あの日から二ヶ月が過ぎた。
七月は、何の余韻も残さず……幾ばくもなく去ってしまった。
八月は、けたたましい蝉時雨と一緒に、忘却の彼方へ流されつつある。
夏を謳歌していた、ニイニイゼミも、クマゼミもヒグラシも、今は昔。
アブラゼミと、ミンミンゼミと、ツクツクホウシが、差し迫る秋の訪れを、気怠そうに告げるだけだった。

あれから、私の病状は著しい快復を見せ、今や、すっかり健康を取り戻している。
病を患っていたことがウソみたい。誰もが――主治医ですら――驚き、目を丸くした。
でも、私は忘れない。病気が治った、本当の理由を。

九月の、第二土曜日。
私は、数々の思い出と夏の色を胸に、この病院を去る。
門出に相応しく、残暑の厳しい空は、青く晴れわたっていた。
身の回りの物を詰め込んだバッグを肩に掛けて、お世話になった看護士さん達に挨拶して回る。
みんな、笑っていた。良かったね、おめでとうって。
そして、私も笑っていた。ありがとう、って。


――だけど、それは本心をさらけ出した結果じゃない。笑う気になんか、なれなかった。

夏特有の、土砂降りの雨の下で失われた、いくつもの輝き。
水銀燈も、薔薇水晶も、左手の薬指に癒着していた指輪も、全ては過去。
でも、私にとっては昨日の今日。
夢の中で時を旅する能力に目覚めた、私にとっては――今も、心を疼かせる悪夢に他ならない。

この60日間、私は殆ど毎日、夢で記憶を辿っていた。
ずっと前に撮り貯めておいたホームビデオの映像を眺める様に。
録画したまま忘れていた、テレビ番組のDVDを再生する様に。
だって、そこに行けば、水銀燈や薔薇水晶に出会えたんだもの。

人間の能力って、つまるところ、説明書のないAV機器の機能みたいなものだと思う。
基本的な機能は大概、どのメーカーでも共通しているから、経験則で使える。
けれど、特殊な機能となると、説明書なしでは使いこなせない。
それが日常生活に必ずしも必要ない機能だったら、誰も使おうだなんて考えないわよね。
たまたま……本当に、ひょんな事で、使い方を知ってしまった人なら別だけれど。

私は正に、偶然のイタズラによって、内蔵されていた不思議な機能の使い方を知った。
喩えるなら、広い屋敷の中で、たった一つの照明を灯すスイッチを見付けた様なものよ。
一度、解ってしまえば、どんどん応用力が高くなっていったわ。

過去の世界は、編集可能なVTR。美しい場面だけを、切り抜くことが出来る。
だからこそ、私は悲しみに鬱ぎ込むことなく、今日まで生きてこられた。
彼女たちの思い出に慰められながら、明日を夢見る勇気を得てきたから――
どうしようもなく虚しかったけれど、独りきりじゃ……なかったから。

「今日、退院なんだってね。おめでとう」

パパが迎えに来るまで、ロビーのソファに座り、薔薇水晶の眼帯を眺めていた私に掛けられる、声。
顔を上げると、蒼星石さんが腰の後ろで手を組んで、私の前に佇んでいた。
ロビーに射し込む朝日を受けて、緋翠の瞳が宝石のように輝いている。

なんだか、不思議な気分。千二百年前にも、蒼星石さんと私は、出会っていたんだもの。
案外、この世の全ては、どこかで繋がっているのかも知れないわね。
蜘蛛の糸みたいに細い因縁に気付かず、必然の巡り会いを、邂逅だと勘違いしているだけで。
本当は、今、私の周りに居る人たちも、昔、何処かで出会っていたのかも……。

「? な、なに……かな?」

蒼星石さんは、はにかんで頬を染めた。
ついつい、彼女の顔を、じぃ……っと見つめすぎてたみたい。
私も気恥ずかしくなって、つぃ、と視線を逸らした。

「ううん……別に。蒼星石さんとも、これでお別れかと思うと、ちょっと寂しくてね」
「いつでも、会いに来て良いんだよ。ボク達に、気兼ねは要らないから」

朗らかな笑みを浮かべた彼女は「あ、そうそう」と、思い出した様に、唇を尖らせた。
徐に、制服のポケットから、なにやら紙片を抜き出す。

「今まで気付かなかったんだけど、ボクのロッカーの中に、紛れ込んでたんだよ」

差し出される、一通の手紙。宛名は……私。
少しばかりヨレヨレだけど、しっかりと封がしてある。

「差出人が書いてないけど、キミに宛てたものだし、渡した方が良いかと思ってね」
「ありがとう。誰からだろ? 蒼星石さんのイタズラじゃあ、ないのよね?」
「ち、違うよっ。そんな事をする理由はないでしょ」

ムキになって反論する辺り、看護士さんによる退院祝いの悪ふざけじゃあなさそう。
じゃあ、誰が? 私に手紙をくれそうな人は、他に居たっけ?


