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いつも通り5時に起きた僕は、やっぱり少し姉さんの事が心配だった。
でも…

制服に袖を通して、僕は部屋の戸を開ける。

姉さんが、泣き疲れて眠っていた。

朝ごはんに魚を焼いて、ラップをかけておく。
庭の野菜を使って、お弁当も作った。
丹精こめて育てた野菜を刈り取ると、姉さんはいつも悲しそうな目をして。
でも、僕の作ったお弁当は、いつも嬉しそうに食べてくれたんだ。

姉さんは、一度眠ってしまうとそう簡単には起きない。
そんなことを知っているから、最後の優しさとして、僕は姉さんを部屋まで運んだ。
そっと抱き上げたとき、姉さんの口から零れた言葉。
「蒼星石…行くなですぅ…」
寝言だ。わかりきっている。今頃翠星石は夢の中にいるんだから。
自分自身が、昨日あんなことを言ってきた妹に抱えあげられているだなんて思ってないんだろうね。
でも、涙のあとが、その頬にはっきり見えたんだ。

ベッドに横たえられた翠星石の寝顔は、苦しげだったけど、まるで天使のようだったんだ。
僕は小さくさよならを言って、家を後にした。

やっぱりジュン君の事が好きさ。後悔はしてない。きっとね。


ある木曜の朝。ドアを開けた先に広がる、きらきら光るアスファルト。そんな景色。




朝起きた翠星石は、自分がベッドで寝ていることに気づいた。丁寧に布団までかけてあった。
と同時に、自分がベッドの上にいることに疑問を覚え、その理由を思い出した。

涙は、もう零れてこなかった。
制服に着替えて1階に降りると、お弁当と朝食が丁寧に用意されていた。
そこには置手紙も何もなかった。
一人、広すぎるテーブルについて食べる朝食はひどく乾いていた。

「おはよう、翠星石。いつもより大分遅いな。あれ?蒼星石は…昨日のコトか。」
「…」
「お前、謝っておいてくれないか?その…顔合わせづらいから」
「はい…ですぅ…。でも蒼星石は…今朝は早く出てったです…」
「ああ、そうか。そろそろ大会だしな。」


「お前、今日元気ないぞ?」
翠星石はいつものように腕を組もうともしなかった。
蒼星石がいないせいもあるのだろうが、口数も少ない。

それも当然である。
しかし、ジュンにとってそれは不安を誘う材料にしかならなかった。
チビとも叫ばず、いつもの元気はどこへやら。

「…か、風邪引いてるですぅ…」
「そうか。大事にしろよ。」
そういって、ジュンは翠星石の腰に手を回した。
「な、な、何するですか?」
「何って、この方があったかいだろ?気遣ったつもりだったけど、嫌ならいいぞ…?」
「そ、そんなこと言ってないのです!…もっと…ギュってするです…」
(…やっぱり、翠星石はジュンが大好きなのです…でも…)

ふと、ジュンが声を掛けた。
「じゃあ、また昼…って、今日は風邪引いてるのか。お前の教室まで行こうか?」
「…」
対する翠星石は無言である。

ジュンは、翠星石の顔の前で手をプラプラ振ってみた。冗談でよくそうするように。
それでも反応がない。翠星石の目は少し虚ろである。
「大丈夫か?」
「だ、だ、だ、大丈夫です!そ、それと、蒼星石は昼も練習が入ってるらしくて・・・!来れないと言ってたですぅ!」
「…そうか。じゃあ、昼な。」
(はぁ…蒼星石、来ないのか。って、僕は何を考えてるんだ…)

「昨日のコト」の原因そのものとも呼べるジュン。
彼は、本当に鈍感であった。自身の気持ちにも気づかないほどに。



昨日と朝練を終えて教室に入った僕は、真紅に呼び止められた。
「蒼星石?」
僕に用事かな?珍しいね。
別段仲が悪いわけでもない。むしろよく喋るほうかな。
でも、真紅もジュン君の事が好きなんだから複雑だね。
僕のように…酷いことを平気でできる人じゃない。いっそう複雑さ。

「おはよう。真紅。何?」
「翠星石の様子がおかしいのだわ。あの子は平気だと言っていたけれど…何かあったのなら教えてほしいのだわ。」
「さぁ。朝は普通だったと思うよ。」
僕の心の内を見透かすような、碧い、大きい、とても美しい眼。
話してると襤褸が出そうだ。それが怖い。

「あなた、今朝は翠星石と一緒じゃなかったのよね?」
「あ、ああ、うん。」
そして突然、真紅はこんなことを言った。
「あの子があんなに元気を無くすなんて、大分前にあなたと喧嘩したときくらいのものよ。何も知らないとは言わせないのだわ。」

僕は思わず苦笑を漏らした。やっぱり真紅にはかなわない。
「ああ、今回は喧嘩じゃないけどね。原因も僕にあるんだ。」
そして一部始終を語った。

僕もジュン君が好きなこと。
翠星石に酷な選択を迫ったこと。
そして、彼女と決別したこと。

真紅は怒りもせず、真剣に僕の話を聞いていた。
「ええ。一言二言、言わせて貰っていいかしら?」
「ああ、うん。ジュン君を諦めろって言うんなら…聞き入れられないけどね。」
「ええ。ジュンを諦めろとは言わない。あなたのことだから、相当悩んで決めたのでしょう?でも…らしくないのだわ。」
「何が?」
本当に、何がだろう。
「あの子を、翠星石を傷つけるなんて、あなたらしくないと言っているのだわ。」
ああ、たった今、僕は少し真紅に憤慨してる。
でも、今は冷静に受け答えが出来る。昨日とは違ってね。
「僕は…僕のままさ。僕が僕らしいかどうかなんて…君にわかるのかい?」
「ええ。わからないかもしれないわね。そう思っただけよ。」
でも、と真紅は続けた。

