『迷いなき剣』


インターハイに向けての強化合宿に入る。
それは夏休みに入って最初の練習を始める前の、ミーティングで伝えられた。
だが、気合いが入っているのは剣道部に限ったことではない。
薔薇学園では来るべき少子化時代を見越して、
長期的な生徒の確保を狙った知名度アップが計られている。
部活動の促進も、その一環だった。

その日の練習を終えて部室で着替えていた巴は、水銀燈に話しかけられて、
ワイシャツのボタンを掛ける指を止めた。

 「どうしたの? 銀ちゃん」
 「合宿ってぇ、学校に泊まり込んでするって言ってたっけ?」
 「また聞き流してたのね。銀ちゃんの悪い癖よ」
 「だぁってぇ……退屈なんだものぉ。最初からプリント刷ってくれれば、
  長話を聞かずに済むのにねぇ」

「仕方がないなぁ」と吐息して、巴は着替えを再会しつつ、
体育教師にして剣道部顧問の呂布先生が話していた内容を繰り返した。

 「冬にスキー教室に行った事あるでしょ。あの時に使われる研修寮で、
  一週間みっちり猛特訓だって」
 「ああ……湖の畔に建ってるとこねぇ。割と好きかなぁ、あの寮」  
 「うん。わたしも気に入ってる。遊びに行くのなら楽しみなんだけど」
 「同感。ま、私は練習そっちのけで遊んでやるけどぉ」

水銀燈は、いつもこうだ。真剣味というか緊張感が殆ど見られない。
そのくせ実力が有るから、巴は常々、彼女の才能を妬ましく思っていた。




水銀燈に勝ちたい。
合宿中、その思いは巴の中で日増しに大きくなっていった。自分の何処に、
こんな執念が眠っていたのだろうと、巴自身が戸惑うほどに。

毎朝、周囲五キロの湖岸をジョギング。
木刀の素振り以外にも、打ち込みや踏み込みの特訓を繰り返した。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
少しでも気を緩めれば、丸一日、眠りこけてしまいそうなほど疲れていた。

 (まだ…………足りない。こんな力じゃあ、まだ――)

水銀燈は技量も高いが、基本的に力で圧してくるタイプだ。
あの重い剣撃を受け続ければ、手が痺れて竹刀を持っていられなくなる。
今までも、序盤を有利に進めていながら最後には逆転負けを喫してきた。

 (あんなに悔しい思いをするのは、もう厭)

でも、どうすれば対抗できるのだろう。
柔よく剛を制するの諺どおりに事を運べれば良いけれど……水銀燈は、そんなに甘くない。
あれこれと悩みながら夕暮れの湖岸をトボトボと歩いていた巴は、
体育教師にして剣道部顧問の呂布先生に呼び止められて、我に返った。

 「煮詰まっているようだな、柏葉」 
 「先生……」

巴は口を引き結び、こくりと頷いた。
勝ちたいけれど、天賦の才能を打ち崩すのは生半可な事ではない。
それは解っていた。解っているけれど――やはり諦めきれなかった。

 「先生。凡人が天才に勝とうだなんて、おこがましいですか?」
 「……水銀燈に勝つのは、並大抵の事じゃないぞ」

呂布先生は直ぐに巴の気持ちを察した。
顧問として二人の対決を見守ってきたのだから当然だろう。

 「やっぱり……わたしなんか、どんなに頑張ったって敵わないですよね。
  だって、彼女は天才なんですから」

何故、こんな事を口走っているのだろう。諦めろと、誰かに言って欲しいの?
下唇を噛んだ巴の横顔を鋭い眼差しで睨み付けた呂布先生は、立ち上がると、
厳しい口調で彼女を叱責した。

 「馬鹿者! ちょっと……付いてこい、柏葉」
 
訳が解らなかったが、巴は言われるがままに呂布先生の後を付いていった。
徐に、呂布先生の足が止まる。随分と寮から離れたけれど、ここで何を?
訝しむ巴の前で、呂布は前方を真っ直ぐに指差した。

 「見ろ、柏葉! あれが、今のお前に足りないモノだっ!」
 「――――えっ?」

呂布の指先を辿っていった巴は、夕日に浮かぶ一人の娘を捉えていた。

 「あれはっ!」 

山頂の寺院へと続く石段を、水銀燈が駆け登っているのが見えた。
足に履いているのはジョギングシューズではなく、鉄ゲタだ。

 「水銀燈は確かに素質がある。だが、あいつの実力を形作っているのは、
  あいつ自身の努力と根性なのだ!」
 「ど、努力と……根性!」

ごくり……と、巴は固唾を呑んだ。
根性はさておいても、努力では勝っていると自負していた。
けれど、目の前に現実を突き付けられて、巴の自信は脆くも崩れ去った。
水銀燈だって、人知れず努力していたのだ。

