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 見あげると満天の星がある。明るい夜である。吐く息の白さが、はっきりと見える
のがおもしろくて、蒼星石は呼吸を早めた。
 冬の空・高所の邸・雪が少し積もっている庭――。……
 蒼星石は外套も着ずに、テラスの端でただ漫然とつっ立っていた。が、これは長
続きしなかった。いとこめいの由奈がやって来て、蒼星石の手を曳いて屋内へ連
れもどしたからである。
 由奈は目付を怠った女給仕を厳しく叱ってから、蒼星石にも、
「あなたは体質が弱いのだから、外に出ては駄目よ」
 と言い、またたくまで冷たくなってしまった蒼星石の両手に、自分の両手をかぶ
せた。いとこめいといっても、由奈は蒼星石より一回り年上の高校生で、学校と近
いからという理由で大伯父の家に居候していた。
 その大伯父・結菱一葉に蒼星石が養女としてひきとられた時には、由奈はもうこ
の邸にいて、幼い蒼星石を出迎えてくれたのである。昨年のことだった。
 蒼星石には、今自分の冷えた手に熱をかよわせてくる由奈の手が、立派な大人
の女性の手に感じられた。
 蒼星石にとって、この由奈という女性は、とにかく〝ひとのかたち〟のうつくしさ
を集約したようなひとで、目も眉も睫も、それから額も髪も鼻も耳も口も、さがって
今蒼星石に触れている白い・細い・肉つきの良い指も、また発せられる声や言葉
に至るまで、全部がうつくしかった。
 ――まるで夢のようなひとだ。
 と、蒼星石は心を赤く弾ませることがしばしばある。触れられている時・話しかけ
られている時に、この腹の底からむくむくと湧きおこって頭のてっぺんまで上って
ゆく熱を、蒼星石は一度も処理しきれたことがない。されるがまま、蒼星石は熱に
うかされた。
「まあ、たいへん。顔が真っ赤だわ」
 こうして、いつも、勘違いした由奈に抱きあげられ、蒼星石は部屋のベッドまで
はこばれる。心を乱されただけで、体調をくずしたわけでないが、由奈にかぎらず、
この邸の人間は蒼星石の体の変調には過敏だった。当の蒼星石が、自分の体質
につゆ頓着しないものだから、周りが代わって神経を逆立てなければゆけなかっ
た。
 結果的に、由奈のそれは取り越し苦労にならなかった。
 熱にうかされたのは由奈に触られたせいだけではなく、翌日になると蒼星石は
風邪をこじらせた。
「馬鹿ね、言わないことでないわ」
 由奈はベッドの中から蒼星石の手をつかみ出し、甲を叩いた。倦怠ににぶる感
覚をするどい痛みがはしり、蒼星石は泣きだした。泣かれるほどつよく叩いたつも
りのなかった由奈は、おどろき、あわてて蒼星石の手の甲をなでたが、そうしてい
る由奈の手は、前夜とは全く違ってとても冷たく、蒼星石はその冷たさに怯え、ま
すます泣いた。
 困った由奈は、蒼星石の髪や額や頬をなでたり、また手をすっぽり覆いつくして
なでてやったりした。そのうちに由奈の手から冷たさが消え、いつものような温か
さが蒼星石にかよってきた。蒼星石はそれで安心できて泣きやんだが、手はもの
足らなさを感じていた。発熱した体は、もっと冷え冷えとした感触をのぞんでいた
のである。
 蒼星石は由奈に水をねだった。水がはこばれてくると、由奈が上体を起こすの
を手伝ってくれた。
 コップは冷たかったが、喉をとおっていった水は、コップほど冷たくなかった。
「ぬるい」
 と、蒼星石が不服そうに言うと、由奈は、
「お腹をいためたら、どうするの」
 と、うけつけない声で言った。
「いためないよ」
 と言う蒼星石を無視して、由奈は腰をあげて部屋を出ようとした。あっ、と蒼星石
は小さくうめいた。由奈に出てゆかれたくなかった。
「がっこうは、午後からって、……」
 と、昨日の由奈と女中との会話を耳ざとく聞いていた蒼星石が、すがるように言
った。
「だから、もう出なくちゃ」
 と、由奈は時計を指さして言った。時計を見た蒼星石は、うなだれ、ふてくされた
ように布団をかぶって寝た。いつのまにそんな時間になっていたのか。蒼星石は
起きてから今まで、一度も時計を見ていなかった。そのため、自分がいつもより遅
く起きたのに気づけなかった。
「あとは佐原さんに任せてあるから、なにかあったら彼女に言いなさい」
 早めに帰ってくるようにする、と気づかう声をかけて、由奈は蒼星石の顔をのぞ
きこんだ。蒼星石は布団から少し顔を出して、由奈を睨んだ。蒼星石が、その選
抜にはなはだ不満であることは、明らかだった。
「あのひとは、声が高いからいやだ」
 と、蒼星石は言った。高い声は頭に響く。ふだんでも耳障りなのに、風邪をひい