――看護士のロッカーに入れられていた…………ってことは、まさか。

薔薇水晶の眼帯をバッグにしまって、手紙を手にした瞬間、予感めいた想いが、私の身体を駆け巡った。
慎重に、便箋まで一緒に破らないように、封を千切る。


引き抜いた手紙には――――二人だけの合い言葉が記されていた。

ひょっとしたら、無駄になるかも知れないけど……。
そんな前置きで、手紙は綴られていた。


  この手紙を読んでいる貴女は、きっと全てを知っているわよね。
  まずは、退院おめでとぉ。お祝いも兼ねて、あの時の約束を果たすわ。
  口約束でも、反故にするのは、私のプライドが許さないから。
  でも……めぐと一緒には、行けないと思うの。
  だから、約束の場所への招待状がわりに、この手紙を残しておいてあげるわ。
  貴女にとって、ひと夏の甘い思い出になってくれたら嬉しいんだけど☆


水銀燈からの手紙だった。便箋の右下に記された日付は、彼女が消えてしまった、あの日。
彼女が着ていた看護士の制服は、蒼星石さんの物だったのね。
私のパジャマに着替えて、手分けして薔薇水晶を探しに行ったとき、
制服を返すついでに隠しておいたんだわ、きっと。
この状況を悟っていながら、一言も教えてくれなかったなんて……本当に酷いヒトよ、貴女は。


――ありがとう。無駄にはならなかったわよ、水銀燈。
便箋に、生暖かい水滴が落ちる。紙面で砕けて、点々と散った飛沫が、文字を滲ませる。
いけない……約束の場所への案内図が、描いてあるのに。
何も言わずに、そっと差し出されるハンカチ。
私は、蒼星石さんの手からそれを受け取って、目元を拭った。

「……ごめんなさい。洗って返すから」
「気を遣わなくて良いよ。餞別ってワケじゃないけど、めぐちゃんにもらって欲しいな。
 そのハンカチを見る度に、この病院のこと……ボク達のことを、思い出してね」

言って、無邪気に微笑む蒼星石さんを見ていたら、無性に泣けてきちゃった。
結局、私はハンカチを貰った。涙と鼻水でグシャグシャになった物を、返せっこないから。




一年半ぶりに帰る実家は、なんとなく居心地が悪くて、落ち着かなかった。
おかしな話よね。この家には、子供の頃からずっと暮らしてきたのに。
本当ならば、地球上のいかなる場所よりもリラックスできる住処であるべきなのに。

自室に篭もり、バッグから薔薇水晶の眼帯を持ち出して、ベッドに寝転がった。
また、彼女たちに会いに行こうかな。夢の中で、幾星霜を飛び越えて。

この二ヶ月で、私は夢占の能力を、だいぶ使いこなせるようになった。
もっとも、真価とも言うべき未来予測は、全く出来ないけれど……その方が、幸せなのかな。
自分の死の間際を知ってしまったら、安穏と生活できないものね。
何をしても止められない時限爆弾と、添い寝してるに等しい状況なワケだし。


――薔薇水晶。


両手で彼女の眼帯を包み込み、瞼を閉じる。静かな微睡みが、心地よい気怠さを運んでくる。
どんなときも彼女が、私を護ってくれていたってことを知ったのは、
病床で見る夢を、第三者の眼で見つめ直したときだ。
私は何度か転生していたけれど、いつの時代、どの人生でも、彼女は私を見守っていた。
そして、守護者である自分が側に居ることで、私の寿命を縮めてしまうジレンマに懊悩していた。
薔薇水晶にとって、私に寄せる親愛とは重き罪に他ならなかったのね。


徐に、夢の扉が開かれる。
思い出の中で、彼女は嬉しそうに笑っていた。そして、こう語っていた。

『めぐちゃんのパソコンに、メール送っておいたよ~。退院したら確認してね』

なに、これ? 病室での会話らしいけど……私、こんな場面、憶えてない。
もしかしたら、点滴や投薬の後で、頭が朦朧としていた時のことかも知れないわ。

私は、粘っこくまとわりつく微睡みを振り払って、即座に跳ね起きた。
勉強机の隣に配されたPCラックに向かい、パソコンのパワーをオンにする。
一年以上も起動していなかったけど、ファンは鈍い音を発して回り始めた。
OSのスタートアップを待つ時間が、もどかしい。
漸く、システムが安定したところで、ネットに接続して、メールを確認した。

果たして、求めるものは、そこにあった。
着信の日付は、転院した数日後の夜半。多分、向日葵を見に行こうと、約束した日だわ。
メアドは、彼女の携帯電話のものだった。震える手でマウスを動かし、メールを開く。


  めぐちゃん。元気になって良かったね♪
  私、とっても……とぉっても嬉しいよ。
  ホントは、退院する日に迎えに行って、直接、お話したいんだけど……。
  どうしても都合が付かなくて、行けないかも知れないでしょ。
  だからね、こうして先に、メールしておくの。
  こういうのって、ちょっとロマンチックだと思わない?
  

