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この文章には虐待と若干ホラー描写があります、苦手な人は回れ右




私は小さな女の子。とても無力な女の子。

誰かに匿って貰わないと生きて行くことすらできないとても脆い存在―
誰かの愛情無しには生きられない、だから私は笑う、哂う、嗤う―――
ワラっていれば辛いことも忘れられて皆が私のことを構ってくれるから。



始まりは全て偶然のことだった。雛苺は本当の両親に捨てられ幼少の頃を孤児院で過ごしていた。
孤児院生活は何の問題も無かった。他の孤児院にいる子たちとも仲良くやっていた。そして不意に訪れた孤児院との別れ。

 「あれがいいわ。」

彼女、コリンヌ=フォッセーの一言により雛苺は4歳でフォッセー家の養女となった。

 「私のことはおかあさんって呼んでね。雛苺」
 「はーいなのー!」

最初の頃こそ雛苺と養父母の仲は自然な親子のそれだった。普通に食事を共にし、普通に遊び、普通にお互いに愛情を育んでいた。
しかしこの関係に変化が訪れてしまう。コリンヌが子供を身篭ってしまったのだ。子供が出来てからの養父母の彼女への反応は淡白なものになってしまう。
幼いながらもそれを感じ取った雛苺はわざと悪戯したりお巫山戯をしたりして気を引こうとした。

 「そんなことをしたら駄目だと言っているだろう雛苺!何時になったらお前は学習するんだ!!」

初めての暴力だった。コリンヌが病院で入院している間に悪戯をしたら養父に殴られた。顔を殴られたので頬が熱くなる。
雛苺が大声で泣く度に養父はこの養女への忌々しさが増していった。どうしてこんな子供を拾ってしまったのだろう―と。
泣き喚く雛苺を養父は無視して一人で何処かへ行ってしまう。以降も雛苺が泣き喚く度に養父は彼女を一人にしていた。
其処から雛苺は泣けば人が遠ざかってしまう。独りでいるのはとても寂しくて怖いものと思いなるべく笑顔でいようと努めた。



やがて養父母の血の繋がった子供が生まれた。その子は女の子でオディールと名付けられることになる。
オディールが生まれてからの雛苺は惨めなものだった。養父母は本当の自分の娘が生まれてからは彼女を敬遠するようになった。
食事も一緒にしなくなったし遊びにも連れて行かなくなって家にいれば雛苺を部屋に閉じ込めていた。
そんな雛苺にとっての唯一の救いが学校だった。学校だけは普通に通わせてもらえていて其処では養父母の負い目など考えないようにした。
此処では普通の子供に戻れた。友達も出来て学校生活には何の不満も持たなかった。ただ家へ帰りたくないといつも思っていた。
夕暮れになるまで家へ帰ろうとせず自分が歩を進める度に沈む日を見てそれを呪っていた。
太陽なんて沈まなければいい、ずっと、ずっとあの家へ帰る時が来なければいいのに。

 (ヒナはどうしてあの人達に拾われたんだろう。ヒナは…愛されてないの?)

雛苺の心の中で何か暗いモノが蠢いていた。『それ』が蠢く度に彼女の脳裏に自分では望んではいけないとわかっているのに邪悪な考えが浮かんだ。

 (オディールなんて…いなくなっちゃえばいいのに)

オディールさえいなくなればまた昔のように可愛がってもらえる。オディールさえいなくなればまた昔のようにご飯も一緒に食べれる。
オディールさえ…いなくなれば…!!



