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その山桜は一本だけ、周囲の緑に溶け込みながら、ひっそりと咲き誇っていた。
満開の白い花と赤褐色の新芽に染まる枝を、私はただ、茫然と見上げているだけ。
時折、思い出したように花弁が降ってくる。青空との色合いが、とっても良い。
いつもなら、衝動的にスケッチブックを開いて、ペンを走らせているところだ。
でも、今は何も持っていない。持っていたとしても、描く気が湧かなかった。

そのときの私は、小学校低学年くらいの小さな女の子で――
どうしてなのか思い出せないけれど、泣いていた。

『…………』

ふと、誰かが私の名前を呼んだ。男の子と、女の子の声。
二人の声が重なって、なんだか奇妙な余韻を、私の胸に刻みつけた。
だぁれ? 止まっていた私のココロが、静かに動きだす。
身体を揺さぶられる感覚。そして――




気付けば、レールの継ぎ目を踏む車輪の音が、規則正しく私の耳を叩いていた。
うたた寝してたらしい。俯いたまま列車に揺られていたせいか、首が痛い。
それに、なんだか変な夢を見ていたせいで、寝覚めも良くなかった。
汗でまとわりつく後ろ髪を掻き上げたついでに、首の後ろを揉みほぐすと、
いくらか、凝り固まっていた痛みと眠気は和らいだ。

いま、私は何年かぶりで、故郷に帰ろうとしている。
高校を卒業して以来だから、もう十年近く離れていた計算だ。
遠く眺める山並みは、あの頃のまま……時の流れを忘れてしまったみたい。
でも、よく見れば僅かずつ、私の知らない顔を見せ始めていた。


こんなにも長く帰郷しなかったのには、理由がある。
都会の美術大に進んだ私は、そこで雪華綺晶という女の子と出会い、意気投合した。
大学卒業後、彼女の熱心な誘いに負けて、絵を描きながら世界中を回る旅に出たのだ。
多くの都市、様々な景色、たくさんの人々――
何もかもが初めて見るモノばかりで。刺激にまみれた日々ばかりで。
旅費を稼ぐために絵を売ったり、アルバイトしたり、辛いコトもあったけど、
それでも私たちの創作意欲は、そんな苦労すらも燃料にしていた。

そして、ふと気付けば、こんなにも時間が過ぎて……
異常なまでの孤独感と郷愁に駆られ、ぼんやり車窓を眺めている自分が居た。
行き詰まって、燃えカスみたいになった、私が。




列車を降りて、駅の改札を出ると、4月の穏やかな日射しが満ち溢れていた。
思いっ切り吸い込んだ空気の匂いが、スッと身体に馴染んでくる。
ああ、やっぱり。すぐに、そう思った。
どれだけ世界中を渡り歩いてても、私の帰る場所は、ここしか無いのね……と。

飾りっ気のないデイバッグを肩に下げて、かつて友人たちと歩いた道を辿る。
なんだか街が縮んだように見えるのは、目の錯覚なのかな。
それとも、世界の広さを体感して、精神面で成長したため?
ただ単に身体が大きくなっただけ……なんてオチは、勘弁してほしい。
私だって、子供のまま歳を取ってるワケじゃないんだから。


駅前の商店街を懐かしく眺めながら、住宅街に脚を向ける。
(お父さん、お母さん、元気なのかなぁ?)


実家への道すがら、久しく会ってない両親を想う。
お父さんはフランス人。お母さんは日本人。私が三歳の頃、この街に移り住んだ。
この通信手段の発達した時代に、たまの絵葉書でしか息災を告げなかった放蕩娘が、
事前の連絡もなく、ふらりと帰ってきたら……まず最初に、怒るよね。うん、絶対。