お気楽な文章と、その下に、二人で行くと約束していた場所の詳細が記されていた。
あんな悲劇が起きることなど、微塵も考えていない内容だった。

――ああ、なるほど。貴女は、ここに私を連れていこうとしてたのね。
その場所を、私は知っていた。行ったことはないけど、他の入院患者さんに、話を聞いていたから。
やがて、場所の案内が終わり、メールの最後に、一文が現れた。


  私はいつだって、あなたの心で永久に生きているわ。だから……一緒に行こうね♪


薔薇水晶も、解っていたのね。私が、このメールを見る時、自分が既に居ないということを。
だから、こうして意志を残したのだ。私一人でも、見に行って欲しいと願いを込めて。
不意に、目頭が熱くなって――――私は、薔薇水晶の眼帯を胸に抱きながら……泣いた。




翌日の日曜日、私は両親に無理を言って、お金を貸して欲しいと頼んだ。
今まで、さんざん家計に負担を掛けてきただけに、心苦しかったけれど……
やっぱり、彼女たちとの約束を果たさなければいけないって、思えたから。
そして、今度こそ伝えるの。


さようなら――って。
だから、私は、約束の場所へ向かう。
新たな人生を歩み始めるために。
別れの言葉を、探しに。


パパもママも、最初はすごく驚いてた。
当然よね。退院してきたばかりで、バカなこと言い出すんだもの。
だけど、私が理由を明らかにすると、こっちが拍子抜けするくらい簡単に、快諾してくれた。
そして、パパは穏やかな口調で言ったわ。『思い通りに、生きてごらん』と。
怒鳴られて当然で、最悪、撲たれることも覚悟してたんだけどなぁ。
概して、父親は娘に甘いみたい。




ナップザックに簡素な旅支度を詰め込んで、その日の内に、私は旅に出た。
濃紺の長袖シャツに、白のスラックス。靴はパンプス。動き易さを重視した服装よ。
電車を乗り継いで、最初に向かったのは、薔薇水晶と行くはずだった場所。
その場所で、私は思い出と共に、彼女の眼帯を捨てるつもりだった。




――山梨県 北杜市 明野町
新宿から、京王線と中央本線を乗り継ぎ、三時間以上かけて、韮崎の駅に降り立った。
タクシーで30分ほど走ると、日照時間が日本一というこの町に辿り着く。
映画『いま、会いにゆきます』のロケ地にとして、一躍、脚光を浴びた場所でもある。
夏の間は「明野サンフラワーフェス」も開催されるほど、広大なヒマワリ畑で有名な土地なのだ。
実際、車窓から見る町中でも、頻繁に向日葵を見かけた。

でも、今は9月。向日葵の季節は、終わっていた。
数週間前まで、整然と立ち並んでいた筈のヒマワリ畑は、すっかり更地と化していた。
おまけに、生憎の雨模様。雨だれが、とんとん……と、折り畳み傘を打つ。

「……薔薇水晶。私ね、調べてみたのよ。向日葵の花言葉。
 いろんな意味があったけれど、その中に『私の目は貴方だけを見つめる』ってあったわ。
 貴女はいつだって、私を護ってくれてたわよね」

それなのに、私は間に合わなかった。たった一つの約束すら、守れなかった。
この雨は、薔薇水晶の涙雨かも知れない。私の心で生きる彼女の代わりに、空が泣いている。
私の瞼にも、胸を締め付ける感情が溢れだしてきて……眼帯を握り締める手が震えた。


――ごめんね、薔薇水晶。こんな別れ方じゃ……辛すぎるよね。


別れの言葉は、まだ見付からない。
傘を捨てて、私は――降りしきる雨を見上げた。

九月の雨は冷たくて、溢れ出す悲しい気持ちを流し去るには、丁度よかった。



ふと…………雨が遮られて、頬を伝う涙が、熱さを取り戻した。
閉ざしていた瞼を開くと、ライトグリーンの傘が、私の頭上を覆っていた。

「なにボサッと突っ立ってやがるですか。さっきから、雨の中で傘もささずに」

背後の、割と間近で放たれた声に驚いて、私は泣いていたことも忘れ、振り返った。
傘を差し出してくれたのは、栗色の髪の乙女。遙かな昔、私の侍女だった娘に似ている。
――ううん。きっと、彼女だわ。緋翠の瞳じゃないけれど、長い髪は、あの頃のまま。
深く澄んだ鳶色の瞳は、訝しげに私を眺め回していた。

