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  『家政婦 募集中』


電柱に貼られた、そのチラシを見たのは、五月の半ば……
ゴールデンウィークが終わって、すぐのことだった。


「家政婦……か」

思わず口を衝いた独り言が、やたらと虚しく聞こえたのは、暗澹たる心境のせい。
それは、見聞きするもの全てに灰色のフィルターをかけて、色褪せさせる。
もう随分と長い間、原色の世界を見ていない。
私はいま、人生に迷っていた。


私の人生を動かす時計に、狂った歯車が組み込まれたのは、何時のことだったのだろう。
マイクロ、いや……ナノか、ピコか、フェムトか――
恐ろしく微細な誤差を持った部品が、元々あった部品と付け替えられ、
なに食わぬ顔で動き続けていたのだ。気付かない私を、嘲笑いながら……。

私はさながら、病原菌に感染した病人だった。
命を蝕まれていることを自覚できずに、光あふれる幸せな未来に向かっていた。
いや、向かっていると、思い込んでいた。
自分の足元から伸びる影が、危害を及ぼす病魔だなんて、考えもせずに。

中学、高校、大学――
ここまでは順調だった。なにもかもが順調すぎて、それが当たり前になっていた。


私の人生時計に変調が現れ始めたのは、大学2年の時だろうか。
本当は、それ以前から微かな予兆がでていたのだろうけれど、
私がハッキリと自覚できたのは、あれが最初だったと思う。

高校の時から交際していた笹塚くんとの破局。
なにがいけなかったのか、私には解らない。彼にも、解らなかったと思う。
ただ、今まで経験したことのない、不自然で大きな波が訪れたのは、確かだった。
世界の全てが、繋がれた二人の手を引き裂こうとするように周り、
私たちは洗濯機に放り込まれた衣類のように翻弄されて――手を放してしまった。
あとはもう、なにがなんだか解らず、野となれ山となれ。

幸せを詰め込んだ宝箱――
そう信じて、私が手にしていた物は、結局……ただの空き箱だった。
綺麗な印刷が目を惹くけれど、その実、中身はからっぽ。
幸せのカケラだと思って、躍起になって拾い集めてきたソレは、ガラクタでしかなかった。
プラチナ、ゴールド、エメラルド、サファイア、ルビー、オパール、アメジスト、ダイアモンド。
夢中になって磨いていた貴金属や宝石は、悉く、アルミや真鍮、ガラス片だった。

(あの時は、ホントに虚しかったなぁ)

それまでの価値観が、根底から覆されて、私の中から『希望』の文字が失われた。
地崩れに遭った木のように、ただ、谷へ奈落へと滑り落ちていくだけ。
誰も、なにも……私の支えには、ならなかった。


――そして、現在。
辛うじて大学を卒業した私は、今をときめくフリーターに成り果てている。
いわゆる、ワーキングプア。随分とまあ、堕ちてきたものだ。


働けど働けど、我が暮らし楽にならざり……
そう詠ったのは、武者小路実篤だっけ? いや、違う。石川啄木だった。
最近、どうも頭の回転まで鈍くなったように思う。
ひょっとして、若年性の痴呆だとか…………いや、まさかね。

鬱々と沈みがちな気分を紛らすように、努めて顔を上げる。
目の前には、相も変わらず、電柱と……家政婦募集の貼り紙があった。
先方が希望する勤務時間は、丁度、バイトの合間に当てはまっている。

「やって……みようかな」

最初は、そんな軽い気持ちだった。



携帯電話で連絡を入れ、履歴書を手に訪ねた家は、私のココロを激震させた。
そこは、高校一年生時代に同級生だった男の子の住まい。
ちょっとしたトラブルで、登校拒否と引きこもりを始めたんだっけ。
あれ以降、彼の顔を見た憶えがない。
葬儀が行われた記憶がないから、多分、まだ生きてはいるハズだけれど。

