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 ――あの人のことは……忘れたつもりだからぁ……。


 高校の頃からあこがれていた幼馴染み。
 こもりがちで、私から見てもか弱く、正直頼りない彼。
 でも、乾ききった私の心を潤すぬくもりがあった……ジュン。
 いつしか、愛し合う仲になった。


 でも高校を卒業すると同時に、人形職人になるという夢を追いかけて、ジュンはイギリスに留学してしまった。


 私は……彼に付いていくことはなく……そのまま日本の大学に進んだ。
 それ以降も手紙や国際電話でのやり取りは続いた。
 いわゆる、遠距離恋愛ってやつだったわ。


 だけど――直接顔を合わせることはなく……。


 彼とのやり取りをする回数も少なくなった。
 そして……そのうちそのやりとりもなくなってしまった……。


 きっと……向こうで他の女でもできたのかしらぁ……。


 私もそんな事を思うようになった。


 切ない。


 その事を思い浮かべるたび、憂鬱になった。
 そして、それが鬱陶しくてたまらない。
 何だか自分が傷ついて……壊れてしまうのを恐れて。


 忘れよう。それがいいわぁ……。
 でも……。


「おーい、灯ちゃん。ご指名だよ。2番テーブルへ行ってくれよ。早く」
 中年のマネージャーの声で私ははっと我に帰った。
「は、はい。今行くわぁ」
 私は着ているキャミソール風のワンピースの乱れを直し、化粧の確認をして、そそくさと言われたテーブルへと向かう。


 ジュンのことを忘れるために……銀座のキャバクラでバイトをしていた。
 いわゆる、オミズの商売ってやつ。
 仕事やらで疲れた男どもの酒の相手をして、愚痴を延々と聞かされる。
 中には私に惚れ込んで個人的な交際を求めてくる奴までいる。


 でも……それがいいの。
 男どもと他愛のない話をすることで……ジュンの事を忘れられるのだからぁ……。


 それでも……本当にいいの……?
 心がどこか痛む。そんな疑問の声がふと沸き起こる。


 いいや、そんなことないわぁ!
 私はその声を頭の中に振り払うと、店の男性に付き添われて、言われたテーブルに向かった。
 付き添いが言うには、この店ははじめての男性だという。
 一回目で来ていきなり指名だなんて……また交際まがいのことをさせられるのかしらぁ。
 少しうんざりしながらも、そのテーブルに座っていた客に目を向けた。


「さ、笹塚ぁ……」
 私は一瞬、呆然としてしまった。頭が真っ白になった気分になる。
 高校時代の級友で、ジュンとも親しかった笹塚。
 なんで、こいるがここに来ているのよぉ?


「どうしたのかい?」
 付き添いの店の男が私にそっと囁いてきたので、すぐさま平静を装った。
「い、いえ……何でもないわぁ……」
 私はそう答えて、そっと笹塚の横に座った。
 店の男がごゆっくりという言葉を残して、その場を去るのを見届ける。


「やっぱり、水銀燈だったんだね。連れからお前に似ている女がこの店のホステスでいるなんて聞いたから、もしやって思ったんだけどね」
 笹塚は頼んだブランデーを手にしながら、悠々と話し掛けてくる。


「それが悪いわけぇ?」
「いいや、別に。君なら結構似合っているかなって思ったけど……サマになってるよ」
 ケタケタと笑いながら、さらに頼んだウォッカを私のグラスに注ぐ。
「ふん。冷やかしなら帰ってよねぇ」
 私はちびちびとウォッカを飲む。特有の辛さが喉を突く。


「素っ気無いなぁ。僕は飲みたいから来たんだよ」
「そうなのぉ……だったら、私も注文していいかしらぁ?ドンペリでも」
「熱いね。いいよ」
 なんとかなり値を張るドンペリを二つ返事で注文する。
 初めての人なら遠慮するのに。笹塚はこういうところに来るのは慣れているみたいねぇ。
 そんな事を思いながら、私もグラスに注いで一気に飲み干す。
「豪快なのみっぷりだね。実にいいよ」
 笹塚も一気にドンペリを飲み干すも、即座に2本目を注文していた。
 私もそんな彼に負けじと、次々とドンペリを飲みだす。