「なんで、傘を持ってるのに、使わねぇのです? 風邪ひきてぇですか」
「え……っと。ごめんなさい」
「別に、謝ることねぇですよ。独りで思い詰めた顔してたから、声をかけただけです」
「――ごめんなさい」

何を言っていいか解らず、私はバカみたいに、同じ言葉を繰り返すだけだった。
娘は空を見上げて、小さな溜息を漏らした。私が泣いていた事に、多分、気付いている。
自殺でもしそうな雰囲気だと、思われちゃったかな。

「とにかく、こっちへ来るです。そのままじゃ、本当に風邪ひいちまうですよ」

彼女は力強く私の手を握ると、ひまわり畑に程近い建物へと引っ張っていく。
明野ふるさと太陽館。どうやら、この娘は、そこの職員らしい。
有無を言わせぬ勢いの彼女に連れられ、やってきたのは――

「まずは、ここの天然温泉『茅の湯』に入って、温まってくるといいです。
 その間に、服を乾かしといてやるですから、ありがたく思えですぅ」

なんだか、やたらと尊大な態度だけれど……らしいと言えば、いかにも彼女らしい。
私は、彼女の好意に甘えることにした。もう少し、彼女と話がしたかったし、
ずぶ濡れのままじゃ、バスにもタクシーにも乗れないから。

向日葵のシーズンが過ぎてしまった為か、それとも時間帯のせいか……。
温泉の利用客は、私だけだった。展望風呂っていうのかな。とっても見晴らしが良い。
雨降りの日も悪くないなと思いながら、肩までお湯に浸かって、思いっ切り四肢を伸ばす。
入院中はシャワーばかりだったから、浴槽に身を沈めるのは、ホントに久しぶり。

「はぁ…………気持ちいいね」

私は胸に手を当てて、薔薇水晶に話しかけた。
心の中で、彼女が――『あはっ♪ そうだね~』――答えてくれた気がした。



お風呂から上がると、さっきの娘が、乾かしたばかりの服を手に待っていた。
御礼を言って、入浴料と乾燥機代を払おうとしたけれど、彼女は受け取らなかった。

「そのくらい、サービスしてやるです。さっきは思い詰めた顔してたけど、
 風呂に入って、少しは気分転換できたみてぇですね。
 傘も拾ってきといたから、気を付けて帰りやがれですぅ」
「いろいろ、お世話になりました。でも、私……もう一カ所、回るところがあるの」
「どこに行くですか。この近くです?」
「ううん。お隣の長野県よ」

彼女は腕時計を一瞥して、今からじゃ日が暮れるですよ、と目を丸くした。
確かに、もう夜が近い。これから向かっても、到着は夜中になる。

迷っていると、彼女は事もなげに言った。「なんだったら、ここに泊まってくといいですぅ」



結局、泊まることになってしまった。私って案外、強引な迫られ方に弱いみたい。
水銀燈も、我が侭で押しが強かったっけ。
だけど、お陰で夜中まで、彼女と話す機会に恵まれたわ。

「そう言えば、自己紹介が、まだだったわね。私は、柿崎めぐ。貴女は?」
「翠星石ですぅ。ここに勤務してて、向日葵畑や、フラワーセンターの花壇を手入れしてるですよ」
「ふぅん…………やっぱり、今も庭師なのね」

私が『やっぱり』だなんて言ったから、翠星石は不思議そうに首を傾げた。
まあ、そうよね。今の彼女は、前世の記憶なんか思い出してないんだから。
ちょっと気まずい空気を変えるべく、話題を転じた。

「ところで、翠星石には兄弟って居る? 双子の姉妹とか」
「居ねぇですよ。産まれたときから一人っ子ですから」
「一人っ子かぁ……私と同じだわ」

言いながら、私は蒼星石さんの事を思い浮かべていた。
あんなに仲が良くて、片時も離れなかった双子姉妹が、今生では別々の人生を歩んでいるなんてね。
彼女たちの絆は、切れてしまったのかしら。
それとも、彼女たち自身が、生まれ変わる先で双子の姉妹であることを望まなかったのかしら。
案外、後者かも知れない。血の繋がり以上の絆を、彼女たちは求めていたから。

「ねえ、翠星石。私ね、入院してた時に、とっても素敵な人に会ったのよ」

私は、蒼星石さんの話を、彼女に聞かせた。人柄とか、容姿とか、勤務先とか――
おせっかいだったかもね。でも、やっぱり二人を引き合わせてみたかったの。
時を隔てた絆は、切れてしまう運命なのか……それを知りたかったから。私自身のためにも、ね。