来ない方がよかったかな。少し、躊躇と後悔が、顔を覗かせる。
でも、電話でアポ取った手前、ドタキャンするのは失礼だ。

「あれから、もう何年も経ってるんだし……平気よ、きっと」

門の前で拳を握り、自分に言い聞かせる私を、周囲の人はどんな目で見たのだろう。
ヘンな女。きっと、そうだわ。だって、自分でも、そう思うもの。



私を出迎えてくれたのは、とても人の好さそうな女性だった。
緩くウェーブのかかった髪と、まん丸で大きなメガネの奥の、愛嬌たっぷりの笑顔。
ずっと以前に、一度だけ会ったことがある。彼のお姉さんだ。
あれは……親友の巴に付き合って、プリントを届けに来た時だったかな。

「本当に、よく来てくれたわぁ。チラシを見て、来てくれたの?」

彼女――桜田のり(年齢不詳)さんは、そう言いながら、
ソファに座る私の前に、ティーカップを置いた。
私は「ええ、まあ」と、気の利かない挨拶しか出来なくて、自分がイヤになった。
昔はもっと、社交的に振る舞えたハズなのに。

「あ、あの……これ、履歴書です。お願いします」
「はぁい。じゃあ、お預かりしますねぇ」

私と向かい合わせで、のりさんは優雅な仕種で、ソファに腰を降ろした。
あまりに上品なものだから、つい、目を奪われてしまう。
だが、彼女の瞳が、手にした履歴書を走るにつれて、私の緊張も高まっていった。

「桑田……由奈さん」
「は、はひゃっ」

それほど突然のことでもなかったのに、私の返事は裏返り、彼女の笑いを誘った。

「そんなに、緊張しなくても良いのよぅ。さ、お茶でも飲んで、くつろいでね」

言って、のりさんは自分もティーカップに唇を付けた。
私に遠慮させないためだろう。彼女の細やかな配慮が、嬉しかった。



それから暫くの間、私たちはお互いを理解するため、暢気に語らい合った。
女の子同士で、歳の近さもあり、共通の話題は幾らでも見つけられる。
のりさんは気さくに接してくれるし、にこやかに私の話を聞いてくれるので、
ついつい、私も話を広げすぎてしまった。

「女子大生の就職が厳しいとは聞いていたけど、ホントそうですよ。
 才能とか、容貌とか、ほかの娘より傑出したものがないと、勝負にならないです」
「そうよねぇ。でも、由奈ちゃんくらい可愛かったら、どこか採用してくれそうだけど」
「お茶くみ係として? それとも、マスコットとして?」

自分でも、イヤな言い方をしたものだと思い、後悔した。
素直に『可愛い』と言ってくれたことを喜べばいいのに、憎まれ口を叩くなんて。
ひねくれた自分の性根を垣間見て、また、自分が嫌いになる。

「私は……そんなのイヤ。私は、会社や上司の人形じゃないもの。
 ちやほやされるのは若い内だけで、30過ぎればお局様よばわりでしょ。
 この世は所詮、見せかけばかりの平等で、実際は男尊女卑が罷り通っているのよ。
 だから、女は子供を産む機械だなんて、バカなこと言う輩でも議員になれるんだわ」
「あらあらぁ。居たわねぇ、そんな人が」
「あれが、外国の政治家を欺くため暗愚を装う策だったとしたら、
 私『貴方のためなら死ねます』って平伏しちゃいますよ、ホントに」

よほど日頃の鬱憤が堪っていたのか、一気に捲したてていた。
そして、急に気恥ずかしくなり、テーブルのティーカップに目を落とす。
私は、ここに面接を受けに来たのに……なにしてるんだろう。

口を噤んだ私に、のりさんは大人の余裕を湛えた笑みを見せて、言った。
「ジュン君に、会ってくれる?」


彼の名を耳にして、私の心臓が一拍、躍った。
桜田くんが登校拒否するようになった一因は、私にもあるからだ。
もちろん、私が仕向けたワケじゃあないけれど、やはり気後れしてしまう。

「巴ちゃんは今でも、よく来てくれるのよぅ」

その声で、私は顔を上げた。「巴が?」
「ええ」と、のりさんは頷いた。

「由奈ちゃんは、巴ちゃんと会ってないの? お友達でしょう」
「高校を卒業してから、あの子とは会ってないです。別の大学に進んだので。
 親友と言っても、疎遠になるときは、呆気ないものですね」

まるっきり他人事のように喋る自分に、驚かされる。
私は、こんなにも変わってしまったのかと思い知らされて、愕然とした。
ほんの数年のことなのに、今では、海の果て、空の彼方……いや、それ以上。
まるで、歴史の教科書を眺めて、過去に想いを馳せている気分だった。

