独り歩く、冬の通学路。

 ああ――なんて、なんて青すぎる、空。冬の雲の切れ間、その向こう側に覗く空が、何処
までも高い。
 この街には雪があまり降らなくて、その代わりに冬には冷たい雨が零れる。青色の空には
白い雲がよく似合うと思うのだけれど、今の空の大多数を埋めているのは灰色だった。

 青と、灰。その曖昧なコントラストが、何かかたちを為そうとしている――それはまるで
幽霊か何かのような――気がして、僕は下を向いてしまう。
 これでは中也の様だ――以前、彼女から貸してもらった詩集の一遍を、僕は思い出していた。

 何の変哲も無い色をした光景は、自分でも解しがたい感情をもたらすことがある。それは決
まって、自分のこころが、虚ろに揺らいでいる時に起こるのだろうと――何となく思った。自ら
が揺れているからこそ、普遍の、或る平衡を保っているものに感じ入るのだろう。

『しかはあれ この魂はいかにとなるか?
 うすらぎて 空となるか?』

 ――彼女の魂は、何処へ行ったのだ?

「うすらぎて、空となる――」

 また、上を見上げる。僅かに、僅かに、陽が顔を出そうとしていた。灰色の雲の一部に、一層
濃い灰色の影が落ちる。少しだけ、コントラストが強くなった。

 それも、決して珍しくは無い光景で。
 ただ、そんな変哲も無い色が。
 確かに、この眼に映っていた『それら』が。

 どうして。

 どうしてこんなにも、かなしい。



【うたかた】―/ライラック8



「ジュンの淹れる紅茶が、やっぱりいいわねぇ」
「うーん、そうかもねえ」
「水銀燈の淹れてくれた紅茶も美味しかったって、ヒナは思うのよー」
「あぁ……雛苺はいい娘ねぇ。それに引き換えめぐときたら……ぶつぶつ……」
「な、なによう。其処で切り返さなくたって……」

 紅茶くらい静かに飲んでいいだろうにと思ってしまう僕は、野暮なのだろうか。
 先日この保健室に顔を出してから、果たして僕は前と変わらぬ給仕役に逆戻りなのであった。やは
り来づらかった所はあったのだけれど、……その辺りは水銀燈に感謝しなければならないのかもしれない。

「で、おかわりも必要な訳ですね?」

「もちろんよぉ」
「うん。頂こうかな」
「わーい!」

 三者三様、しかし内容の一致した言葉が返ってくる。

「はいはい」

 少しだけ溜息――だけど其処に、残念な気持ちなど少しも含まれていない――をついて、僕はティー
ポットに手をかける。

『"はい"は一回でいいのよ、ジュン』

 そんな声が、聴こえた気がする。
 ――真紅。僕は彼女と、暫く"逢っていない"。雛苺は、雛苺のまま。僕と接している。それは正しい、
とても正しい、本来の在り方なのであり――そう。中学からずっと続いてきた、何も変わらない関係な
のだ。

「出発は冬休みに入った日だっけ? ヒナちゃん」
「そうなの。時期的には少し半端だけど、一年位は向こうにいることになりそうなの」
「生活の方面は、大丈夫そうなのぉ?」
「そこは心配ないの! ヒナ、もともと向こうで生まれたし、おじいちゃんとおばあちゃんは、もう居
 ないけど……親戚のひとなら、居るの。そこでお世話になるつもりなのよー」

「そうか。夢を叶える為だもんな。頑張れよ、雛苺」
「……えへへ。ありがと、ジュン」

 照れたように、彼女は笑う。春の日に咲く花のような、やわらかな微笑みだった。

 彼女は、留学する。画家になる夢を叶える、その一歩を踏み出す為に。僕には無い『情熱』の呼べ
るようなものを、彼女は持っているから。正直、楽な道ではないのだろうけど……きっと、乗り越え
ていくに違いない。
 旅立ちの日まで、あと一ヶ月も無かった。だけど、特別なことをしようなどとは、僕は思わない。
 残り少ない時間だからこそ――そもそも、今宵今生の別れという訳でもないのだし――いつもと
変わらぬ日々を送るのが、きっと良いだろうと思ったから。
 僕は保健室に顔を出し、いつもの面子と顔を合わせて、紅茶を飲みながら談笑する。それでいい。
それで、いいんだ。

「……」

 三人に気付かれぬよう、そっと自分の胸に手をあてた。

 大丈夫だ、       (苦しい、)
 静かな息を、      (もっと、息をしなければ、)
 していれば、きっと―― (空気が足りない、空気が足りない――)