背後から呼び止められたのは、そんな風に気後れして、歩が鈍った時だった。

「ひょっとして…………雛苺じゃないのか?」
「うよ?」

いつもの口癖と共に振り返った先には、ツンツン頭で、メガネをかけた青年の姿。
その、どこかオドオドした風情が、記憶を検索するキーワードとなり、
私は三秒の後に、彼のことを思いだしていた。
子供の頃から、ずっと親しくしてきた男の子のことを。

「あっ! あぁーっ! もしかして、ジュン? ジュンなの?」
「……やっぱりな。その髪とリボンを見てさ、もしやと思ったんだ。
 懐かしいなぁ、高校以来か。ずっと海外に行ってたんだろ? そう聞いてるよ」
「うん。今までロクに連絡もしないで、ごめんなさいなの」
「別にいいよ。僕たちは、幼なじみってだけだし。
 とりあえず、久々にお前の元気な顔を見られて、良かったよ」

彼の中には、いまだに幼なじみの私しか居ない。
それは至って当然のことだし、虫がいいのも解ってるけど……やっぱり寂しいの。

今からでも、あの頃の続きを、始められたらいいのに。
逢えなかった時間の分だけ、いっぱいお話しして、いっぱい触れ合いたい。
そんな熱望が胸の奥から溢れてきて、溺れてしまいそうになる。


「ジュンも、元気そうなのね。それに、あんまり変わってないの。
 こんなこと言える義理じゃないけど、安心したのよ」

他愛ない社交辞令を口にしつつ、知らず、彼の左手を盗み見ていた。
そして、薬指に填められた指輪を目にしてしまって……
胸の疼きと、後悔の念を覚えた。

(結婚……したのね)

高校の頃、彼には私を含めて仲のいいガールフレンドが、たくさん居た。
もう適齢期だし、ジュンが家庭を持っていたって、何の不思議もない。
そう。至って普通のコト。アタマでは理解できるのに、どうも面白くない。
なんだか裏切られたような気持ちで、胸がチクチク痛かった。

相手は、誰なのかな?
彼と話をしながら、浮かべた笑顔の裏で、そればかり気になってしまう。
真紅? 巴? 銀ちゃん? 翠ちゃんかな? 案外、蒼ちゃんとか。
金糸雀や、薔薇しーって線も濃厚だし。もっと他の娘ってコトも――

「おい、どうしたんだ? ボケーっとして」
「えっ? ちゃ……あぅ~」

ついつい、取り留めない詮索に、没頭していたらしい。
意味もなく、あたふた狼狽えた私を、ジュンは気遣ってくれた。

「長旅で疲れてるんじゃないのか? 良かったら、ウチに寄って休んでけよ」

ジュンの家に行けば、必然的に、彼の奥さんと顔を突き合わせるコトになる。
もしかしたら、子供も何人か、居るかも知れない。

私が持っていない幸せを享受している家族の前で、私は平然と笑っていられるの?
かつての級友同士が、仲睦まじく寄り添う様を見て、嫉妬せずにいられる?
私は……そこまで【大人】を演じきれる?

事実を知るのは、怖い。自分の本性と向き合うのは、もっと恐い。
でも、幼稚で浅はかな興味はいつだって、足場の悪い道を選ばせる。


――結局、私はジュンのお誘いを受けていた。
もしかしたら、現実を目の当たりにして、傷つきたかったのかも知れない。
その傷を引き裂いて、胸に蟠る未練を、えぐり出してしまいたくて。
郷愁なんて口実。過去にケジメをつけるコトこそが、帰省したホントの理由……。




久方ぶりに見るジュンの実家は、以前より薄汚れて、寂れた感があった。
私が僅かに眉を顰めたのを、見て取ったのだろう。ジュンは言った。

「姉ちゃんが嫁に行ってからさ、なかなか手入れが行き届かなくって」
「のりさん、結婚したの?」
「もう5年くらいかな。別の街で、ダンナと子供に囲まれて暮らしてるよ」
「…………ジュンも?」
「ん? なんだよ、『僕も』って」
「ジュンも、この家で誰かと一緒に暮らしてるの?」

