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L.―

 眼が覚める。
 ――此処は、何処だっけ。

 ああ。また、眠ってしまったんだ。此処最近は、己の身体が己のものでは無いような気がする。てのひらを開いて、結んで。こうやって感じる何かで、とりあえず僕がまだ生きているという感覚を保つ。
 姉さんと、話をしていたんだっけ。――彼の声も、聴こえたような気がしたんだけどなあ。何だか、不思議な感じ。
 とりあえず、ベッドから身体を起こす。血を、沢山吐いた筈だったのだけれど。来ているものも、布敷きも、ぼんやりとした暗闇越しからわかる位に真っ白だった。

 廊下へ出る。姉さんは、もう帰ってしまったのかな……声が、聴きたいな。
 二階の廊下。階段とは反対の突き当たりに、電信が置いてある。新しもの好きの院長が、仕入れてくれたもの。これは僕にとって、とても大切な繋がりだった。

 ……?
 鳴って、居る。電信が。静かに、音が響く。
 なんだろう。これは、この受話器を、とれという意味なのだろうか。
 いつも、かけるのは僕の方だったから。こんなのは、初めてのこと。

 ……
 よくあることなのかな。……うん。でも、まあ。不思議なことなら、こないだもあったばかりだし。見知らぬ彼と、顔を合わせるまでの縁を作ってしまうような――

 受話器をとる。暫く、無言だった。

「もしもし?」
『もしもし、――かい?』

 違う。その名は、電信の向こう側に居るひとの求めるひとのものであっただろうけど、それは僕では無い。
 でも、良いか。こんなのも、悪くない。

「ええと――どうやら間違って繋がったみたいですね」
『あ、御免なさい! あれ? 確かにこの番号な筈だったんだけれど――』
「いえ、いいんです。ふふ、何だか不思議だな……」
『え?』
「いや、この間も――」

 そこから始まった、静かな閑話。
 名前だけは、お互い名乗ることも無く。僕にとって二度目の不思議な電信は、此処で始まった。

 ――声が、聴きたい。今は、それだけで、いい。


――――――――――

R.―


『……――

 これは私の、私自身の、快復の記録。
 この表題に、【快復まで】という名をつけようと思う。

 私はペンをとることにした。否、それを続けることにした、』

 ――……』


『快復まで』


 ―――――
 ―――
 ――……パタン。


 本を閉じる。

 さて、今日はもう寝よう。明日はまた見舞いに行かないと。
 何か持っていってあげようか。でも病院のひとに見つかると、ちょっと怒られてしまうから。こっそりこっそり、運ばなくてはならない。特にお菓子類などは、そうだ。

 幸い学校は休みだから、時間はある。
 明日も晴れるに違いない。窓を開ければ、きっと抜けるような青空が広がっている。
 海に寄っていこうかな、と思う。本当は、昼間よりも夜の海、夏よりも冬の海の方がすきだけれど。たまにはそんなのも、良いかもしれない。

 煌くような青――いや、蒼色が。途方も無く高い青空の下に広がっているのを見るのだって、悪くないと思えた。

 偶然に。また、出逢うことが在るかもしれない。それは自分にとってあまり意味の無いことかもしれないけれど。それでも、良いのでは無いか――



――――――


 静かな時間。普段此処で過ごす時は多かったけれど、カウンターの向こう側とこちら側では、やはり空気が違う様に感じた。

「それにしても、相変わらず客が居ないですねぇ」
「良いんですよ。この時期ですから、仕方ありません」
「別に盆の時期じゃなくても、と言ってるです」
「それは手厳しいですね、翠星石さん」

 このひとは、全く以て自分のペースというものを保ち続けるひとだった。私が学業の片手間此処で働くようになってから、それは崩れることが無かった。

「これからお見舞いですか?」
「そうですね、まだ時間はありますから……ちょっと海に寄ってから行こうと思うです」
「ふむ。黄昏時と言うものですかね」
「それ、ちょっと言葉遣いが違ったりしねぇですか?」
「それはどうでしょうね」