 ちょっと……手持ちの金は大丈夫なのぉ?
「大丈夫だよ。ここ、クレジットカード払いでも大丈夫だよね」
 そんなことなんざ、全く気にしていない様子の笹塚。
 まあ、いいか。
 

 そして、高校時代のすったもんだとかの思い出話に花を咲かせた。
 話が結構盛り上がったあたりで、笹塚はいきなりこんなことを言い出した。


「そういえば……ジュンの奴もスランプで悩みまくるなら日本に帰ってこればいいのに。
 彼女がオミズで華々しくやってる所なんて見たらびっくりするな」
 他人事のように平然とそんな事を言ってのける笹塚。
 ちょっと、こんなところをジュンが見たらきっと傷つくわよぉ。


 でも、それでいいの。
 何やってるんだなんて、ジュンがキレて、喧嘩になるかもしれないけどぉ……それできっぱりと縁が切れるのならそれで……。


「でも、マジで心配するかもな」
 笹塚がそう言う通り、まずは本気で心配するだろう。そして怒り出して……。
「んで、何ヤケ起こしてるんだ、自分を大切にしろよなんて言い出すんだぜ」


 自分を大切にしろ……かぁ……。
 ジュンなら言い出すかもしれないわね。結構、心配性で深く考え込むタチだから。
 んで、なんだかんだ言って必要以上にお節介なのだからぁ。


 でも……でも、じゃあなんで私は大切にしてくれないの?
 なんで、手紙の一つも全くよこさないの?


「どうしたんだよ……いきなり。私を大切にしてくれないのなんてさ……」
「え?」
 笹塚がきょとんとした顔で私を見た。
 どうやら思っていたことを思わず口にしてしまったらしい。


「な、なんでも……ないわぁ……」
 私はなんとか平静を取り繕おうとした。
 しかし、動揺は思い切り口調に出ていて、それを聞いていた笹塚にはさらにけたけたと笑われる始末に。恥ずかしいったらありゃしない。


「思い切り気にしているんだね。顔にはっきりと出ているよ。
 せっかくの美人の顔が台無しだよ」
 笹塚は涼しげな顔で2本目のドンペリを飲み干していた。
「う、うるさいわぁ!余計なお世話よぉ……」
 顔から火が出そうな感じだった。グラスを手にしたままその場に固まってしまう。
 本当、笹塚は一言多すぎるわぁ!


「でもまあ、大切にしてくれないってか……ジュンからは最近何の音沙汰もないのかな?」
「そ、そうよ……電話も手紙もないわ」
 笹塚の言うことに私は否定せず、ありのままを話す。
 何もかも見透かされている……そんな気がした。


「それだったら、そう思うのも無理はないね。おっと、次はワインが飲みたい気分だな。ボジョレーって、この店にもある?」
「え……ええ、あるわよぉ。頼む?」
「お願いするよ。できれば特級品でね」
 私は近くを歩いていた店の男にボジョレーのボトルを持ってくるように言いつけた。すぐさま、ボトルとワイングラスがテーブルに並べられる。


 ワイングラスを手にすると、そこに中身を静かに注いで、笹塚の目の前に置く。
 彼はすぐさま手にしたものの、飲もうとはせずにワイングラスを軽く揺らして、香りを楽しんでいた。
「今朝、フランスから直に取り寄せた特級のやつよぉ」
「分かるよ。香りが断然違う。では頂くかな……」
 笹塚は軽くワインを口に含んで、特有の味わいを楽しんでいた。
 私はただ、その様子をじっと見つめていた。


 ふと……去年ジュンが日本に帰って来たときのことを思い出した。
 確か、去年の今ごろ、帰ってきたお祝いにボジョレーの赤ワインを買って、ジュンの家で二人で飲んでいたのだった。