そう訊ねた途端、彼の表情が僅かに曇るのを、私は見逃さなかった。
ひょっとして、聞いちゃいけないコトだったのかな?
悪い想像をしようと思えば、いくらだって膨らませられる。
たとえば、奥さんと離婚したとか……
もっと悪いことに、出産の際、難産で母子共に亡くなったとか。

どうあれ、いきなり立ち入ったコトを訊いたのは、礼儀を欠いていただろう。
謝ろうとした私に先んじて、ジュンが言い辛そうに口を開いた。

「いや……実は、独り暮らしでさ」
私の方を見ようともせず、彼はモゴモゴと口の中で話し続ける。

「カッコ悪いよな。この歳まで独身なんて」
「どうして?」

本気で解らない。なぜ、そんな小さいメンツに拘っているの?
いつ結婚するかなんて、人それぞれ。人生に杓子定規なんて無いのに。

「ヒナだって、まだ独身なのよ?」
「いや、だけどさ……男と女じゃ、やっぱり周囲の見る目が違うよ」
「そんな風に、悪い方へ悪い方へ考えるのは、ジュンの悪い癖なの。
 昔っから、そうだわ。周りの人の眼を気にし過ぎて、鬱ぎ込んでしまうの」
「……悪かったな。性格なんだよ」

性格だから、で片づけてしまうのは、違うと思う。
ジュンはただ、自分に自信が持てないだけ。
本当は素晴らしい才能を秘めているのに、表現するのが下手なだけ。

私は、ちゃーんと、それを知ってるのよ?
だって――いつも、ジュンを見つめてきたんだもの。


だらりと下げられた彼の手に、そっと指を絡ませて……しっかりと握った。
ジュンが目を真ん丸にして、こっちを見たけど、キニシナイ。

「ねえ、ジュン。お茶するなら、お外でするのっ!」
「お、おい。外でって、どこ行くんだよ」
「それは着いてのお楽しみなのよー」

言って、グイグイ手を引っ張る。
彼は小さな吐息を漏らして「ま、いいか」と、おとなしく着いてきた。
こういうところも、昔っから全然、変わらないのね。
強引な相手には、ペースを乱されて自分らしさを出せないの。
そんな、不器用で繊細な貴方だから、私は――



途中、コンビニでペットボトルのお茶と、ちょっとしたお菓子を買った。
イチゴ大福は必需品。新鮮フルーツのイチゴも売ってたから、迷わずゲット。
気温が20度近い暖かさなので、カップアイスもお持ち帰りぃ~。
もちろん、アンマァ~なストロベリー味なのよ♪

それらを手に、私はジュンの腕を引いて、ウキウキと郊外の山を目指した。
何故って? そこに、子供の頃よく行ったヒミツの場所が在るからよ。
今の時期なら、きっとステキな思い出になるに違いない。

「お前、あそこに行こうとしてるのか?」
「さっすがジュンなの~。よく分かってるのよ」
「そりゃあ、子供の時分には、よく遊びに行ってたからな。
 お前は極度の泣き虫だったよな。いつも、あの場所でイジケてたっけ」
「だって、引っ越してきたばっかりで、友達も少なかったし……。
 でも、ジュンはいつも来てくれて、慰めてくれたの。とっても嬉しかったのよ」
「たまたま僕が行くときに限って、お前が先に居ただけだろ」

ぶっきらぼうに吐き出された声に滲む、微かな照れ隠し。
二人っきりの時くらい、強がらなくたって良いのに。ホント、ひねくれてるのよ。




なだらかな勾配に設けられた、緩やかな登山道を辿り、
途中でロープを張っただけの柵を踏み越え、獣道へと分け入る。
広がる藪は深くて、子供の頃は、よくスイスイ通り抜けられたものだと感心した。
身体が小さかったから、トンネル状になった根元を、潜っていけたのかもね。
茂みに悪戦苦闘しながら、私たちは思い出の場所へと向かった。

