薔薇水晶の父、槐さんの人形店にて。
「お~い、ちょっとこれ持つの手伝ってくれ」
 槐さんが段ボール箱を手にして……ふらついていた。
 足元はふらついていて、箱を持つ手も時折震えている。
 バランスを崩したら今にも転びそうな勢いだ。
 見ている私も危なっかしいと思ってしまう。
「手伝った方がいいのかな?」
 桜田君も同じ事を思っていたのか、不安げに彼を見守っていた。


「……お父様……大丈夫ですか……」
 これを見た薔薇水晶は即座に槐さんの手にしていた段ボールを――軽々と持つ。
「やれやれ、ありがとう薔薇水晶。とにかくそこの戸棚の前にでも置いてくれ」
 当の槐さんは息を切らしながら、娘である薔薇水晶に優しい微笑を向ける。
「…………」
 薔薇水晶は何も言わず、荷物を降ろすと槐さんの方を向き、一言言う。


「……お父様は体力がなさすぎなのです……。運動不足もはなはだしいのです」


 ガビーン!
 途端にムンクの叫びのような表情になって固まる槐さん。
 どうやらかなり気にしていることを直球で言われて、すっかり落ち込んでいるのが手に取るように分かる。


「……そんなヘタレなお父様は……お父様とは思えません……父親失格です……」
 さらに止めの一言。
 槐さんを失意のどん底に突き落とすには十分すぎる言葉だった。


「ち、父親失格ぅ~!? ぼ、僕はどうすればいいんだぁ~!!」
 涙を流しながら絶叫する槐さん。鼻水まで流してしまっている。
 というか、父親として……それ以前に人間として情けない行動だと思うのですけど?
 もう、馬鹿丸出しで噴出したくてたまらないのですけど?
 まあ、それは置いておいて。


「……今度の休みに山登りに行きましょう……工房に篭ってばかりでは体が鈍ります……」
「や、山登り?そんなのはかなり昔にした位で、それからずっとやってないな」
 真っ赤にした目をまん丸にする槐さん。
「……そうです……今は丁度紅葉の季節……自然に触れるのもよいでしょう……」
 薔薇水晶は槐さんに優しい視線を向ける。
「そうだ、そうしよう!自然のいい空気をすわなくてはな!」
 途端に元気になって薔薇水晶の手を握る槐さん。
 そう、それはまるで神に救いの言葉を頂いた人間のように。
「じゃあ今度の週末にでも行きましょう……というわけで……」
 槐さんに手を握られたまま、私達の方を振り返る薔薇水晶。
「ジュンも巴も……付き合って……」
 別にいいけど。
 まあ、山登りもいいかもね。
「僕もいいけど……」
 桜田君も特に反対していない様子だけど……彼も運動不足だからね。
 正直言ってあまり乗り気でないのが表情に出ている。
 でも……彼の軟弱な根性を叩きなおすにはいい機会と思うし。
 拒否したら拒否したらで、木刀で2、3発殴ってやればいいか。


 で、どこの山に登るつもり?
 丹沢?箱根?高尾山?
 それとも思い切って富士山に行くとか?


「……ずばり谷川岳……」
 悪くないね。
 登山のメッカの一つで、渓流から高山植物までのんびり楽しめそうだし。
 私はもちろん二つ返事で頷く。
 もっとも、桜田君や槐さんに至っては、まさかなんて思っているのか、口をあんぐりと開けているけど。


「……となれば……今度の土曜に決行♪」


 というわけで、土曜日。
 私は桜田君を木刀で叩き起こすと、登山道具を手にして家を出た。駅で薔薇水晶および槐さんと合流して、始発電車に乗り込んだ。
 電車を乗り継ぎ、高崎で上越線に乗り換える。車内は休日の朝であるにもかかわらず、多くの人でごった返していた。しかも服装や荷物を見ると、老若男女を問わず、いかにも登山をするぞという人ばかりである。
 座席には座れず、結局終点の水上まで立ちっぱなしではあったが、窓の外に広がる紅くそまった山々に利根川の清流を楽しめたのでよしとしよう。
 もっとも、桜田君がかなり疲れていて席に座っていた年配の登山客らしき人に心配され、譲ってあげましょうかと言われて、桜田君がその好意に甘えようとした時には、思わず木刀で百叩きにしたけど。
 まったく……朝イチからヘタレっぷりを見せないでよね。