 「おそらく、今のままの努力を続けても、柏葉は水銀燈に勝てん。
  だが、柏葉の根性次第では、勝利を掴む事も可能だ」
 「!! せ、先生! それは…………本当なんですか!」
 「うむ! 己を鍛えろ! 他を頼るな!」
 「解りましたっ! コー……いえ、先生! わたしを鍛えて下さいっ!」
 「よかろう。早速、今から特訓に入るぞ!」

こうして、熾烈とも思える巴の特訓が始まった。




鬱蒼と樹木が茂る森の中で、巴は木刀を握り締めていた。
彼女の周りには櫓が組まれ、拳大の鉄球が幾つも梁から吊されている。
梁と鉄球を結び付けているロープの長さも、それぞれ変えてある。

 「では、ゆくぞっ」
 「はい……お願いします!」

呂布先生は怒号を発すると、手にしていた角棒を振り回し、
次々と鉄球を弾き飛ばし始めた。四方八方から、鉄球が巴に襲いかかる。
 
 「っはああぁっ!!」

 ががっ! がつっ! がんっ!
 ボゴッ!

 「くはっ!」

最初の数個を弾き返した直後、巴は背中に鉄球の直撃を受けて突っ伏した。
余りの痛みに息が詰まる。だが、呂布先生は容赦なく巴に罵声を浴びせた。

 「さっさと立てっ! お前の根性は、そんなものかっ!」
 「! ……っく。つ、次……お願いしますっ!」 

そして再び繰り返される惨劇。
巴は幾度となく打ち据えられては、その度に、不屈の闘志で立ち上がった。

――絶対、銀ちゃんに……勝つ!!




深夜の大浴場で、巴は独り、湯船に浸かっていた。
身体中、打撲の痣だらけだ。通常の合宿メニューをこなした後での特訓は、
想像以上に過酷なものだった。

 「こんな怪我、みんなには絶対に見せられないよ」

幸い、この寮には打撲や痣の治癒に効果があると謳う温泉が引き込まれている。
本当のところは分からないけれど、信じる者は救われると思っておこう。
ぬるい湯の中で四肢を伸ばすと、心なし身体中の軋みが和らいだ気がした。

更衣室に誰も居ないのを確認して、巴は手早く服を着た。
夏とはいえ山の夜は肌寒いので、ジャージの上下をしっかりと着込んでいる。
勿論、痣を隠すためでもあったが。

 「さて、早く部屋に戻って寝よう」

明日もまた、地獄の特訓が待っている。明日が終われば、また次の日も。
少しでも体力を回復しておかないと……。

更衣室を出たところで水銀燈とばったり出くわし、巴は小さな悲鳴を上げた。

 「あらぁ? 巴ぇ、こんな時間に、お風呂はいってたのぉ?」
 「ち、ちょっと寝汗かいて気持ち悪かったから。じゃあ、おやすみ」
 「ええ、おやすみなさぁい」

巴は逃げるように、その場を後にした。




 どかあっ!

 「うあっ!」
 「馬鹿者! 剣は、もっと円を描くように扱えと、何度いえば解るっ!」

仰向けに倒れた巴は、夕日に染まる空を見上げながら呼吸を整えた。
初日に比べれば格段に弾き返せる回数も増えたが、あくまで最初だけだ。
振り子のように揺れて戻ってくる鉄球には、どうしても注意が行き届かない。

 「どうしたっ! もう終わりか、腰抜け!」
 「くっ! わたしは……腰抜けなんかじゃ……ないっ!」

木刀を杖代わりにして、巴は立ち上がった。身体中が痛い。
こんな無茶苦茶な特訓を続けてきて、よく骨の一本も折らずに済んでいるものだ。
下手をすれば頭に当たって、死んでしまうかも知れないのに。

だが、巴は不思議と恐怖を感じなかった。
巴の心を占めていたのは、水銀燈に勝つという執念のみ。
こんな事で死んでしまう様なら、天才を打ち負かすことなど出来よう筈もない。

 「もう一度、お願いしますっ!」

そんな巴の鬼気迫る形相を、木陰から覗き見る人影があった。




今夜も、巴は独りで風呂に入っていた。温泉の効能か、打ち身の治りが早い。
尤も、翌日には新しい痣が出来ているから、元の木阿弥だけれど。

湯船でリラックスしていた巴は、ついウトウトとし始めた。若いと言っても、
連日の過酷なスケジュールで疲労もピークに達しつつあったのだ。
大浴場の引き戸が開かる音で、巴は眠りの世界から引き戻された。