「……ふぅ……」

 無理矢理に、落ち着かせる。なんてことは無い。手足だって痺れない。いつもの所作で、僕は紅茶
を淹れるのだ。



――――――――



「じゃあ、ヒナはまた絵を描いてくるのー」
「うん、がんばってね」
「僕はそろそろ帰りますね」
「紅茶美味しかったわぁ。ごちそうさま」

 ひらひらと手を振って、二人を見送る。保健室に残されたのは、私とめぐ、二人だけ。
 ジュンと話したいことがあったけれど、それよりも先に――私はめぐに、確かめなければならない
ことがあった。

「さっき、無理矢理抑えてたわねぇ」
「……そうだね。気付かれないようにしたのは、彼なりの配慮というか……」
「『沢山の息を吸い込みたがる』――ってこと位しか、ジュンの発作については知らないわぁ。命に
 関わるものではないっては聞いてるけど、その……やっぱり心配ねぇ」

 私がそう言うと、めぐは困ったような笑みを浮かべて返す。

「フェータルな発作では無い筈だよ。とは言っても、苦しいことには変わりないと思うけどね」
「ねぇ、めぐ」
「何? 水銀燈」

「ジュンに――本当のことを伝える訳には、いかないのぉ?」

 流れる、沈黙。――わかっている。そもそも、彼らに関する事情について、私如きが首と突っ込も
うとしていること自体が、おこがましいのだということ。

「水銀燈。真実を伝えることが、いつだって正しいことだとは限らないよ」
「でも……」
「うん。――貴女は、やさしいからね。私とは、違う。ジュン君、彼のことを……心の底から、助け
 たいと思ってる。ただ彼の場合は、かなり事情が特殊でしょう?」

「……」

「心の問題は、それに立ち向かうとき――『こうすれば、"おおまかに良い"』っていうマニュアル的
 なものはあるけど。それがいつも正しいとは限らない。ううん、そもそも、正しい答えが無いとい
 うか。だから、手探り探していくしかない。

 彼は決して、病人なわけではないよ。それは貴女も知ってるよね」

「うん……」

「病気、っていう見地で言えば。病んでいるのはむしろ、ヒナちゃんの方。ただ彼女の場合は、今の
 ところ驚くくらいの平衡を保ってる。そのバランスを、今崩すわけにはいかないよ」

 私は、何も返せない。

「……ってね。最後の言葉は、受け売りに近いんだけど。頼まれたんだ、真紅ちゃんに」
「――え?」

「『真実は、明かさないで欲しい――彼は、考えている以上に、強いひとだから。それを伝えても、
 受け入れてくれるかもしれない。

 けれど、だからこそ。いつか、いつか自分で、思い出す時が来るならば――それを待って欲しい』」

 そんなことを、彼女が。『真紅』が、言ったのか。

 『真紅』。彼女は私の友達で、……初めに話を聞いたときは、驚いたけれど。それでも、別に気に
することは無くて、話もよく合う――かなしい、存在。
 だって彼女は、――『居ない』。『真紅という名前の彼女は、居ない』。おかしなことだ。私はた
った今、彼女のことを友達と言った。それは、確かに存在するということなのに。

 今の彼女は、夢のような存在。儚い、泡沫のような――何もない、存在なのだ。なんて矛盾なのだ
ろう。

「いっそ――真紅の幽霊が、雛苺にとり憑いてるんなら、良かったんだわぁ。『彼女の言葉を、ジュ
 ンに伝えられる』もの」
「……どうなんだろうね。なかなかファンタジーなことって、起きないものだから。そうだなあ……
 願うことほど、多分自分の身には降りかかってこないものなのかも。
 ただね、うん……どうなんだろうね。彼女の存在を、望んだことなんて。きっと彼は、覚えてはい
 ない。しょうがないことなんだよ。ひとは忘れる生き物だから」

 そう言って、めぐはふと、寂しげな笑みを浮かべた。
 そして私は、気付かない。彼女が望んだその願いを、『彼女自身』が、どう思っていたのかを。


――――――――――


 時間、の観念について。普段学校に通っているときなどは、一週間はとても長いものに感じられる。
特に何の感慨も無く、僕は授業を受ける訳なのだけれど。流石に月曜の朝などは、『ああ、また一週
間』が始まるのかと。少しだけ沈んだ気分になっている感は否めない。

 ただ。一週間という長いスパンを超えて――『一ヶ月』という期間が、そこそこ『あっと言う間』
に過ぎていくように感じられるのは、何故なのだろう。感覚とは、本当に不思議なものだと思う。

「どうしたの? ジュン」
「いや、なんでもない。準備は出来たのか? 雛苺」
「ばっちりなの! あとは、此処に置いてた絵をひとつ、持っていくだけ。明日はめぐ先生が車を出
 してくれるって言ってるから……皆に見送られて、ヒナ、行ってくるのよ!」

