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深淵……とは、こんな場所のことを指すのだろうか。
何もない、茫漠たる世界。天地方角の区別すら、ここでは無意味かも知れない。
唯一、想像と違っていたのは――この世界が漆黒の闇ではなく、純白だったこと。
まるで、ヨーグルトの中を漂っている気分だった。
何かをしなければと思う傍ら、何もしなくていいよと、怠惰な心が囁く。

(そうだね……どうせ、何もない……誰も居ないんだから)

言って、瞼を閉ざした蒼星石の額に、誰かの手が触れた。
不意打ちに驚き、見開いた眼差しの先には、翠星石の穏やかな笑顔があった。
いつの間にか、姉の膝枕で微睡んでいたというのか。
蒼星石は、自分の髪を撫でる彼女の温かい手を、両手で握り締めた。

「……姉さん。ボク達、ずっと一緒に居られるよね?」

その問いに、翠星石は悲しげに目を伏せ、妹の手を振り払った。

「それは……出来ねぇです。だって、私は――――
 愛する人と、結婚するですから。蒼星石とは、もう……アバヨですぅ」



  第二話 『眠れない夜を抱いて』



ひうっ! と息を呑んで、蒼星石は身体を撥ね起こした。
目の前は、真っ白ではなく、真っ暗。
月明かりだけが、レースのカーテンを透き抜けて、部屋の中を照らしている。


「……ひどい夢」

額に手を当てる蒼星石の唇から、溜息と共に吐き出される、呟き。
心身共に憔悴しきった感じの、重苦しい吐息だった。

なんとなく、すぐに寝直すのは躊躇われた。
また、同じ夢を見てしまうのではないかと思うと、横になる気が失せる。
蒼星石はベッドの上で膝を抱えて、背中を丸めた。
多量の寝汗を吸って、びっしょりと湿ったパジャマが肌に触れて、冷たい。
程なく、ぶるっ……と、身震いした。

このままだと、風邪を引いてしまいそうだし、気持ち悪くて眠れない。
どうせ着替えるのであれば、シャワーを浴びてサッパリしようと思って、
蒼星石は枕元の時計を手にした。

「まだ、三時前か……いくらなんでも、起きるには早すぎるよね」

こんな時間にシャワーなんて使ったら、二階で眠る翠星石はともかく、
階下で休む祖父母を起こしてしまうかも……。
だが、悶々としていても埒があかないので、蒼星石は着替えを持って部屋を出た。



ぬるめの湯で汗を洗い流し、髪を洗うと、だいぶ気持ちが落ち着いた。
マイナスイオン効果というのも、ある程度は影響しているのだろうか。
さっきまで頭の中に靄がかかっていたのに、今はスッキリしている。

(寝直すために浴びたのに、目が冴えちゃったら逆効果だね)

バスタオルで身体を拭きながら、くすっと鼻先で笑う。
深夜の静寂の中では、そんな含み笑いすらも、大きく聞こえた。
湯冷めしない内に、手早く下着とパジャマを纏うと、
蒼星石は洗面所の鏡に向かい、濡れた髪に櫛を入れた。
ドライヤーは、うるさくしてしまうから使わない。


――すると、鏡を覗き込んでいた彼女は、ふと、あることに気付いた。
生乾きの、しなだれた髪を撫でつけた自分が、どことなく柏葉巴に似ている――と。
無論、髪の色は違うし、瞳の色だって全く違う。
けれど、全体的な印象が、彼女と重なって見えるのだ。

(柏葉さん……か。どういう人なんだろう)

髪を梳く手を止めて、蒼星石は、鏡の中の自分を見つめた。
以前なら、そこには姉、翠星石の面影がチラついたものだが……
今は、柏葉巴の姿が見え隠れしている。
悪戯心から微笑んでみると、巴に笑いかけられた気がして、胸の高鳴りを覚えた。

「もう少しイメージチェンジしたら、ボクも彼女みたいに――」

女の子らしく見えるのだろうか。
そうしたら、もっと親しい人が増えるのだろうか。
もし、大好きな姉が自分の前から姿を消してしまっても……
ずっと一緒にいてくれる素敵な人と、巡り会えるのだろうか?