オディールが生まれて10年が経った頃、雛苺はいつもどおり学校から帰る頃だった。夕暮れの道…昼でも夜でもない『逢魔が刻』のことだった。
不意に前を見ると雛苺の前にオディールがいた。自分とは正反対の方向にある学校に行ってる筈なのに可笑しい。
雛苺が声をかけようとするとオディールから口を開いていた。その時は何を言っているのかわからなかった。
ただそれだけを言ってオディールは曲がり角へ走り去ってしまう。雛苺はもう一度さきほど言ったことを聞きに後を追う。
しかし彼女はまるで神隠しにあったかのようにその姿を消してしまった。何処かへ隠れられる場所もない広い通りなので一層不思議に思えた。
段々とこの異常な状況に恐怖を覚えた雛苺は走って自宅へと帰った。家の中は暗く誰もいない様子だった。
オディールに今日の帰りに逢ったかどうか聞こうと思っていたのだが…仕方が無いので雛苺はリビングで誰かの帰りを待つ。
もう夜中になる頃だった…誰も帰って来る気配がない。雛苺は夕暮れのあの怪現象も相まってすっかりと怯えていた。
そんなときに誰かが帰って来たらしく玄関のドアが開く音がする。雛苺は怖くて堪らなかったので普段は行かないのだが玄関まで迎えに行った。
玄関には養父しかいない。その養父の様子も少し変な感じだった。雛苺はおずおずと養父に声をかける。

 「あ、あの…お義母様とオディールは………?」
 「………んだ」
 「え?」

掠れた声で搾り出すかのように養父は言ったがよく聞こえない。雛苺はまた聞きなおす。

 「死んだ…二人とも交通事故に巻き込まれて………」
 「え………嘘…」
 「兎に角今は忙しいんだ。葬式の準備も色々とあって…お前の相手をしてられないんだよ!」

養父に怒鳴られて雛苺は咄嗟に背中を向けて頭を抱え込んで殴られるのを覚悟したのだが養父はそのまま彼女の横を素通りして自室へ行ってしまう。

少し時間が経って色々な準備をした養父はそのまま家を後にして行ってしまった。
それから雛苺は考える。オディールとコリンヌが死んだ…?じゃあ夕暮れどきに見たあのオディールは………。
雛苺の背筋に悪寒が襲い掛かり頭を抱えた状態のままで体が震えだす。そして脳裏でオディールがあのとき言ったことを思い出した。

 オ マ エ ノ セ イ ダ

恐ろしくなった雛苺は暗い廊下を走り自分の部屋へと入りベッドに潜り込む頭まですっぽりと被って毛布の中でずっと震えていた。
こうして密閉していてもオディールがすぐ近くにいる気がする。私もろとも何処かへ連れて行こうとしていると雛苺は恐怖心に駆られていた。
結局、その日の夜は一睡もできずに朝を向かえてしまう。朝日が昇り明るくなった部屋の中にいるのに彼女の震えは止まらなかった。

 「ヒナが…ヒナがあんなこと望んだから…。ヒナのせいなの?全部、全部、ぜぇーんぶ…ヒナのせいなの?」



それからだった。養父が雛苺に暴力を振るうようになったのは。毎日夜になってから浴びせられる罵詈雑言、殴られるだけ殴られては雛苺は部屋に閉じ篭った。
養父も昔はきちんとしていた人だったのに今では酒に溺れてしまい完全なアルコール中毒に陥っている。

 「何でコリンヌとオディールがいなくてお前なんかが生きてるんだよ!!」
 「あぅ…!」

今日は機嫌が一段と悪かった。いつもなら一発殴るだけで終わったのだが今日ばかりは何度も殴られていた。
気がつけば雛苺はリビングの冷たい板張りの床の上で目覚めていた。どうやら殴られている間に気絶していたらしい。体の節々が痛くて痛くて…涙が出てしまう。

 (もうやだぁ……こんな家…いたくないよぉ…)

雛苺は養父から逃れたいがために夜中に家を出て行った。暗い夜道をひたすら雛苺は迷子のように歩き続ける。いつもは知っている道のはずなのに何処へ行っていいのかわからない。
目的地もなく彷徨えば何時も見慣れた道のりは途端に出口のない迷路へと姿を変えていた。
兎に角、今はあの家から遠ざかることばかり考えていた。闇路の恐怖よりも養父への恐怖が強かったのか雛苺の足取りは震えながらも確実に家から遠ざかっている。
その途中で見慣れた顔に呼び止められる。