 紅茶に口をつける。ふわ、と。薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。この店定番の、ローズティー。

「この間お貸しした本、どうでしたか」
「ん……まだ読みきってないですが。何であんな本、持ってたです?」
「それはどうでしょう。物語の巡り合わせは、ひとには計りきれぬものがあります故」

 紅茶のカップを磨きながら、この店のマスターである白崎さんは嘯く。
 全く客の来る気配の無いこのカフェに、私と彼以外のひとの気配は、無い。
 そんな場所で普段働いている私も、そして蒼星石も。随分酔狂であると友人には言われるけれど、そんなに悪い気もしていないというか、むしろ居心地は良かったりする。
 今日はシフトに入っていなかったので、私はこうして、客として彼の前に座っている訳だった。


―――――


「白崎さん、一杯本を持ってるですねえ」
「洋書が殆どですが。何か興味を惹くものがおありでしょうか?」

 店の中にも、本棚があった。
 そのラインナップは、割と節操の無いものだった。ドイツの詩曲を綴ったものだとか、世界的に有名な絵本だとか――表に出ているのはそれほど多くは無かったけれど、奥の部屋にはもっと沢山の本があるという。

「私は今、読んでる本がありますから」

 バッグから一冊の本を取り出しながら、言う。

「回復まで?」
「そう、『回復まで』。メイ・サートンというひとが書いた本です」
「ふむ」

 彼は暫し、考え込んだ様子だった。

「ああ、日記ですね。うつくしい言葉の流れを使う方だ。僕も以前眼を通させて頂きました」
「最初はちょっとお手本にしようかな、位の気分だったですけどね」

 其処でふと彼は、ぽんと手を叩いて、何か思いついた風の仕草をとった。

「表題違いですが、日記なら僕も持っていますよ」
「え?」

 いそいそと奥に引っ込んだ店主は、暫くして一冊の本を持ち、カウンターへ戻ってきた。

「こちらになります」
「――『快復まで』」
「そうです。とある方の残した、日記。もとい、物語です」
「物語……」

 本を手に取る。薄汚れた、古ぼけた日記帳。私は古いものの価値などにはとんと疎い性質(たち)で、骨董品などにはまるで興味を示さない。ただこの本は、持ってみて――何かしらの、重みのようなものを感じる。日記、ということは。此処には、事実が記されている。確かに在った出来事の、物語、が記されているのだ。
 本を一旦カウンターに置き、手元の紅茶に口をつける。若干ぬるくなっていたが、香りはまだ芳しさを保っていた。


――――――


 店内は薄暗く、カフェと言うには少し客を拒む風が感じられる。夜はバーを営んでいるのだけれど、私はそのシフトに入っていない。妹はその時間もたまにカウンターに立ったりしているが、今はそうもいかない為、白崎さんひとりできりもりしている。
 これでいて、昼の部も夜の部も、常連客が結構やってくるので、店としての体裁を保って居られるのだろうと、何となく思う。

「蒼星石さんの身体の具合はどうですか? この間お見舞いに顔を出したときは、もう少しで治るという位の塩梅でしたが」
「大分よくなってきてますよ。全く、あの娘も身体が弱いですから……時が時なら、結核になってたっておかしかねぇです」
「肺患いでしたね。大事にならなくて、本当に良かったです」

 店内に備えられた、古ぼけた柱時計を見やる。もう少しで、二時を廻ろうかというところだ。そろそろ暇しようかと、ふと考える。
 外が暑いことはわかっている。冷房の効いた店内は、確かに快適ではあった。この街には結構緑が多く見られて、歩道沿いに植えられた木々に蝉が居ついていた。けたたましい声を煩わしく思う輩も少なからずといった風だったけれど、私としては、一週間という短い命を燃やして羽音を奏で続ける彼らを、どうも嫌いにはなれなかった。たとえそれが、彼岸最中の暑さを助長させるものだったとしても。
 そもそも、それなりに都会である筈のこの場所で、蝉の声が聴けるということ自体が貴重であるという感もある。それだけ自然も残っているということだから。

