に映った。その内の一冊を手に取って見る。表紙が酷く汚いが…何かの雑誌か?
パラパラとめくって見る。妊娠…陣痛…破水………出産?妊婦の為の雑誌か?何故こんなのが…。

ふと屋敷の主が目に浮かんだ。水銀燈の顔が映写機に挿入されたフィルムの様に映し出される。
これは水銀燈の物である事には違いないだろう。しかし何故彼女がこんなものを…彼女は結婚していたのか?そんな事一言も言ってなかったが。
…いや、そう言えば彼女は「紹介したい人がいる」と言っていた。そしてそのまま姿を消してしまったんだった。このまま筋通り行けば…彼女は旦那さんか、その子供を紹介しようとしていたと考えるのが妥当だろう。
あ、この雑誌の出版された日が書いてあった。八十八年の七月…二十年近く前の雑誌じゃないか。
…千九百八十八年か…何の奇遇かな。
実は僕と彼女は昔、付き合っていた。彼氏彼女の関係だったのだ。だが僕は父の仕事の都合で引っ越してしまい、その瞬間に彼女との関係は終わった。二人で話をつけて、しっかりとピリオドを打った。その年が八十八年だったのだ。
だが少し待て。これが彼女の持ち物だとしたら、彼女は僕と別れてすぐにこの雑誌を必要とする様な出来事があったのか?少し、脳裏に不安がよぎった。
…彼女は多分、僕と別れてすぐに別の人と一緒になった。そう考えておこう。不自然だが、そう補完しておく。
雑誌を床に戻して、照明を遠くにやる。机があった。上には幾つかの本にペン、紙切れが乗っかっている。床板を軋ませながらそれを見てみると、この屋敷の黒い面の片鱗に触れた様な気がして背筋が凍った。
……生きとし生ける者の御霊をあの世へと導くカラスを………首を切り落としたものを触媒に儀式を遂行す。時計塔の大時計を凍らせる。星の………。
紙切れの傷みは酷いが、こう書いてあるのは分かった。何か気になるものを感じ、ポケットへと素早く入れた。

その脇に積まった本も埃だらけになっているが背表紙は見える。大抵の物は黒魔術に関係した書物だが、その中の一冊に興味を取られた。思わず本棚を崩してそれを取る。それは銅製の表紙をした日記であった。中身が気になるが鍵が掛かっていて表紙が開けない。
彼女は一体、今までどんな生活をしていたのかが気になって仕方ない。
勿論それらは全く個人的な理由である。彼女の内面に土足で上がる様な真似であるのは承知の上、日記を拝借する事にした。多少の罪悪感も感じはしたが、興味が勝ったと言った所か。鍵は後でどうにかしようと頭の片隅で考える。
しかし、先の紙切れにこの書物、この屋敷は想像以上に恐ろしい影がうごめいているみたいだ。とんでもない所に来てしまった。早く娘達を連れて出よう!
その部屋から飛び出た僕の中には、恐怖にも勝る恐怖が暴れていた。まさかこの様な事があるとは…。夢想だにしない暗闇に取り残されたという現状が、僕をやたらと背後からつついてくる。完全に焦っていた。
廊下の先々にはいくつもの扉があった。片っ端から開けて見るかと手近な物に手を掛ける。
まず最初に開いた扉は、埃くささが一層酷い部屋だったというのが第一印象だ。見たら床板はすっかり抜け落ちていて、家具と思しき物も無い。どういう訳か、岩山の一部かと錯覚する程のゴツゴツした岩肌が部屋を貫くかの如く占めている。何だこの部屋は。
「おい」と声を掛けてみる。だが何も反応は無い。特別意味の無い部屋みたいだ。
次の扉を開ける。厨房みたいだ。冷蔵庫に調味料がたくさん置いてある棚に食器棚、水道場…に………!!?