 「お、雛苺じゃないか。どうしたんだこんな夜中に?」
 「あ、梅岡先生……あのね…」
 「駄目じゃないか雛苺!未成年の夜遊びは禁止されてるんだからな!先生が送ってやるから帰るぞ。」

帰る?またあの家に…?そんなの冗談じゃないと雛苺は必死に抵抗するが梅岡に手を掴まれているので逃れられない。
雛苺は子供のように泣きじゃくっていたのだが梅岡は全く話を聞かない。結局、養父の待つ家に逆戻りしてしまった。

 「ごめんくださーい。」
 「何かな?」
 「私●●大付属高等学校の教師をやっております梅岡ですが…」
 「ああ、先生ですか。一体どうなさったのです?」
 「それがお子さんが夜遊びをしていたので注意をして連れて帰って来たところなのですが…」
 「それは申し訳御座いません。貴方は素晴らしい先生ですな。」
 「いやいやそんなこt(ry」

いつもこうなのだ。家ではだらしなくて怒鳴ってばかりなのに誰か他の人がいるとこうしていい人を装っている。
梅岡が帰ってから雛苺はまた養父に怒鳴られていた。

 「どうしてお前はそうやって人に迷惑しかかけられないんだ!」
 「め、迷惑……?」
 「ああ、そうだよ!お前は手のかかる奴だ!オディールはちゃんと私のいう事は聞いていたぞ!!
  お前なんか………拾わなければよかったんだ!お前がオディールの代わりに消えればよかったんだよぉ!!」

一瞬、養父は手を挙げたのだが雛苺の泣き顔を見て躊躇ったのか振り上げた手を下ろして養父はそのまま自室へと入ってしまう。
残された雛苺はその場に座り込みすすり泣く。自分だってこんなことになるんだったらずっとあの孤児院にいたかった。
ふと思い出す養父母に拾われる前のありし日の自分の姿を、あのときは全てがまぶしかった。光の溢れる世界でただただ輝いていた。
そうだ、明日ぐらいにあの孤児院に行こう。行って皆に会ってみたい。もうあそこへ戻ることが出来なくってもそれでも行きたかった。
あの孤児院が雛苺にとって唯一残された世界の光だったのだ。



翌日の学校の体育の授業のとき、いつも雛苺はみんながいなくなってから着替えている。その日もいつもどおり放課後が終わってから着替えに来ていた。
誰も来ないはずの更衣室でゆっくりとジャージに着替えている雛苺だったのだが突然、更衣室のドアが開かれる。
ドアを開けて入ってきたのは当時の雛苺の友人だった。彼女は見たこともないような痣だらけの雛苺の体を凝視していた。

 「あ、あの…」
 「ごめん…私、ちょっと急用を思い出しちゃったから!」

痛々しい雛苺の身体を見て友人は逃げ出すかのように更衣室を後にする。バレてしまった、もしもこのことが養父に知れたら殺されるかもしれない。
けれども痣のことは学校側にはバレていないらしく一部の生徒の間でのみ知れ渡ることとなってしまったらしい。
それからは何時も仲良くしていた友人から腫れ物でも触られるかのような、見てはいけないものを見たように疎まれるようになってしまう。
所詮、こういう窮地に立たされたときに差し伸べられる手など少ないのだ。