もう、そろそろ着くハズ……と思った直後、目の前がパッと開けて――


大きな山桜の木が、満開の白い花と赤褐色の新芽で飾られていた。
周囲が新緑一色に染まる中で、そこだけが別世界。
白と紅のコントラストは、子供のとき、見上げた光景そのままに。
それとも本当に、あの頃から時間が止まっているのだろうか。


「やあ、今年も見事に咲いてるな」

額に汗を滲ませ、肩で息してるのに、ジュンは微笑みを浮かべた。
そんな彼の、ちょっとした心遣いに応えるために、私も笑った。

「久しぶりの再会だもん。ここで、ジュンとお花見したかったの」
「いいねえ。高校を卒業するまでは、僕らの恒例行事だったもんな」

そう。ジュンと私は毎年、この時期になると二人きりで、ここを訪れていた。
不思議なコトだけど、地元の人でも、この山桜を知る者は少ない。
だから、滅多に邪魔は入らなかった。思う存分、二人だけの時間を満喫できたの。

「とりあえず、座ろうか」
「うんっ!」

木の根元にコンビニのレジ袋を敷いて、私たちは腰を降ろした。
私も結構な汗を掻いていたから、ちょっと自分のニオイが気になる。
そんな心配を余所に、ジュンは以前と変わらず、私の髪を優しく撫でて……
徐に、肩を抱き寄せてくれた。懐かしい彼の手の温もりに、背筋がゾクッとする。
だけど――ついさっきまで、この温もりを感じてた気もするのは、何故なの?

「アイス、溶けない内に食おうぜ」
「そうね。あはっ♪ いっただきまーす、なの~」
「……相変わらず、子供っぽいよな、お前って」
「いいんだもん。ジュンと、こうしている時だけは、あの頃の続きだから」
「あの頃の続き……か。そうだな。それも良いか」

童心に還ってアイスを舐めながら、風に揺れる白い花の残像に酔う。
二人、黙ったまま。たまに舞い落ちてくる花弁の軌跡を目で追いながら、
気付けば、すっかりアイスを食べ尽くしていた。

「うゆ。もう無くなっちゃったの」
「そりゃ、こんな小さいカップじゃ当然だろ。ほら」
と、ジュンはペットボトルを差し出してくれる。
受け取った私は、口に残る甘味をお茶で洗い流して、また、山桜の枝を見上げた。
同じ仕種をなぞる彼の横顔に、私は本来の目的を訊ねてみた。

「ねぇ……ジュンは、憶えてる? あの日のコト」
「なんだ、それ?」
「忘れちゃったの? ヒドイのよ……約束したのにぃ~」
「したっけ? どんな約束だ?」

高校を卒業する日に交わした、あまりにもベタで、幼すぎる口約束。
この歳で、それを言うのは、ちょっと度胸が要る。


喉元まで出かかっているのに、言葉が詰まって、やけに息苦しい。
喘ぐように「その」「あの」を繰り返すのが、やっと。

「なんだよ、ハッキリしないなぁ」

しかも、ジュンが苛立ったような声を出すから、余計に言い辛くなって、
私は口ごもったまま、瞼を熱くすることしか出来なかった。
――でも、これでいいのかも知れない。
こうしてジュンと再会できただけで……話が出来ただけでも、充分だもの。

「……ううん。やっぱり、いいの。何でもないのよ」

青春の、ほんのり甘い想い出は、この胸にしまっておけばいい。
無理矢理、笑った。自分に言い聞かせるように、私は「何でもないの」と繰り返した。

「そうか」と返される彼の声が、なんだか残念そうに聞こえたのは、気のせい?
彼と眼を合わせるのが辛くて、私は顔を背け、お茶を飲むフリをした。
ジュンはジュンで、なにやら脇でゴソゴソしている。
きっと、私と同じくバツが悪くなって、お茶を飲んでいるのだろう。

