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――――

 「そうね、仕方のないことなのだわ」
そう言った彼女の表情は、とてもとても穏やかだった、気がした。


【夢の続き】

 夢を、見ている。まるでそんな感じを抱かせるような、幸せな日々。

 風が吹く。暖かい春の香りが運ばれて、季節も変わろうとしているのだと

実感できた。今日も天気は良さそうだ――こんな日は、散歩にでも出るのが

良いだろう。
 一人、洗面所へ。ふと、鏡の前の自分と見詰め合う。自分も年をとった――
黒々としていた筈の髪に、白髪が目立つようになったのは何時からだろう。
少し寝癖のついた髪が目に付いて、思い切って頭を全部濡らした。

我が家のお姫様は身だしなみにはうるさいものだから、ぼさぼさの頭なんかで

出迎えたら怒られてしまうだろう。
『レディに対する嗜みが足りないのだわ』
そんな言葉が容易に想像できて、思わず苦笑してしまった。
一通り服装などを整えた後、お姫様とご対面だ。彼女はいつもどおり、
椅子に腰掛けて僕を待っている。

「あら、おはよう。何時まで経っても、起きるのが私より遅いのだわ」
そんな些細な文句も、平和な日常。
「ああ、おはよう。何か飲む? 新しい紅茶の葉があるよ」
「そうね、ありがとう。早速淹れて頂戴」
アールグレイの香りが部屋を満たす。彼女は本当に美味しそうに紅茶を
飲んでくれる。何処となく優雅で、気品の漂う様。長年見てきて、その様子は
それこそ飽きるということがなかった。
「今日は散歩にでもいこうか」
僕の提案に、にっこりと微笑みを返す彼女。出かける準備を終えて、
白く塗られた建物を出た。
 風が強い。ばあ、と。彼女の金色の髪が舞い上がった。
 少しいけば、小高い丘がある。そこに向けて、何を言うでもなく一緒に歩き出した。
暖かい。吹き付ける風は冷たさを運ばない。手を取り合って歩く僕と彼女。
こんな毎日が、いつまでも続けば良いと願っている。隣で彼女が微笑んでいるのだけれど、

眩しくていつまでも目を向けていられない。
 照りつける光が強すぎたせいだ、きっと。




 当たり前の出会いだった、と言えば嘘になるかもしれない。
穏やかな春の日、私はとある店を見つけた。古ぼけた、裁縫道具を
取り扱っているような店――人の入りは大して良くもない感じだった
けど――ディスプレイに置いてあった人形の衣装のつくりがとても
丁寧であることは、素人目の私でもわかった。吸い寄せられるように、
店に入っていった。
 「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
伏し目がちに店員と思しき人物が奥から出てくる。
「ええと、ちょっと中にあるものを見たいなあと思って」
特に目的もなく入店したわけだから、少しだけバツが悪い。
「ああ、見ていくだけでも構わないよ……って、あれ」
君は、と。少しだけ驚いてこちらを見る顔は、私の知っているものだった。
「ジュン……君?」
思わず君付けになってしまった。
「やあ、久しぶり」
そういって彼は少し笑った。
 家庭の事情で、学校を辞めたのだと聞いていた。私達はクラスこそ一緒だった
ものの、とりたてて一緒に居た訳でもなく。もっとも、私も彼も。クラスの中
では友人が多いタイプではなかった。いつもひとりぼっち。たまたま一度だけ、
放課後に教室に残っていた彼と少しだけ会話をした。


『こんな遅くまで残っているのね』
『日直でね……少し残らなきゃならなかった。君の方こそ、部活とか入ってたんだっけ』
『私はたまたま残っていたのだわ』
嘘ではなかった。残っていても友達と会話していたわけではないし、

まして部活などには入っていない。なんとなく屋上に出て、

なんとなく見ていた空の色が変わっていくのが、とても綺麗で。

それでこんな時間になってしまっただけだ。
『そうか。僕はそろそろ帰るけど』
『そう、……私もそろそろいくのだわ』
と、彼が鞄にしまおうとしていた箱のようなものが目についた。