『姉さんは、緑がすきだからね』

 妹が私のことを評する時は、すっと眼を細める。どのような感慨を以て妹がそんな表情をするのかということを、私は未だ計りきれない節がある。
 ただひとつわかっているのは、私は妹のことがとても大切なのだということ。自分の、この感情。その一点の他、明らかにすることが出来ない。私に出来るのは、なるべくなら妹も、私のことをそう思っていてほしいと……そう願うことだけだ。

 そんな妹が、肺を患って入院したのが一週間前。幸い手術が必要な程では無かったけれど、それほど身体が強い具合でも無かった彼女は、暫くの安静を命じられていた。
 薬が苦い、などとちょっとした愚痴を零したりするのも、身体に大事無いということがわかっていれば、愛嬌のひとつとして見てとれる。そもそも妹は色々なことを我慢しすぎるし(今回の入院も、その性質が原因の一端を担っている)、ある程度の我侭を言われた所で特に苦にはならない。もっとも、薬はしっかり飲んで貰う訳だけれど。

 私は勿論毎日でも見舞いにいくし、友人・知人たちも折を見ては妹の病室へ顔を出しているようだった。
 病院に行っていない時も、電話で声を聴けば繋がりを感じることができる。携帯電話を使えばメールなども打てたのだろうが、其処は律儀な妹のこと、院内ではほぼ携帯の電源をオフにしている。
 病室には元々時計が備え付けられていなくて、見舞いに行くときはいつも時間の感覚を失う。私なんかは携帯電話を時計代わりにしている節があるが、それをしない妹に対して、不便ではないかと訊いたことは一度も無い。何と言っても、妹は祖父譲りの懐中時計を持っているから。螺子巻き式のそれは、しょっちゅう止まってしまうような塩梅だったけれど、最近はそれにも忖度していなかった。
 携帯で時報を聞けば直ぐに合わせられるだろうに、と言おうとはした。ただ、妹と会っているときに時間を気にしすぎるつもりも無かったから、結局その提言はされないままである。

 メールが来ていないかどうかをチェックする時は、病院の外に出てから。
 夜中に会話するときなどは、専ら備え付けの公衆電話から連絡をとっている様子だった。妹はいつも青い手帳を持ち歩いていて、その中にあるアドレス帳には、丁寧にも連絡先などが詳細に記されている。電話番号を調べる時も、それを参照すれば良いだけのこと、だそうで。口で言うには簡単かもしれないが、私にはちょっと無理な芸当だと思う。

「紅茶のおかわりは如何ですか?」

 気付くと、ちみちみと口をつけていたカップの中身は空であった。

「や、そろそろ行くですよ。ご馳走様でした」
「そうですか。蒼星石さんにも、宜しくお伝え下さい」
「わかったです。早くばりばり働きに戻ってこいって、白崎さんがぷんすか怒ってたとか伝えとくですよ」
「いやはや、そんな……早く戻ってきて欲しいのは真実ですが、脚色はしないで欲しいですね」

 後ろ頭を掻きながら、苦笑いを浮かべる白崎さんだ。冗談ですと、軽く返しておいた。

「時に、翠星石さん。創作活動の方は如何です?」

 もう扉を開けて外へ出ようとしたとき、不意に声をかけられる。

「ぼちぼちですねぇ。まあ趣味ですから、何処かに投稿する訳でも無し。まったりやるです」
「いつか読ませていただきたいものですが。あれを元にするなら、『風立ちぬ』を思い出してしまいますねえ」

 堀辰雄か。労咳を患った娘と、その娘を愛した男の物語。
 あれが本当に、彼の経験を元にしたものであるかということを私は知らない。――私が今作り出しているものは、ノンフィクション、と言い切れるものなのだろうか?