ている時に、あの声を聞くのは耐えがたい。
「じゃあ、石井さん」
 と、由奈が別の女中の名をあげると、
「あのひとは、やぶにらみだからいやだ」
 と、蒼星石は言った。むかいあっていても、自分をきちんと見てもらえているとい
う気がしない。
「じゃあ、染谷さん」
「あのひとは、大きい。ぼくのことを見くだしている」
「じゃあ――」
「もういいよ」
 と、蒼星石は言い、再び布団の中に顔をかくした。
 由奈はため息を吐いて、早めに帰ってくるから、と同じことを言って退室していっ
た。
 蒼星石は、もう全く眠ってしまおうと思った。眠ってしまえば時間は知らず経過し、
由奈はすぐに帰ってくるだろうと思ったのである。
 しかし蒼星石は、全く眠れなかった。目は冴え冴えに覚めていた。腹も頭も重か
ったが、瞼は全然重くならなかった。
 やがて蒼星石は寝ていることに倦み、体を起こしてベッドから降りた。ベッド脇の
台に水差しとコップが置かれている。季節のせいなのか、先ほどよりも水が冷え
ているような気がした。最後の嚥下の音が大きく部屋に響き、蒼星石はおどろい
て肩をふるわせた。
 蒼星石はコップを置いて、壁にかけられているカーディガンを羽織ると、養父に
会うため、部屋を出た。足どりはふらふらとして危なげだったが、蒼星石自身は、
もっとしっかりと姿勢を正して歩いているつもりでいた。
 部屋の外には、誰もいなかった。いつもは一人か二人給仕がひかえているのだ
が、この日は蒼星石が寝こんでいるというのに、誰もいなかった。これは由奈の指
図だろうと思われた。蒼星石が、誰も彼もいやだと言ったから、由奈は部屋の外
に誰も彼もひかえさせなかったのだろう。
 蒼星石は心細くなった。邸からすっかり人がいなくなってしまったのでないかとい
う不安が、彼女の心におもしを付けて垂れさがって来た。
 じっさいはそんなことが起こるはずないのだが、蒼星石はけっきょく邸内に人を
さがすのでなく、部屋にもどった。ベッドにもぐって身を固めた蒼星石は、そうして
外部のいかなる情報も知るまいと心がけた。
 そしてまた蒼星石は、自分はもう全く眠ってしまうべきなのだと、つよく思った。起
きていれば、きっとずっとこうした不安を意識の中に棲まわせていなければならな
くなる。
 一度眠ってしまえば、次に起きる時には、由奈がそばにいるはずだった。あるい
は彼女が、蒼星石を起こしてくれるかもしれなかった。由奈の帰宅を待つという作
業は、たいへんにつらいことで、怖ろしいことでもあったが、眠っているうちは、い
っさいの作業や辛苦は発生しないはずだった。
 ――眠れ、眠れ。
 と、蒼星石は心の中で自分に言い聞かせた。するとふしぎなことに、蒼星石はほ
んとうに眠ってしまった。今まで全然重くなかった瞼も重くなり、代わりに頭や腹が、
妙にすっきりとした・軽やかな感じになった。蒼星石はゆっくりと眠っていった。
 ……蒼星石は目を覚ました。
 眠る直前に消えていた頭や腹の重さが、起きた瞬間に復活したようだった。とに
かく、目覚めがわるく、気持ちもわるかった。ただし、眠る前よりいくらかマシになっ
ているようにも思えた。
「ああ、起きたのか」
 という、老いた男の声を聞いた時ほど、蒼星石が驚いたことはなかった。声の主
は間違いようもなく父であり、どういうわけか、彼が今蒼星石の部屋にいるものら
しかった。いや、どういうわけか、と言うのはおかしい。娘が風邪をこじらせたのだ
から、見舞いに来たのに決まっている。それにしても、――どうして、という蒼星石
の疑問が消えるわけでもなかった。
 数年前からめっきり足腰の衰えはじめた一葉は、今では車椅子の世話になって
いる。起きあがった蒼星石が最初に見たのは、そのくるまだった。
「寝ていなさい」
 と、一葉に言われたので、蒼星石は起こしかけの体をまた寝かせた。
「たのまれた」蒼星石が問うより先に、一葉が答えた。「由奈に」
 一葉は睨むような目を蒼星石にむけたが、一葉はなにも、怒っているわけでは
なかった。彼はいつも気むずかしげに顰眉をつくり、言葉を投擲するような喋り方
をする。たんにそういう癖なのである。
「由奈から、見ていろと言われたので、見ていた」
 一葉は、ほんとうに見ていただけで、ほかにはなにもしなかった。
「ずっと?」
「二度、用足しに出た」
 一葉は指を二本立てた。
「調子はどうか」
 と、一葉に訊かれ、蒼星石はゆるゆると首を振った。体調はすこぶるよろしくな
い。
「腹はすいていないか」
 蒼星石はすぐに返答できなかった。腹具合はよくわからない。すいているようで