でも、のりさんは……初めて会った頃と変わらぬ笑みで、私を諭す。

「その気になりさえすれば、距離は縮められるものよぅ。
 だって、みんな同じ時代を生きてるんだもの」

自明の理だ。それすら失念していた自分が滑稽で、私は噴き出していた。
と、そこへ――

みしり、みしり。
階段を踏む音が降りてきて、私たちは唇を閉ざした。


程なく、ひとりの青年が、私たちの居る応接間に顔を見せた。
高校一年の頃より、すらりと背が伸びて、顔つきは険しくなっている。
メガネを掛けていたけれど、間違いなく、桜田くんだった。
引きこもりだから、もっと、こう……お相撲さんみたいに太った姿を想像していた私は、
意外さのあまり、まじまじと彼を見つめてしまった。

「あ――」呻きともつかない声を漏らした彼の表情が、見る見るうちに強張り、青ざめていく。
なんで、お前がここにいるんだ? 彼の目が、そう問いかけてくる。

「ひ……久しぶりね、桜田くん。私――」

あまり刺激しないよう、穏やかに挨拶したつもりだったけれど、
彼は口元を押さえるなり、脱兎の如く走り出した。
のりさんは慣れているのか立ち上がらず、私に哀しげな目を向け、言った。
「ジュン君の様子を、見に行ってあげて。お願いよぅ」

何故かは解らないけれど、私は素直に頷き、彼の後を追いかけていた。


桜田くんは、トイレでひどく嘔吐していた。私は隣に膝をつき、彼の背を撫でさする。
彼は咳き込みながらも、徐々に、呼吸を落ち着けていった。

頃合いを見計らって「大丈夫?」と、声を掛けてみた。
本音を言うと、怖かった。彼に「うるさい!」と怒鳴られ、突き飛ばされるんじゃないかって。
でも、桜田くんは――寂しげで、弱々しく、疲れ切った眼差しを私に向けて、
「ありがとう」と、ただ一言だけ。
その時、私の中に、不思議な感情が芽生えた。
落ちぶれた者同士が、慰め合う相手を見付けて、縋りたかったのかも知れない。
それでも私は、こう思っていた。彼の側に、居てあげたい……と。




桜田家で、家政婦の仕事をするようになって、三日目のこと――
初めて、彼の方から声を掛けてくれた。

今までは、ずっと部屋に籠もりっきりか、たまに廊下で顔を合わせると、
吐き気をもよおしてトイレに駆け込んでいたのだ。
それからすると、だいぶ打ち解けてくれた証拠だろう。
なんとなく、野生動物に懐かれたような喜びを覚えて、私は彼に笑い掛けていた。

「どうしたの、桜田くん。お腹すいた?」
「……いや、その……いつも、ありがとな」

家事のことだろうか。それとも、彼が嘔吐する度に、介抱していることだろうか。
私は「気にしなくても良いのに」と、応じる。
これは仕事なのだし、半分は、私が好きでやっていることだ。
だから、彼に感謝される謂われはない。

「ねえ。ちょっと、お話しましょうか」

仕事の手を止めて、私が提案すると、桜田くんはコクリと頷いた。

「貴方は座ってて。お茶、煎れるね」

他人の家だけれど、今では勝手しったる我が家に等しい。
ちょっと厚かましいかなぁ、なんて後ろめたく思いながら、焙じ茶を煎れた。
私たちはソファに座って、向かい合う。けれど、彼は私を見ようとしない。
ばつが悪そうに、顔を背けたままだった。あの時から、ずっと。

「そう言えば、巴……よく来てるんですってね」

桜田くんとの共通の話題と言えば、高校の頃にまで遡らなければならない。
そうなると、どうしてもあの忌まわしい事件に言及せざるを得なくなるワケで……
結局、無難に友人関係の話となる。
巴の名を聞いて、彼の肩が、ぴくりと揺れた。