その夜は、とても夢見が良かった。温かくて優しい、心の痛みさえ包み込む夢の中で、私は癒された。




翌朝は、昨日の雨がウソのように、スッキリと晴れ上がっていた。
私の気分も、滅入った状態から、かなり立ち直れた感じがする。
仰ぎ見た蒼空には、雲一つない。
まだまだ日射しは強くて、暑い。


別れの言葉が見付からなかったから、私は、薔薇水晶の眼帯を捨てなかった。
まだ、その時期ではないか、私自身が、それを望んでいないからだと思う。
どっちみち、帰路でも此処を通るんだから、その時まで、ゆっくり考えてみよう。
私は解答を保留したまま、この蒼い空の向こう側にある、もう一つの場所を目指す。


取り敢えず、携帯電話で、両親に連絡を入れておこう。
明日か、明後日には帰ると告げて通話を切ったところで、翠星石が側に居るのに気付いた。
見送りにきてくれたのね。私は両手で、彼女の滑らかな手を握った。

「何から何まで、お世話になりっぱなしだったわね。ホントに、ありがとう。
 それじゃ……またね、翠星石」
「はいですぅ。星の海が見付かるといいですね」


もう一度だけ、翠星石に色々と世話になった御礼を告げ、私は長野へと向かった。




――JR長野駅
韮崎から列車に揺られること、三時間以上。こんなに長く電車に乗っていると、流石に疲れるわ。
ちょっと早めの昼食を簡単に済ませると、私はタクシーで戸隠神社を目指した。
そここそが、水銀燈との、約束の場所だから。

この旅行に出る前に、私はインターネットで下調べしてきた。そして、ある事実を発見していた。
戸隠・鬼無里に残されている、鬼女「紅葉」の伝説を。
呉羽という名の、悲運の女性の話。彼女は都にのぼり「紅葉」と名を変えて幸せに暮らした。
でも、言いがかりを付けられ、ここ戸隠に流されて、非業の死を遂げたんですって。

水銀燈が戸隠を選んだってコトは、彼女にも縁が深い土地なのかも知れない。
彼女は鬼の血を引いていたんだから、何らかの結び付きは、ありそうだわ。
鬼女「紅葉」が水銀燈の母親って挿話がついていたら、私はもっと興味をそそられるだろう。
もっと……水銀燈のことを知りたいと想うだろう。
あれ? 彼女に別れを告げる為に、ここまで来たのに……矛盾してるわね、私。


そんな妄想を膨らませている内に、タクシーは目的地に着いた。
戸隠神社 中社。ここからは、徒歩で回るつもり。
伝承とか調べて、水銀燈の言う『星の海』の手懸かりを掴めたら良いんだけど。
でもまあ、昼間は見付けられないんでしょうね、きっと。
だって、星は夜空にあって、煌めくものだから。

「じゃあ、星の海っていうのは――」

この辺りは山岳部だし、空気も澄んでいる。しかも、今日はよく晴れている。
照明も少ないから、夜になれば、思わず息を呑むほどの星空を見られる筈だわ。
戸隠山に登れば、更に違う夜景を体験できるかもね。

「あ……もしかして、そういう事なのかしらん?」

山頂から、満月に照らされて煌めく長野市街の夜景を見下ろし、頭上に満天の星空を頂く。
これって、星の海……っぽい? それに、よくよく考えたら満月は金曜日だったっけ。
声に出さずに、呟いてみる。(ねえ、薔薇水晶……貴女は、どう思う?)

取り敢えず、この空に巨大な暗幕が降ろされるのを待とう。
私は、ナップザックを背負い直して、中社の周辺を見て回った。
焼けたアスファルトから、熱気が立ち上ってくる。
汗を吸ったスラックスが脚に貼り付いて、とても歩きづらい。
でも、木陰に入ると、涼しい風が私の首筋を撫でて、吹き抜けていった。
水田の側では、黄金色の稲穂を揺らしながら、甘い匂いを運んでくる。
山の風って、都会の風と違い、湿度が低いのよね。だから、蒸し暑さを感じないの。
私は木陰の石垣に腰を預けて、田圃の上で群れ飛ぶトンボと、彼岸花を眺めていた。

「ひっそりと訪れる秋の気配、かぁ。とっても長閑で……いい所だね」

ナップザックから薔薇水晶の眼帯を取り出し、胸に抱いた。

「水銀燈が、私を案内したくなるのも解る気がするなぁ。
 すごく、気持ちが安らぐ景色だもの。薔薇水晶……貴女にも、見えてるよね?」

薔薇水晶と交わした約束の場所で、翠星石と巡り会えた。
水銀燈との約束の場所で、こんなに素敵な風景に、心を打たれた。
お別れの言葉を告げに、ここまで来たけれど…………振り返れば、新たな出会いばかりね。



徒歩で、戸隠神社の中社から奥社へと向かう間に見上げた太陽は、西に大きく傾いていた。
山の日暮れは早い。今からだと、戸隠山の山頂まで行くのは難しいわね。
もっとも、修験道の道場だった険峻な山に、長期入院で筋力の衰えた私が登れっこないけど。