そうであって欲しい、と思う。
だけど、そう簡単に自分を変えられないことも、承知していた。
誰かに背中を押されたり、腕を引っ張られなければ、何も決断できない臆病な子。
いつからだろう、そんな自分が当たり前になってしまったのは。

(彼女と仲良くなれたら、こんなボクでも……変われるかも知れない)

今日、学校に行ったら話しかけてみよう。
そんな至極単純な答えでさえ、昨日から考え続けて、やっと導き出したものだ。


「さぁーてと。そろそろ寝なきゃ、明日の朝が辛くなるね」

気を取り直して、浴室の引き戸を開けた蒼星石は、次の瞬間、心停止しそうなほど驚いた。
扉の向こう側に、翠星石が立っていたのだから。
彼女もまた、驚愕に目を見開き、咄嗟に上げた両の拳を、胸元で握っていた。

「ど、どうしたの……こんな夜更けに」
「そ……蒼星石こそ、なんで、こんな時間にシャワー浴びてたです?」
「ちょっと、寝汗かいちゃってさ。気持ち悪かったから」
「私は、喉が渇いて目が覚めたから、お茶を飲みに降りてきたですよ」

そんな他愛ない会話でさえ、なんだか久しぶりに思える。
昨日の夕方、体育館の前で話したけれど、あの時には心が擦れ違っていた。
でも、今は違う。緋と緋、翠と翠、それぞれの瞳が、真っ直ぐに結びついている。
しっかりと、心が通い合っている……そんな気がした。

ほんの数秒、見つめ合っていた二人は、鏡写しのように微笑みを交わした。

「それじゃ、私はもう寝るです。湯冷めに気を付けるですよ、蒼星石」
「うん……ありがと。お休み、姉さん」
「おやすみなさいですぅ」

ひらひらと手を振って、翠星石は背を向け、階段に向かって暗い廊下を歩いていく。
その様子を眺めている内に、蒼星石は、なんだか置き去りにされるような、
どうしようもなく不安な気持ちになった。胸が、きゅっ……と苦しくなる。
待って! ボクを置いていかないで!

こみ上げる衝動のままに、歩に合わせて揺れる姉の長い髪に駆け寄り、しっかりと抱きついた。

「そ、蒼星石?」
「ちょっとだけ、こうさせて……」

触れ合った身体に感じる、翠星石の温もり。
とくん、とくん、とくん……。
蒼星石の掌に、姉の鼓動が伝わってくる。そのリズムを感じているだけで、気持ちが安らいでいく。
多分、蒼星石のソレも、翠星石の背中に伝わっていることだろう。

「どうしたですか、蒼星石。怖い夢でも見たです?」
「……うん。姉さんが、遠くに行っちゃう夢」

知らず知らずの内に、蒼星石は抱きしめる腕に、力を込めていた。
けれど、翠星石は文句ひとつ言うでもなく、妹の手に、自分の手を重ねた。

「お願い。ボクを独りにしないで」
「……甘えんぼですね、蒼星石は。私は、いつだって側に居るです」
「ホント? じゃあ、明日は一緒に登校してくれる?」
「いいですよ。蒼星石が願うなら、眠るまで見守っててやるですぅ」
「ありがと……姉さん。でも、大丈夫。独りでも眠れるよ」

『側に居る』その言葉を聞けただけで、蒼星石は満足だった。幸せすぎて、身体が震えてしまうほどに。
だから、姉を捕らえていた腕を解いて、ゆっくりと離れ――
もう一度「お休み」と囁き合っても、もう寂しさを感じなかった。


――しかし、自室に戻って、ベッドに潜り込んだものの、蒼星石は眠れなかった。
不安のためではなく、歓喜によって気持ちが昂ぶり、目が冴えてしまったからだ。
結局、朝が訪れるまで、彼女はベッドの中で火照る身体を持て余していた。



  第二話 おわり





三行で【次回予定】

 ――乙女は、自分の弱さを克服すべく、新たな一歩を踏み出す。
 その足が踏み締めるのは、幸せな未来へと続く道か。
 或いは――――奈落への入り口か。

次回 第三話 『運命のルーレット廻して』
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