放課後の教室がすきだった。
私は、少し遠くなった季節を、思い出している。
―――――
暦が夏の盛りを過ぎてからも、何となく蒸し暑い。本来存在していた筈の長いお休みは、受験生の私達にとってはあまり関係の無いものだった。結局、補講やら模擬試験やらで、家よりも学校に居た時間の方が長かった気がする。
二階の窓際に佇んで、グラウンドの方を見やれば、新人戦に向けて練習に励んでいる下級生達が居た。
彼らが発している筈の掛け声が、随分と遠いものに感じる。
もう暫く、こうしてぼんやりとしていれば、その内にこの教室は紅く染まっていくのだ。ただ、流石に何もしない訳にもいかないから、少しでも手元にある参考書を繰り、頭に叩き込もうとする。
数学は難しい……から、私はあまり得意ではない。かといって、嫌いな訳でもないけれど。
ほとんどひとが居ない――正確には、私ともうひとりだけが居る教室。他のクラスメートは、塾に行ったり図書室に篭ったりしていた。
『私もすき、放課後の教室は』
どうして? と。今の私の席から左三つ程離れたところで机に向かい、うんうんと唸っている彼女に向けて、私は少し前、尋ねたことがある。
んー、と。あごの先に人差し指をやって、少し考える素振りを見せてから。
『少し遅くまで残ってれば、夕焼けがきれいだから。それに、静かだし』
ああ、私と同じことを考えてるんだな……と。
その時は、ちょっと嬉しいような感じもしたのだ。
ただ、彼女の言葉の先には、もう少し先があって。
『なんていうか……そういうのって』
『俄然テンション上がるよね』
へ? と。私は随分と、間の抜けた声を挙げてしまったのだった。
今こうやって、会話の無いままにお互い勉強しているのは、私がひとつの約束を取り付けたから。
取りもあえず、お喋りばっかりじゃあ、勉強も進まないでしょう。
一区切りつくまでは、頑張ろうね。
その言を彼女は今、律儀に守っているということだ。
それは無論、私もであるけれど。
くす、と。笑いが零れてしまいそうになるのを堪える。
何だか集中出来なくなって、私の方から彼女に話しかけようかしら、なんて思ったりもした。
いやいや、それはいけない。
だから今の私は、ただ思い出すだけにしておく。
私と彼女、ふたりだけの、お話。
【ある日のふたり】
――――
「閃いた……!」
囁くような小さな声が、やけにはっきりと聴こえた後、がたーん、といきなり立ち上がった彼女だった。
……
何を? と。ちょっとどきどきしながら、私は尋ねる。
「……ううん、こっちの話なんだけど」
そう。……
……
……
……気になるじゃない。
「今、何やってるの?」
無かったことにされたようだ。何って言われても、勉強よ、としか答えようが無い。
何時の間にか彼女は、私の席の隣にきていて、腰を下ろしていた。
「私もしてたけど……無理。お姉ちゃんみたく、頭良くないし」
雪華綺晶?
「うん。何で年は違わないのに、出来が違うのかな……」
雪華綺晶は塾に行ってるの?
「ううん。お姉ちゃんは学校と家の勉強だけで足りるタイプなの。だけど食べ物だけは幾ら食べても足りなくて、多分……今日はジャンボギョーザのお店に行ってる。あの駅前の」
あれか。三十分以内に食べきると無料になるとかいう。
一度その店の前を通りすがったとき、大の男のひとが付き添いのひとに肩を貸してもらいながら出てきた場面を見たことがあった。まあ、無理だったのだろう。
「最近ね、あのお店のひとがお姉ちゃんに対抗意識を燃やしたらしくて。量を1.5倍にして、賞金を出すタイプも始めたみたい」
……それで?