「柏葉は、このところ来てないんだ」
「知ってる。ここへ面接に来た日、久しぶりに彼女の家に電話してみたの。
 そうしたら、海外出張だって。新卒入社なのに、バリバリのキャリアウーマンよねぇ」
「そっか。凄いんだな、あいつ」
「ホントよね。それに引き替え、私なんて大卒だけど内定もらえず、しがないフリーター。
 所詮、学歴なんて空虚な肩書きなんだわ。惨めになっちゃう」
「それを言ったら、僕なんかニートだぞ。もっと惨めだ」

いかにも哀れっぽく吐き捨てて、桜田くんは肩を竦めた。
でも、背けられた横顔は、微かに笑っている。自嘲めいた冗談なのだろう。
知らず、私も彼と同じ仕種を真似していた。

「片や、学年のプリンセス。片や、ドレスのデザイナー。
 お互い、落ちぶれたも――あっ!?」

調子に乗って、うっかり禁句を口にしてしまった。
慌てて、両手で口を押さえた私に、彼はゆっくりと顔を向けた。

「そんなに気を遣わないで良いよ。僕なら、大丈夫だから」

確かに、吐き気は催さなかった。でも、ココロに負った傷が癒えたわけではない。
ふらりふらりと、階段に向かう彼の背中を見送りながら、
私は、ごめんなさい……と、囁くことしか出来なかった。




勤めだしてから、一週間が過ぎた。思いの外、馴染んでる自分に驚かされる。
フリーターの私にとっては、五月病などアフリカあたりの風土病に等しい。
無縁であるが故に気楽であり、また、ちょっとの劣等感を覚えるのも厳然たる事実。
どこかの会社に、正社員として雇用されていれば、今頃は、私も――
そんな、詮無いことを考えながら、今日も家事に勤しむ。
洗濯物を干しつつ見上げた皐月の空は、夏の気配を匂わせ、どこまでも高かった。

(意外に私、こういう生活の方が相応しかったりして)

人生を諦めたワケじゃない。
狂った時計に引きずられて、ずるずると堕ちていくつもりなんか、無い。
でも、家庭に安住の地を求めるのも、悪くないかと思えた。
もっとも、相手が居れば……の話だけれど。


洗濯、掃除を終えて、私はお昼の下準備でもしようと、冷蔵庫を開いた。
そして、いつもながら憂鬱な溜息を吐く。
ハッキリ言って、不健康。レトルト食品や、日持ちしそうな食べ物ばかりで、
生鮮食品が乏しいんだもの。
戸棚を開けても、缶詰やらパスタ、カップ麺が目立つ。

「仕方ないわね。いっちょ、買い物に行きますか」

私は支度を済ませて、階下から桜田くんの部屋に声を掛けた。
すると、いつもは呻くような声しか返ってこないのに、今日に限って彼が顔を見せた。
しかも、意外なことを口にしたから、二度ビックリ。

「僕も、一緒に行っていいか」


どういう風の吹き回しか。
いやいや、これは喜ぶべき変化かも知れない。
毎日、私と……忌まわしい過去と顔を突き合わせている内に、彼の中で、
気持ちの整理がつき始めているのだとしたら、大きな前進だ。

「平気なの?」
「解らない。だけど……独りじゃ絶対にムリだから」
「……うん。一緒にお出かけしよ」

目深に野球帽をかぶった彼と手を繋いで、私たちは町に出た。
平日の午前十一時。なんだか、長閑な空気。時間の経つのが遅く感じられる。
たまに、通行人と擦れ違うとき、彼は強く私の手を握り、身を強張らせた。
その度に、私も桜田くんの手を握り返して、大丈夫だから……と囁きかけた。

そんなことを繰り返し、騙し騙しの状態で買い物を済ませた頃には、
桜田くんは、すっかり消耗しきっていた。
やっぱり、いきなりは辛いよね。筋力トレーニングと同じよ。

「少し、そこの公園で休んでいきましょうよ」
「……悪い」
「気にしない、気にしない。気持ち悪くなったら、言って」
「平気……」

木陰のベンチに彼を座らせて、近くの自販機で冷たいジュースを買った。
それを額に当ててあげると、桜田くんが安堵の息を吐く。

「ひどい汗ね。これ、使って」

私が差し出したハンカチで汗を拭うとき、何年かぶりに、メガネを外した彼を見た。


(ウソ……やだ。結構イケメンじゃない)

