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翌日の日曜日、蒼星石は、いつになく早い時間に起床した。正直、まだ眠い。
けれど、昨晩の事を思うと胸が疼いて、とても二度寝する気にはなれなかった。

  『私はもう、蒼星石を1番には想えないのです』
  『何故なら、今の私にとって1番のヒトは――』

また、ズキズキと胸が痛み出す。嫌だ……。額に手を当てて、蒼星石は嘆息した。
なんだか、底なし沼に踏み込んでしまった気分だった。
足掻けば足掻くほど、ずぶずぶ深みに填っていく。
考えれば考えるほど、どんどん出口が見えなくなってしまう。
きっと、自力では、この悪循環から抜け出せないのだろう。
誰かに引っぱり出してもらわなければ…………ずぅっと、このまま。

洗面所で顔を洗っても、蒼星石の心は晴れない。
鏡に目を転じれば、そこには水滴をちりばめた暗い顔。
瞼を泣き腫らして、憔悴しきった惨めな表情に、姉の泣き顔が重なる。
鏡像の奥には、洗濯機と、洗濯カゴに積まれた二人分のパジャマ。
それを見るなり、昨夜の映像が脳裏で再生されて、蒼星石は顔を顰めた。
「傷つけるつもりなんか、なかったのに……」

この家に居ると、気が滅入る。際限なく、心が打ちひしがれてしまう。
早起きの祖父母と軽めの朝食を摂った蒼星石は、簡単に身支度を済ませると、
財布と携帯電話だけ持って、秋晴れの町に飛び出した。
首輪とリードで繋がれた犬が、それでも自由になろうと、躍起に狂奔するかのごとく――



  第九話 『もっと近くで君の横顔見ていたい』



ここ最近、いよいよ秋も深まり、朝夕はぐっと冷え込むようになった。
固さを増した早朝の風が、蒼星石の頬を撫で、栗色の髪を、ふわりと掻きあげていく。
ちょっと肌に刺さって痛いけれど、しっかり目を覚ますには、心地よい感触。
見上げた秋晴れの蒼穹は、どこまでも高く澄み渡って、とても清々しい。
深く息を吸い込むと、空が全身に浸透してくる気がして、不思議な一体感を覚えた。

それはきっと、空と蒼星石が今という時間を一緒に過ごし、世界を共有しているから。


「ボクも、姉さんと――」

風を肌で感じるように、ごく自然に寄り添って、同じ時間を生きていたい。
呼吸するように、ごく自然に温もりを持ち寄って、二人だけの世界を生みだしたい。
誰よりも大切なヒトだからこそ、どんな事でも、どんな物でも、余す所なく共有したかった。
お互いの心までも、例外なく。

蒼星石が望む二人の関係は、それだけ。
彼女がそうであるように、姉の中で『蒼星石が1番』であってくれさえすれば、
それで満足できた。揺るぎない安心を得られる筈だった。

それなのに、翠星石は解ってくれなかった。
いや……解っていながら、願いを聞き入れてくれなかった。
蒼星石が最も聞かせて欲しかった言葉など、容易に察しが付いただろうに。

「例え、その場限りのウソでも…………ボクは構わなかったのに」

冬の気配を漂わせる風に首筋を撫でられ、蒼星石は小さく身震いした。


一応、ジーンズにブラウス、セーターも着込んできたのだが、
この季節にしては、ちょっと薄着しすぎたらしい。
ロングコートは必要ないにしても、マフラーくらいは持って出るべきだった。

胸を締め付ける孤独感も、体感温度を引き下げている原因かも知れない。
ゾクゾクと悪寒に苛まれて、蒼星石は鳥肌の立った腕を抱き寄せ、背を丸めた。
このままでは、風邪をひいてしまいそう。
そうは思うものの、マフラーを取りに戻ろうとは思わなかった。

「自販機で、あったかい飲み物でも買おう」

ブラウスの襟を立てながら、まだ開いていない商店を目指して、小走りに近付く。
木枯らしに晒された数台の自販機は、まるで身を寄せ合い、寒さに耐えているスズメの様だ。
そんな風に、見るもの全てに物悲しさを感じるのは、やはり心境のせいだろうか。

「やだやだ……らしくないな、こんなの」

かぶりを振って、蒼星石は自販機で温かいミルクココアを買った。
ちょっとだけ両手の中で転がし、暖を取ってから、タブを起こす。
甘くて温かいココアを口に含むと、なんとなく気分が落ち着いて、吐息が漏れた。

ココアを飲みきるまで暫し、自販機の影で寒風を避けながら、
蒼星石は空を見上げて、これから何処に行こうか迷っていた。

「この時間から、駅前のファミレスに入り浸るのも……ちょっとね。
 たまには、マンガ喫茶でインターネットでもしてみようかな」

念のために確認した財布の中には、五百円にも満たない小銭が入っているだけだった。

昨日、水銀燈にお昼を奢った上に海まで行ったから、だいぶ出費が嵩んでいたのだ。
家に帰ったら、貯金箱から幾らか引き出しておこうと思っていたのに、
昨夜のゴタゴタもあって、すっかり忘れていたのである。