「に、苦いよ。これ」
 ジュンは口にするや否や、顔をしかめて近くにあったミネラルウォータを一気に飲み干していたのだった。
 その光景に思わず笑い出してしまったんだったわぁ……。
「ジュンにはまだ早すぎたかしらぁ?」
「そんなこと……まるで子供扱いされているみたいじゃないか」
 私の言葉にムキになるジュン。
 そんな反応がまだまだお子様なのよぉ。
 ますますそんなジュンが面白くてたまらなり、さらに笑ってしまう。
「もう、笑うなよな!」
 頭から湯気を出すかのような雰囲気でワインを無理に一気のみしようとして、思い切りむせ返る。本当、かわいいんだからぁ……。
 彼の手にしていたワイングラスには私の微笑んだ顔が映っていた――。


 笹塚の手にしているグラスに入った、透き通った赤いワイン。
 店の中は暗めであるものの、その赤い色ははっきりとわかる。
 そして、そこに映し出された私の顔も……え?


 涙……?


 まさか……ね?
 グラスの外に付いた水滴と見まちがえたのじゃないのぉ?


 でも――そこに映っていたのは……涙を流した私の顔。
 頬に熱い感触が伝わる。


 思わずハンカチを取り出し、笹塚がワインに夢中になっている隙に涙を拭く。


「しかし……ジュンの奴も本当に不器用だな。自分の苦しみを一人で抱え込んでいるなんてね」
 いきなり笹塚がそんな事を言い出すものだから、どういうことかと訊き返す。


「ほら、さっき言ったと思うけど、ジュンの奴半年当たり前から、人形制作でスランプに陥ってたんだ。でも、誰にも相談しようとしなく、下宿にずっと閉じこもりきりだったらしいんだ。現地の師匠や世話になっている大家さんにも顔を合わせることを嫌がっているぐらいだったからな」
 それって……どういうこと?そんなことがあったのぉ?
 私はただ、笹塚の話にじっと耳を傾けた。


「中学のころもそうだったろ?人間不信の気が強くなってしまって、学校にほとんど来なかった時があったじゃない?あの時とまったく同じだよ」
 そう、彼の言うとおり、ジュンは学校の人間関係が原因で不登校が続いた時があった。その時は相当手を焼かされたっけ。
 彼の姉の、のりと一緒にジュンの部屋の外で夜を明かしたこともあったわねぇ。
 しつこく登校をさせようと家庭訪問してくる担任に、今日はそっとしておいてと言ったら、拒否されたので、それで大喧嘩したこともあった。

 結局、2ヶ月近くそうしたすったもんだの末に、ジュンは学校に来るようになった。もっとも、私がずっと傍について、彼をからかう奴らをボコボコにして、問題を起こしてしまったこともあったけど。


 あの時は――私もジュンも一緒にいたいと思っていたわねぇ……。
 それなのに――どうして今はこんなに冷めちゃったのかしらぁ……。
 私もジュンも……。


「俺ものりさんからその話を聞いて、2ヶ月前から電話しまくったけど、なかなか出なくてね……ようやく一昨日に出てくれたよ」
「そうなの?」
「ああ。そのときのあいつは本当に元気がなかったぜ。大家さんが一生懸命あいつにじっくり話してくれたおかげで、ようやく外に出られるようにはなったらしいが。
 もっとも、のりさんがその時に電話して、あいつと話したのが決定打になったけどな」
 その時、私のことは……何か言ってなかったの?


「もちろん言ってたよ。水銀燈は今どう思っているのかなってね。
 4ヶ月近く音信不通にしてしまっているから、思い切り怒っているだろうなって。
 携帯に掛けても繋がらないって言ってるし」
「え?私の携帯にそんな着信はなかったわよぉ?」
 仕事につく前に携帯を確認したのだが……確かに誰からの着信はなかった。
 メールすらも。
 そんな嘘を言ってどうするつもりなのぉ?
 どこか苛立ってきて……呆れてしまいそうになる。


「実を言うと、俺もこの店に来る前に君の携帯に掛けたのだけど……繋がらなかったよ。お客様のご都合により繋がらないってメッセージが流れていたぜ。着信拒否かなんかしてるんじゃないか?」
「そんなことないわぁ……あっ?」
 そこまで言いかけたとき、私はふと思い出した。