「無謀だよ……お店のひとが」
彼女の姉である雪華綺晶は、相当に健啖であると校内でも評判の娘だった。
優雅に、あくまで自分のペースで。それでいて彼女の眼の前にある皿は、次々と空になっていく。一度その様を学食で見かけたことがあったが、集まるギャラリーが騒然となっていたのが生々しく記憶に焼きついている。
雪華綺晶と眼の前に居る彼女は姉妹であり、共に同じ家に暮らしている(随分立派なお屋敷である)が、二人の血は繋がっていないということを聞いたことがあった。ただ、一緒に暮らすまでに至った経緯などを私は知らない。取り立てて二人の関係が悪い訳でもなく、むしろ見ていて微笑ましくなるほど仲睦まじいのだから、問題ないだろうと思う。
本当、よくあんなに食べられるよね。
「ねえ。シウマイの方が美味しいよ、ね?」
ちょっと解答がずれている気がする。
気を取り直して、私は先程の質問を繰り返すことにした。……さっき、何を閃いたの?
「物語」
立ち上がり、自分の席からノートを一冊とってくる彼女。表紙が随分とくたびれている。
「NETANOTE」
ネタ……ノート?
「うん、【NETANOTE】。小説の種を、考えてるの。何ていうのかな……ここじゃない世界に飛び立ったり、不思議な力が使えたり、……ええとあと、身近なひとを出しちゃったりして。あ、名前書いてもしなないから大丈夫。自分の面白いように書いたりしてるよ」
……ちょっと見てもいい?
「だーめ。これは門外不出だから」
それは俗に黒歴史ノートと言うので……こほん。
「そしてこのノートに想いを込めると、……どんな願い事も叶ってしまう」
混ざってる。それ混ざってるわ、貴女。
ちょっと前に一世を風靡した某週間少年漫画雑誌で連載してたやつと、それよりもかなーり昔に同じ雑誌に連載してた作品と。
ちなみに、かなーり昔に連載されてた方について、当時私はまだ産まれてもいない。
母親が文庫版で持っていたのを、ちらりと見たことがあるだけ。
「巴のお母様は結構読んでるね……私と話が合いそう」
……口に出てたかしら? 気をつけないと。
「貴女のお母様なら、ファミコン○ャンプを初見かつノーヒントでクリアできるかも」
危ない。それ危ないわ、貴女。ほとんど伏字になってないもの。あと、あんまり関係ないんじゃない?
それに、母には無理ね。あのひとは漫画専門だから。
―――――
「巴」
はい、お父さん。
「お前は本当によく出来た娘だ。文武両道を地でこなしている。しかしだな」
父が口篭る。中学二年の夏、道場で向かい合って、ふたり。
庭の蝉がじわじわと鳴き続けていた。父の言いつけでずっと続けてきた剣道を――私としては、父が言うからこそ――正直、それほど愛してはいなかった。
父が嫌いだった訳では無い。いつだって、威風堂々としていた父。在りし日、父兄参観でのきりりとしたスーツ姿は、口には出さなかったけれど……私は格好良いと想い、密かながら誇りに思っていたものだった。
ただ、普段の生活は、兎にも角にも、言われるがまま。あれから少し年をとった今ならば、不器用なりに、父が私と接する機会を持とうとしたためであると、考えられなくもない。
その日も、何かお小言を言われるのだろうと。すっかり慣れた正座の姿勢のまま、父の次の言葉を待っていた。
「その……何ていうかな。お前ももう少し、遊んでもいいんだぞ」
……?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「外ではあまり遊ばなくてもな。家でも幾らだって遊べる。何、お前なら大丈夫だ。遊びに溺れること無く、勉学に武道に、励んでくれるに違いない。だからな、父さんはお前にひとつプレゼントを用意した」
え、え……何?
