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  『寝かせた恋は 甘い恋』


西の空が、うら寂しげに暮れなずむ、金曜日。
彼は、駅の自動改札を出るとキオスクの隣に寄って、待合い人を探した。
左腕の時計に目を落とす。約束した時間には、少しばかり間がある。

「早く……来すぎたか」

独りごちて、彼は鼻で、ふぅ……と吐息した。
遅刻せずに済んだ安堵と、彼女に会えない落胆が、綯い交ぜになった溜息。


駅構内に流れる、列車の到着を告げるアナウンス。
程なく、改札から人の群が押し出されてきた。
満面に疲労を貼り付かせて行き交う人々の流れは、どこか緩慢で、気怠い。
ずっと観察していたら、なんとはなしに気が滅入ってしまった。

(……居ないな。次の電車に、乗ってるのかもな)

そんな希望的観測をして、強引に気分転換を図った。
湿気た顔で出迎えたら、彼女に要らない心配をかけさせてしまう。
折角のムードが、白けてしまうではないか。
これから、二人だけの夜が始まるというのに……まったく、無粋というものだ。

小さく頭を振って、彼――桜田ジュンは、肩を落とした。「まだまだガキだよな、僕は」

駅構内の喧噪に紛れて、再び、アナウンスが流れる。
腕時計を確かめると、ほぼ約束どおりの時間を表示していた。
今度こそ、彼女は来る。この電車に乗っている筈だ。

ジュンは目を凝らして、改札に彼女の姿を探した。
きっと笑顔で出迎えようと、心に決めて……。


――だが、今度も彼女は来なかった。


彼女は社会人。時間にはそこそこ厳格だし、遅刻することが分かっているなら、
電話のひとつも入れる分別をもっている。
いつもなら、待ち合わせ時間前に、連絡が入っていた。
なにか急な用事ができて、電話を掛ける余裕すら無いのだろうか?

「こっちから、かけてみるか」

彼女の携帯電話にダイヤルしてみたが、どうやら圏外に居るらしくて、電波が繋がらない。
一体、彼女は今、どこに居るのだろう?
こっちに向かっている最中ならば良いが、もしも――

(事故か何かに巻き込まれたりしてたら、どうしたら良いんだ?)

不吉な可能性を危惧した途端、駅のアナウンスが、人身事故発生を報じ始めた。


ぎくりと、ジュンは身を強張らせた。あまりにもタイミングが良すぎる。
携帯電話でリダイヤルしてみたが、結果は相も変わらず。

まさか……いや、そんな筈は……でも、やっぱり……。
悪い予感が、縁起でもない妄想を生み、更なる焦燥を煽る。
心臓はバクバクと脈打ち、過呼吸気味になって、ジュンの視界がグラリと揺れた。
ひどく気分が悪い。胃が握り潰されているかの様に、キリキリ痛む。
口を手できつく押さえて、吐きそうになるのを懸命に堪えた。

(落ち着けよ……まだ、事故に巻き込まれたと決まったワケじゃないだろ)

いくらか気分が静まったところで、ジュンは駅員を捕まえて、説明を求めた。
事故の原因や、復旧見込みを訊ねたのだが、見通しは立っていないの一点張り。
ジュンは諦めて、一旦、外の空気を吸いに、駅舎を出た。


既に日は落ち、すっかり夜の帳が降りている。
時間を確かめると、彼が到着してから四十分以上が経っていた。
そろそろ、もう一度、電話してみてもいいだろう。
携帯を取り出したジュンの耳に、
彼と同じく、友人と待ち合わせらしい女の子二人の会話が飛び込んできた。

「眼鏡を掛けた女の人が、ホームから落ちたんだって。
 あの子、轢かれる瞬間を見ちゃったみたい。電話の向こうで、メッチャ落ち込んでた」
「うわ……やだぁ。じゃあ、今日は止めとく? 電車も動きそうにないし」


轢かれた?
誰が?