奥社は、その名が示すとおり、とても奥まった場所に存在していた。
歩けども歩けども、延々と参道が続いていて、社殿など見えてこない。
山の稜線を彩る夕焼けに黄昏れる間もなく訪れる、宵闇。東の空に月が昇るまでの、一瞬。
両脇に生い茂る樹木が、黒々と頭上に覆い被さってくるみたいで、流石に気味悪いわ。
月齢は十八夜だから、月が昇れば少しは明るくなる筈だけど。

ライトも持たずに、夜の森の中を歩くのは、怖い。
木々の間を抜けてくる冷気が、私の体温を急激に奪っていく。
でも、行かなきゃいけない。星の海を探しに。その為に、夜を待ちわびていたんだもの。
薄気味悪いだなんて、尻込みしてる場合じゃないわ。

聞こえるのは、風に揺れる枝葉の音と、私の足音……それに、虫の声。
ざわっ! と木々がさざめく都度、立ち止まって、振り返る。
誰も居ないことを確かめて、また、歩き出す。
そんな下らない事を、何度も繰り返して漸く、私は古びた門まで辿り着いた。
鄙びた山中に似つかわしくない立派な造りだけど、ここが修験者の道場であることを考えれば、
ここに在って当然の山門なんでしょうね。
門の上部に銘板らしき物が掲げられていたけど、暗すぎて読めなかった。

木々の枝から漏れてくる月明かりに浮かび上がる参道は、まだまだ先に続いている。
社殿に辿り着くのは、いつになる事やら。

とにかく、此処まで来たんだもの。行けるところまで進んでみよう。
足早に門を潜り抜けた私は、途端、首筋に生暖かい風を感じ、異様な感覚に包まれていた。
それは、まるで……眠りの最中に、夢の扉を開いたときの様な――
早い話が、異世界に踏み込んだって意味ね。
此処は、異世界との交流を意図して、造られた門なんだわ。
昔の人たちは、ごく自然に、自分たちの世界と隣り合う、別の世界を感じ取っていたのね。
現代の人々が魂の引き出しにしまい込んで、持っていることすら忘れてしまった能力によって。

多分、いま通ってきた門も、他の人たちには何の変哲もない、古ぼけた山門にすぎない。
潜り抜けたところで、何の変調もきたさないでしょうね。
私は自分の能力に気付いていたから、異世界に足を踏み込めたんだと思う。
星の海を見に行く約束を交わしたとき、水銀燈は既に、こうなると先読みしてたのかしら?
今となっては、確かめようのないことだけれど――


暗い。とても暗い、夜道。あまりにも暗いので、眩暈を覚えてしまう。
森の中から、妖しげな霧が、ゆるゆると漏れだしてくる。
肌寒くて、私は両腕を掻き抱き、一度だけ身震いした。

でも…………不思議ね。私、この光景に見覚えがある。
ううん、違う。実際に見て、肌で感じた風景じゃないわ。
頭の中で描いた、絵画みたいな――――言い換えれば、妄想。
何かの刺激を受けて、想像した景色よ。

立ち止まって、暫しの間、記憶を辿ってみた。
動画再生の頭出し機能みたいなものがあれば、即座に一発検索できたんだろうけど。
そんなことを考えていると、映像ではなく、音声が流れ始めた。


 ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道
 
 
ああ……思い出した。水銀燈の歌だわ。瞼を閉じて、景色を思い描きながら聞いてたんだっけ。
 
 
  独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない

  募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち――


門を潜ったときに感じた生暖かい風は、夢魔の吐息。乳白色の霧に溶けていく参道。
今、私が置かれている状況は、正に歌詞になぞらえていた。

「だとすると、ここは眠りの森ってワケね。私に、ピッタリの舞台じゃないの」

歌詞の通りならば、望みを叶えられない哀切を抱きながら、この森を彷徨うことになる。
でも、私には夢の導きがある。
募る想いを、夢という新風に乗せ、行く手を遮る迷いの霧を割いて、進むことが出来る。
約束の場所は、きっと――――その先にあるわ。


――水銀燈。星の海へ案内して。

胸裏で呟くと、立ちこめていた濃い霧が、すぅーっと割れて、一本の道となった。
それは参道を外れて、森の中へと続いている。私は、躊躇いなく、そちらに進んだ。
私の歩く速度に合わせて、霧は左右に分かれていく。
真っ直ぐに進んでいるようで、その実、ぐねぐねと蛇行している気がする。
右も左も判らない濃霧の中だから、そう感じるのかも知れないけど。