学校という居場所を失ってしまい傷心の雛苺はかつて自分が世話になっていた孤児院を探していた。
やがて孤児院があった場所を探し当てるのだがあったのはただのマンションだった。あの光溢れる世界は消されていたのだ。
もうこの世界に自分の居場所なんて存在しない。いつしか雛苺は泣くということをしなくなった。
自分の居場所がこの世界にないのなら自分から作ればいい。そのためには人に好かれなければならない。だからこそ人を惹き付けようと笑顔という仮面を被る。
学年も変わり全てとはいかなくとも学校での自分の立場はリセットされ新しいクラスへの期待に胸を膨らませていた。
新しいクラスは雛苺の期待以上にいいクラスだった。担任があの梅岡なのを除けばこれ以上は望めないとまで彼女は思っていた。
笑顔という仮面を被った彼女の周りには常に人が集まっては賑やかな雰囲気を醸し出していた。
雛苺は満たされていた。ずっとこのままのクラスでいられたらいいのに。
ある日、とある女子が雛苺の目に止まった。巴という優等生だった。優等生ゆえにみんなから偏見の目で見られがちな彼女は教室でも孤立していた。
自分とは正反対の立場にいる彼女に興味を持ったのは気まぐれなどではない。巴の表情がこの笑顔という仮面をつける前までの自分によく似ていたからだ。
決して誰からも理解されることのない憂いの表情…それを見ているだけで雛苺の養父によってつけられた傷が痛む。



クラスに馴染み始めて来た頃、雛苺は忘れ物である苺大福を取りに教室に戻る途中だった。偶然にも其処であの巴と遭遇する。

 「うゅ、巴なのー!巴も忘れ物したの?」
 「うん、そうだよ。」

巴は微笑んでいたのだが愛想笑いだった。すぐに何時もの憂いの含んだ横顔に戻っている。
雛苺は何故かそんな彼女に惹かれていたのだ。自分に何処か似ている―と仲間意識のようなものが何時の間にか芽生えている。
そのせいか雛苺はこのまま巴のことを放っておけなかった。

 「ねぇねぇ、巴は何を忘れたの?ヒナはね、うにゅーを忘れちゃったのよ。」
 「私は会議に必要なプリントかな。」

巴は周りの人間から優秀だと常に思われているので半ば無理矢理に学級委員長をしている。

 「会議?学級委員長は大変なのねー。」
 「そうだね…学級委員長だけじゃなくって優等生というのも大変…かな。」

普通の優等生が言っていたらこんな言葉、嫌味にしか聞こえないだろう。けれども巴は本当に苦しんでいる様子だった。
自分の周囲に自分を理解してくれる人が誰もいない、誰もが自分の敵にしか見えない、そんな世界で生きてきた二人だからこそその言葉の真の意味がわかったのだ。

 「大変だったらどうしてそんなことしてるの?」
 「え?」
 「大変だったら止めちゃえばいいの。巴がしたくないことをしなくちゃいけない必要なんてないのよ!」

そうだ、巴はまだやり直せる。自分の意志で今の状況を打開できるのだから…。
雛苺はせめて自分のようなどうしようもない状況ではなく、自分から働きかけることで打開できる状況の巴を救ってやりたかった。

 「雛苺さん…」
 「巴、笑ってみてなの!どんなときでも笑っていたらきっと楽しいのよ!!」

これは雛苺の持論だった。いつだってどんな辛いときだって楽しいことを思い出して笑っていれば自分を見失わずに済んだ。
自分というものを確りと形作るもの、それは今までヴェールのように重なり纏った思い出なのだから。
その日から巴は雛苺にとってかけがえのない存在へと変わっていたのだ。



相変わらず養父からの虐待は続いていたのだが雛苺はそれでも健気に学校で明るく振舞っていた。
昨日など階段から突き落とされ右足を打撲してしまいまともに歩けない状態にまでなってしまった。なので雛苺の歩き方は少し変になっていた。