ぽーっと、風に揺れる白い花を見上げていた私の視界を、彼の手が、徐に遮った。
意表を突かれて、ちょっと顎を引く。彼は指先に、ナニか摘んでいた。
よく見れば、それはジュンがさっきまで填めていた指輪だった。

「これ、さ……お前にやるよ」
「うゆ?」
「その……アレだ。一応、約束……だったからな」

ここに至って、やっと事態が把握できた。からかわれていたのだ、と。


「ひ、ヒドイのっ! ちゃんと憶えてたクセに、しらばっくれてたのね!
 しかも、ワザと思わせぶりに指輪を填めて、ヒナに誤解させるなんて悪質なのよっ!
 バカバカっ! ジュンのバカぁっ!」
「すまんすまん。トボケたのは悪かったよ」
「ふーんだ!」

謝られたって、許せるコトと、そうでないコトがある。
今度の場合は後者。ぜーったいに許せない。
私が、どんな気持ちで帰ってきたかも知らないで、意地悪するなんて酷すぎる。

さて、この怒りを鎮めるために、どんな仕返しをしてやろうか。
あれこれ画策していたから、暫しの間、注意が散漫になった。
そんな時に、いきなり手を掴まれ、ビックリするあまり頭の中が真っ白に――

数秒が経って我に返ると、私の左手の薬指には、指輪が填められていた。
ソレは春の日射しを受けて、刺さるほど目映い輝きを放っている。
見つめる先で、その煌めきは水の膜に包まれたように、ボヤけていく。
指輪が、よく見えない。そう思ったのと同時、ジュンが溜息混じりに言った。

「お前、なにボロボロ泣いてんだよ。子供じゃあるまいし」
「だって…………ジュンが……ジュンがぁ……」
「あー、はいはい。僕が悪かったから、もう泣くなって」

鼻白んだような口振りだけど、彼の表情は、優しい笑みを湛えている。
だから、せめてもの意趣返しに、私も彼の真似をした。

「ジュンなんか、大っ嫌いなのっ!」

口では、ココロにもない悪態を。仕種は、ココロの望むまま……素直に。


泣きながら、私は彼の腕の中に飛び込んだ。「ジュンのバカぁ~」
そして、ジュンの胸に濡れた頬を擦りつけ、泣き続けた。
彼はただ無言で、私の丸めた背中を、温かい手で撫でてくれた。とても優しく、愛おしげに。




かなり長いこと、ジュンの腕に抱かれながら泣いていた……と思う。
なんだか感情がぐちゃぐちゃで、いろんなコトが、よく解らない。
唯一、ハッキリ解るのは、今もジュンの温もりを感じてる、という事実だけ。

「なんで――」私は、泣き腫らした瞼を見られたくなくて、顔を伏せたまま訊いた。
「ジュンは左手の薬指なんかに、指輪を填めてたの?」

「なんで……って。うん…………ちょっとばかり、見栄を張ってたかも。
 けど、それだけじゃないんだからな」
「じゃあ、なんなの?」
「ソレを渡したい女の子が居たんだけど、その子はずっと、外国に行っててさ。
 だから、彼女が帰ってくるまで、無くさないように肌身離さず持ってたんだよ」
「……それなら、わざわざ左手の薬指じゃなくても良いのよ?」
「だから、そこは世間体とか……だぁーっ! どうでもいいだろ、もうっ!」

あーあ、ヘソ曲げちゃった。ちょっと、からかい過ぎたかな。

「もぉー、怒っちゃイヤなの。大きな声を出さないで。
 ヒナはね、ジュンが約束を憶えててくれたコトが、とっても嬉しいのよ」

正直、何年も前の口約束を、律儀に守ってくれるなんて期待してなかった。
忘れられてても仕方ない。そんな覚悟でいたのに。
彼が独身を貫いているのも、ひょっとして、私との約束を果たすために――?