 そういえば――先月の携帯代金……払った記憶がないわぁ……。


 大ポカもいいところだった。
 携帯代金を払っていないのだから、繋がらないのは当たり前。
 他の友人からの着信やメールがないことで気付くべきだった。
 家の電話についても、学校やバイトばかりで出られないのは当たり前だ。
 しかも留守録機能もないので、着信があったことすら分からない。


 ってことは……私が勝手にジュンが私を見捨てたって思い込ませちゃったわけぇ?
 何やってるのよぉ、私。


「恐らく、ジュンのことだから、相当君が怒っていると思って怖がっていると思うぜ。
 とにかく……」
 そこまで笹塚が言いかけたとき、それを遮るかのように店の男が私の横に立って、囁いてきた。
「灯ちゃん。ご指名のお客様がお待ちだよ、ここの次は6番テーブルに行ってね」
「分かったわぁ」
 私はそう返事を返して、笹塚の方に向き直る。
「どうやら、指名が入ったみたいだね。君って結構この店で人気があるのかな」
「まあねぇ」
 現に、私を指名してくる人も多い。
 なんでも、日本人離れした私の容姿が気に入った人が多いらしく、店に入って3ヶ月だというのに、指名度はトップ10に入っているぐらいだ。
「じゃあ、そろそろ俺もおいとまするかな。こっちも楽しかったよ」
 笹塚はワイングラスに残っているワインを一気に飲み干す。


「ごめんねぇ。話の途中で」
「いいよ。とにかく、ここで清算という事でね」
 私は店の男に伝票を持ってくるように伝える。即座に、伝票がテーブルの上に置かれる。
 笹塚はそれを手にして――額は結構なものになっていたけど――特に気にする様子もなく、レジでカードを出して会計を済ませる。
 学生なのに、そんな額本気で払えるの、って疑問は多少あったが。


「大丈夫。この間パチスロで大勝ちしたし。ストックは大量にあるから」
 笹塚は平然とそんなことを言ってのける。
 そして、私が付き添いながら店の出口まで彼を送り出す。


「今日は楽しかったよ。ありがとう」
「私もよぉ。じゃあねぇ」
 私はじっと彼が街の雑踏に歩き出すのを見ていた……その時。


「とにかく、後でジュンに電話してやれよ。お前のこと本気で待ってるらしいから」
 笹塚はそう言って、木枯らしの吹く夜の銀座の雑踏に消えていった。
 そんな彼を見送り、次の指名客のもとへと向かう時に……ふと思う。


 本気で待っている……かぁ……。
 そうならなんで素直に私に言ってくれないの……。


 でも……昔からジュンはそうだったわねぇ。素直じゃないというか……不器用というか……どこまでも子供ねぇ。


 私はそう思いながら、次の指名客のいるテーブルへと向かった。
 そこには恰幅のいい中年の男性が待っていた。常連の人だった。
 私は愛想笑いを浮かべて、その横にそっと座る。


 内心は――ジュンの顔を思い浮かべながら……。


 やがて、店は閉店の時間を迎え、後片付けを済ませると、店の男性が私の家まで車で送ってくれた。
 すでに午前2時を回っていた。


 誰もいない家。
 それもそのはず、私は一人暮らしなのだから。


 暖房を付ける。冷え切った室内に暖かい風が一気に吹き込む。
 部屋が暖まる間に、シャワーを浴びることにした。


 熱い湯が冷え切った体を一気に温める。
 すっきりした後でシャワーから出て、濡れた髪をドライヤーで乾かす。


 その間――ずっと、私の目はあるものに集中していた。


 ベッドの横にある電話。


 向こうは確かまだ夕方5時のはずだから、ジュンは起きていると思う。
 髪を乾かし終えると、ベッドに座る。


 そして、そっと受話器に手を伸ばすが……ダイヤルする気にはなれない。
 どこかためらってしまう。


 もし……笹塚の言うようにジュンが私を待っているのなら、すぐにも電話してあげなければとも思うのだが、その反面、こんなことも思ってしまう。


 ――私のことなんかはどうでもよいと思っているのでは?