「今流行りの、ゲーム機とかいう奴だ。人生、娯楽も必要だろう。母さんは本当にもう漫画をよく読んでいるが、父さんにはよくわからなくてな。まあ、その母さんに少し相談したりもしたのだが、最近は頭を使うゲームも多いと言うし、それならまあ良いだろうと」
ゲームか……娘にゲームをプレゼントする父親、という構図。
きっと父は、私が男の子であったら良いのだろうな、とふと思った。確かにクラスの男子達はゲームに夢中だし、小耳に挟んで面白そうだな、と感じたりもしていたけれど。
「じゃあ、着替えてきなさい。部屋に持っていくから」
ありがとう、お父さん。
礼を言われた父は、顔をほのかに赤らめつつ、いそいそと道場を跡にした。
――
「ほら、これだ」
随分大きいね。
「そうだな。ゲーム機というのは、随分洗練されたものだな。色々な機能がついている」
……多分、当時話題であったプレステ2である、と私は思った。DVDを観る機能がついているとか、なんとか。
最悪ゲームはしなくても、好みの映画位なら観ることが出来るかもしれない……ダンサー・イン・ザ・ダーク観たいなあ。
そして、丁寧な包装を破り。中から出てきたものは……
何?
「ん? どうだ、巴」
いや、どうだも何も。お父さん、これ何?
「ツインファミコンとか言うものだ」
ツイン……え?
「今はあまり売っていないものらしいぞ。母さんにも協力して貰って、話題のネットオークションというもので競り落としたのだ。どうだ、凄いだろう。遊べるゲームはこっちだ」
すっ、と私の眼の前に差し出されたもの。
……
ファミコン○ャンプ。
☆をみるひと。
バベ○の塔。
スパルタン罰。
……スウィー○ホーム。
……
――――――
ああ……
頭を抱える。
父にも母にも何の恨みも無いが、文句というレベルでひとつ言わせて貰うとすれば、あの瞬間だけを無かったことにして欲しい。
確かに多機能だった。でもその機能って二つだけだ。
私はその日、某ヒゲ兄弟が延々とライトの色替えをしている様を独り見つめ続けていた……
お父さん、お母さん。ひとによっては、あの一件で家庭崩壊を起こしても仕方なかったと思うの。
「……ピポピッ」
やめて! 私の心まで覗かないで! 起動音の声真似なんかしないで!
私に何の咎があったというの! 多機能の癖にディスクが一枚も無かったじゃない!
「ううん、巴。……それは素敵。それに、クリアしたんでしょ?」
だってそれしか無かったんだもの……
あ、一個だけ無限ループだから無理だったわ。
「本気で遊べるのが混ざってるのがまた……微妙にパズルとアクションを混ぜる癖に他が全部RPGっていうところにも、何かしらの狂気を感じるよ」
母のチョイスらしいわ……そうね。良い暇潰しだった……本当に。
お母さんって、私が考えている以上に駄目な人間なんじゃ……
「えみ は
もうどくに おかされた!」
焦るのよあのBGM! ああもう、あきこさんが近くに居ないの! 直ぐに呼べないの!
クッキー! 魔法のクッキーを使うのよ! あれさえあれば呪いも解けるわ!
「まみやふじん だ!」
やめて! 私のトラウマを掘り起こさないで! 何人殺せば気が済むの!?
「……素敵すぎる。今度遊びにいってもいい? 私、いっぱい持ってるよ。『そういう』ゲーム」
はあ、はあ……テンション上がりすぎた。
――期待しないで、待ってるわ。
―――――――
窓から入り込む風が涼しい。季節を感じさせるものには色々な象徴があるものだけれど、私としては、この風を一番の徴(しるし)として挙げたいなどと考えている。
熱の篭った会話はあのあと暫く続き、それがひと段落ついた頃、もう大分時間も遅くなっていることに気付いた。
あれはあれで楽しかったけれども(私が偏ったゲーマーであることが彼女にとっては相当嬉しいことだったらしい)、本来の目的であった筈の勉強が全く進んでいないということで、私と彼女はひとつの約束を守ることにしたのだった。
ちなみに後日、彼女は本当に私の家に山ほどソフトを抱えてやってきた。家に友達がやってくることなど殆ど無いことだったので、母は大分喜んだらしい。漫画の話も大分していたようだけど、私は全くついていくことが出来なかった。
ふう、と。溜息を、ひとつ。
何だかんだで、途中雑念が入ったりもしたが、とりもあえず学校でのノルマは達成した。
複素数は、数学の中ではそれなりに解ける方だ。その式が何故グラフ上で円を描くのかという理由はわかっていなくても、とりあえず答えは出せるという類である。
離れた席に座っている彼女は、出来はあまり良くないなどと自分では言うけれど、得意科目に関しては絶大なる知識を持っている。兎に角沢山の本を読んでいるせいかはわからないが、現代文や、古文・漢文。更に、言語学全般。そして倫理の授業などは、下手な教え方の先生よりも詳しいという様相だった。まあ、あと……保健体育か。傍から見れば根っからの文型なのに、最後のひとつだけが、どうしてもわからない。
「……終わった……!」
静かに、声が響く。
お疲れ様。今日は何の勉強したの?