筆箱にしては大きいし、何か道具のようなものだろうか。
『それはなんなのかしら?』
今思うと、不躾な質問だっただろう。だが、少しだけ、気になってしまったのだ。
『ん。ただの道具箱だよ。修繕用の』
そう言った彼の目は少し伏した感じになっていたが、その時は特に気にも留めなかった。
『それじゃあ』
『ええ、では』
そうやって、別れた。その後は、なんのこともない下校だった。



「そう、ご両親が」
親の死をきっかけにして、彼は高校を辞めて実家の手芸店を継ぐことにしたらしい。
もともと卒業してから家業を継ぐつもりではあったが、そうも言ってられなくなってしまったのだった。
「ま、小さい店だけど。のんびりやってるよ。学校で勉強しているよりは有意義だ」
自分の好きなことをしてられるからね、と。照れたように笑う。
「そうね。ディスプレイにあるお人形の服は、あなたが作ったの?」
「ああ、そうだよ。売り物じゃないけど、趣味みたいなもんかな」
見れば、店内にもそれらの服飾はちらちらと見られた。丁寧な、そして繊細なつくり。
「趣味……ね。それにしても、これらはとても素晴らしいもの」
「お人形も、幸せだと思うのだわ」
こころから思ったことを、言う。彼は更に照れたようだったが、特に何も返さなかった。
「ねえ。また来ても良いかしら」
「ああ、こんな店で良ければいつでもどうぞ」
少しだけ笑いあう。
「それじゃあ」
「ええ、では」
あの時と、同じ言葉のやりとり。でも今は、次の出会いが約束された別れだった。

学校帰りに、古びた手芸店へ通う日々が続いた。店内は薄暗いけれど、
私にとっては居心地が良かった。他愛の無い会話でも、何処か心が満たされる。
学校には無かった居場所が、ここにはあるような気がした。いつの間にか、
私は彼を君付けで呼ぶのをやめていた。彼は彼で私のことを呼び捨てにするし、
それは嫌なことでは無かった。
「おっ、また来たか。茶でも飲んでいくか?」
「また来たか、とは随分な歓迎なのね……じゃあ紅茶を淹れて頂戴」
思えば、学校では。私の話し方は随分高圧的だし、他人にとってはとっかかりの
見つけ辛い性格だったのだろう。でも、彼は。そんなことは全く気にせず接してくれる。
「ジュンの淹れる紅茶は、本当に美味しいのだわ」
「そりゃ良かった」
はたから見ると、不思議な関係だっただろうか。

それでも私は、ここに居続けることを望んだ。
「あら、新作ね」
店内の棚に、新しい人形が一体増えていた。
「これも素晴らしい出来なのだわ」
賛辞。彼は趣味だと言っているが、その域を超えているだろうといつも思う。
「ねえ、ジュン。あなたは」
「なんだ?」
「あなたは、本当に服を作るのが上手ね。これなら、人間の服だって作れそう」
彼に驚いた様子はなかった。そしてなんだか恥ずかしそうにして、
「いや……今はこうやって店をやってて、満足してるけど。いつか専門学校に入って、
 デザイナーになりたいなと思ってる。ひとが着るような服を作るために」
「昔ちょっと色々あったから。他のひとに話したことはないけどね」

 聞けば彼は、昔登校拒否で学校に来なかった時期があったらしい。

彼は手芸が趣味であることを当時秘密にしていた。しかし、とある女生徒の

文化祭用の服のデザイン画を、こともあろうに全校生徒の前で発表されてしまった。
「ほら。服飾のデザインって、女の子の身体の線を考えて作るからさ。

 男がそんなの考えてるのって、随分気持ち悪いだろ」
自嘲気味に、笑う。それを理由に、友人と思っていたひと達からは馬鹿にされ、

女子からは避けられて。後に復学したものの、それからは他人と関わることをやめた。
「そんなこと無いのだわ!」
語気を荒げて言う。
「ジュン。あなたの服作りは、もはや天性の才能といっても良いの」
「気持ち悪くなんて……ないのだわ」
彼は少し驚いたようだった。それから一言、ありがとう、と言った。
「そうね。あなたがデザイナーを目指すと言うのなら。
 私がモデルになってあげても良いのだわ」
自分で言ってて顔が紅くなっているのがわかる。
「え……それってどういう」
彼もなんだかドギマギしている。
「ああもう! 深く考えなくても良いのだわ!
 私が……モデルになってあげる」
「私の服を、作って頂戴」
もう、顔を上げてられない。ああ、私は一体どうしてしまったのか。
「う、その、なんて言うか。いいのか」
「僕も、作ってみたかったんだよ」
え? と。顔を上げた先には、彼の笑顔が。
「作ってみたかったんだ。君の服を。