 何せ3ヶ月も連絡を取っていなかったのだ。
 ジュンが電話に出たときに……そんな素っ気無い反応をされたら……。
 私はどうなるか分からない。
 それこそ、悲しみで何もできなくなるかもしれない。
 
 そうなることを一番怯えている――弱い私がいた。


 さらに、これまでのジュンへの苛立ちの感情なんかが渦巻いて、どうしても、彼に電話を掛ける気にならない。

 30分ほどだろうか。
 私はそんな事を繰り返しながら……ずっと悩んでいた。


 やがて……仕事の疲れなんかが一気に来て……そのまま眠ってしまった。


 ――どこか霧の中にいるようだった。

 どこかの古い西洋の街中にいるようだが……天にも上下が逆になった街がある不可思議な街。
 行き交う人は誰もいなく、私がただ一人いるだけ。


 私は何気なく背中に生えた黒い翼を使って、その奇妙な空間を飛び回っていた。


 私は人形。誇り高きローゼンメイデンの第一ドール。
 堕天の逆十字の背負わされたドール。


 誰もいないはずの街に中に灯りが一つ。


 そっと私はその窓に近づき……中を覗き込む。


 ――あれはジュン?


 ジュンが……部屋の中で椅子に座りながら……私に背を向ける形で頭を抱えて悩んでいた。


 そっと窓を開けて、中に入り込む。
 ジュンはそれにはまったく気が付く様子がなく、ただ何かを呟きながら、悩んでいるだけ。


「……う……と……」
 何かを呟いているようだが――はっきりと聞こえない。


 私はそっと近づこうとするが……なぜかそれ以上は歩いても近づけない。
 ジュンとの距離が縮まらない。


 何なのよぉ、一体!
 私は翼を広げて、勢いよく飛んで近づこうとしたが……それでも距離は全く縮まらない。


「……う……とう……」
 ジュンはそんな私には全く気付く気配はなく、顔を向けすらしない。


 むかつくわぁ!私のフィールドで思うように近づけないなんて!
 苛立ちながらもさらに、勢いをつけてジュンに向かうが、やはり結果は同じ。
 まったく近づくことが出来ない。


 その時……彼の呟きがはっきりと聞こえた。


「……水銀燈……」


 ――え?
 途端に目の前が白くなって……。


 目が覚めた。
 まぶしい朝日が部屋の外から差し込んできて、まぶしい。
 よく分からない夢を見た。自分が人形で、ジュンに近づこうとしてもまったく近づけない。


 でも……ジュンは私の名前をただ呟きつづけていて……。


 本当、よく分からない夢ねぇ。


 そう思いつつ、まさか人形になってしまったなんてことはないよね……と、自分の手を見てみる。
 目の前にあるのは……普段から見ている人間の自分の手。
 人形なんかじゃない。


 馬鹿馬鹿しいと思いつつ、ベッドから抜け出て、顔を洗う。
 そして、その中でもふと思う。


 人形だったら――恐らく、気持ちはまったく変わらないかもしれない。
 何十年も何百年も……歳をとらないというのも一緒で、心も全く変わらない。
 嬉しさや恋なんかも……感じないだろう。
 そして――辛さや悲しみも……。


 顔を洗い終えて、郵便物がないか玄関のドアのポストを覗き込む。
 中には携帯電話会社からの郵便と……エアメールが一通づつ。


 携帯電話会社からの方は、滞納により電話を止めており、滞納分をすぐに払えとの通知だった。ご丁寧にも振込用紙までついている。
 早く払っておかなければまずいわねぇ、と思いつつ、その郵便物を机の上に放り投げる。


 そして……エアメールの封筒にそっと目をやる。
 差出人はジュンからだった。


 ――!
 私は即座に封を開いて中を読む。


 ……本当に……本当にお馬鹿さぁんな人ね……。


 私は文面をじっと読みながら、その場に力なく崩れた。
 そのまま呆然と文面を眺め回す。


 ……どこまでも……不器用なんだからぁ……。


 そして、静かに立ち上がると、手紙をそっと机の上に置いた。


 やるべきことはもう決まった。
 ためらいの気持ちは……その時には、もはやなかった。



 ――どこか霧の中にいるようだった。
 どこかの古い西洋の街中にいるようだが……天にも上下が逆になった街がある不可思議な街。
 行き交う人は誰もいなく、私がただ一人いるだけ。
 私は何気なく背中に生えた黒い翼を使って、その奇妙な空間を飛び回っていた。


