まだ深夜にはなっていないが、このくらいの時間になれば僕がいつも通勤に使っている地下鉄は空いている。
この車両には立っている人はおろか、座っている人も片手で数えられる程度だった。
僕は腕時計についているスイッチを押した。
「どうかな、今夜の天気」
時計の文字盤が消え、かわりに15センチほどの女の子の立体映像が浮かび上がる。
古くさいデザインのドレスを着た金色の髪の女の子だ。名前はシンク。
「丁度一日ぶりね、ジュン。体調はどう?」
ワイヤレスイヤホンからシンクが話し掛ける。
「いいよ、体調は。悪くないっていうのが適切かな」
小声で十分シンクには通じる。体表面の音声振動を検出し、その信号でノイズ補正を行っているのでうるさい電車の中でも問題ない。
「そう、それならいいわ。それで今夜の天気ね。
……変ね、この地下鉄の中には天気情報のシグナルが届いていないみたい」
シンクのこの独り言に僕は何も答えなかった。
「でも大丈夫。今夜の天気ね」
「そう。それと今の地上での天気も。傘を出しておいたほうがいいか決めたいから」
「ええ、わかったわ」
シンクはツインテールの髪を揺らしながら車内をキョロキョロ見回している。
「湿度が80%近くあるわね。この季節としてはかなり高めだわ。
ただこの車両の後部の天井のあたりに漂っている空気、あの部分は流れが悪いから二時間ほど前の空気がそのまま残っていると考えられるわ。
その古い空気の湿度は85%を超えているから湿度は時間とともに下がっているのでしょう。
天気は回復に向かっていると考えられるわ」
駅に着き、ドアが開く。二人ほど乗客が増えた。
「じゃああの人は?」
僕が目で促した先には今乗ってきた若い男が立っている。
彼の頭は見るからに濡れており、着ているコートにも水滴がついている。
シンクは目を大きく見開いたり細めたりしてじっくりとその男を観察している。
「一見乗ってくる前に雨に濡れたように見えるけどそうではないわね。
髪に含まれている水分、肩の水滴の両方に大量の塩素が含まれているわ。あれはプールの水よ。
仕事帰りにフィットネスクラブにでも寄ってきたのでしょう」
「そうか、ありがとう」
僕はそう声をかけると立ち上がった。目的の駅に着いたからだ。
「珍しいものをお持ちですね」
ホームに降りると突然、後ろから声をかけられた。僕より背の高い男だ。
「さて私の予想は当たっているかしら。それにしても変ね、駅に着いても天気情報を受信できないなんて」
シンクは気にせずに独り言を続けている。
「これ、天気ロボットでしょう」
「ええ。シンク、もういいよ、おやすみ」
「わかったわ、おやすみなさい」
立体映像は消え、腕時計に再び文字盤が映し出される。
「どこで手に入れたのですか? まだあったとは。
譲っていただけませんかね、私はこの手の初期ロボットの収集家でして。これほどよく出来たものを見るのははじめてですよ」
やっぱりそうか。これまでにも何人かが同じように言い寄ってきた。
「すいません、これ祖父の形見なんです。先に亡くなった祖母のデータを入れた特別なものなので……」
「そうでしたか、それは失礼しました」
「いえ……」
男は僕に軽く頭をさげると行ってしまった。
その背中を見送った後、僕も反対の改札に向かって歩き始めた。
(ジュンじいちゃんの作ったこれ、本当に出来がいいんだな)
僕が生まれるまえに祖母は亡くなった。
それからじいちゃんは、当時流行っていたハンドメイドのキットを購入し、いろいろと手を加えながら自分一人でこれを作ったらしい。
何年もかけて完成させたのに、じいちゃんは一度も使うことなく先月亡くなった。
「じいちゃんは馬鹿だな。こんなもの作ったって何の意味もない。どんなに似ていたってこれは真紅じゃないのに。
……まいったな、向こうに行ったらまた真紅に怒られそうだ」
病院のベッドの上、笑いながらそう言うと、じいちゃんは目を閉じ、逝ってしまった。
じいちゃんは意味が無いって言ったけど僕はそう思わない。
確かに、人間がドーム型の居住区に住むようになってからは天気は完全に管理されている。天気予報がはずれることはない。
ロボット向けの天気情報の送信サービスもとっくに終了している。
それでも、僕からすればこれのおかげで、見たこともなかったばあちゃんがどんな人だったのか、少しは知ることが出来るのだから。
改札の外は満天の星空だった。
「天気予報当たったよ、ばあちゃん」
fin
最終更新:2006年09月29日 21:21