「頑張って問題解いたよ……ねえ。あれっておかしいよね? 空気抵抗を無くするなんて、普通出来ないと思うんだ。風が吹いてたらどうするの」
ああ、物理ね。まあ、確かにそうだけど……
「……おかしいよあんなの。そんなに簡単に摩擦力が無くなったら、世界って大変なことになっちゃう。いちど物を転がしたら、つるつるーって止まらないの。危ないよ」
……現実に生きる娘だなあ、と常々思う。あ、だから普段妄想漬けなのかしら。
「巴は私と似てるタイプだと思うけどな……口に出さないだけで」
それはノーコメントにしておこうかしらね。
「あ、あのゲーム、クリアした? 面白いでしょ」
そうね。……それにしても、受験生でゲームの貸し借りしてるって、相当私達って余裕だよね。クリアは、まだしてないわ。少しずつ進めてる。
「……いいのいいの。世の中、なるようになってるから。わからなくなったら、言ってね。エンディングを全部見ると、しおりがピンクに変わるからお楽しみに」
雪山のぺンションに閉じ込められて、其処で次々と殺人事件が展開してしまう某サウンドノベルを先日彼女から借りた。ハードごと。彼女曰く、全てのエンディングに達するための選択肢を暗記しているらしい。
……嘘でしょ? と、最初は疑った。
けれど、その日一緒に持ってきていた、新聞部の取材か何かで、ちょっと頭のおかしい生徒達から怖い話を聞きだすという、これまた某サウンドノベル(怖いのでそれは借りなかった)をプレイして見せたとき。『これ、隠しシナリオなんだよー』とか言いながら、幾つもの選択肢――失敗すると死ぬタイプ――を選んでいって、あっさり仮面の少女の下から宇宙を見せてくれた経緯があった為、今ならその言葉が嘘では無いとわかる。
それは、おいおいね。ああ、そういえば……今日は何だか、機嫌が良さそうね。いつも嫌いな科目を勉強した後って、何だか凄く疲れてるじゃない。
「うふふ。鋭いね、巴。実は昨日の晩、【NETANOTE】にしたためた作品のひとつに目処がついたのだ。ほら、前に閃いたとかいってたやつ」
……ああ、あれね……でもあれ、門外不出なんでしょ?
というか、家で勉強してないの? という言葉は、口から出かかったけれど抑えておいた。
「……ん。そうなんだけど。あのね、私、夢があってさ……笑わないで、聞いてくれる?」
ひとの夢を聞いて、笑うことなんて出来ないわ。……それに、何となくわかるしね。
「え……何? 何?」
小説家、とか。兎に角、文章を書ける仕事につきたい。違う?
「……わ。あたり。うーん、巴には嘘つけないね。気をつけないと」
ころころと、笑う。私もつられて、ふふ、と零してしまう。
彼女は何というか、普段はとても大人しい印象があるが、話してみると、こんなに良い笑顔をする娘なのだ。
それに、内に秘める情熱が素晴らしい。素直に、羨ましいと思う。
『……やっぱり、翻訳だとニュアンスが違っちゃうんだよね。結局勉強しても、頭の中で変換しちゃうんだけどさ……』
そんなことを言う彼女は、英語も得意だけれど、独学でドイツ語もかなり読める。哲学書か何かを、原書で読みたかったらしい。彼女の凄いところは、その勉強が功を奏したのか、センター試験をこの学年でただひとり、ドイツ語で受験するつもりだということだ。実際問題も解けて、結果も出せているのだから、文句のつけようが無い。
「……巴には、話しておこうと思って。一応あらすじを考えたから」
気をつけてね、薔薇水晶。それは、あらすじなのね? 話の筋よね?