 「雛苺、足どうかしたの?」
 「何でもないのよ巴それよりも今日の帰りも不死屋でうにゅーを買おうね!」
 「うん、そうだね。今日は私がおごる番だったよね。」

あれから巴は作り笑いや愛想笑いなどではなくただあるがままに笑顔になれるようになっていた。
何者にも左右されずにふとしたことで笑顔になることは単純に見えて実は難しい。
つまり巴はやっと此処まで変われることができたのだ。雛苺はそんな巴に自分の痣を見られたくない。見られて疎ましく思われたくないその一心で隠し続けていた。
だがある日、遂にバレてしまう。文化祭の初日、クラスの出し物でメイド喫茶をやっていたので必然的に着替えるときが来てしまう。
いつも体育の授業とかは時間をずらして着替えていたのだが今回はそうもいかなかった。運が悪いことに後から水銀燈が来てしまい出るに出られない状況になってしまう。
水銀燈に急かされて雛苺は自分の纏っている最後の防壁を脱ぎ捨てた。巴が短い悲鳴をあげる。雛苺はそれがとても嫌だった。
やがて水銀燈と巴が雛苺の痣のことで口論になる。自分のせいで二人が喧嘩をするのをよしとしない雛苺は止めに入った。

 「も、もういいのよ。二人とも…ヒナのことで喧嘩しないで欲しいの。これはヒナが我慢すればいいことなんだから…」

いつもの調子で雛苺は笑顔の仮面を被った。けれども今まで頼ってきていたこの鉄仮面がいつもと違う。何故か中途半端な笑いしか作れない。
雛苺は巴に付き添われて保健室へと行くことになった。保健室につくなり養護教諭に驚かれる。

 「一体どうしたんですか?こんなに痣を作って…」
 「それが…私にもわからなくて…。雛苺?」
 「うゅ…だから階段から転んで落ちただけなの。」

階段から落ちて怪我をしたのは本当だった。その前に養父に痛めつけられていたことは黙っていたのだがバレるのは時間の問題だ。
もしもバレたら養父に殺されてしまうかもしれない。雛苺にとって養父の存在はもはやそれ程までの恐怖の対象となっていたのだ。
しかしそれよりも恐れていることが雛苺にはあった。昔の友達のように巴やクラスのみんなが自分から離れて行ってしまうかもしれない。
雛苺にとって殺されることよりも孤独でいることの方が余程恐ろしいことだった。
このまま此処にいてもこの痣のことがみんなに知れてしまうかもしれない。そう思った雛苺の身体は自然と保健室を抜け出していた。



体育館裏の人気のないところで雛苺は立ち止まる。此処なら人目につくこともないだろう。この痣を隠すこともできる。
安心した雛苺はその場に座り込んだ。普段は靴下で隠れている傷だらけの足を折りそれを抱くようにして三角座りの格好になる。
いつも傷を隠している靴下はうっかり保健室に忘れて来てしまったようだ。
暫く雛苺は空を仰いでいた。校舎と塀に囲まれて狭く遠くなった空は青とオレンジが混ざったパレットのようだった。
『逢魔が刻』………1年ぐらい前にオディールの亡霊と出会ったときもこんな空模様だった。

 (今でもオディールはヒナのこと恨んでる?)

それは自問でしかないとわかっていても雛苺はオディールに語りかけていた。あの時と同じこの空模様なら声が届くかもしれないと思って。
ふと視線を空から地上へ向けると雛苺の目の前にオディールが立っていた。一瞬、幻かと雛苺は己の眼を疑い擦ってみるが彼女は確かに其処にいた。
ひょっとしたら自分を呪い殺しに来たのかもしれないと雛苺は思った。けれども何故か雛苺に恐怖は無かった。このまま呪い殺されるのも仕方ないのかもしれない。
雛苺がオディールがいなくなることを望んだ所為で彼女が死んでしまったと思いつめていたからこその心理なのかもしれない。
けれどもオディールはただ雛苺を見下ろしているだけだった。その表情は複雑そのものだった。
まるで万華鏡のように理解することが不可能で…その表情には確かに恨みのようなものもあった。けれども憐れみのような片鱗が見え隠れしている。
とても今から人を呪い殺そうとしているような表情ではない。それを感じ取ったのか雛苺は警戒をしなくなった。