 谷川岳の玄関口である水上駅。
 電車が到着すると、乗っていた登山客が一斉に降り出し、改札を出るか、隣のホームに停まっている長岡行きの列車に乗り込むかしていた。

「……ここで乗り換え……」
 薔薇水晶はためらうことなく隣のホームに停車している列車目指して走り出す。
「薔薇水晶、ちょっと待ってくれぇ~!」
「走るなよな。なんでこんな朝っぱらから……」
 早速情けない声を上げながらもついてくるヘタレ男2人。
 持っている荷物もあえて軽い奴にしてやったのに……。
 隣のホームへ行く跨線橋の階段を上ったぐらいで息を切らしているなんて。
 本当に軟弱ったらありゃしない。


 電車はさすがローカル線とだけあって2両編成だったが、車内は登山客で超満員だった。しかも皆がかなりかさばる登山用の荷物を持っているため、余計にスペースがなくなっている。
 車内に体を押し込む。なんとか、全員乗ることは出来たが、それ以上は周りの人に押されて身動きが取れない。朝に通学するのに満員の電車に乗るけど、それと全く変わらない。
「で、どこまで行くの?」
「……ここから……2駅先……」
 薔薇水晶がぼそりと呟いた時、発車メロディーが鳴り出し、ドアが閉まる。
 そして、電車はゆっくりと動き出した。
 しばらく進むとトンネルに入ったが、電車はそこでスピードを落とし、停車した。
そして、なんとドアが開く。どうやら駅のようだ。
 街中の地下鉄ならともかく、こんな山奥に地下駅だなんて。さすがに驚きだ。


「トンネルの中に駅があるの?」
「……そう……次の駅もそうだよ……」
 薔薇水晶は普段のように無表情でそう答える。
 そこでは誰も降りる気配はなく、ドアが閉まる。
 再びトンネルの中を突き進む。電車のモーターの唸りが結構響く。
 数分間進んだものの、トンネルを出る気配はない。
 かなり長いトンネルだね。


 やがて、電車は轟音を上げながらもスピードを落としていく。
 気流が織り成す唸りが変わったかと思うと、電車は停車した。
 ドアが開くと同時に、これまで車内でじっとしていた登山客が一斉に降り出す。


「……着いた……降りるよ……」
 薔薇水晶は降りるように促してきたので、荷物を手にして電車を降りる。


 駅は本当にトンネルの中で、照明も蛍光灯が数本等間隔に並んでいるだけだった。
 正直言って暗い。街中の地下駅とは全然違う。
 おまけに、空気は湿っぽく、じとじとしている。床も所々濡れている上に、頭上から水滴が垂れている。
 電車はほとんどの乗客が降りるとドアを閉め、轟音を上げながらトンネルの闇の向こうへと走り出していった。


 駅名の看板をふと見ると、ここは土合という駅らしい。
 出口と書かれた電光看板があり、降りた登山客らは一斉にそちらへと向かっている。


「何なんだよ、この駅は」
「まったくだ。んで……エスカレーターかエレベーターはどこだ?」
 桜田君と槐さんは懸命になって、街中の駅ならあるはずの文明の利器を探していた。


「……そんなもん……ない……」
 薔薇水晶は無表情のまま、登山客が進んでいく方向を指差す。


 その先には……延々と上へと続く階段があるだけだった。


「うそぉ~ん」
「マジかよ。バリアフリー対策もないのかよ。しけた駅だな」
 情けない嘆きをあげる槐さんに、不満を垂らす桜田君。


 階段の上り口あたりにこんな看板があるのを目にした。


『ようこそ『日本一のモグラ駅』へ
 この階段は、338メートル 462段あります。
 階段を上り、143メートル(階段24段)の連絡通路を経て、改札口になります。
 また、この下りホームの標高は、海抜583メートル、駅舎の標高は653.7メートルあり、駅舎と下りホームの標高差70.7メートルあります。
 改札口までの所要時間は、約10分要します。
 足元にご注意してお上がりください。 土合駅』


 462段って……とんでもない長さだね。ちょっとこれはきついかも?
 でも、よく見ると5段おきに踊り場があるので、多少はマシかもと思う。
 もっとも、この運動不足の野郎2人は付いて来れるか疑問だけど。