 「だ、誰っ!」
 「私よぉ。たまには伸び伸びと入浴しようかと思ってねぇ」
 「ぎ、銀ちゃん!?」

水銀燈はざっと湯を浴びて、巴の隣に身を浸した。恥ずかしげに顔を背けた
巴の様子を、無遠慮に眺め回して、妖しい笑みを浮かべる。

 「あ、あの……わたし、そろそろ上がるね」 

この場を逃れようとする巴の腕を、水銀燈が掴み、引き寄せた。

 「逃げることないじゃなぁい。もう少し、お話しましょうよぉ」
 「でも、あんまり長湯すると身体に良くないから」
 「あらぁ。今の特訓の方が、よっぽど身体に有害じゃないかしらぁ?」

言い終えるが早いか、水銀燈は巴の身体に腕を絡ませた。
巴の脇腹に残る青黒い痣を、白い指先が撫でる。

 「ちょっ……銀ちゃん、悪ふざけは――」
 「折角の奇麗な肌を、こんなに痣だらけにしたらダメよぉ」
 
巴の肩に刻まれた特訓の痕に、水銀燈は舌を這わせた。
びくり……と、巴は身体を震わせた。
必死になって声を押し殺している様子が可愛らしい。
水銀燈は巴の腹部を撫でていた手を、下方へと滑らせた。

 「やっ! ヤダ……やめ……て」
 「イヤなのぉ? ホントに?」

腕を突っ張って抗う巴を、水銀燈の腕が締め付ける。腕力でも上背でも、
彼女の方が上だった。
水銀燈は熱を帯びた巴の耳を甘噛みして、そっと囁いた。

 「ねぇ…………私と、勝負しない? 条件付きで」

唐突な申し出に、巴は戸惑った。勝負なら望むところだ。
しかし、今すぐにと言うなら話は別だった。条件とやらも気になる。

 「これ……から?」
 「まさか。合宿の最終日なんて、どうかしらぁ」
 「――いいよ。それで、条件って言うのは?」 
 「私が勝ったら、巴は私のものになるの♥
  巴が勝ったら、ジュンとの仲を取り持ってあげるわ。うふふふ……どうかしらぁ?」 
 「知ってたの? わたしが、桜田くんのことを――」
 「バレバレだったわよぉ。おばかさぁん」

水銀燈は目を細めて、狡猾な笑みを浮かべた。




森の中に、硬質な衝突音が鳴り響いた。
やや遅れて、鉄球が地面に落下する音が続く。

 「うむ! 見事だ、柏葉。たった数日で、よくぞここまで上達した!」
 「は……はい。ありがとうございます!」

巴は木刀の損傷具合を調べた。多少の凹みは有るものの、亀裂は入っていない。
飛来する鉄球を巧く捌けている証だ。
初日には真正面から鉄球を打ち返そうとして、三本も木刀を折ってしまったというのに。 

 (これなら、銀ちゃんの斬撃に対抗できる)

受け止めるのではなく、受け流す。
口で言うのは簡単だけれど、それを実現するのが如何に困難なことか。
巴はこの数日間、身を以て学んできた。
明日は、いよいよ合宿の最終日。やるべき事は、ひとつ――

 「明日か? 決闘は」 
 「はい、先生。もう彼女とも話は付いています」
 「勝てると信じているか?」

その問いに、巴は決然と応じた。

 「勝ちますよ。絶対に」

巴の瞳に、不安の色は全く無かった。




剣道部員が朝のジョギングに出かけた同時刻。
体育館では、巴と水銀燈が対峙していた。
手には、竹刀ではなく木刀。防具も着けていない。
打撃を受けたら無事では済まないし、最悪、インターハイへの出場も諦めざるを得なくなるだろう。

 「そろそろ始めようか。銀ちゃん」
 「いつでも。結果がどうあれ、恨みっこ無しよぉ」
 「当然。誓って、約束は守るわ」

二人に迷いは無かった。
先に動いたのは、水銀燈だった。猛然と走り込んで、大上段からの振り下ろし。
脚力の強化を重視した練習のお陰で、その突進は以前にも増して速かった。

一撃目を完璧に受け流したにも拘わらず、巴の手は痺れた。
スピードを上乗せした分、破壊力も増しているという事か。

 (やっぱり、銀ちゃんは凄いよ。だけど――)