ごつごつと根の張り出す足元に気を付けながら進んでいる内に、汗が出てきた。
ナップザックを背負った背中が、特にヒドイ。
汗に濡れた箇所は、放っておくと氷みたいに冷たくなって、私の肌を刺激する。

そして、どれくらい歩いたのか、判然としなくなった頃――
唐突に、目の前が開けた。
濃霧を突き抜け、立っていた場所は、森の中にポツンと存在する沼の縁だった。
月光に照らし出された岸辺のあちらこちらに、葦やススキの群生が見受けられる。
風ひとつないから、水面は鏡のように静まり返っていた。

「ここが…………星の海なの?」

夜空には、無数の星が煌めいている。足元には、鏡写しの星空。
ここは夢の世界じゃない。霧に包まれた沼で、私は確かに、天と地の無窮を眺めている。
言われてみれば、なるほど……星の海と、呼べなくもないわ。
ただ、あまりに静かすぎて、感動は薄いかも。

立ち尽くして、幻想的な光景に見入っていた私の、視界の隅で、
ぽぅ……と、淡く、小さな光が生まれた。なにかしら? 目を凝らしてみる。
ひとつ、ふたつ、ではない。もっと、たくさん。
見渡せば、葦やススキの茂みから、無数の光が踊りだしていた。

「うわぁ~。これ…………全部、ホタル?」

沼の上で、月光の下で、ホタルの群が舞い踊る。そして、私の周りにも。
九月の上旬で、こんなにも多くのホタルを見られるなんて、奇跡に近いわ。

星の煌めきに似た、儚げな瞬きに包まれて――
私は本当に、星の海を泳いでいる気分になった。

「あはははっ。凄い! 凄いわ、水銀燈! これが、貴女の言う『星の海』だったのね!」

知らず、私の目から涙が溢れ出していた。笑っているのに、泣いていた。
乙女の涙は乙女色。意味もなく、その一言が思い出された。

やっと見付けた。漸く、辿り着いた。それは嬉しいこと。とても喜ばしいこと。
人は悲喜に関係なく、感極まると胸が切なくなって、涙を流すわ。
だけど…………私の頬を濡らすのは、嬉しい涙じゃない。
約束を果たせた安堵や、幸福感の涙でもない。

たったひとつの不満。
大切な人が……。
最も側に居て欲しかった人が、私の隣に――――居ない。
この美しい景色を、一緒に眺めながら微笑み合えないことが悲しくて。
こんなにも心を震わせる瞬間に、絆を結び合えなかったことが口惜しくて。

私は独り、涙を流し続けた。


やがて、光の饗宴も幕を下ろした。
乱舞していたホタルたちは、いずこかに姿を潜め、十八夜の月は西に傾く。
これで、薔薇水晶との約束も、水銀燈との約束も果たされたわ。
私が見続けていた千二百年の夢も、これで終わり。
浅瀬に引っかかった笹舟が流されていく様に、二人の思い出も、過去へと去ってしまうのね。

結局、別れの言葉は見付けられなかった。でも、そんなものは、最初から無かったのかも。
筆舌に尽くしがたい虚脱感を覚えながら、静まり返る沼に、背を向ける。
目の前には、深い森と、濃い霧。
一歩、進み出ようと足をあげる直前、私の胸が動悸した。


  ホントに良いの? このまま帰っちゃって、良いの?
  愛は永遠の夢なんだよ? ここで諦めたら、恋の道は霧に霞んじゃう。見失っちゃうよ?


薔薇水晶に叱責された気がして、私は……いま一度、月光を写す沼に向き直った。
やっぱり、私……水銀燈に会いたい。
切れた絆の糸口を見付ける術なんて知らないけど、ここは夢魔に誘われた、眠りの森だもの。
夢の導きで此処まで辿り着けたのなら、解決法も、夢の中にある筈だわ。

夢は、過ぎ去った日々を回想するためにあるんじゃない。
未来を創造するために、希望という名の夢を見るのよ。

ひとつ、深呼吸。清浄な空気を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
悔しさと悲しみで荒みかけていた気持ちを落ち着けて、私は、徐に口を開いた。


「水銀燈……来たわよ、私」(募る想いを風に乗せ)

「貴女は、千二百年も前に終わった関係だと言うけれど」(永久の愛を)

「本当は、始まってすらいなかったのよ。だから……」(貴方に届けたい)

「もう一度、巡り会いたい」(この気持ち――)

「今度こそ、伝えるから」(受け止めて)



「水銀燈。私、貴女が――」(大好きよ)


契りとは、固く約束すること。そして、仏教では前世からの約束や、因縁であるという。
ならば、水銀燈と交わした約束は、水銀の君との契りでもある。
何のことはない。終点とか、始点とか……そんなものじゃなかった。
この場所は、本の途中に挟み込まれた栞。私たちはまだ、物語の途中に居るのよ。