「……とにかく……行くよ……」
 特にためらうことなく、階段を上りだす薔薇水晶。
 私もその後に続く。
 最初のうちは何とでもないものの、100段あたりを過ぎたあたりでちょっと辛くなってくる。背負った登山用の荷物が肩にのしかかる。
 なお、後ろの二人はというと……。


「僕はちょっと休むぞ」
「これ、マジできついって!」
 ぜえぜえと荒い息をしながら踊り場にあるベンチに腰掛けていた。
 てか、休むのが早すぎる。
 こんな調子じゃ日が暮れちゃうよ。
「……ぐずぐずしてたら置いて行っちゃうよ……」
 薔薇水晶は振り返ることなく、速いペースを保ちながら階段を黙々と上る。
「待ってくれ、薔薇水晶」
 咄嗟に立ち上がって、体に鞭打つように歩き出す槐さん。
 桜田君もしぶしぶついて行く。


 200段、300段と登っていった。出口の明かりは見えるものの、あまり近づいている感じはしない。
 もっとも、背後の軟弱男2人が事あるごとに休み出しているからである。
 さすがにこれ以上付き合っていたら、きりがない。


「……とっとと、歩きなさい……」
 薔薇水晶も同じことを思っていたのか、懐から長い水晶の剣を取り出して、槐さんの首もとにあてがう。


 私も木刀を桜田君に向けて振りかざしていたが。


「「スミマセン。行キマショウ……」」
 男二人は冷汗を垂らしながら、おずおずと歩き出した。


 やがて、階段を全て上りきる。
 そこから先は窓のある通路になっていて、外の光がまぶしく差し込んでいた。
 階段は多少あったものの、難なく通り過ぎる。


 ようやく改札口についた。
 ここまで来るのに30分。10分のはずなのに。


「……ここから……登山事務所まで歩くよ……。んで、そこから山登り……」
 薔薇水晶は改札の外を指差す。
 無人駅で駅員の姿はないものの、待合室には多くの登山客が休憩を取っていた。


「薔薇水晶、本気で休ませてくれ。本当に限界だ……」
「ぼ、僕も。これ以上歩けない」
 槐さんも桜田君も顔を真っ青にして、激しく息をしながらその場に蹲っていた。
 表情もかなり辛そうだ。心臓の鼓動がこちらにまで聞こえてきそうな感じである。
「……何寝ぼけたこと言ってるの……こんなのウォーミングアップ……」
「う、ウォーミングアップだって!?十分激しい運動だよ!」
「ほ、本当。十分体は動かせたよ!疲れてたまらないんだ!もう、帰ろう!」
 男二人は何が何でもその場を動こうとしない。


 正真正銘のヘタレ確定だね、こいつら。


「……じゃあ……ゆっくり休んでて……ゆっくり行くし、追いかけてくれたらいいから……行こう、巴」
「そうだね」
 私と薔薇水晶はためらうことなく二人を駅に置いたままにして、外へと出た。
 秋という事もあり、涼しい風が吹き込んで気持ちいい。
 目の前には谷川連峰の山々が見える。所々が赤く染まっていて、これだけでも十分絵になる光景だと思えた。
 登山センター、さらには天神平へいくロープウェーの乗り場までは結構あったも
のの、難なくたどり着く。ロープウェーに乗り込む。
 降りてからは山頂までの登山を楽しんだ。
 高山植物の花など珍しいものを目にすることが出来た。


「……あっ……富士山が見える……」
「本当だね。日本海も見えるよ」
 ようやく山頂まで到着して、そこからの周囲を眺めてみる。
 風が強いこともあってか、遠方にあるものまでくっきりと見えた。
 さすがに汗が流れ落ちていたが、これぐらいどうってことない。


 その後は、ロープウェーで下まで下り、バスに乗ってから水上の温泉街で温泉につかり、夕方には家路についた。
 その帰りの電車の中にて。
「あっ……何か忘れているような気がするのだけど」
「……そうなの……何だったっけ……」


 同じ頃、地元警察に迷子と言うことで大の大人が一人に中学生の男子が一人、ビービーと泣きながら、保護されたというのは別の話。 

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最終更新:2006年10月25日 08:09