「もう、表題は決まっているのですよね」

 『快復まで』を暫く読み進めてから、それはもう既に決まっていた。私の物語は、多分誰の手にも届かず、ひっそりと私の元に残り続ける。確かに在った筈の――どれほどが事実であるか、という確かめる術は無いが――その昔いきていた彼女の物語は、確かに私の心に響いたのだと。それを裏付ける、ひとつの証拠として。
 ただ、ある男と、ある女が居る。口調は、なるたけ素っ気無く、特徴の無いものに。私が物語を綴ろうとして、努めてそれを心掛けた。身近な誰かを重ねてしまったら、色々と『曲げられてしまう』。そんな予感が、していたから。
 それでいて、とある場面から、私はペンを走らせることが出来ないでいた。
 書くだけ、の話。それでも、あるひとの、大事なひとの死なるものを描き出すことが、私にはどうしても出来なくて。
 ひょっとしたら、未完のままに終わるかもしれない。ただ、今書いている『物語』のタイトルは、既に決まっている。

 その、熱を。大切なひとの熱を、ただ伝えるための手。

「――『てのひら』。副題は……彼岸花、ですよ」

 彼岸花。その花を、私はあまりすきになれない。それは、ひとの死を想起させる花だ。けれど、あえてそれを付けたのは――
 それを受けた彼は、ふむ、と頷きつつ、顎に手をやる仕草をする。

「なるほど、その花を副題に」
「縁起わりぃ、ですか?」

 何となく、返してしまった。私としては、そんな風にとられても仕方あるまい、と言うかのように。

「いえ、とんでもありません。僕は『快復まで』を読み終えていますから。それを踏まえて、その表題と副題を据えたと聞けば、相応しいものであると思います。彼岸花は、文字通り彼岸に咲く花であると。ですが翠星石さん、貴方は、その花に込められた思いを、ご存知なのではないですか? ――」


―――


 病院へ向かう前に、ぷらぷらと港を歩いていた。

 青は、不思議だった。見上げれば空、見渡せば海。同じ青の筈なのに、何故こんなにも印象が異なるのだろう。
 違いを表そうとして思い浮かぶ言葉は、"深さ"。色の深さが、このふたつにおいて、どうしようもなく違う、……
 私は物書きが得意な方では無いし、元より筆まめという程でもないのだけれど。少しだけ気取って言うとしたら……片方は青く、片方は蒼い――

 潮風を受けながら、ふらりと港を歩いている。この辺りは街中に比べれば幾分ひとは減っているものの、その喧騒が消えることなど無い。

 ひとごみは、好まない。過ごすなら、静かなところが良い。もっと言うなら、――私は、『独りで居たい』と思う性質ではないけれど。出来ることなら、自分の一緒に居たいと思えるひとと、二人きり。そうやって、ゆっくりとした時間を過ごしたいとは思う。

 半ば、ぼんやりとしていて。それでも私は、『彼』とは違うから。誰かにぶつかったりなどは、しない。
 ふと顔を見上げれば。私が会いたいと思う『彼』は、同じ様に港を歩いて居る訳だけれど。

「よう。散歩か?」
「ジュン……おめーも全く暇な奴ですね。何してるです?」
「いつもの見舞いに行こうと思って。その前に、何となくぷらぷらしてた。ひょっとしてお前もか?」
「ま、そんなとこですね」

 何とはなしに、二人並んで歩く。どうせなら、一緒に病院に行こうということになる。

「柏葉も、今日行くみたいなこと言ってたぞ。病院で逢えるんじゃないか?」
「そう、ですか」

 実のところ、巴もつい先日まで蒼星石と同じ病院に入院していた。もっとも彼女は、内科ではなく整形外科であったけれど。剣道の大会で、腕を酷く怪我してしまったらしい。

 柏葉、という名前を彼の口から聞くと、少しだけ切なくなる。ジュンと巴は幼馴染だったし、それだけ付き合いも長い。そんな彼らが付き合っている、という事実は無い様子だったけれど。彼らがもし並んで歩いていたならば、その間に入っていけないような雰囲気を、私は少なからず感じている。