頬に、外気とは違う熱を感じた。
こういうの、ショタコンって言うのかしら。ううん。違うわね、きっと。
だって、高校生の頃は、ただの同級生。恋愛感情は疎か、何の感情も抱いてなかった。
私にとって、彼は私を取り巻く環境の一部。
教室に並んだ机や、黒板、道端の電柱に等しい存在でしかなかったんだもの。

「ねえねえ、桜田くんっ。コン……」

コンタクトレンズにしないかと言いかけて、思い留まった。
他の女の子たちに、おいそれと見せてあげるのが、急に惜しくなったからだ。
彼の素顔を眺める特権は、私やのりさんだけが持っていればいい。巴にだって、見せたくない。

「なんだ、コンって?」
「えっ? ああ……その、ええと……なに?」
「僕が訊いてるんだろ」
「あっ、そうよね。そうそう! あはは――」
「……お前、大丈夫かよ」

訝しげな瞳で私を見つめる彼に、咄嗟の思い付きを口にする。

「こん……今度、もう少し外出慣れしたら、映画を見にいかないかなぁーって」
「……いいよ」
「えっ?」
「今度、一緒に行こう」

聞いた途端、どうしてだか解らないけれど、私は涙を止められなくなっていた。
恥ずかしすぎて泣けちゃったのかな。
そうだわ……きっと、そういうコトなのよ。




それから更に一週間が過ぎて、もう半月になるのかぁ……と、改めて思う。
月日の経つのは早いものね。あー、なんか年寄り臭いわ、私。

それにしても、桜田くんの回復ぶりは、目を見張るものがある。
初めてこの家に伺ったときは、私と顔を合わせることも出来なかったのに、
今では真っ直ぐに目を合わせて、気軽にお喋りするほどだ。
もっとも……まだ、のりさんと私に限っての話なんだけどね。

桜田くんの変貌ぶりを日々見守り、嬉しく想う一方で、ふと、不安を感じることがある。
もしも巴が帰国したら、桜田くんは誰を見つめるのだろうか――と。
私? それとも、巴を選ぶ?

分からない。
そもそも、巴と桜田くんが、そういう間柄である証拠などない。
ただ……親友として、巴の気持ちには気付いていた。
あの子は、桜田くんのことが好きなのだ。口に出して言ったことは、一度もないけどね。
だから、学級委員の仕事にかこつけて、足繁くここを訪れていた。


このまま、私は居ても良いのかしら。居続けるべきなの?
それとも、桜田くんの引きこもりが治って、家政婦が不要になったら、はいサヨナラ?

「痛いっ!」

バカなことを考えながら料理なんかしてたから、包丁で指を切ってしまった。
私の声を聞きつけた彼が、心配そうに駆けつける。
そして、遠慮する私をたしなめて、怪我の治療をしてくれた。
――そんなに、優しくしないで。
私のココロの声は、しかし、声にならない。する気もなかった。




1日ごとに、私の中でナニかが膨らんでいく。
今までに感じたことのない強い想いが、私を戸惑わせる。
そして、彼との再会から、二十日が過ぎた日のこと――

彼の方から、映画に誘ってくれた。


異存などなかった。即答でイエス。
私たちは駅ビルに行って、上映時間まで喫茶店でのんびり過ごし、映画館に入った。
座席は後方の、左隅。どこでも良かったワケじゃない。敢えて、そこを選んだ。
上映時間の関係か、入場者数は少ない。
天にまします誰かさんが気を利かせてくれたのか、私たちの周りに座る客は居なかった。

照明が落とされ、しつこいほどテレビCMされている映画が始まった。
壮大なファンタジー小説が題材の映画らしいけれど、内容なんて、どうでもいい。
作った人たちには申し訳ないけど、私の目はスクリーンを見ていないから。

繋いだ掌が、じわりと汗ばみだした頃、私はそっと、手を解いた。
どうした? 不思議そうに私を見る彼の目が、そう語った。

「ねえ……ちょっといい?」

訊いたけれど、答えは待たず、彼のメガネを外した。

「なにするんだよ、見えないだろ」
「この距離で、私も見えないくらいのド近眼なの?」
「ああ。ぼやけて、ぜんぜん分からないよ」
「そう……だったら」


私はグッと身を乗り出し、顔を近付けて……彼の唇を奪った。
奇しくも、スクリーンの中で、主人公とヒロインも同じコトをしていた。

「これだけ近付いたら、見える?」
「……うん」
「じゃあ、もう一度――
 もっと私を見て。私だけを、見つめて」

気持ちを伝えたけれど、答えは待たず、彼の口を塞いだ。
彼の返事を待つ間に、この幸せが指の間から零れ落ちてしまうのが、怖かったから。

私は、貴方だけのプリンセスになりたい。
貴方は、私だけのナイトに、なってくれるの?