僕は目を見開いて、手で口元を抑える。まな板の上に包丁が突き立てられていたので何だろうと凝視してみたら、その包丁はカラスの首を貫いていたのだ。まな板は紅に染まり、周囲にも乾いた血がべっとりと付着している。たまらず外に出てバタンと扉を閉めた。
そうしたら、その扉の方からカラスの鳴き声らしきものが聞こえてきた。羽ばたく翼の音も。非常に焦った様な、あるいは足掻いている様な…果てまたは何かに抗っているかの様子だ。
何故か気になって仕方ない。また扉を開けてまな板の方を見ない様に部屋の奥に行くと、やたら騒がしい布掛け箱があった。なるほどこれか、と布をはぐるとカラスが一羽、金網の箱に閉じ込められていた。
取り出し口の金具を捻って外してやると、カラスは瞬く間に脱出し、どこかへと消えていった。
「…時間を喰われたな」
見送り終えると、廊下へと歩み出た。カラスに構っている場合ではなかった。
もっとも、カラスのあの様子が今の自分に酷似している様な気がしたのでそのまま見捨てるという選択肢は選べなかっただろうと思う。とりあえず、間違った事はしていないと思う事にしておこう。
…先を急ごう。
暗闇の道を進み、扉を開けた先にも続く廊下を歩く。そして左手に見えてきた扉を開けると、中庭に出た。目の前には二十五メートル程の大きさのプールが広がっていたが、中庭は広くプールを擁していながらなお大きなスペースを誇っていた。
プールを尻目に中庭を歩くと、小さな小屋があるのが見えた。ずいぶん傷みが進んだ小屋だ。突風が吹いたら吹き飛んでしまうんじゃないかとも思わされるが、中に誰かがいるかもしれない。

戸を開けてみると、なんとそこは牢屋だった。何て物騒な屋敷だと呆然とする。一体何のためにこんな物を…。
「ひっく…ひっく…」
…!?
誰かが泣いている。牢屋の奥、暗闇の中に誰かがうずくまっている。我が娘かと思ったが違うみたいだ。
光を奥にやる。女の子だ。
「…どうしたんだ?」
声を掛けると、彼女が振り返った。涙が光に反射して目元が光って見えた。
「君は誰だい?」
彼女は嗚咽を上げながら答えた。
「薔薇…水晶…」
薔薇水晶…彼女はおよそ七歳くらいの子だった。それが何故こんな所に…。
「……おなか………おなかがすいたよぉ……」
彼女はまた泣き出してしまった。
弱ってしまった。食べ物なんて持ち合わせが…。
ポケットに手をやって、はっと思い出した。エントランスホールに落ちてた、金糸雀の飴玉に雛苺の苺大福があった。それを彼女に差し出す。腹の足しにもならない物だが彼女は喜んで食べた。あっという間に飴玉と大福を包んだ紙だけになってしまった。
彼女がじっと僕を見る。
「…ごめん、もう何も無いんだ…」
さっきの台所に行けば何かあるかもとは思ってはいたが、あんな不衛生な所にある食べ物を持ってくるわけにはいかないだろう。
だが彼女は予想に反して、ニッコリ笑ってこう言った。
「ありがとう………お兄ちゃん………」
「お兄ちゃん…か、光栄だな。どう致しまして」
僕も彼女に微笑みを返す。そうしたら彼女は…信じられない事に、空気に溶ける様に消えてしまったのだ。そこに確かにいたのに、いなくなってしまった。笑顔のまま、僕の目の前で。
…狐に化かされたのか?しかし、飴玉と苺大福の包み紙はそこに転がったままだ。彼女の存在した証拠は目の前に確かにある。
もう何がどうなっているんだ。頭がおかしくなりそうだ。人が目の前で消えるだなんて一体どういう事だ。そんな物理学の方式は知らないぞ。物理学その物自体に疎い僕が言うのもおこがましいが…嗚呼、頭の中がわけが分からなくなってくる。
もう脳が潰れそうだ。頭が痛い。熱い。冷ましたい。オーバーヒートしそうだ。

…彼はそのまま、ヨロヨロとその場を後にした。
もう何も無いと彼は思ったらしい(照明の都合もあっただろうが)。実は檻の奥に、しかも彼女がうずくまっていた場所に一体の白骨死体が横たわっていたのだ。
その白骨死体は死後数年経っていて、七歳程の子供の物だった。骨に損壊は見られないから打撲による外傷のものではない。辺りに血痕も無い事から失血死の疑いも外されている。状況から見て、栄養失調による衰弱死ではないかと判断されたそうである。
この牢屋は傷みが進んでいる。少し雨が降ると雨漏りが酷い事になる。また、小屋自体が腐った木で組上がっているからか、水分も多少内部に含み込む。
その余りの水なのだろうか。天井から水滴が一滴、白骨死体の目元にポタリと落ちた。まるで、その「少女」が泣いているかの様に。
一滴の死者の「涙」、それを知る者はいない。

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