 見ていて微笑ましい二人、と言ってしまえば相違いない。ただ、私も彼のことを少なからず思っていたから――嫉妬するところが全く無い、と言えば嘘になるだろう。

 まあ、それでもいい。こうやって今、並んで歩けるのであれば、それで。

「来世にでも、期待してみましょうかねえ」
「どうした?」
「いや、こっちの話です」

 何て気の長い、話。いや、気の長い所か。其処にそもそも私が存在するのかすら、当然ながらわからない。あまりにも当たり前のことを大真面目に考えてしまったせいか、訳も無く、笑いとも何ともとれぬような表情を浮かべてしまった気がする。あれだ。誰かに見られたら、『どうしたの?』と訝しがられる程度の変な表情。
 ――あの『物語』。あの日記帳を、途中までとはいえ、読んでしまったせいなのかもしれなかった。


―――


「……で、蒼星石。ちょっと其処に直るです」
「う、うん」

 今、この白い部屋に居る人間は、部屋の主を合わせて四人。つい先程看護士さんから話を聞いて、私は妹に説教を喰らわせようとする最中にあった。

「ま、まあ……落ち着けよ翠星石。そんなこともあるって」
「うん、蒼星石も悪気があった訳じゃあ」
「ジュンと巴はちっと口を挟むなです!」

「「はい……」」

 今朝の妹の状況。朝の検温の時、病室に居らず、ちょっとした騒ぎになった様であった。本人が何をしていたのかといえば、長電話をしていたかどうかは知らないが、公衆電話の椅子で眠りこけていたらしい。

「無理はするな、っていうお達しの筈ですよ。こじらせたら、どうするつもりです……」
「……ごめんね、姉さん」

 しゅんとした様子で妹は俯いてしまったけれど、本当に泣きたいのはこちらの方だった。この娘は自分の身体があまり強くないと自覚していながらも、たまにとんでもない無理をしでかす。

 妹は、自分の信じたものを曲げない。諌めるのが例え私であろうとも、決して。普段は大人しい素振りをしていても、彼女の心にはひとつ、折れない旗が掲げられている。
 多分私は、その旗に触れることすらかなわない。それは少しだけかなしいことだった。
 だって妹は、その旗を、不器用にも隠そうとする。自分を押し殺して、他人の眼の触れないような深い谷の中へ、押し込もうとする。そのせいで、本当に見えなくなってしまうことだってある。

 それは、お互い様なのだろうか。似ているといえば、本当にどうしようも無い程に似ている。それを考えれば、少しはこのかなしい感情も、薄れていくような気がする――

 説教を続けるのも間が悪いような感じだったので、その後は四人で談笑していた。何はともあれ、大事が無くてよかった。うん、それでいいじゃないか。

「あ、もうこんな時間――面会時間、そろそろ終わりかな」
「そうだな。僕もそろそろ帰ることにするよ」
「あ――私は、もうちょっと残っていくですよ」
「そっか。僕ももうあんまり無理しないで、早く治すことに専念するよ。今日はありがとう」

 ジュンと巴が白い部屋を出て、私と妹だけが残された。

「そういえば、蒼星石」
「なんだい?」
「朝まで電話してたらしいですけど。結局、誰と話してたです?」

 先程までは、件の電話の話に触れるのがなんとなく躊躇われたものだから、結局誰もそのことについて触れなかった。
 けれど、今のタイミングならば良いだろう。ほとんど理由もなく、そんなことを思っていた。

「うん――間違い電話だったんだよ」
「間違い?」
「そう。はじめは、別なひとにかけようと思ってた」
「……ジュンですか?」
「……」

 その沈黙を、私は肯定と捉える。ほんの少しだけ何も語らない時間が続いて、その後、「姉さんには、やっぱりかなわないなあ」と、ふと微笑んだ。

「でもね、姉さん。やっぱり僕はかけられなかった」
「どうして?」
「――どうしてだろうね」

 本当にわからないよ、といった風の表情を、妹は浮かべるのだ。
 どうして。どうしてだろうか。私がもしも妹の立場であったとして、やはりその問いに答えることは出来ないかもしれないと、何となく思う。
 知らない、なんて素振りで。本当は、まだ決まってもいない答えを、私も妹も、出しているのだろうか。