答えを知りたい……でも、やっぱり……知りたくない。




もうすぐ、一ヶ月が経つ。私は、幸せだ。今もガッツリ継続中。
彼は、私のためにドレスを作ってくれると、約束してくれた。
高校一年生の時、事件の発端となった、あのドレスを。
それは、彼にとって過去との決別と、新しい人生への出発を意味する。

私は、あのドレスを纏って、ジュンとのウェディングを迎える予定だった。

夢のジューンブライド。
ずるずると滑り落ちてきた私の人生にも、やっと……光が射し始めたみたい。




こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。
地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。
今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。
彼から電話が入ったのは、そんな時だった。

『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』
「え? いいわよ、明日で」
『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』
「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」

渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。
まったく、変なところで強情なんだから。

とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。
イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。
私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。
ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。
準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。
もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。
私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。
出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。




やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。

けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。




その報せは、お母さんの口から伝えられた。
近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。
降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。

胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。
彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。
もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。


得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。
あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。
そして、付近に、彼の姿は無かった。




ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。
純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。
落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。
結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。
時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。


梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。
橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。

このドレスを最初に着るのは、彼の前で――
そう、ココロに決めていたから。



突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。
彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。
認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。
もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。
言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。

「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」
「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」

最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。
ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。


――でも、結局、私は行動できなかった。
だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。
早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。

しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。
じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。
何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。

そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。
彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。
汚れたプリンセスと、写真のナイト。
惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない?

部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。
それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。



惜しげもなく、あしらわれたフリル。
ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。
品格と美しさを併せ持った、クラウン。
独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。
ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。

ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。
なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。


「まさか!?」

私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。
のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。
でも、私は着替え中だから、人前に出られない。
ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。
そして――

階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。
私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。
涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、

「どうして?」

――とだけ。
それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。
どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの?
どうして――――戻ってきてくれたの?
今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。


「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。
 これからだって、きっと守っていく」

臆面もなく、彼が言う。
だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。

「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」
「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」

ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。
後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。
まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、
歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。
それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。

部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。
高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。

「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」
「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。
 僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」
「私の……ために」
「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。
 だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」

どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。
こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。
いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし……
やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。


私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。
もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。
キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、
不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。

ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。
その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。
夢みるような心地に、私を導いてくれた。

「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」
「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」

のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。

私は……
この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。
今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。


  貴方だけのプリンセス。

ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。
だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。

  泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。

ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は……
アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。




「すっごくいい顔してるわ」

高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。
昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。
窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。

巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。
そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。
もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど――
杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。
彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。


「巴も、彼のことが好きなんでしょ」

二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。
訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。
しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。

「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」
「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」
「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」

なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。

「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」
「……ウソ?」
「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。
 私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」

言われてみれば、確かに、そうだった。
彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。

にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。
そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。
これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。

巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。
本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。
そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。


「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」

巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。
そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。

「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」
「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」
「……そうかも」
「そうよ。間違いないわ」

私は自信たっぷりに、そう伝えた。
他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。
そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。

「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。
振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。



それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。
きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。
私の腕時計は、13:00を表示している。

「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」
「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」

どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。
なんだか、こっちが気の毒になってしまう。
でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。

「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」
「そうだったのか。柏葉、元気だった?」
「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」
「ヒドイ冗談だな」

肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。
それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。
私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。
でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。

私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。
手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。
彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。

「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」
「なにを?」
「貴方が好きです。愛…………してます」

偽りない気持ち。
こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。
ああ、なんて気分がいいんだろう。

私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。
貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。
だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。


「私、いま……すごく幸せ」
「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」
「信じてる――」


だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。
だから……きっと。


  幸せになろう。
  本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。



窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は――

――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。




  ~終~

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