 「オディール…ごめんね、ヒナがあんなこと望んだからオディールが……本当にごめんね。」

オディールから返事はなかった。ただ彼女は一つの方向を指し示している。そちらへ目を向けた雛苺の瞳に映ったものは水銀燈だった。
まさかと思いオディールへと視線を戻そうとしたが雛苺の瞳が彼女の姿を捉えることはなかった。もう此処にはいない。
やがて水銀燈がやって来るので雛苺は抱えた膝小僧に自分の顔を埋めた。体中につけられた痣を少しでも隠そうと必死だったのだ。
雛苺の脳裏でかつての友人の出来事がフラッシュバックした。この痣を見られたからみんな自分から離れて行った。もう同じ思いはしたくない。
水銀燈が自分に近付くたびに体が大きく震える、やがて彼女は雛苺に語りかける。息も途切れ途切れで必死に探していたことを窺わせる。

 「雛苺…」
 「あの、ごめんなさいなの。」

雛苺がまずついた言葉は謝罪だった。一体何に対しての謝罪なのか自分でもわかっていなかった。暫く理由を探して再び言葉をつく。

 「勝手に逃げ出しちゃったりして…」

きっとみんなに心配をかけた。それ以上に迷惑もかけてしまった。養父の言った言葉が体にある傷ではなく胸のキズを抉る。
迷惑ばかりかけている自分が熟々嫌になる。独りが怖い癖にこうして独りになろうとする自分に嫌悪感すら覚えていた。
顔をあげていないので雛苺に水銀燈の表情はわからない。その所為で雛苺の想像により水銀燈の表情は険しいものと思い込まれていた。
痣のことに言及されたのだが雛苺はいつもどおり『笑顔』という仮面を被ろうとする。でも『笑顔』になることができない。
内心の焦りとは裏腹に雛苺は軽口を叩いて言及するのを拒んだ。けれども吐き出された声は完全に震えていた。

 「保健室へ行きま…」
 「それは嫌なの!」

保健室へ連れて行かれればこのことが公になってしまう。そうしたら自分が築いた安息を得られる世界が崩れてしまう。そう思った雛苺の声は荒れていた。
蛇口の蓋を回されたかのように雛苺の本音が静まり返っていた体育館裏に水面に起こった波紋のように広がる。

 「ヒナの…こんな姿、誰にも見られたくないの……昔は、みんながヒナのこの傷跡を見て怖がって…ひとりぼっちになっちゃったから…。
  こんな傷だらけの姿を見たら、みんな…ヒナから離れてっちゃう。ひとりになるのはいやなの…怖いの!

あふれ出た本音とともに雛苺の目からは涙が滴っていた。自分でも驚いた。涙を流したのは1年ぶりのことだったのだ。
そして絶望した。遂に今まで頼みの綱としていた『笑顔』という仮面を作ることができない。それはつまり今まで築いた世界の崩壊を意味する。
水銀燈が静かに雛苺に寄ってくる。その足音がまるで自分が築き上げた世界が崩れる音のように雛苺には聞こえていた。

 「き、来ちゃ駄目なの!ヒナを見ちゃ…いやぁ!!」

これ以上、自分の心の中に入って欲しくない。必死に雛苺は拒絶をするのだがお構いなしに水銀燈は進み出てくる。
やがて雛苺を間近で見下ろすところで立ち止まる。いつも自分が養父に暴力を振るわれる体勢だった。自然と身が強張った。
けれども浴びせられたのは罵詈雑言でも暴力でもなかった。温かい何かが自分に覆いかぶさっていることに気付く。
水銀燈は優しく雛苺を抱き締めていたのだ。突然の出来事なので雛苺も抵抗するのだが水銀燈は決して離そうとしなかった。