「でもね、結局間違って繋がったひととも、結構長く話しちゃったんだよね」
「そうなんですか?」

 聞いて、少しばかり驚く。妹は元々、初めて接するような――今回は電話越しであった訳だが――ひとと、自分から話を続けようとする性質を持ち合わせていないと思っていたから。その分長い時間をかけたなら、それこそ全面の信頼を寄せて会話出来るようになる。

「よっぽど気があったですね。どんな奴だったです?」
「うん。声を聴けば随分若い――ああ、でも、案外と僕より年上だったのかもしれない。随分と大人びた口調だったから」

 色々な話をしたと、言った。いきることの、さみしさについて。いきて、熱を持ち続けるということについて。それから――

「うん、それから。結局、途中で途切れてしまった。繋がらなくなってしまったんだ」
「……」

 思いを、巡らせる。不思議な感覚だった。おもむろに、ベッドサイドの椅子から立ち上がって、窓際へ向かい、カーテンと硝子戸を開け放ってみる。
 涼しげな風と、夕暮れ時の、静かで柔らかな紅い光が入り込んできた。きっと明日も、晴れるに違いなかった。

「ねえ、蒼星石」
「なんだい? 翠星石」

 私は――私達は。まだ、来世なんかに期待するのは、早いわよね?
 今はまだ、お互いのてのひらに、静かな熱を持っているのだもの。

「もうちっと、頑張らなきゃいかんってことですよ」
「ふふ。どうしたのさ、いきなり」

 どんな結末になるか。私達がいきている物語は、文章で書かれたものと違って、先を予め決めてしまうことも、巻き戻して書き直すことも出来ない。それは、当たり前のこと。

 けど。ひとつの約束を、少しずるく取り決めてしまおうというのなら――いつまでも、私は妹の手を、離さない。不器用で、変に我慢強い、彼女の手を。
 そうしたら、蒼星石。貴女は私の手を、握り返してくれるだろうか。ひょっとして、それだけのことで、私達は幸せになれるのかも。

 それが約束されているのなら。もう少し私達は、自分の想いを通す為に頑張れる。そんな気がする。敵はきっと手強くて、まして妹とはライバルになってしまうだろう。だけど、他の誰かと想い通じても、私達はきっと離れない。いきているなら、きっと。

「そういやあ……その綺麗な花瓶は、誰かの差し入れです?」

 ベッドサイドにあった、透き通った青色の、硝子の花瓶。何本かの薔薇が、淡い色合いのまま活けられている。風に当たって、少しだけその身を揺らしていた。

「槐さんから。白崎さんと一緒に来てくれたんだよ」
「わざわざ薔薇を持ってくるなんて、随分気障なことですねえ」
「そういっちゃ悪いよ。ああ、ただ――この花瓶に添えるなら、淡い色合いの花より、鮮烈な紅の――彼岸の花が似合うだろう、って言ってたね。流石にそれはしなかったみたいだけど」
「あったりめぇです。病院に彼岸花なんて、どんな嫌がらせですか」

 ちょっと困ったような笑みを浮かべて、妹は言う。

「翠星石は、知らないのかい」
「何をですか?」

 知っている。きっと妹が言いたいことは――彼岸の花に、込められた意味のこと。

「冗談ですよ。わかってるです。お姉ちゃんは、――何でも知ってるですから」
「うん――そうだね」

 二人きりの、白い病室。このまま時間が止まればいいだなんて、陳腐なことを考えた。
 そして、それではきっと駄目なのだろうということも。

 眼を開ければ、夕闇が迫ろうとしている。その様子が、とても美しかった。そして何だかかなしくなって、さみしくなって――涙が、零れ落ちた。

「姉さん」

 妹が私の傍に立っていた。

「早く、良くなるよ。大丈夫、さみしくなんかないさ。ほら、僕は此処に居るから」

 ぎゅっ、と握りしめられた手から、熱が伝わる。
 温かい。貴女は、此処に居るんだ。

 もうすぐ陽が落ちる。看護士さんに、怒られてしまいそうな時間。
 家に帰ったら、日記の先を、ちゃんと読もうと思った。眼を逸らさずに、しっかりと。ただ、其処から新しく紡ぐ私の言葉は、今は、私だけのものにする。