あり、すいていないようでもあった。とりあえず昼は食事をとっていない。首をひね
って時計を見ようとしたが、見えず、一葉に時刻を教えてもらって確認すると、
「夜まで待ちます」
 と、蒼星石は言った。
「夜は食べられそうか。では、それまでもう少し眠っていなさい」
 と、一葉は言い、蒼星石の額に手をかぶせた。
 蒼星石は二、三度目をしばたかせたあと、再び眠りの中に落ちついた。一葉は
蒼星石の寝顔を見おろしながら、時々前髪を梳いてやった。
 まもなく由奈が帰って来た。制服姿で蒼星石の部屋にあらわれた由奈は、
「あら、蒼星石は眠っているのね」
 と、さも意外そうに言った。
 一葉はゆらりと首を回し、蒼星石を見ていた目を由奈にむけたが、すぐにもどし
た。蒼星石を見おろしたまま、
「一度起きた。が、すぐに眠った」
「そう」
 由奈はベッドの横に鞄を置き、一葉の車椅子のグリップに手をかけ、前かがみ
に蒼星石の様子を見た。
「朝のことだがな」一葉が由奈に言う。「どういう女中なら、世話を任せられる。そ
れとも、女より男のほうがいいか」
 一葉は相変わらず怒っているような表情で、気むずかしげに言った。由奈はしば
らく一葉がなんの話をしているのかわからなかったが、やがてにこりと笑い、
「ああ、あんなの気にしなくてもいいんですよ。風邪をひいて、ちょっとわがままに
なっただけですから。治ったら、謝って回るんじゃないですか、この子」
 と言った。
「そうか」
 一葉は呟くと、頬に手を当て、顎まですべらせた。横顔から、顰められていた眉
が少しひらかれたような気がした由奈は、
「大伯父さま、今とても不謹慎なことをお考えね」
 と言って、今度はからかうように笑った。
「いや。……」
 一葉は口もとにあいまいさのある言い方をした。否定しきれないところに一葉の
本心半ばがあるのだろう。
 蒼星石が次に目を覚ました時には、もう邸の人間は皆、夕食を済ましたあとだっ
た。そばに一葉も由奈もおらず、蒼星石はベッドにもぐったまま、枕もとまで移動さ
せていた鈴を鳴らして、ひとを呼んだ。由奈が部屋に入って来た。
「起きたのね。熱はどうかしら」
 由奈は蒼星石の額に手を当てた。体温計ではからなければ正確なことはわから
ないが、由奈の手は、さがっているように感じなかった。額に当っている由奈の手
は、冷たくもなければ熱くもなく、しいていえば生ぬるいもので、蒼星石は泣きだし
たりはしなかった。
「お腹すいた?」
 と、由奈は言った。蒼星石はうなずいた。由奈はいったん部屋を出、蒼星石の夕
食を持ってもどってきた
 食後、薬を飲み、ベッドに入ろうとしたところで、蒼星石は、窓の外で降っている
雪を見つけ、
「ねえ、雪が降っているよ」
 と、窓を指さして言った。由奈が蒼星石の指を追ってその先を見ると、なるほど
外では雪が降っている。
「雪の予報なんてなかったのに、どうりで冷えることね」
 由奈は蒼星石の肩をつかんで、ベッドの中に押し込んだ。風邪が悪化しては堪
らない。
「雪が見たい」
 と、蒼星石はくりかえし言ったが、由奈は「駄目」の一点張りでそれをゆるさず、
蒼星石の希望はついに聞きいれられなかった。蒼星石はせめて雪が降っている
かどうかだけでも知ろうと思い、
「雪はどうなったの」
 と、しきりに訊いた。由奈はそのたびに背をそらして、
「まだ降っているわ」
 と、蒼星石に外の様子を伝えた。
 そんなやりとりを都合六度ほどやったあと、蒼星石は急に用足しにゆきたくなっ
た。
「トイレ」
 と、蒼星石は由奈に言った。由奈は蒼星石の手をとって、抱き起こした。蒼星石
がそのまま由奈の服をつかんではなさなかったので、由奈は仕方なしに蒼星石を
胸に抱きあげてやった。
 片手でドアをあけるのに難儀したが、なんとか蒼星石を抱えたまま部屋から出
て、トイレへむかった。
 蒼星石は自分を抱いている由奈の顔を見あげた。蒼星石は、むしょうに庭へ出
たくなった。外でまだ雪が已んでいないのなら、ぜひ由奈と一緒に庭へ出て、雪を
見たいと思った。〝ひとのかたち〟のうつくしさを集約したようなこのいとこめいが、
雪を背景にする姿は、きっとさらにうつくしいに違いないと思われたのである。長
い睫に雪がかかるさま・白い息を吐くさま・赤らめられた頬のさま、それらを蒼星
石は想像した。
 その時蒼星石は、風邪で高熱をおこした自分の体が、倦怠でない、全く異なるも
のを伴いはじめたことに気づいた。



 おしまい。

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