 「五月蠅いわねぇ…。こうしてたら貴女の痣や傷跡だって見えないでしょう?」

確かにそうだった。こうして抱き締められていたら痣は見えない、傷跡は見えない。何よりも誰かと一緒にいられる。
よく思い出してみれば雛苺はフォッセー家に入ってからこうして抱き締められたことがない。直に人の温もりを感じたことがなかった。
物心ついて初めて知った人の体温というのはとても温かいものだった。温もりに抱かれて揺り篭で眠るかのように雛苺の意識は闇に沈んだ。



眠りから覚めた雛苺は水銀燈に連れられて更衣室へ行き痣の理由を彼女や真紅、そして巴の前で説明することとなった。
それは雛苺にとってとても勇気のいることだった。養父への恐怖もあったのだがやはり前の友人のことを思い出してしまう。
もしもこの三人にまで見捨てられたら死のうとまで雛苺は考えていた。
三人は静かに雛苺の話を聞いていた。けれども話し終わったあと、三人とも驚きを隠せずにいられなかった。

 「雛苺…ゴメンね。私そんなことも気付けなくって……」
 「巴は何も悪くないのよ。だから謝らないで…ヒナが隠してたことなんだからヒナが謝らないと…。」
 「謝罪はいいとして雛苺、貴女は一体どうしたいの?このまま甘んじて虐待を受け続けるというの?」

冷静さをいち早く取り戻した真紅は鋭く今後の話を切り出す。雛苺は迷っていた。確かに養父に暴力を振るわれるのは嫌だった。
けれどもまがりなりにも養父は此処まで自分を育ててくれた。食事は相変わらず別々だがちゃんと食べ物はくれるし学校へ行くときも学費は出してくれている。
そのことに感謝はしているつもりだった。けれどもそれを差し引いてもこの小さな体と胸に刻まれたキズは酷いものだった。
本当は今ではただ一人家族と呼べる養父からの愛が欲しい。この身に余るほどの愛情が欲しかった。されどその夢は叶うことはない。

 「ヒナは…もうこんな生活は嫌なの。お義父様から離れたい。でもお義父様の家から出て行ったらヒナには行く場所が…
  それに虐待されていたことはみんなには知られたくないのよ…。」
 「それならば良い案があるのだわ。私の両親が経営しているアパートに住みなさい。私の友人だと言えばきっとお父様もお母様も考えてくれる筈よ。」

真紅の申し出はとても嬉しいものだった。けれども養父が家賃まで出してくれるかはわからない。

 「で、でも…ヒナにはお金がないし…。」
 「それだったら…私が雛苺と同居するわ。それで家賃は私が半分出すから。」

今度は巴だった。そんなの駄目だと思った。巴にはちゃんと血の繋がった親子がいる。それなのに自分のせいでそれを引き裂くような真似はしたくない。

 「そんな…ヒナのために巴を家族を引き離すなんて出来ないの!」
 「いいのよ雛苺。あれから私は剣道を止めたから父とは不仲になってね。家に居ても私のことなんて居ないように振舞ってるから出て行くと言っても何も言わないわ。
  それで私と雛苺がバイトをして家賃を払えば…」
 「巴………」
 「なら話は決まりね。今日は二人とも家に来なさい。一応事情の説明をしないといけないから…」

雛苺が再び何かを言わないうちに真紅はキビキビと話を進めていった。雛苺は再び目から涙を浮かべて一言を紡ぎ出す。

 「みんな、ありがとうなの…」



その夜、雛苺は巴とともに真紅の家に上がり込んでいた。巴はもう親に話を着けて来たらしい。
真紅の母親は此処にはいない。状況が状況なので雛苺の代わりに彼女の父親と話をつけに行っているのだ。