女の人……が? それに……眼鏡を掛けてたって?
眼鏡を掛けた女の人が、電車に轢かれただって?!?!
それって、まさか――


眼鏡を掛けた女性など、老若を問わず、どこにでも居る。
彼女である可能性はあれども、確率的に、極めて低い数字だろう。
だが、ジュンは慌ただしくリダイヤルの操作をして、携帯電話を耳に押し当てた。
「ごめーん!」と、彼女の陽気な返事を期待、切望していたけれど、
返ってくるのは不通のアナウンスだけ。『電源が切れているか、電波の――』

(あーもうっ! 間怠っこしいなっ)

ならばと、マンションの電話にダイヤルしてみるが、留守電に切り替わってしまう。
再生される彼女の音声が、虚しく頭の中を通り抜けていく。
膝がカクカクと震えて、今にも頽れてしまいそうだった。
受話器の中で、ピーッと、甲高いビープ音が鳴り響いた。
我に返ったジュンは、掠れて、消え入りそうな声で、彼女へのメッセージを吹き込んだ。


「もしもし…………あの…………僕…………」

どうにも、留守電は苦手だった。
急にメッセージを吹き込めと言われても、何から伝えればいいのか分からなくなるから。
すぐにでも、なにか喋らなければいけないのに――
早く! 早く! 時間がなくなってしまう。

「ずっと…………待ってるから」

無限にも思える数秒の後、それだけを口にして、ジュンは通話を切った。
彼女は、このメッセージを聞いてくれるだろうか。
それとも……。


不吉な妄想が、頭の中で、際限なく膨らんでいく。
もしかしたら、彼女が永久に、目の前から消えてしまうかも知れない。
それは彼にとって、とても恐ろしく、とても哀しいことだった。
産まれて初めて、心の底から一緒に居たいと思えた女性(ヒト)なのに――
彼女が居なくなってしまったら、もう二度と、恋など出来ないだろう。


ガードレールに腰を預け、手の中でクヨクヨと携帯電話を玩びながら、待ち続ける。
冷えてきた夜風に身震いすると、ジュンはパーカーのフードを立てて、背を丸めた。
視線は、タバコの吸い殻が散らばるアスファルトの上を、当て所なく彷徨う。
早く会いたい。彼女の肉声が聞きたい。心に浮かぶ思いは、ただ、それだけ。

もの凄い力で背中をド衝かれたのは、彼が湿っぽい溜息を吐いた直後だった。

「ごめぇん! すっかり遅くなっちゃったぁ!」

威勢のいい声は、渇望していた声。
振り返ると、息を弾ませ、額にうっすらと汗を滲ませたスーツ姿の彼女が居た。

「今日、家に携帯電話を忘れてきちゃったのよぉ。
 そのうえ、ギリギリ間に合うかと思ってたら、事故で電車が止まっちゃうし。
 仕方なくタクシー拾おうとしたんだけど、こっちもまた事故の煽りで混――!?」

ジュンはガードレールから腰を上げて、なんやかやと早口で弁解し続ける彼女を、
力強く抱き締めた。彼女が息を呑む音が、ハッキリと聞こえた。

「ちょ……ちょっとちょっとぉ。こんな所で、いきなり……」
「よかった」
「えっ?」
「来てくれて……本当に、よかった」
「…………ジュンジュン」

「ごめんなさい」赤面した彼女――草笛みつの細い腕が、ジュンの肩を包み込んだ。
彼女の方が、まだ背が高い。囁く声は、頭上から降ってきた。「心配させちゃったね」

「いいよ。女性を待つのは、男の甲斐性だから」
「へえぇ……言うわねぇ。カッコいいぞ、ジュンジュン♪」
「からかわないでくれよ」
「あははっ。ごめんごめーん。さぁ、冷えてきたし、早く行きましょ」

手を繋ぎながら、彼女のマンションに続く街路を歩く二人。
足の下で、ケヤキの落ち葉が、サクサクと小気味よい音を立てる。
夜風に身を震わせて、みつはひとつ、くしゃみをした。

「寒いのか」
「うん……ちょっとね。さっき掻いた汗が、冷えたみたい」

こんな時、大人の男だったら、何も言わずに着ているコートを掛けてあげるのだろう。
けれど、ジュンが着ているのは、フード付きのパーカー。
どうしてもっと、気の利いた上着を着てこなかったのだろうか。
ジュンは、自分の子供っぽさと不甲斐なさが許せなくて、奥歯を噛み締めた。

黙りこくって目を伏せ、顔を背ける少年の態度から、みつは彼の心境を察したらしい。
小さく笑うと、控えめに身を寄せ、ジュンの肩に両腕を巻きつかせた。
顔を近付けたことで、彼女の前髪が、さわさわとジュンの耳をくすぐる。
ふうわり……と漂う大人の女性の匂いと相俟って、彼は眩暈を覚えていた。