人物や世界の設定を考えるのも大切だし、とても楽しいけれど。それだけで話は動かないのよ?
「……ひょっとして経験ある?」
私のことはいいの。それより、どんなお話なの?
「……うんとね。……【ゆめをみるしま】」
? ……島? ……
―――――――
それは、ひとつのゆめごと。
ゆめをゆめと知るのは、いつだって、目覚めてしまったあとに。
――絶海の孤島。
「へんぴな処だけど……良い島ね。涼やかな風が吹いているし」
「そうねえ、真紅。だけどこういう時は、さっさと仕事を終わらせるに限るわぁ」
「……うん。とりもあえず、一度荷物を下ろそう。さっきから、あまり気分が優れないし」
「やっぱり、一筋縄ではいかなそうな感じです? 蒼星石」
「大丈夫よぉ、何とかなるわぁ。こっちは五人も揃ってるんだしねぇ」
「……楽観視は出来ませんが。それでは皆さん、参りましょう。この先に、お屋敷がありますから。お腹もぺこぺこですし、腹が減っては何とやら、というものです」
――屋敷に住んでいた老人、一葉。
「やめておいた方がいい。戻れなくなるぞ。私は此処で独り、静かに余生を送るつもりだ。なのにお前らときたら、いつもいつもそれを掻き乱そうとする」
「……どういうことですか、一葉さん」
「地図にも乗らない島を買い取ったのは、何だと思っている。この島は、それ自体が罪なのだ。どうしてそれを、そっとしておこうとしない」
「随分ね。罪と聞くならば、私達も放っておいてはおけないわ。――雪華綺晶。明日にでも探索を始めましょう。人割りの指示は、貴女が一任されていたわね」
「聞く耳も持たぬ、か。……いいだろう。私はこれに、何の関与もしない。せいぜい、好きにするがいい」
「異端の台詞。私達はきっと、貴方を裁いてみせるわぁ……今までのようにいくと、思わないことねぇ?」
そのやりとりを見ていた蒼星石は、ぽつりと零す。
「此処に、長く居てはいけない――」
――島に潜む、ゆめ、のひみつ。
――――
「私は、待ちます。……きっと、来てくれますよね……」
そうして、ひとつの鏡は、割れてしまう。
――――
「翠星石……翠星石! 惑わされてはいけない――僕たちは此処に居るんだ……!」
「駄目です、蒼星石……こいつは、『こいつら』は、……!」
「わかってる。けれど、これが僕たちに与えられた役割だから。
さあ、相手になろう。僕の意志――この鋏の"裁断"で、断ち切ってみせる」
――――
「……成る程ね。上層部は、元々知っていた、ということ……」
「――そのようねぇ。それにしても、真紅。此処で倒れる程、やわじゃないんでしょぉ?」
「愚問ね。死んでしまうようなら、それこそ思う壺。闘うって、生きることでしょう、ねえ、水銀燈?」
「ああ――ぅ、……ねぇ、真紅、あの娘達は、大丈夫かし、ら……」
「……大丈夫。きっと、大丈夫よ……水銀燈。……水銀燈?」
倒れ付したまま。二人は手を、握り合う。
――――
――そして、五人の消息は、途絶える。
まだ、ゆめは覚めない。
じゃあどうして自分は、それをゆめと知っている?
それは、願ってしまったため。
目覚めたくないと思ったときから、それは本当に「ゆめ」となった。
―――――
「……其処で颯爽と駆けつける、私達ですよ」
私達……って、え!? ひょっとして私も出るの?
