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 彼の声は遠くなり、そして新しい声が聴こえ始める。
 私は夢を見る。遠い昔の、彼女の記憶。



――――――



「あ、……ジュン。また頑張ってるのねー」
「え? ……うん。もう少しで出来るかな。全く人遣いが荒いよ」

 そんなことを言いながらも、彼はとても嬉しそうだ。
 真夜中。此処は、雛苺の家。土曜の夜、次の日の学校は休み。彼はその日、泊りがけで
やらなければいけないことがあった。
 決して強制された訳ではない。ただ、彼の心が。それを望んだだけのこと。

 両親は既に、眠ってしまっている。いくら中学生とはいえ、男子の宿泊を認める辺り、
その辺に疎いところが何とも『らしい』というか……それだけ彼が、信用における人物
あると評価されているということだろうか?

「お姉ちゃんも、ずっとこっちにいればいいのにね」
「そういう訳にもいかないだろうな。それにしても雛苺、向こうのひとってのはあんなに
 紅茶が好きなもんなのか? 一日に何杯飲めば気が済むんだ、一体」

「気が済む済まないの問題じゃないのよ、ジュン」

 不意に、かけられた声。

「ティータイムを数多く設けるのは、嗜みもあるけど……心の平穏を保つため。
 何事においてもリラックスしていられるのは、大事なこと。とても、大事なことよ」

 部屋に入ってきた彼女――これは、『私』。『私ではない、私』。雛苺の親戚で、とて
も紅茶が好きなお姉ちゃん。気品溢れ、それでいて優雅な雰囲気を纏った――雛苺の、憧れの存在。
 普段は九時頃には寝てしまうのだけれど、自分の為に『作業』を続けてくれている彼の
ことが気にかかったのかもしれない。目蓋が、多少重そうだった。

「じゃあヒナ、紅茶淹れるね!」

「ありがとう。気が利くのね、雛苺」

 言いながら彼女は、ジュンの方をちらりと見やる。彼はその視線を敏感に感じ取ったようだ。

「はいはい。使えない下僕ですみませんね」

「あら、私は何も言ってないわ。卑屈になるのは、存外に良くないことね? ジュン。
 貴方は今、人形のドレスを作っているのだから……そのことについてもっと自信を持つべきなの。

 本当、いつまで見ていても、飽きないわ。貴方の指は、優しい旋律を奏でる魔法の指ね」

「……」

 彼は顔を赤くして、何も話さなくなってしまった。

「この花模様は……随分と細かいけれど。何かモデルがあるのかしら」
「えっと、図鑑見て適当に選んだから……リラだっけ」

「――そう、良い花ね。五つの花弁のついたリラは、幸せを呼ぶと聞いたことがあるわ。
 白いリラの花言葉は――」

『私』は『私』の言葉を最後まで聞かず。二階の自室を後にして、階段を降り台所へと向かう。

「……」

 ポットのお湯が、丁度切れてしまっていた。
 その時珍しくも、やかんでお湯を沸かそうなどと思ったりしたのだ。 (ああ、)
 ポットのお湯は、すぐに沸いてしまうから。            (『私』はそれを、)
 少しだけ時間を遅らせてみようと――               (止めることが出来ない――)

 そう、考えただけ。                       (『私』は、見ているだけだから。)

 彼は、――彼女のことが、好きなのかもしれない。
 ジュンに裁縫の才能があることを、雛苺は知っていた。
 今彼が縫っているのは――『お姉ちゃん』の持っている人形の為のドレス。
 白い花模様の服は、ウェディング様のそれに似ているように思った。

 そんな、少しの考え事。
 『私』はこの後、何が起きるのかを知っている。


 底抜けに明るく、純粋な心を持つ、雛苺。
 ジュンにすきでいてもらえるような――『お姉ちゃん』のように、なれたら。
 そんなことを、少しだけ思った。

 ぼんやりとしていた彼女が、煮立って吹き零れたお湯に気を取られて――
 火が消えてしまったあと。開けられたままのガス栓を止めるのを、失念する。
 そうして、紅茶を用意して、部屋へ戻る……
 ただ、それだけの。
 ただ、それだけの、取り返しのつかないことが、起きる。