矢継ぎ早に繰り出される打撃の間隙を見抜いて、巴の木刀が一閃する。
咄嗟に飛び退いて難を逃れたと思っていた水銀燈は、
脇腹に微かな熱を感じて指を走らせ、表情を強張らせた。
道着が、ざっくりと裂けている。ほんの少し、切っ先が掠っただけなのに。

 「今日は負けないよ……銀ちゃん」
 「…………やってくれるじゃない、巴」

水銀燈は巴に鋭い眼差しを向けながら、唇を舐めた。



木刀を激しく打ち合う音が、狭い体育館に響きわたる。
互いに刹那の隙を狙って、もう十分以上も鎬を削り続けていた。
息が詰まるほどの緊張感。どちらの顔にも玉のような汗が浮かんでいる。

額を伝い落ちた汗が目に入り、巴は思わず両目を瞑った。
その隙を見逃す水銀燈ではない。
一気に勝負を決めるべく、鋭い踏み込みで間合いを詰めた。狙いは利き腕。
可哀想だが、手加減する余裕はなかった。

闇の中で、巴は風の動きを感じ取っていた。
水銀燈が来る。不思議と、彼女の動きが脳裏に浮かんでいた。

 「はぁっ!」

短い気合いと共に振り上げた木刀は、水銀燈の一撃を弾き返すと同時に、
彼女の体勢をも崩させていた。

 「くぅっ!」

再び間合いを取ろうと、飛び退く水銀燈。
巴はカッ! と目を見開き、水銀燈が着地するより速く追いすがった。
構えは、居合い。
水銀燈は咄嗟に木刀を割り込ませて、巴の斬撃を受け止めようと試みた。
構わず、木刀を振り抜く巴。
二人の木刀がぶつかり合い、ミシッ……と軋みを上げた。

次の瞬間、水銀燈の木刀がへし折れ、巴の剣撃が水銀燈の身体を打ち据えた。
吹き飛ばされた水銀燈の身体は床の上を転がっていき、壁に当たって止まった。




水銀燈は後頭部に柔らかで温かい感触を覚えて、瞼を開いた。

 「気が付いた、銀ちゃん?」

巴が顔を覗き込んでいる。膝枕をしてくれていたのだと解った。
気恥ずかしさに起き上がろうとして、水銀燈は顔を顰めた。身体中が酷く痛い。

 「ダメだよ、無理しちゃ。もう少し、横になってた方が良いわ」
 「……うん。それじゃあ、もうちょっとだけぇ」

水銀燈は、二つに折れて床に転がっている木刀を横目に見ながら呟いた。

 「私の負けねぇ。貴女は強いわ、巴ぇ」
 「銀ちゃんだって強いよ。今回は、わたしに運が向いただけ」
 「運を呼び寄せるのも実力の内よぉ。謙遜しないの」

水銀燈は人差し指で、巴の額をツンとつついて微笑した。




インターハイも大詰めを迎え、巴は優勝決定戦に臨んでいた。
試合前の緊張感を鎮めるように、数回、深呼吸を繰り返す。

 「巴ぇ、今日も応援に来てくれてるわよぉ」

水銀燈に言われて観客席に目を向けると、真剣な面持ちのジュンが、
試合開始を見守っていた。

 「仲が良いわねぇ。ちょっと妬けるわぁ」
 「そ、そんなんじゃないよ。幼馴染ってだけだし」
 「なぁに? ひょっとして、まだ告白とかしてないのぉ?」

水銀燈は溜息を吐いて、首を振った。

 「やれやれ……折角、私がいろいろと手を回してあげてると言うのに」

大浴場での約束通り、水銀燈は巴とジュンの仲を取り持とうと、
有形無形の支援をしてくれていた。
そのお陰で、以前よりは会話の機会も増えている。

 「心配しないで、銀ちゃん。わたし、もう決めてるから」
 「……そう。じゃあ、是が非でも優勝しなくっちゃねぇ」

水銀燈は全てを察したらしい。相変わらず勘がいい人だ。

 (桜田くん。優勝したら……わたし、桜田くんに想いを伝えるよ)
 
彼の答えは分からないけれど……ううん、絶対に肯定の返事をさせてみせる。
強化合宿で身に着けた、努力と根性で。

 「相手もなかなかの手練れだけど、勝てると信じてる?」
 「うん。勝つよ……絶対に」


――試合時間が迫る。

もう一度だけ観客席の彼に視線を送る。
何も怖くない。貴方が見守ってくれているから。



決意を胸に、巴は試合会場の光の中に歩き出した。

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最終更新:2006年03月02日 10:54