「……モチだよ。ていうか、むしろ貴女はメインヒロイン。私達も不思議な力を持ってるけれど、組織の陰謀で、メンバーに加えられなかったんだよね。で、私達も色々まずいことになる、と」
というか、これ、真紅達にひしひしと死亡フラグ立ってるじゃない。
「……大丈夫。救援が間に合うか間に合わないかはまだ決めてないから」
といっても、その辺は書いてる内の気分によるけどね、と。しれっと言い放つ彼女。
あらすじから逸れることはむしろ良い事なんだ、とかのたまい始める。
展開上、躊躇い無く自分も殺すよとか、物騒なことも付け加えて。
最終章まで一応話を聞いたのだが、それを全部語るとなると長いので割愛。
まあ、色々な話があるわよね……
「……巴くらいかな、こんな話が出来るのは」
お姉ちゃんにも秘密なんだから、と。ふと、柔らかい笑みを浮かべながら彼女は言った。
まあ、姉を窮地に立たせるような文章をつらつらと書いてしまうのもどうかとは思ったけれど。これは元々想像の産物で、実際に起こる出来事ではない。
ありがとう。完成したら、私にも見せて?
「……うん。一番はじめの読者は、貴女にするから」
薄暗くなり始めた空を遠眼に、窓を閉める。
今日はもう、お開きにしよう。
現実の問題として、私達には直ぐそこに迫った受験という大きな壁が立ちはだかっていたのだけれど。彼女と話していると、それも何だか薄れていくような感じがする。
現実逃避じゃないか? と言われてしまったら、ちょっと返す言葉が見つからない訳だが。
さあ、今日はもう帰りましょう。また明日、頑張ろうね。
―――――
夕暮れの坂道を、二人で下る。お腹も空いてくる頃合も手伝って、並ぶ家々から漂うお夕飯の香りに敏感になってしまう。
「……これは、カレーだね。いいね、団欒の風景が浮かぶよ。巴の家のカレー……と。これは無しにします、うん」
どうしたの?
「えと……カレーってば、その家の特色が出る指折りの料理だと思うのね」
まあ、確かにそうかも。私の家は父が辛口じゃないと駄目って――
「……ストップ! 巴。家々の数だけカレーがあって、その作り方は千差万別。これまで数々の不毛な争いが繰り返されてきたの……ジャガイモ入れるの入れないだの」
『美味しければいいじゃない』で済めばまだ良いのだが、『お前の家のカレーはカレーじゃない』という言葉が交わされるようになったらアウト。肉体言語で語り合う他無い。――らしい。そうかなあ……?
その後、適当な食べ物談義になるわけだったが、私達は巷の女子高生の如く帰りに寄り道して何か食べるということをしない。その言い方は何かお年よりくさい、と、隣の彼女に突っ込みを入れられても、しない。
家に帰れば、夕飯が準備されているのだもの。私は雪華綺晶ほど、食べ物を詰められるお腹を持ち合わせていない。
何でもない下校の時間だったけれど、思えば私は、あまり誰かと一緒に帰宅をしたという経験が無い。帰るタイミングが一緒になれば、ということはちらちらあったものの。
そりゃあ、今だって、たまたま一緒に残っていただけなのだから、特に予めの約束があった訳では無いのだ。だけど、こういうのも何だか悪くない。
「明日も晴れるね、きっと」
殆ど雲のない透き通った空が、紅く染まっている。
「……楽しいな、なんだか」
どうしたの?
「……や。受験って大変だけど、色々お話出来るのが楽しい。自分の心に思ってることって、中々出せなかったから。うん、もっと早く話しかければよかったかも」
思いを、外に出すことが出来ない――もとい、出そうとしない。そういう意味合いならば、私と彼女は、それなりに近い場所に居る。
でもね、薔薇水晶。早く話せていれば良かったって言うけれど……
「……うん?」
これからも、お話すればいいの。何も受験期間だけじゃないでしょ? お付き合い出来るのは。
その言を受けた彼女は、そっかぁ、そうかもね、と。独りしきりに頷いていた。
「……珍しく、前向きな意見だね」
最初の一言が、少し余計ね。
「……ふふ。ごめん。うん、でも、まあ。十年後とかも、こうやって夕焼け見ながら、歩けたりするのかなあ」
遠い遠い、先の話だ。けれどそれは、自分が考えているよりはよっぽど早く訪れるものなのかもしれない、などと。ぼんやりと考える。
その時は私達、誰かと結婚してたりするのかしら。
「……んー、わかんない、かな。あるとすれば、確実にゲーマー主婦になりそうだけど」
私が? それとも貴女?