 そして。この夢の世界に、おわりのうたが響くのだ。物語をおわらせる、うた。
 燃える。真っ赤に、燃える。あつい、あつい。
 燃え広がる炎は彼女達を遮り、灰色の煙は呼吸するための空気を奪う。
 足りない、空気が足りない、

 『私』はこの時初めて、自由に身体を動かせるようになる。
 本来ならこの時、『私』は『産まれてもいない』のだけれど。
 ここは、夢の世界なのだもの。

 まるで雪のように、降り注ぐ灰。
 ここは夢の中だから――私はいつまでも、両手を広げ続けるのだ。
 だって、どうしようもならないから。

 本当は、あの時。雛苺は、既に倒れてしまっていた二人に身を寄せて――
 とても大切にしていたスケッチブックを一つ、胸に抱き寄せながら。
 そのまま、気を失ってしまったのだ。

 これは、彼女の中にある記憶。今はもう、眼を向けられていない夢。


――――――――


 おわりのうたが鳴り響いたあと、『お姉ちゃんと呼ばれた私』は、『居なくなってしま
った』。
 そしてここで初めて、――『私』が、彼女の中に出来上がる。決して故意ではなかった
にしろ、『お姉ちゃん』の存在を奪ってしまった彼女。彼女自身は、この出来事を忘れよ
うとしていたのかもしれないが。心の中に在った、自責の念――または、それに近しいも
のと。彼、――ジュンに好かれていた、『お姉ちゃん』に対する憧れ。それらが相混ざっ
て、『私』は産まれた。本物ではない、雛苺が作り上げた、偽者。

 『私』という存在そのものが、彼女にとっての――重い枷なのだろうとも思う。
 この時から、雛苺は。僅かに、しかし確実に、病み始める。実際に居た『私』の存在を
おぼろげに捉えながら。少しだけ間違った曖昧な記憶――泡沫の夢を、形成していく。
 そう、彼女の心は。あの日一度、ばらばらに壊れた。純粋で、とても透き通った。とて
もうつくしい、硝子のような彼女の"世界"。その欠片は、今も散らばったまま。『私』と
いう存在として、在り続けている。

 彼は、この物語を忘れてしまった。窒息性の記憶障害だろうと言う事を聞き及んでいる。
――あくまで、表面上は。
 『私』は知っている。彼の眼の前で、彼の腕の中で、『お姉ちゃん』が――『眠ってし
まった』こと。やはり彼もまた、この時一度……壊れてしまったのかもしれない。
 この出来事に触れると、彼は『発作』を起こしてしまうから――無理に思い出させるこ
ともない、という事に収まった。


 苦しむ息子の姿を見て、彼の両親がついた、対処的な嘘。奇跡的なほどに外傷の無かっ
た彼だったからこそ通じた、咄嗟のそれが、思わぬ功を奏したとも言える。全ての真実を
明らかにしたいのならば、それは間違ったことだったろう。

 彼、――ジュンは、何の事故にも巻き込まれなかった。雛苺の両親は、交通事故で亡く
なった。そんな歪な情報が、周りの『事実』を歪めていく。
 事実には、なるべく触れぬよう。あの時、誰も彼もが、弱かった。あまりにも、弱かっ
た。

 しかし彼は、無意識の内に――『お姉ちゃん』に渡す筈だったドレスのことを、気にか
けたのだろうか。燃えてしまった、白い花模様の……人形のドレス。そのデザイン画を、
学校に持っていって。それが見つかってしまい――彼はもう、何もかもが嫌になってしま
った。冷めて、しまった。


 そんな出来事を――『私』はずっと、見続けてきた。雛苺の意識の、裏側から。
 ただ、それらに干渉するのは『私』の役目ではないのだろうし――無駄に話を、こじら
せてしまうだけ。偽者は偽者らしく、雛苺が独りで居るときだけ。密やかに、表に出てい
れば問題はない筈だったのだ。