私で……いいの? 貴方を信じても、いいのね?
顔を上げて、目で訴えかけると、ジュンは赤面して、そっぽを向いてしまった。

「どうでもいいと思ってる子との約束なら……守ったりしないんだからな」

また、持って回った言い方をしてくれる。
ジュンらしいと言えば、まあ、そうなんだけど……
女の子としては、やっぱり素直なひと言が欲しいのよ。ひと言だけでいいの。
変に飾り立てた言葉は、却って本音の気持ちが見えなくて、戸惑ってしまうから。
ここは、ひとつ……こっちからアプローチしてみよう。

「ヒナはいつだって、ジュンのことを見つめてきたわ。ずっと、大好きだったのよ♪
 ジュンも、ヒナと同じ気持ち? ヒナだけを見つめてくれる?」
「…………まぁ、な」
「ぶー。それじゃダメなの~。ちゃんと言って」
「……き……だよ」
「もぉ~、声が小さいのよー」
「だっ……大好きだよっ! 何度も言わせんなっ!」

また拗ねちゃった。まったく、どっちが子供っぽいのやら。
でもまあ、少しくらいダメな男の子の方が、気になるものなのよね。
母性をくすぐるというか。面倒みてあげなきゃ……って気持ちになるから。

私は、すっかり買ったことを忘れていた新鮮フルーツのイチゴを手にした。

「すぐカッとしないの。機嫌なおして、一緒にイチゴ食べよ? あーんして」

ジュンが躊躇いがちに口を開いた拍子に、ホイ! とイチゴを放り込む。
彼はモゴモゴ頬張って、ちょっと酸っぱかったのか、目を窄めた。

「うん……そこそこ甘くて、美味いよ。それじゃあ、今度は僕が――」

言って、ジュンはイチゴを摘んで、私の口元に差し出す。
まあ、このまま食べてもいいんだけど……もうちょっと刺激が欲しいかも。
私はやや上目遣いに、挑発的な微笑みを浮かべて、下唇を指でひと撫でした。

「ヒナにはぁ~、口移しで食べさせて?」
「はぁ?! ばっ……バカじゃないか?! そんなこと出来るかっ!」

途端に、ジュンはイチゴみたいに真っ赤になって、狼狽える。
そんなに恥ずかしがられると、こっちまで恥ずかしくなるのよ。

「ダメなの~?」
「う……って言うか……して……みたい……けど……でも……ううぅ……
 うが――っ! ダメだダメだっ! 色即是空っ、煩悩退散っ、ドーマンセーマンっ」
「も~! なんでなのー。誰も見てないのよ? ね、1回だけ。1回だけ~」

怒濤の駄々コネ攻撃で押しまくる。とにかく、イヤと言わせる隙を与えちゃダメ。
ペースさえ握ってしまえば、こっちのもの。あとは野となれ山となれなのっ!

「…………1回だけ……だからな」

そして、私の策略どおり、押しに弱いジュンは陥落した。
小粒のイチゴを唇で挟むと、「んっ」と突き出す。涙目で、すごく情けない顔してる。
貴方は、餌を運んできた親鳥。私は、餌をねだるヒナ。

「やん……そんなに見つめられてたら、食べにくいのよ?」

彼が、目を閉ざす。それを確かめて、私も瞼を細めながら、顔を近付けてゆく。


彼の吐息を感じて、唇にイチゴが触れた瞬間、私も完全に目を閉じた。
そのまま、紅い果実を啄みながら、もっと近付いて――




二人の唇が、初めて重ねられようとした矢先、無粋な妨害が入った。

「ヒナっ! 起きろよ。ヒナってば!」
「あらあらぁ、ヒナちゃんったらぁ」

私の名を呼ぶ、男の子と女の子の声。揺さぶられる感覚。
デジャビュ。この展開は、どこかで……。
思い出そうとするのに、誰かが私の身体を激しく揺らすから、気が散ってしまう。

「ダメよぅ、こんなところでお昼寝してちゃあ」

こんな間延びした喋り方をする人に、憶えがあった。
瞼を開くと……真ん丸メガネの女の子が、私の肩を掴んで揺すっていた。
その横には、いたいけな男の子の姿。彼らの背後には、満開の山桜――