「あなた、今、幸せ?」
少し考えたさ。どうなんだろうね。
あんなにも好きだった、僕の半身とも呼べた翠星石はもう僕の傍にいない。
ジュン君だってまだ手に入れていない。
でも…!
「ああ。近いうちに必ず、ね。」



蒼星石の言うこともわかるのだわ。

ええ。私だってジュンが好き。
でも、私が好きなジュンは、楽しそうな―翠星石や蒼星石といるときのような―ジュンなのだわ。
だから、私は遠くから見ているだけで幸せ。
…たまに、本当にたまに、胸が痛むことはあるけれど。

それにしても、蒼星石、あの子らしくないのだわ。
でも…あの子があんなに真剣になっているだなんて。翠星石を傷つけてまで…。

事があるべき姿になる時。
皆何か、かけがえのないものを手にしているはずなのだわ。
そう、きっと私も。
―そろそろ授業が始まるのだわ―




放課後、翠星石は、一人家路についていた。
昼はジュンにずっと心配されていたし、あの真紅の気遣いさえ受けた。
園芸部の活動にも身が入らず、後輩から心配されて早めに帰っているのである。

「はぁ…蒼星石…」
帰りは一人だった。
これは確かにいつものことである。
しかし、今回こそは蒼星石と元通りに戻れないかもしれないという不安があった。
「戻ってくるですよ…蒼星石…」

家に着いて、鍵を開ける。
パチリパチリと電気をつけ、ソファーにぐったりと横たわる。
そこにふわりと感じられたのは、蒼星石の残り香。
それは、今の翠星石にはあまりにも心地良過ぎるものだった。

目覚めた翠星石は、ふと時計を見た。帰ってから2時間以上は経っている。
「蒼星石…」
蒼星石は、やはり戻っていなかった。
心の片隅でわずかな可能性を期待していた翠星石は、酷く打ちのめされた。

翠星石も年頃の女性だ。こんな時間まで着替えずにいる事は珍しい。
シャワーを浴びようと思い立ち、浴室に入る。

やたらと重い制服を脱ぐときも。
思いのほか冷たかった、出始めのシャワーを腕に感じるときも。
長く、豊かな髪を乾かすときも。
夕飯にレトルト食品を温めているときも。

思い出されたのは蒼星石のことだった。

やはり、蒼星石の事が心配だった。
柴崎家の電話番号を見つけ、受話器を手に取る。
その受話器は青かった。蒼星石の好きな色だった。
「今日は…もう寝るです…」
受話器をもとに戻す気力さえなかった翠星石は、足取り重く自分の部屋へ向かった。




「急にごめんなさい」
「いいや、構わないよ。翠ちゃんと喧嘩でもしたのかい?ははは。」
「…はい。そんなところです…。」
僕は今、柴崎さん夫妻の家にいる。
二人はもうずっと前に息子さんをを亡くしている。
そんな事情があってか、二人とも僕をとても可愛がってくれる。
「蒼星石が泊まりに来るなんて、何年ぶりかな。」
「3年くらい前ですか?」

そう、それくらい前。
僕らが些細なことで喧嘩したときだった。
あの時は、次の日の朝早くに翠星石が謝りに来てくれたんだ。
朝は苦手なはずなのに。欠伸を押し殺しながら寝ぼけ眼で謝る翠星石を見て、僕も笑うしかなかった。
でも、かけがえのない、姉の優しさを身をもって知ったときだったんだ。

僕は、制服の替えなんかを含めて自分が必要なものは全部持ってきた。
あんなことがあったあとで家に戻るなんて、ごめんだからね。
「また翠ちゃん、謝りに来るのかな?」
「いえ、今回悪いのは僕なんです。でも、こればっかりは譲れないというか。」
「そうかい、そうかい。」
ニッコリ微笑んで、そういうお祖父さん。
別段することもない。
料理も、お茶を淹れるのもお祖母さんがやってくれたからね。
お風呂からあがったら、布団まで敷いてあったくらいだ。
「おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。明日の朝は早いのかい?」
「はい。朝練があるんです。土曜日は大会なので。」
「ほぉ。その前に翠ちゃんと仲直りするんだぞ。」
「はい」
でも、そうは行かないんだよ。

―姉さん、大丈夫かな―
いけないな。こんなことをまだ考えているなんて。
今日は、すごく疲れた。

ふと、翠星石と過ごしてきた十数年間の出来事が思い出された。

近所の子が僕の目のことをからかったとき、いつも彼らを追い返してくれて。
華奢な腕で抱きしめてくれて。
夏休み最後の日、宿題が終わらなくて泣きついてきた。
中学の入学式、僕を指差して騒ぐ人たちに食ってかかって。
放課後、パフェを一緒に食べに行ったこともあった。
ホラー映画は苦手だったっけ。騙して見せたときは、本当に拗ねちゃったんだ。

誰よりも優しいのに、素直じゃなくて。でも、いつも僕の手を引いてくれた。
でも、そんな存在を。いや、そんな存在だからこそ。
僕は断ち切るしかなかったんだ。

そしていつの間にか。本当にいつの間にか。
僕は眠りに落ちていた。
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