 この一月足らずの間、彼女達と、何時も通りの時を過ごしてきたつもりだった。そうしたら何時の
間にか、彼女の留学前日となっていただなんて。
 何か特別な催しを彼女の為にした訳ではない。あくまで、普段どおり。きっとそれが、昔から一緒
に過ごしてきた――僕ららしい在り方なのではないかと、思ったから。

 仰々しい別れは、寂しさを紛らわせる効果もあるのだろう。だけど、それは殊更『別れ』を強調さ
せるものでもある。これが今生の別れという訳でもないのだから――そんなものは、きっと必要ない
のだ。

『美術室に、来て欲しいの』

 メールでの、雛苺の言付け。学校は明日から冬休み。天皇誕生日を休みの入りにするだなんて、普
通の学校では一般的なことなんだろうか……?

 校内に、殆どひとは残っていないのではないかと思う。喧騒というものは普段も滅多に感じられな
のだけれど、それでも『ひとの気配』は、居れば何となくわかる。それすらも、今はないから。僕の
眼の前に居る、彼女以外に。

「アッサムでいい? ジュン」
「お、雛苺が淹れてくれるのかあ。珍しいなあ」

 いや、本当に珍しい。今までこんなこと……あっただろうか? それにしても何故、美術室にコン
ロとポット、そしてティーカップが備え付けられてるんだろう。前に来た時は気付かなかったのだが、
案外と部員だけで密かなお茶会を愉しんでいるのだろうか。ここは場所も本館からは離れているし、
顧問が寛大ならば大丈夫なのかな。

「どうぞ。ミルクは大目にしたのよー」
「サンキュ」

 白地に赤い苺の模様があしらわれた、陶製のティーカップを受け取る。香りを少し愉しんでから、
口に含んだ。

「美味しいよ。ありがとう、雛苺。こんなんなら、普段も淹れて貰えば良かったなあ」
「保健室、で?」
「うん? まあ、そうかな」

 何気ない会話の、つもりだった。けれど、僕の言葉を訊いた彼女の眼に――幾許かの、寂しさの色
のようなものが混ざっていくのに、気付く。

「それは、駄目なの。ヒナがね、紅茶を淹れるのは――ジュンの為に。そして……お姉ちゃんの、為に」

「お姉ちゃん? ……って、のり姉ちゃんのこと?」

 僕の言葉を、ふるふると首を振って彼女は否定した。

「ジュンは、……ジュンはね。忘れちゃった」
「忘れた? ――何を」

「わからない。わからないの……ヒナだって、忘れちゃいけない筈のことなのに、
 ……ひっく、けどね、ヒナ、苦しいの。すごく、胸が苦しくなるの……きっと、きっとヒナがね、
 悪いことを、したの

 お姉ちゃんのこと、ヒナ、覚えてる……っ、お姉ちゃん、お姉ちゃん……」

 すぅ、と。少しだけ空いていたらしい美術室の窓から、ほそいほそい風が、吹き込んできた。

「……っ」

 胸を、抑える。くそ、なんでいきなり、――
 雛苺は身を翻して、彼女の後ろ側にあった、布に覆われていたものへと手をかける。

「……」

 何も言葉を発さず、彼女はその布を、取り去った。

「それ、は」

 雛苺が――コンクールに出すと言っていた、絵だった。

「結局……これとは違う絵を出品したの。ヒナが持っていかなきゃならないものは、これ……」

描かれていた少女の隣にあった空白は、いまだそのまま。


 傍にあった椅子に、腰をかけて。
 彼女は静かに、眼を閉じた。
 とても、とても穏やかな表情で。
 伝った涙が、頬を伝っている。

 まるで、眠ってしまったかのよう。
 幸せな、夢を見ているかのよう――


「そう。それが『貴女』の望みなのね、――雛苺」

 眼を閉じたまま紡ぎだされた言葉は、……『彼女』のものでは、ない。

「真紅……」

「この娘が、夢を見る。ジュン――貴方とこの娘の夢は、決して重ならない。ところどころ、交わる
 ことがあったとしても。同じものには、ならないの。

 だから貴方は――私のことなど、忘れてしまいなさい」

「どうして」

「守る為に」

「……守る?」

「そう、たったひとつ、守る為に。そうでなくても、消えてしまってかなしいことは……この世界に
 は、多すぎるのだから」

 彼女は、眼を開かなかった。とつとつと語られる言葉に、僕は何を、返すべきだったのだろう。

「白い花模様のドレス。それを貰ったのは――『私』では、ないわ」

 それきり、彼女は何も話さなくなる。

「……真紅、どうした……?」

 呼吸は、何時の間にか落ち着いていた。
 何故だろう。
 どうして今、

「……っ」

 涙が、出てくるのか。




――――――――

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最終更新:2006年12月05日 02:01