「どっちも、だよ」
子供に教えてあげるのは、ちょっと微妙ね、とか言いながら。
とても楽な気分で、ふたりの一日は、終了したのだ。
―――――――
ゆるやかに時は流れて――だけど、その時間の流れがあまりに遅いせいなのか。未だ九月の暦は終わっていなかった。
たまに降る雨と、それを打ち消すような蒸し暑い日の繰り返しだった。
三連休の一つ目が過ぎて、また来週もお休みがある。来月はこうもいかないのだろうが、少なくとも今月中の模試は全て終了した。それでも、塾の公開試験などに自分で申し込みをしたのなら、そのお休みも泡の如く消えてしまうのだろう。
「……巴、巴」
どうしたの? 薔薇水晶。
いつものように一日のノルマを終え、私達は放課後の教室に残ってお話をしている。
「今週の三連休……ひま?」
まあ。勉強しようと思うなら、そうもいかないでしょうね。
「……んー。や、ね。お姉ちゃんから提案があって、卒業旅行はまた改めてするけど、夏の終わりの思い出を作らないかな、って」
思い出?
「そう。……うち、別荘があるらしくて。仲の良い友達を誘って、ちょっとした小旅行でもしたいと思う、とかって……」
……言いながら。彼女の表情は、何処と無く引きつっている。
……
「わ、私も知らなかったんだよ、……そんな所、行ったこともないし」
……その別荘。……絶海の孤島にあったり、しないよね?
「……」
その沈黙を以て、肯定と受け取る。
――全員無事に帰れるなら、是非ご同伴に預かりたいものね。
「あは、は、は……」
ふふ、ふ。
可笑しかった。勿論、彼女の書いた『物語』が、本当のことになる筈なんて無い。
だって私も彼女も、普通の女の子――ちょっと傍から見るとマニアックではあるが、不思議な力なんて、持っていないのだから。
引きつった笑いが、その内本当に、おなかの底から出るそれに変わった。それは、ふたり殆ど同時のことだった。
そして。その月に私達は、小旅行へ洒落込むことになる。
其処は確かに不思議な島で、更にちょっとしたいわく付きで、それこそ、何だかんだとした『どたばた』に巻き込まれることになるのだけれど――
――――
それが終わってなお、私は彼女の小説を読み、へんてこりんなゲームをして、過ごしていく。
それだけを、今、こうして知っている。
遠い夏の終わりの記憶から離れ。私は彼女から預かったノートを、ぱたんと閉じた。
そろそろ、遊びに来る頃かしら。
『……巴ー』
インターホン越しに響く、彼女の声。
はいはい、今開けるわ。今日は何を持ってきたの?
がちゃり、とドアを開ければ。満面の笑みを浮かべた彼女が、其処に。
今日は少し、昔の話をしてみよう。
とは言っても、たかだか二年ほど前の話な訳で。
学生兼、作家としてデビューを果たした彼女のネタ出しに、今日も付き合うことにする。
湯だししておいた麦茶がそろそろ冷えた頃かしらね。
招き入れた彼女と共に。
今日もあの日と変わらない、ゆっくりとした時間が流れていくのだ。
ああもう。
取りもあえず、お喋りばっかりじゃあ、仕事も進まないでしょう。
一区切りつくまでは、頑張ろうね。――
――
ある日のふたりのお話は、これで一旦の終幕。
次はまた、別なお話でお逢いしましょう。
最終更新:2007年09月17日 23:03