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「ふう」
ため息をつきながら右にある玄関の照明スイッチを押す。
暗闇に覆われた空間に一気に光が広がって、弱い照明が簡素な我が家を照らし
だした。
今日もぎりぎりに追い詰められながら、なんとか仕事を終え無事に家にたどり
着いた。
全身にまとわりつく倦怠感を伴う疲れと、脳を鈍らせる眠気を無理矢理振り払って、ふらふらと靴を脱ぐ。
足元の解放感に浸りながらとりあえず向かうは洗面所。
まずは眠気をなんとかしないとなにもやる気が起きない。
別段なにもない洗面所までの道のりで電話のボタンを押す。すでに日課になっているその行動はもはや脊髄反射の領域で、内容に期待なんかできるわけながない。
さえない顔を洗っている間に電子的な声が、今日の留守電録音時間を淡々と知
らせてくれた。

『午後5時48分』

そして再生される音声は聞きなれてはいるもののどこか懐かしいあの人のメッ
セージ。

『ジュン君? ごはんはちゃんと食べてる? 海外のお母さんからの仕送りを振
り込んでおきました。 これで栄養のあるもの食べてね。 じゃあ、体に気をつ
けて』

電子音。 

昔は少し前まで不必要なことまでべらべらと喋り続けていた姉の、短い留守電。
だけどその短い言葉にはちゃんと重みがあるってことについ最近気がついた。
短い分ずっと凝縮された思いやりはこの気持ちが証明している。
むずかゆいようなじんわりと広がる暖かさ。
再認識すると妙に恥ずかしい。
すごく心配性だった姉も言葉の量じゃ伝わらないってことを理解したらしい。

顔を上げてタオルで水を拭き取ると鏡に冴えない顔が写っている。
疲弊しきってるとはいえ、もう少ししゃきっとならないものか。

――情けないなあ

鏡の中の自分がそう言った気がした。


ユニットバスというのはなかなか馴れないもので二年間住んでいる今でも少し
戸惑うときがある。
例えばトイレに行くときなんか「うわ、なんだここ」とか一瞬思ってしまう。
大人になろうと里を離れてきたと言うのにいつまでこんな習慣に悩まされるんだ僕は。
まあ今現在はそんなことないが。

そんなユニットバスのシャワーを浴びながらぼんやりと今日の出来事を振り返
る。
主に仕事。
あ、あれ失敗した。
あそこはああしとけば怒られなかったんだけどなあ。
そうかだからあんなことに。 


一日の締めだと言うのに思い浮かぶのは後悔ばかり。今日も散々ミスしまくり
で、とても忙しい一日だった。
そのことをねちねちと上司に言われること約1時間。あと少しで辞表を叩き付けそうになってしまった。


風呂上がり鏡に映る自分と目が合う

――おまえは駄目なやつだなあ
仰る通り。
職場環境がどうだろうとミスはミスなんだから。
俺は駄目な奴なんだよ。

髪をタオルで拭きながら、直接キッチンへ。
結局シャワーを浴びても逃げきれ無かった睡魔を紙一重でかわしながら今日の
献立を考える。
眠いから簡単なものがいいとか、そしてさっぱりしたものがいいとか、膨らむ
のは理想ばかり。どれもこれも材料不足で実現不可能なのはわかっているのに
……。

――はあ
と、また溜息をついてしまう。
こんなことなら食材を買っておけばよかった。
いつもこうなんだよな。
たいした事ない行動してからそのことの重要性に気がつくんだ。
しかし、どんなに悔やんだ所で何も変わらない。
相変わらず冷蔵庫にはモヤシとジャガイモくらいしか入ってないのだ。
そんな食材じゃサイドメニューも作れない。 

と思って冷蔵庫を開けたものだから、中にちゃんとした料理が入っていた時は
驚いた。
サランラップで包まれた冷やし中華の横に丁寧な字で綴られたメッセージ。それとこのドッキリの仕掛け人の名前。

『毒味しなさい 真紅』

その文字に似つかわしくない刺激的な言葉に僕は少し苦笑い。
毒味というのは如何なものか。
だけどわかってる。素直じゃないのは当たり前。僕だってそうだから彼女の気
持ちはわかる。
その証拠にこの味は毒味という味ではない。
別段おいしいわけではない。かといってまずいわけでもない。
とてもやさしい味。
あいつが言っていた台詞が今なら理解できる。
キッチンを爆発させていた奴がこんなにもうまいものを作るなんて。

風呂も入ったし飯も食ったし、残された行動はただ一つ。
どれだけシャワーを浴びても落ちない汚れを洗面所で落とさなければならない。
歯。歯磨きだ。
もうどれくらい使ったのかわからない蒼い歯ブラシで口の隅から隅まで磨いて
いく。
何を考えるでもなく。
ぼんやりと。
目の前にあるのは鏡。
そしてそこに写るのは自分。
情けなくて、駄目な僕が。 

――でもおまえは生きてるんだろう?
鏡に映る自分。
深層心理に眠る自分が声を出す。
それが本当の声なのか自己暗示で生まれたものなのかはよくわからないけれど。

うん。

――まだ終わらせたくはないんだろう?

うん。

――じゃあ、もう少しやってみようじゃないか。気がついてないかもしれない
けどお前はそれなりに成長してるんだぜ。

そうかな。

――そうさ。人間は知らない間に前進してるもんだよ。気がついてないだけ。

そうかな。

――それに気がつかないから駄目なんだよ。毎日怒られたってバカにされたっ
て生きてるんだから。

そっか

――そうさ。だから自信を持て。自分を嫌いになるなよ

わかった。 


本当にわかってるのかと言われればよくわからない気もするけれど。

うん。疲れたけど、もう少しやってみるよ。


朝が来た。夜明けを知らせる太陽がまだこっくりこっくり、うたたねしている
位の時間。
上りきらない頭を見ながらぼんやりと朝飯を噛む。
こっくりこっくりしながら。
今日も仕事、明日も仕事。すっかり疲れきった体に、鞭打つようなスケジュール。

「もうやめたいよ」

自然とでたその言葉に深い意味はなく、何をやめたいだとか特に具体的なものがあるわけではなかった。
強いて言えば仕事、強いて言うなら義務、強いて言うなら人生。

まあ、でも、もう少しがんばってみようかな。

シャツを着てスーツを羽織った頃にはすっかり太陽が顔出していた。
光年単位で距離をとっている遠く離れた惑星が、しっかりと朝の始まりを自覚させる。
眠気眼でも鮮明に焼き付く炎の塊が日本全土に挨拶を交わして、僕もそれに答
えてみる。
元気いっぱいで爆発しそうな、それを見ているとイヤでも目が覚めるだろう。 


「暑い」

誰に言うでもない独り言が太陽光線の中を駆け抜けて消える。
別に誰かに聞いてほしかった訳でわない。
ただの独り言。

さてと、今日もがんばるか

疲れきった、それでも凛とした一日が始まる。

end

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