 そう、またあの時と同じ。
 そして、また悩みつづけるジュンを見つけて、窓を開けて近づこうとする。


「……水銀燈……水銀燈……」
 ただ私の名前を呼びつづけるジュン。


「私は……ここにいるわよぉ!」
 ありったけの声で私は叫んだ。


「……え?水銀燈……?」
 ジュンはゆっくりと私のほうへと振り向いた。
 ずっと泣いていたのか、目を真っ赤にして私をじっと見つめるジュン。


 私はすかさず近づく。迷うことなく。
 人形の体ではなく、人間の体で。
 みるみるうちに2人の距離は縮まって……ジュンの胸めがけて飛び込んで。


 そして、目の前が一気に明るくなって――!


 私は目が覚めた。
 また、奇妙な夢を見たものねぇ。


 でも、今度は違う。
 ジュンに近づいて、彼の胸に飛び込んで……。


 ふとあたりを見回す。
 ロンドンに向かう飛行機の中。
 乗っているのは少しの日本人と、海外の人が多数。


 外はすっかり暗くなっていた。
 窓の外をふと眺めてみても、遠くに赤い空が微かに見えるだけ。
 眼下には雲が延々と広がっていた。
 ロンドンのヒースロー空港に着くのは、夕方4時頃だというけど、冬の時期では緯度の関係で、すでに日が暮れているいう。


 あのジュンからのエアーメールを見たとき、私は即座に行動に出た。
 パスポートを申請して、銀座のホステスのバイトも辞めた。


 もう……そんなことしてジュンの事を忘れる必要なんてないから。
 ジュンのことを忘れるなんて嫌だから。


 ジュンが大好きなのだからぁ!


 電話で話すなんてまどろっこしい。
 私は、ジュンからのエアーメールを読み返した。


『君の顔が見たいよ』
 まったく、こんなこと書かれたら電話だけ済ませるわけにはいかないじゃなぁい。


 それから数日後、荷物とその手紙を手にしながら、迷うことなく成田空港へと向かう。第一ターミナルの北ウイングで搭乗手続きを済ませ、正午過ぎに出るロンドン行きの飛行機に飛び乗った。


 眼下でみるみるうちに小さくなる日本の街並み。
 まるで、すべてを捨て去り飛び去っていくように。
 そして、やがて眠くなって……あんな夢を見た。


 本当……不思議ねぇ。
 あんな夢を見たかと思ったら、こんな手紙が届くなんて。
 ためらいの気持ちはあったけど……これらのおかげで吹っ切れた。
 ジュンを愛する気持ちに素直になれたわぁ。


 今、思うとあの夢は……私のジュンを愛する心と……私を呼ぶジュンの愛が生み出したものかもしれない。
 本当、愛は不思議ね。


 LOVE IS MYSTERY……。


 ふとどこかで聞いた、私が生まれる前にヒットした中森明菜の『北ウイング』という曲のワンフレーズが頭に思い浮かんだ。


 翼を広げて、あなたのもとに向かっているわぁ、ジュン。
 もっとも夢のように翼はないけど、飛行機でねぇ。


 飛行機はやがてロンドンに着く、というアナウンスが流れる。シートベルトをつけるように指示が出たので、それに従う。
 やがて飛行機は高度を徐々に落として、雲の中に突っ込む。
 この雲の下には……ジュンが待つ霧の街がある。


 ジュンに会ったら……まっすぐ彼の胸に飛び込んでやるわぁ!あの夢と同じように!
 それが、あの手紙への返事よぉ。
 本当に……私はジュンのことが大好きなのだからねぇ!


 窓の外は雲でまったく見えなかったが、それも終わる。
 雲を飛び出し、眼下に見えてきたのは微かに見えるロンドンの街の灯り。

 飛行機は、ゆっくりと霧が少し掛かっている、街の灯りへと向かっていた。

               ~fin~


注:本スレに記載した内容を少し改変して掲載しております。

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