「……のりねーちゃん……ジュン」

二人の名前を呼ぶ私の口調は、舌足らず。
私たちは三人とも、同じ幼稚園のスモックを着ていた。

「ヒナ。おまえ、きょうも、すいせーせきに泣かされてただろ」
「それで、ここに来て泣いてるうちに、疲れて寝ちゃったのねぇ?」
「うゅ……」

今までのは、すべて夢だったの? どうも、そういうコトらしい。
ごしごしと手の甲で擦った瞼は、ちょっとだけ腫れぼったくて、痛かった。
ジュンの言うように、虐められて、泣きながらここまで走ってきたみたい。
あんまり、よく憶えてないんだけど――

「さぁ。もう夕方だし、寒くなってきたから帰りましょうねぇ」
「おまえんちのママも、きっと心配してるぞ。ほら、立てるか?」
「……ん。へーきなの。えへへぇ……」

のりねーちゃんとジュンは、私の手を握って、起こしてくれた。
それが何故か、無性に嬉しくって、自然と笑顔が浮かんでくる。

「ねえねえ、ジュン~」
「ん? なんだよー」
「あのね、ヒナがおっきくなったらね、ヒナと『けっこんしき』して?」
「……やだよ。おまえ、泣き虫だし、チビだし、うにゅーキチガイだし」

私が泣きそうな顔をした途端、のりねーちゃんがジュンを叱ってくれた。

「こら! ダメよぅ、ジュンくん。女の子に、ヒドイこと言っちゃあ」
「ちぇっ。うるさいなぁ……わかったよ。僕のおよめさんにしてやるよっ」
「ほんとっ? わー♪ ヒナ、はやく、おっきくなりたいの~」

なんてことない、無邪気な口約束。
でも、この約束を思い出すコトが、私にとって2番目に嬉しい時間となった。
1番? それはモチロン『うにゅー』を食べてる時間なのよ。

私たちは手を繋いで、夕暮れの中、楽しくお喋りしながら家路に就く。
さっきまで見ていた夢のコトは、もう――思い出しもしなかった。




 【エピローグ】

暮れなずむ街へと遠ざかる、三つの影。その後ろで、山桜の枝が風に揺れる。
ざわざわ……。葉擦れは、声ならぬ声で囁かれた別れの詞。

  さようなら。おマセな、おチビさん。
  お望みどおりの、楽しい夢は見られましたか?

夜の訪れ。白々した月明かりが、夜陰の中、山桜の巨木を浮かび上がらせる。
冷えてきた夜風が揺らす枝に――花の色と同じ、白い人影が、ひとつ。
それは、長い長い髪を靡かせた、隻眼の乙女だった。
枝に腰掛け、両脚をぷらぷらさせながら、琥珀色の瞳を虚空に彷徨わせている。
端正なその顔は、無表情。人間らしい一切の感情を、映していなかった。
まるで、精巧に造られた人形のように。

  悲しくなったら、またいらっしゃい。ひとときの夢を差し上げましょう。
  この山桜の下で……思う存分、惰眠を貪り、午睡に溺れなさい。
  夢のまま終わらせるも、ユメを見続けるも、あなた次第ですけど。

不意に、白い乙女が、月光を受けて金色に輝く左眼を細めた。
瑞々しく張りのある唇から零れた微笑は、息を呑むほどに美しく……
女神とも、妖怪変化ともつかない艶麗さを湛えていた。


  夢の中で見つけたユメ(希望)は、いつか正夢に化けるかも知れませんね。
  それでは、おチビさん。ごきげんよう――

直後、一陣の突風が吹き、山桜の花を一斉に吹き散らした。
そして……
花吹雪が落ち着いたとき、白い乙女の姿も、春霞のごとく夜風の中に溶けていた。




  『山桜の下で…』



これにて、おしまい。
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