「……最悪。なにしてるんだろ、ホントにもぅ」

駅ビルのショッピングモールは、まだ開店していない。市民図書館も、同様。
他に行く当てもなかったが、それでも、蒼星石は家に帰りたくなかった。
翠星石も、そろそろ起き出す頃だ。
もし鉢合わせたら、きっと姉はツン! と顔を背けて、知らんぷりするだろう。
それとも、蒼星石など居ないという風情で、ひたすら無視を決め込むか。
いずれにしても、展開が読めるだけに、尚のこと意固地になってしまう。

「仕方ない。あと少し、どこかで時間を潰そう」
溜息をひとつ吐き、蒼星石は再び、寒風の中に身を晒した。




日曜日の朝で、しかも寒いとあっては、人の出が少ないのも当然の結果だろう。
そのお陰で、足元を見下ろし、取り留めもないことを考えながら歩いるにも拘わらず、
蒼星石は誰ともぶつからなかった。

彼女の足が止まったのは、爪先を掠めるように野良猫が横切った時だった。
ビックリして無様に肩を震わせ、一瞬にして粟立った肌が落ち着きを取り戻すと、
次は羞恥心が頭を擡げてくる。
今の醜態を、誰かに見られただろうか?
立ち止まって、辺りを見回した蒼星石は、そこで初めて、神社の前に居ることに気付いた。


子供の頃には遊び場のひとつとして、毎日のように訪れていたこの場所も、
今では夏と秋に催される祭りや、初詣くらいしか来ることがない。
毎日、ここに足を運ぶのは、近所のお年寄りくらいのものだろう。
ざわざわと杉の木立が騒ぐ境内に、人の気配は全く感じられなかった。

「こんな所で、ゆっくり自分を見つめなおすのも良いか」

蒼星石は鳥居をくぐり、石畳に敷き詰められた銀杏の枯れ葉を踏みしめ、社殿に向かった。
誰も居ない神社で、独り、今後の身の振り方を考えてみようと思ったのだ。
それに、社の陰に入れば木枯らしも防げる。


――だが、境内には、たった一人だけ先客が居た。
蒼星石の接近を知ると、その人物は首だけを巡らして、口元を綻ばせた。

「あら……おはよう、蒼星石さん。日曜日なのに早いわね」
「柏葉さんこそ、休日の朝早くから練習してるだなんて、知らなかったよ」

この肌寒い中で、道着姿の巴は、額や首筋に汗を浮かべている。
彼女は正眼に構えていた木刀を降ろすと、石灯籠の下に置かれたバッグからタオルを抜き取り、
顔と首筋を拭った。頭の揺れに合わせて、美しい黒髪が、さらさらと流れる。
汗で肌にまとわりついた髪を指先で払い除け、タオルを首に掛けたまま、
巴は500ml容量のポットを引っぱり出した。

「散歩の途中だったの?」

蒼星石に訊ねながら、彼女はポットの蓋に、湯気の立つ褐色の液体を流し込んでいく。
寒々とした風に乗って、コーヒーのいい香りが、蒼星石の鼻先に漂ってきた。
「飲む?」と、差し出された蓋を、蒼星石は受け取って口元に運んだ。

「……はぁ、美味しいね。ちょっと熱いけど、すごく温まるよ」
「でしょう? でも、良かった。蒼星石さんがコーヒー嫌いじゃなくて」

飲み終えて、蒼星石は「ごちそうさま」と、蓋を手渡した。
巴はそれを受け取ると、再びコーヒーを注いで、至って自然に口を付ける。

(え? ちょっ、それって……)

すぐに間接キスだなんて言葉が浮かぶのは、意識しすぎなのだろうか。
煩悶する蒼星石に目を向けて、巴は不思議そうに首を傾げた。「もう一杯、欲しい?」

「え、と……あの」
「……ふふっ。遠慮しなくていいのよ。はい、どうぞ」

にこやかに差し出されると、どうにも断り辛い。
蒼星石は巴に見守られながら、コーヒーを満たした蓋に、指を添えた。
何故か、胸がドキドキして落ち着かない。身体がウズウズして、妙な気分。
神式の婚儀でもあるまいに、杯を交わしたくらいで、何を動揺しているのか。
深く息を吸って、カタチだけ気持ちを鎮めてから、コーヒーを飲み干す。
そして、蓋を返しながら、蒼星石は冷静を装って話しかけた。

「ありがと。柏葉さんは、まだ練習していくの?」
「ええ。もう少しだけね」
「そう……あのさ、もし良ければだけど……練習を見せてもらってもいい?」
「もちろん構わないけど。でも、どうして?」

なんとなくだけど……今はね、もっと近くで、君の横顔を見ていたいんだ。
姉の言葉で穿たれた心の空隙を、何かで埋めてしまいたくて――
言葉にできない想いを、そっと胸の内で呟く蒼星石だった。



  第九話 おわり





三行で【次回予定】

 失望と落胆を払拭するべく、少女は新たな絆と触れ合う。
 そして、戸惑いながらも、新たな世界に自分の居場所を見出そうとしていた。
 複雑な表情で、重い息を吐くもう一人の娘のことなど、顧みもしないで。

次回 第十話 『こんなにそばに居るのに』
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