 こんな作り手で良ければよろしく、真紅」



 それから私達の関係は、『店員と客』から少し進んだものになった。いや、もともと
それ自体は超えていたのだろうか。ただ、それをお互いはっきりと意識するようになったのだと思う。店が休みのときには、何処かへ遊びに行くようになったり。彼と一緒に居るのは楽しかったし、心穏やかな気分になれた。もう、一人ではない。
「なあ、真紅」
「あら、何かしら?」
買い物をした帰り道。いつもと様子が、少し違った。
「今日、これからまた店に来てくれないか」
「そんなこと言われなくても、行くつもりだったのだわ」
ツンとした感じになってしまったか。いつものことだけれど。
「見せたいものが、あるんだ」
 夕刻、彼の店へ行く。とりあえず店じまいということにして、
奥の部屋へ通された。そこに置いてあったもの。
「これ……」
紅く、紅く。彩られたドレスだった。
「作って、みたんだ」
私は、そのドレスに触れる。滑らかな手触り。よくよくみれば、薔薇の刺繍が
施されているようでもあった。うつくしい、とても、とても。
「ジュン――」
「君を、イメージしながら作った。良かったら着てみてくれないか」

こくん。頷いて、ブラウスのボタンに手をかける。
「ちょ……ここで着替えるのか!?」
「あら。ジュンの作った服ですもの。あなたが着付けてくれるんでしょう?」
私ひとりでは着られないわ、と嘯く。本当はとても恥ずかしい。でも、彼になら。
見られても、良かった。
「私は、あなたのモデルなのだから」


シュ、シュ。衣擦れの音を立てながら、下着姿になる。
ジュンは息を呑んだ。なんて綺麗な身体なのだろう。白く、透き通る肌。
まるで人形のようだった。
「さあ、着付けて頂戴。……恥ずかしいのだから、早く」
わ、わかった、と。慌てた様子で、ドレスを着付けていく。
腕を通され、背中のボタンを留められながら、私の心は落ち着いていった。
「ふふ……これじゃ私、お人形のようね」
「ええっ?」
「驚かないで頂戴。嫌がっているわけではないのだから」
「そうなのか?」
答える彼の顔も紅い。
「ええ、そうよ。店の中にあるお人形のように」
「私もジュンの……あなたの、幸せなお人形なのだわ」
少し、目を閉じて。カチューシャを取り付ける感覚が離れたとき、
目を開けた。
「すごい……」
鏡に映る自分は、自分ではないようであった。何処か遠くの。異国のお姫様に
なったような。
「よかった。サイズとか、その、大丈夫かな」
それは心配に及ばない。
「ええ、大丈夫なのだわ。私の身体を、よく見ていたようね」
にやりとしながら彼の方を向くと、そっぽを向かれてしまった。
「別にっ! やらしい気持ちで見てたわけじゃないぞ!」
あらあら、拗ねてしまった。うん……悪いことを言ってしまっただろうか。
こと『女の子の服のデザイン』については、彼に良い思い出はない。

「あら。さっきも言ったけど、私は嫌がってなどいないのよ。
 それにしても、ジュン!」
えっ、と驚いた表情でこちらを見返す。
「サイズは大体合っているようだけど……

 私のウエストは、こんなに太くは無いのだわ」
脇腹の部分を引っ張って抗議する。
「え、ああ、ご、ごめん」
ひたすらに謝ってくる。なんというか、彼は手先は器用だけれど、