 叔父夫婦に引き取られた後。表の雛苺は、穏やかな回復を見せていったように思う。
これもひとえに、叔父と叔母の愛情によるものだろう。

 だけど、『私』が消えない。ずうずうしくも、彼女の裏側に潜み続けている。
 そして今度は、雛苺が自ら『裏側』へ入り込んでしまい、『私』が表へ出ざるを得ない
状況も増えてきた。――それは、彼女が日本を離れ、留学をする決意し始めた辺りの頃か
らだったように思う。

 『私』が居るということは、彼女の中での罪の意識が消えていないということ。
 一時期はそんなことを考え続けて――もう、疲れてしまって。何かどうでもいいような、
そんな気分になったりもした。

 ただ。彼女はもう十分に悩み、苦しんできた。表面上は忘れて、曖昧な記憶を作り上げ
てしまっていても。彼女の裏側に居る私には、わかる。『私』という存在を無意識に否定
しながら、尚それに向き合おうとしている。
 あの出来事で、彼女を咎める者など居なかった。もういい、もういいのだ。彼女はあの出
来事を乗り越えて、夢に向かって歩き出すべきで――普通の女の子として、生きていく権利
がある。

 そこで私は思い至る。今まで『私』は、このどうしようもなく『実際に在った出来事』
を、いかにして彼女に伝えるべきなのかということを考え続けてきた。
 だけど。この悪夢とも呼べるような――おわりのうたが、ひびいた世界を。見ている
のは『私』で、彼女ではない。いや、彼女がそれを知っているのかどうかはわからない
のだけれど――それでも。彼女は、もう忘れていい。

 『私』が悪夢を、引き受けよう。そんなことを、今また夢を見ながら思った。その決意
が、ばらばらに壊れてしまった欠片を、元の曖昧に戻してしまうようなものであったとし
ても。確かなものにする為に、打ち砕く必要は無い。

 考えてみると、先生は……『私』に関することを手記に纏めながら、私"達"のことをい
つも気にかけてくれていた。
 水銀燈は、こんな自分と友達になってくれて……雛苺とも、仲良くしてくれていた。本
当に優しい娘だと思う。

 先生も、水銀燈も。『私』の存在を、認めてくれた。
 じゃあ、ジュンは? 雛苺は……?

 忘れられれば。それは、無かったことに等しくなれる。
 私が消えてしまったら、あの夢は"誰"が引き受けることになるのだろう?
 いや、そもそも。忘れること自体、正しいのかどうか。その答えも、出ないままで――

 もう『私』は、彼の前に現れるべきでは、ないのかもしれない。
 たったひとつ、守る為に。
 彼女の心を、その、たったひとつを。

 ふと、思った。
 彼女が描きたい、景色。
 追い求める程に、離れていく景色のことを。
 いつか彼女は、それを描くことが出来るだろうか? ――




――――――――――




「真紅……?」

 時間にして、それほど長い時が経ったようには思わない。
 ただ、その短い時間が。何故こんなにも長く感じられるのかが、自分でもわからなかった。

「……ん……」
「おい、大丈夫か」

 零れた涙を拭って、話しかけた。

「大丈夫よ、ジュン。『私』は此処にいるわ」

 今度はその瞳を開けて。真っ直ぐに僕を見据えながら、彼女は僕に語りかける。

「――けど。それももう、これでおしまいかしら」
「どういう、ことだよ」

「ジュン、聞いて頂戴。私は確かに今、此処にいるけど……貴方はもっと、雛苺のことを
 見つめてあげて。――貴方は、この娘のことを、大切に思ってる?」

 真剣味を帯びた、彼女の声。

「……ああ。大切……というか。見守ってやりたいとは思う」
「そう。……それでも、十分よ」

 彼女は言いながら、手元のティーカップに口をつけた。

「ぬるいわ。ジュン、淹れ直して頂戴」

 途端、いつもの調子に戻る。なんだ、一体。
 僕は備え付けのポットからお湯を汲み、新しいものを居れ直した。それを満足気に飲ん
で、彼女は静かに微笑む。

「ジュン。貴方は、"世界"について考えたことがある?」
「――せかい?」
「そう。"世界のからくり"とでも言えばいいかしらね。それはとても、とても難しいよう
 で……とても単純な話。世界には沢山のひとが息をしていて、そのそれぞれに"物語"が
 ある。それは前にも、言ったことがあったわね。