「今日は、ホントにごめんね。外で、お食事する予定だったのに」
「別に……事故だったんだから仕方ないし、それに――」
「それに?」
「外食って、落ち着かないから、あんまり好きじゃないんだ」

言って、ジュンは胸元にあった彼女の手に自らの手を重ね、優しく握り締める。
少し放していただけなのに、みつの手は、もう冷え切っていた。

「僕は、みっちゃんの料理が好きなんだ。この世で一番、うまいと思ってる」

ジュンが照れくさそうに伝えると、みつは「それは褒めすぎよ」と苦笑した。
けれど、夜目にも判るほど頬を上気させている辺り、満更でもないのだろう。
みつはジュンの肩を抱いたまま、そっと呟いた。

「でも……ジュンジュンにそう言ってもらえると嬉しいなあ。
 気持ちが舞い上がって、一週間の疲れが吹き飛んじゃう」
「大袈裟だなぁ」
「疲れてる時にテンション上げようと思ったら、大袈裟すぎるくらいで丁度いいのよ」

そんなもんかな、とジュンは失笑した。



彼女の部屋で過ごす時間は、いつでも、ゆったりと流れていった。
それはきっと、心から安らぎを感じているからなのだろう。
テーブルを挟んで食事をしたり、共通の趣味の話でヒートアップしたり、
ソファで片寄せ合って座り、未成年だけど――ちょっとだけお酒を嗜んでみたり。

ジュンにとって、この素敵で幸福な時間は、かけがえのない宝物だった。
彼女と重ね合わせる時間に比べたら、100億円の札束ですら、紙きれの山でしかない。
そう思えるくらいに、彼女の存在は大きくなっていた。

「あら?」話の合間に、みつが電話機に目を留め、声を上げた。「留守電が入ってる」

さっき、ジュンが吹き込んだものだろう。
みつはソファを立って、電話機のメッセージを再生した。


 『もしもし…………あの…………僕…………



  ずっと…………待ってるから』


少年からの、重く沈んだ伝言を聞いて、彼女は噴きだした。

「これって、ジュンジュンよね? 随分と思い詰めてる喋り方じゃない?」
「ああ……それって、さっきの人身事故のときのだ。
 何度も携帯にかけたけど、連絡が付かなかったから」
「あ、な~るほど。それで……かぁ」

笑いながら、みつは再び、ジュンの隣に腰を下ろした。
そして、意味深長な眼差しで、彼の横顔を覗き込む。

「私がなかなか来ないから、寂しさが募っちゃったのかなぁ?」
「それも確かにあったけど……それだけじゃなかった」
「ふぅん?」
「馬鹿げた発想だって、笑われるだろうけど――」

前置いて、ジュンはあの時の心境を、彼女に話して聞かせた。
待てど暮らせど連絡が無くて、やきもきしたこと。
もしかしたら、事故の被害者が、彼女かも知れないと思ったこと。

「もう二度と会えなくなったら――
 そう考えた途端、胸が息苦しくなって、張り裂けそうになったんだ」

何も映していない真っ暗なテレビ画面を眺めながら、ジュンは独りごちた。
みつは何も言わず、たおやかにワイングラスを傾ける。
その仕種は、話の続きを促しているようにも感じられた。

「僕の周りには、幼なじみや親友の女の子が何人か居る。
 それって凄く恵まれてると思うし、実際、幸運なんだろうな。
 だけど、どの娘も本気で好きにはなれなかった。友達以上、恋人未満……そんな感じ。
 他人との触れ合いに不慣れだった僕は、適度に距離を置いた惰性の付き合いを望んでた。
 そして、愛しいと思える女性に出会えないまま、僕の中で、恋心は眠り続けていたんだ」
「――――そっかぁ」

黙って彼の話に聞き入っていた彼女が、張り詰めていた緊張の糸を緩めるように、
静かな溜息を漏らした。「その点では、私たちって似た者同士なのね」

「みっちゃんは大人だし、僕なんかよりずっと、恋愛の経験を積んでるんだろ」
「長く生きてるからって、出会いの回数が多いとは限らないわよ。
 私はね……下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって打算的な恋なら、したくないの。
 焦って、苦労を背負い込んで……結局、数年で別れるなんて人生のムダだと思わない?」