ひとに対しては愚直すぎる。いつからだろう。そんな彼と、

いつまでも居られたらいいなと思ったのは。
「ふう。それはでも瑣末な問題なのだわ」
「ありがとう、ジュン」
「どういたしまして、真紅」
微笑み合う。幸せな時間だ。


「あのね」「あのさ」
声が重なった。
「あなたから言って頂戴」
「え、うん……これからのことなんだけど」
そう、彼が切り出し始める。
「来年から、デザインの専門学校に行こうと思うんだ」
「今よりは逢える時間も少なくなるかもしれないけど、一生懸命勉強するから」
「デザイナーになったときに、そしたら僕と、」
そこまで言った彼の口を、人差し指で抑える。
「あら、せっかちなのね。ちゃんと順序を踏んでくれないと」
そう言って、彼の首に手を回す。
「サイズ」
「えっ?」
「服のサイズ。これからちゃんとしたものを作ってもらうのだから、
 ちゃんと測りなおして頂戴」
「ちゃんと――もっと。私に、触れて」




ジュン。いつか私の、ウェディングドレスを作って頂戴――





 私は大学へと進み、彼は専門学校へと通うようになった。私達はもう
恋人同士で。あるひとりと深く接するようになったら、性格もお互い

明るくなったようだ。大学では、仲の良い友人も出来て。

時間が出来たら、二人で逢う。なんて、素晴らしい時間なのだろう。
「えぇ!? もう結婚前提のお付き合いですか!?」
「ちょっと、声が大きいのだわ」
学生食堂の喧騒の中、大学に入ってから出来た友人、翠星石のリアクションは大きい。
「なんとも羨ましい話なのですぅ。ねえ? 蒼星石ー?」
「そうだね。ちょっと驚いたけど、良い彼氏さんみたいだね」
翠星石の双子の妹、蒼星石。ぱっと見タイプが全然違う二人だが、
とても仲が良い。こんなに美人な二人なら、男性など引く手あまたな
ような感じもするのだが。
「あーあ。こりゃ真紅狙いの男共が落胆するに違いねーですぅ」
やれやれといった感じで肩を竦める私と蒼星石。
「私は別にモテなどしないのだわ」
そう言ってはみたものの、普通に友人を作って話をするようになってからは、
何人かの男性に交際を申し込まれることが度々あった。もちろん全てお断りだが。


『私のウェディングドレスを作ってくれるひとは、決まっているんですもの』

 心の中で微笑んだつもりだったが、どうやら顔に出てしまったらしい。
「あー! なんかニヤついてやがるですぅ!」
「まあまあ」
絡んでくる翠星石を蒼星石がなだめる。本当にこの二人は仲が良い。


「まったく。午後は授業ないし、気晴らしに何処か行くですぅ」
「あ、なんかこないだ新しいカフェがオープンしたみたいだね」
「それは良いです、蒼星石ー! 真紅、しゃーねえからノロケの続きも
 そこで聞いてやるですよ」
「ちょっと、翠星石……まったく」
「はいはい、わかったわ。行きましょう」
ひとと一緒に居られるのは、楽しいことだ。今はこれが当たり前の日常だけど、
きっとこれからも色褪せない――いや、そうあって欲しいと。そんなことをふと思う。
ぶわあ、と。風が舞った。二年目となる大学のキャンパスにも、また春が近づいているようだ。


 その日。今日あった楽しかったことを、彼にメールした。だが、何故か返信はなかった。

 おかしい。夕方にメールしたのに、夜になっても返信がないなんてことは、

今まで無かった。なんだろう、忙しいのだろうか。

 そういえば、近々あるコンテスト出品用の服飾製作が忙しいようではあった。

でも、それにしても。
 とりあえず『おやすみなさい。無理しないでね』と一言送ったあと、その日は眠りについた。

 次の日。朝テレビをつけると、ニュース番組が流れていた。


『先日の夕方、市内在住の桜田ジュンさん(専門学校生)が交通事故に遭い、

 意識不明の重態――』

 え?
 持っていたティーカップを、床に落とす。
「嘘? …嘘!!」
この地区の大きな病院――しかも救急の患者を受け付けるような――

もう殆どパニックになりながら、私は家を飛び出した。

 病院にて。間違いであってほしかった。無かった返信。今朝のニュース。とびかかる勢いで
そこらの医者を捕まえ、話を聞きだす。先日の夕刻。運ばれてきた重態の男性は、

……やはりジュンであることに、間違いなかった。
 思わず崩れそうになる身体をおしとどめて、聞いてみる。
「それで彼は……大丈夫なのでしょうか」
担当の医師が答える。
「ええ、昨晩の手術で、一命を取り留めました」
ぱっ、と。心の中に光が差し込んだようだった。でも、それを話す医師の顔が、