 ただね。そんな"物語"だって、所詮"在るか無いか"でしかないの。

 それを乱すのが、曖昧なもの。在るのとも、また無いのとも、"異なるもの"。それが、『私』。
 ねえ、ジュン。さっきも言ったけれど、貴方は私のことを忘れなさい。
 私という存在そのものが、泡沫の夢のようなもの。そして、ちゃんと雛苺のことを見守って頂戴。

 そうやっていつか――彼女が。雛苺が描きたかった景色を、繋ぐことが出来たときに。
 その時見えるものは、透明な、透き通った"世界"ではないかもしれない。けど。それでも。
 本当にうつくしいと思える色を、見ることが出来る筈だから。
 それを、……願っているわ」

 彼女の言うことは少し難しくて、けれど何処か、思い当たる節があるような……そんな
感じだった。僕は何と返すべきか、ちょっと迷う。
 ただ。彼女の言っていた"あるひとつ"がひっかかってしまったから――僕はそれを、
伝えたのだ。また苦しくなりかけている呼吸を、精一杯に抑えながら。

 彼女は、自分の存在を。消してしまおうと、しているのではないか?

「"在るか無いか"。そう、言ったよな」
「ええ、そうね」
「じゃあ、真紅。これも確かに、お前が言ったことじゃないか――『私は確かに、此処に居る』」
「……」
「お前が何を思って……はぁっ、消えようとしているのか、わかりかねる。けど……
 お前がこうやって此処に居るなら、それはそういう『事実』じゃないか。
 居なくなる必要なんて、無いだろう?」

「私は、"異なるもの"よ。とても曖昧で、そうね。単に夢を見ているような――」
「――そうじゃない、真紅。夢なら夢で、いいだろう? "在るか無いか"は単純だけど、
 何だか……何て言うのかな。少し、寂しい。
 
 生きているなら、夢も見る。それでいいような気もする」

 彼女は少し、息を飲んだようだった。そしてまた、言葉を紡ぐ。

「貴方は、とてもやさしいのね。――夢を見る。そう……
 それならまた、逢えることを……願ってみることに……しようかしら……」


 それが、僕が『彼女』と交わした、最後の言葉だった。


――――――――――――



 僕は空を見上げるのをやめて、また前を向いて歩き始める。雛苺がフランスへ旅立って
から、まだ三日も経っていない。
 それなのに、この心に――何やらぽっかりと空いてしまった、空虚な穴のようなものは
何なのだろう? いつも、人懐っこく隣に居た、幼馴染の彼女。彼女は自分の夢を叶える
為に、遠い異国の地へと向かったのだ。

 空港での、去り際。彼女は僕に一言、言った。

『離れていても――同じ空の下に居るの。皆一緒よ? だから……ヒナ、頑張れると思うの。
 ジュンも……ゆっくり、ゆっくり、頑張って』

 その後ぎゅっと抱きしめられてしまったものだから。一緒にいた先生や水銀燈には、帰
りの車の中で随分と冷やかされてしまった。

「……」

 あの時、僕の胸の中で。
 彼女は、涙を流さぬまま――

『ジュンは……居なくならないで?』

 泣いていたように、思う。

 僕も何か、しなければならないのかもしれない。ゆっくりで、いいから……
 そうじゃないと、彼女に逢わせる顔がなさそうだから。そうだろう? 真紅。

 冬空。年の瀬の冷たい風に吹かれ、ポケットに両手を突っ込んだまま、歩く。ふと、も
う一度だけ空を見上げたら。さっきよりも少なくなった雲の隙間から、陽の光が地に降り
注いでいた。
 青い青い、空。透明ではない。色のついた空が、確かに在る。

 雛苺もこの空を、見上げたりしているだろうか?
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