 そして、いつか。この娘に、この娘だけには、読んでもらおう。
 私の綴った物語と。そして、遠い過去に綴られた、遠いひとの物語を。


 眼を閉じた。夕焼けの光が、目蓋の先に明るい。
 何処か遠い場所には、きっと沢山の彼岸の花が、揺れているのだろう。



―――――――――




エピローグ

L.―

 手元には、紅い色を見せる彼岸の花。
 声が、聴けてよかった。
 覆っていたさみしさが、今は少しだけ晴れたような気分だった。

 ……

 君か。
 うん。僕はもう、十分だと思う。
 姉さんとは、もっと話をしていたかったし――そうだな、彼にも、もう一度、逢いたかった。
 でも、いつか追いついてくれるよね。

 声が聴けて、良かった。
 話したいことが、沢山あるんだよ。

 君もかい? そうか。それなら、良かった。

 ああ――これかい。花瓶に活けてあったから、持ってきたものさ。
 そちらも、沢山咲いているかい。

 うん。
 それなら、さみしくないかな……
 

――――――



R.― 

『……――

 彼岸の花が、うつくしかった。

 最後にまた、あの日のことを書いておこうと思う。

 私はひとり墓前に立って、暫く立ち尽くす他は無かった。
 妹の顔は、最期の最期、とても穏やかだった。そう聞き及んでいた。今でも貴女が、それをベッドの上では無く、電信の傍らで眠ってしまっていた理由はわからない。
 もうそのことは散々書きつくしているし、今言えることといえば……私はそれを看取ることが出来なかったけれど、彼がそれを懸命に慰めてくれたのが、嬉しかった。それに尽きる。

 今。こうやって私がこの文章を綴れているのは、ひとえに彼のお陰であったように思う。
 不意な偶然から出逢った彼は、打ちのめされた私の心を快復させるのに付き合ってくれた。

 ペンをとり、書き続けて、本当に良かった。快復の記録を残すことが出来て、良かった。
 私も、いや、私達も、そろそろ永くないように思う。弱気になるなとは言われても、こればかりはどうしようもならない。むしろ、随分と遅くなった方だ。

 きっと向こうでも、沢山の彼岸花が揺れているに違いない。
 其処では、妹も笑って迎えてくれるだろう。

 もう、彼岸の花を、すきではないとは言わない。血のように紅いあの花を、縁起が悪い、などとも言わない。私とっては、確かに、あの花はかなしい思い出を象徴するものに他ならないのだけれど。
 紅々と咲き誇る花へ向けて、私はかなしい思いを切々と語りかけた。
 それを花は、やさしく受け止めてくれた気がする。今では、この花の咲く場所で、貴女とまた出逢える日が来ることを、楽しみにも思えるようになってきている。

 いつか生まれ変わったなら。私達は、また双子として、一緒に居られることが出来るかしら。
 勿論それは、うかがい知れないことだけれど。

 あなたのてのひらにある熱を、いつかまた感じられるだろうと信じながら、この日記はもう、終わりにしようと思う。


 私の妹へ。あれから、随分時が経ってしまったけれど。ああ、これを、この日記を、持っていくことが出来たなら。それを貴女に、読んでもらうの。素敵でしょう。


 もう、貴女が、直ぐ傍に居るような気がするの。だから私も、語りかけるように書くことにするのです。ねえ、いいでしょう?


 貴女のてのひらにある熱は、温かかったから。
 私は、貴女の手を、離さないですから。


 ――……』




 『快復まで』

 その続きは、白紙のまま。
 ひとつの手記は、ここで閉じる。
 誰かの手がその日記を開く、その日まで。




 【てのひら】L/R ― Lycoris/Reincarnation



  
  
  



 
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