どうも明るくない。
「何か問題が――」
「彼はこのままいけば、いずれ目覚めるでしょう。

 ですが、脳が一部裂傷を帯びていまして……

 目覚めたとしても、通常の人間生活が送れるという保証がありません」
それは、どういう。
「ご家族の方がいらっしゃらないようで。本来あなたにお伝えするのも心苦しいのですが……
 意識は戻ったとしても、いわゆる、痴呆と同じような状態になる可能性があります」




 ああ。ああ。
 崩れて、しまった。



 幸い――いや、こんな状況で幸いもなにもない――彼の両親の残した保険金は

かなり大きなもので、治療費については心配するところがなかった。

 もともと、そのお金で専門学校に通っていたのだけれども、もうそちらに費用が

かさむことはない。皮肉な、ことだ。


 随分塞いでいた私が、それから外に出てジュンに逢うまでに至れたのは。

ひとえに友人達のお陰だったと思う。翠星石などはまるで自分のことのように大泣きして。

泣きたいのはこっちだというのに、何故か私と蒼星石で彼女を慰めることになってしまった。

でも、それだけ自分のことを想ってくれていると。実感できたのが、嬉しかった。


 そして私が入院中のジュンを訪れるようになって、更に三年の月日が流れた。





 風が吹く。暖かい春の香りが運ばれて、季節も変わろうとしているのだと
実感できた。今日も天気は良さそうだ――こんな日は、散歩にでも出るのが
良いだろう。
 「おはよう、ジュン」
車椅子に座っている彼の後ろに立って、その髪を梳く。
「こんなにボサボサの頭で。レディに対する嗜みがなってないのだわ」
そんなことを嘯いて、丁寧に寝癖を直してあげる。あれから暫く時間が経ったけど、
彼の頭に最近白髪が増え始めたような。なんとなく、月日の重みを感じてしまう。

 でも、あなたは。まだまだ若いのだわ。

 そう思いながら、髪を撫でる。

「さあ、今日は天気がいいのよ、ジュン。散歩に行きましょう」
彼は返事を返さない。目覚めてはいるものの、およそ人間的な反応を
示すことは、事故後なかった。
 車椅子を押して、白い建物を出る。目覚めてからの彼の治療には、最新の
設備よりも自然に囲まれた環境が合っているだろうという配慮がなされた。
新しく入った病院は、随分都会からは離れてしまったけれど。
ここはここで居心地が良い。



 ばあ、と。強い春風が私達を吹きつけた。
 あの時。事故に遭った時彼は。春風に舞い上げられて飛んでしまった
デザイン画を捕まえるために、車道へ飛び出したのだった。そのデザイン画には、
美しいウェディングドレスが描かれていたという。



「ねえ、ジュン」
「あなたはいつも、私より起きるのが遅いのだわ」
「今はまだ、眠っているのよね」
「早く起きて、また私に――」
「美味しい紅茶を、淹れて頂戴」


 そんな文句に、彼はやはり反応を示さない。
「そうね」
「仕方のないことなのだわ」
穏やかな声で、言ってみた。

「あなたは夢を見ているんですもの――」
「あなたが目を覚ますのを、待っているのだわ」

 ずっと、ずっと。最初に考えていた頃とは、うって変わった不幸な状態だと、
ひとは言うかもしれない。でも、私は。あなたと一緒に居られて、幸せなのかも――


 少し行けば、小高い丘がある。あなたの車椅子を押して、丘へのぼった。
「ほら、ジュン。暖かいでしょう。こんなに陽が照っているのだもの」
眩しい春の日差し。その中で、彼の手をとって話しかける。ふっ、と。
彼は目を細めて、微笑んだような気がした。
「ジュン……?」
かすかに、かすかに。握った手が、握り返されたような感触。




 時間のねじが、ほんの少しだけ巻かれ始める。
 二人の夢の続きは、また、これから――











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