そう言うと、みつは程良く酔いが回って、妖しく潤んだ瞳をジュンに向けた。

「私はねぇ、もっと燃え上がるような恋がしたいの。
 炎の上で綱渡りをするみたいに、スリリングで情熱的な恋がしたい。
 だから、私も胸の奥底に、恋心を眠らせていたわ。いつか訪れる、素敵な出会いを夢見て――」

それは多分、老若男女の区別なく、恋愛に対して抱く理想だろう。
素敵な出会い。燃え盛る恋。めくるめく愛の日々。
多くの者は、理想を現実にしようと努力し、その手に掴もうとする。
行動なくして結果は得られないのだから。

本来ならば、ジュンも、みつも、努力の足りない負け犬になり果てる運命だ。
けれど、彼らの間には何か――他人には働かなかった不思議な力が作用していた。
陳腐な表現を用いるなら、正に『運命の出会い』『赤い糸で結ばれた仲』だった。


「私たちが眠らせ続けていた気持ちって、ワインみたいに熟成されているのかなぁ」

みつがゆっくりとグラスを回すと、ワンテンポ遅れて、深紅の液体が波打った。
ジュンも彼女に倣って、ゆらゆらとワインを攪拌する。
フルーティな香りが幽かに立ちのぼったそれを、ひと口だけ呷って、言葉を返した。

「ワインのことは、よく解らないよ。
 お茶の葉に例えたら、発酵が進んで、紅茶になってるところか」
「私たちの関係は、ブレンド茶ってコトね。どんな味が出せるのかしら?」


彼女の問いにジュンは、そうだなあ……と、言葉尻を濁した。
本当のところ、返答はもう用意できている。気恥ずかしくて躊躇しただけだ。
でも、酒の力を借りている今ならば、言えるかも知れない。

グラスに残っていたワインを一気に飲み干し、ひとつ咳払いして、
ジュンは徐に口を開いた。


「ほろ苦くて渋みが強いけど、仄かに甘味があってスッキリした味わい、かな?」
「なるほどね。私、そういう味って好きよ。大人びてて、イイ感じ。
 にしても、ジュンジュンってば……今夜は珍しく多弁ね。酔ってるぅ?」
「……当然だろ。酒、呑んでるんだから」

悪戯っぽく唇で三日月を描き、顔を寄せてくる彼女。
気恥ずかしくて、ジュンは赤面しながら、逃れるように顔を背けた。
――が、すぐに向き直ると、ちょっとだけ吃りながら、

「あのさ――」

酔った勢いに任せて、一大決心を解き放った。
シラフでは絶対に口ごもってしまうだろう、大胆発言を。


「少し、酔いすぎたみたいだ。
 汗も掻いたし……その…………一緒にシャワー、浴びないか?」
「うわ……大胆ねぇ、ジュンジュン」

みつは一瞬だけ目を丸くして、艶麗な笑みを浮かべた。


「……もしかして、甘えちゃってる?」

こくりと無言で頷いた直後、ジュンの頭は彼女の胸へと抱き寄せられていた。
そこは温かく、柔らかくて……ほんのりと、酒臭い汗の匂いに満ちあふれていた。
けれど、決して不快ではない。寧ろ、安らぎを感じさせてくれる。

「もしかして、みっちゃんのせい? みっちゃんが生きてるせい?」
「うん……きっと、そうだよ。
 みっちゃんが生きててくれるから、僕は明日を夢みることができる。
 一緒に居たいと想う気持ちが、僕に生きる希望を与えてくれるんだ」

ジュンは、みつの胸に頭を預けたまま、彼女の引き締まったウエストに腕を回した。
触れ合った箇所が、あっと言う間に汗ばんでいく。
暑いのは、酒気を帯びているせいだけではないだろう。

「こんなにも誰かを好きになる日が来るなんて、思ってもみなかったな」
「……そうね。私も――」

みつの掌がジュンの頭を撫で、指が髪を梳いてゆく。
たったそれだけでも、ジュンは背筋に痺れるような快感を覚え、惚けたように吐息した。


「ねえ、ジュンジュン」
「…………ん」



「シャワー…………浴びにいこっか」




「…………うん」


二人は抱き合ったままソファを立って、千鳥足を支え合いながら、浴室に消えていった。
熟成した恋の、苦くて甘い喉ごしを楽しむために――

そして……二人の創造的な夜は、更けゆく。



  おしまい
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