 「心配しなくてもお母様がちゃんと話をつけてくれるわ。だからリラックスしなさい。」
 「う、うぃ……」

暫くして真紅の母親が帰って来た。三人で帰って来た母親を出迎える。

 「ちゃんとお義父さんとお話して来たからもう大丈夫よ。雛苺ちゃん。それにお義父さんから家賃は全てお義父さんが出してくれるって言っていたわ。」
 「え………どうして?」
 「多分、不器用ながらもお義父さんの愛情なんだと思う。雛苺ちゃんが家を出るという話をしているとき複雑な顔をなさっていたから…」

あの養父に愛情があった?雛苺にはにわかに信じ難いことだった。確かに金銭面では不自由をしたことはない。
やはり養父なりに愛情はあったのかもしれない。ほんの少しだけ雛苺は家を出ることを後悔した。

 「さて、新しい部屋の案内の前に晩御飯を食べましょうか。今日ぐらいはご馳走するのだわ。」
 「え、でも…私達外で食べようかと思ってたのですが…」
 「いいのよ。今日ぐらいはご馳走してあげるから。」

巴を言いくるめて真紅の母親は微笑む。巴もその笑顔を見て何も言えなくなってしまいおずおずと礼を述べた。

 「えっと…ありがとうなの!」

雛苺も笑顔で礼を言う。彼女自身はっとしていた。今の笑顔はいつもの仮面のものではない。自然と出てきたものだった。
1年ものあいだ被り続けた仮面はなくなってしまったけれども、もう必要はなくなっていた。

 「いただきまーす!」

笑顔は作るものじゃない。健康な生活の中で自然と溢れて来るものなのだから。だから、今までありがとう…。私を守っていた『仮面』―――



その夜、雛苺と巴は新しい部屋で寝ることにした。まだ何もない部屋だけれどもこれから二人の新しい生活が始まるかと思うと夜も眠れなかった。
明日への期待と今日の整理をして二人へ隣り合って床に敷かれた布団の中へと入った。雛苺は考えていた。今日は色々なことがあった、オディールとまた逢えたと。
結局、オディールの真意はわからなかったけれどもまるであのとき彼女が水銀燈を自分の元へ寄越したかのように雛苺は考えていた。
いつかお墓参りをしよう。たとえ自分が墓前で線香をたこうが花を添えようがきっと彼女は知らん顔をする、それでも自分の気持ちを伝えることは重要だと思った。
今日、かけがえのない友と腹を割ったことで雛苺はそのことに対する重要性に気付いたからだ。
カーテンもない窓の外から月華が降り注ぎ部屋の中は薄明るかった。

 「雛苺…」

不意に巴が語りかけて来る。雛苺は静かに、だが優しく答えた。

 「なぁに?」
 「これからは一緒だからね。嬉しいことも苦しいことも悲しいことだって二人で一緒にすくい上げよう。」

巴の言ったことに雛苺は彼女の毛布の下にある彼女の手を握ることで応えた。巴もそれに応えるように強く握り返す。
握り返された手、それは一縷の希望。絶望しか持ち得なかった少女が二つ目の望みを手に入れた瞬間だった。



翌日、雛苺と巴は学校へ行く支度をしていた。結局あれから二人は色々なことを話して夜を明かしたのでとても眠かった。
けれども昨日の今日で学校を休めばみんなに心配をかけてしまうので二人とも鉛のように鈍い体を起こして着替え始める。
やがて準備も出来て二人で一緒に家を出た。何だかそれがとても嬉しくて雛苺は笑った。これから当たり前となることだけれどもそれも含めて嬉しい。

 「ねぇ、巴!」
 「何?雛苺。」
 「うぅん、やっぱり何でもないのよー。」
 「言ってくれなきゃ気になるじゃないの。」

意地悪微笑んだ雛苺に巴は無邪気な微笑みを投げかける。それを見て雛苺はことさらに思った。やっぱりさっき言おうとしたことは自分のポケットの中に仕舞っておこう。

 ヒナは今、とっても幸せです

 いつかこの痣の数だけ…うぅん、それ以上の幸せを掴みます

 自分ではどうにもできないと思っていたことは自分でどうにかできることでした

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