一陣の風が吹いて、水面が波立った。月の写し身に、脇を通り過ぎていく。
顔の前に手を翳していたけれど、髪が目に入るから、私は両の眼を固く閉ざしていた。

  風が、止む。

一体、今の突風は、何だったのかしら?
恐る恐る、瞼を開こうとした矢先、いきなり背後から眼をふさがれた。
私だけしか居ないと思っていたから、これには流石に、心臓が止まりそうになったわ。

「うふふふ…………だぁ~れだ?」

耳をくすぐる、甘ったるい猫撫で声。勿論、私は、それを知っている。いつだって耳を傾けていたから。
ふわりと漂ってくる、懐かしい匂い。勿論、私は、それを知っている。どんな時も、追い求めてたから。
記憶に刻み込まれてる、掌の温もり。勿論、私は、それを知っている。心の奥まで、温めてくれるから。
全ての感覚が、彼女の全てを憶えていた。

私は、答えなかった。唇が震えて、巧く喋れなかったから。
だから、言葉の代わりに、別のモノで気持ちを伝えた。
際限なく溢れ出す、この感情を……押し留めるつもりなんて更々ないわ。

背後に立つ彼女も、自らの手が私の涙に濡れようとも、私の答えを待ち続けていた。
このままじゃ埒があかない。一刻も早く、彼女の姿を見たくて仕方がないのに。
やむを得ず、私はしゃくり上げながら、震える声を絞り出した。

「……す、い……ぎん……と……でしょ?」

静かに、私の目を覆っていた手が、離れていく。
私は咄嗟に、その手を掴んでいた。なんだか、そのまま霧の中に消えちゃいそうな気がしたから。

でも、ただの取り越し苦労だった。握り返してくる彼女の手は、しっかりと温もりを与えてくれた。
そして、振り返った先には――

「ただいまぁ」

私にとって、この世の如何なる宝物よりも尊いヒトが――
渇望していた最高の微笑みが……そこに、あった。

「水銀燈ぉっ!!」

口にしたのは、ただ一言。それが、全ての意味を内包していた。
もっとも、それは私の主観であって、水銀燈に伝わったかなんて判らない。
ただ、衝動のままに抱き付いて、感情のままに泣きじゃくった。
大好きな人の側で、思いっ切り、本音の自分をさらけ出せる自由。
幸福なんて、所詮は、この程度のもの。
だけどね…………だからこそ、尊いんだと思うの。
誰もが持っているようで、本当は、殆どの人が、それを持っていないから。

「まぁったくぅ……いい歳して、なぁに泣き喚いてるんだかぁ。バカじゃない?」
「……いいよ……バカでも」

水銀燈と触れ合える、喜び。心が温かいもので満たされていく、歓び。
ずっと、いつまでも、こうしていたい。それが、私の幸せだから。
夢ならば、醒めないで欲しい。現実ならば、終わらないで欲しい。
喜と悲の無限螺旋をほどいて、喜と嬉の螺旋を、水銀燈と編み上げていきたい。

「バカでも良いの。私は、貴女が大好きだから。千二百年前から、ずっと」
「…………ホントに、とびっきりのおバカさんね。呆れてモノも言えないわぁ」

水銀燈の語尾は震えていた。それを誤魔化す様に、彼女は口を噤んでいた。
そして、言葉の代わりに、きつく、私を抱き締めてくれた。
少しだけ痛かったけれど……幸せの証だから、その痛みすら嬉しくて。

「涙が――止まらないわ」

耳元で、ふ……と、彼女の吐息が聞こえた。
笑われたのか、呆れられたのか、どっちとも付かない、溜息。

「やぁれやれ。もう一人のおバカさんと一緒ねぇ」
「……え? もう一人って、まさか」

水銀燈の肩越しに、かげろうのように揺らめく霧の中から歩み出てくる人物を見た。
現れたのは、思った通りの容姿。私にとって、水銀燈と同じくらい、大切なヒト。
彼女は、夜目にも判るほど泣き腫らし、双眸を充血させていた。
いつでも微笑みをくれた彼女が、今、大粒の涙を零し続けている。

「めぐ……ちゃん」
「薔薇水……晶」

お互いの名を呼び合い、お互いの存在を確かめ合う。
名前は、魂そのもの。言葉のやりとりの裏では、私の魂と、彼女の魂が応答していた。

「あの娘、めぐと離ればなれになってから、ずぅっとこうなの」
「こう……って、泣き続けてるってこと? 道理で、酷い顔してるワケだわ」
「めぐちゃんだって、他人のコト言えないよ」
「私に言わせれば、どっちもどっちねぇ。泣き虫さんなところも、似た者同士だわぁ」

そうかもね。私たちは千二百年も共に居たんだもの。どこかしら似てきても、不思議じゃないわ。

私は、水銀燈から離れて(ちょっと名残惜しかったけれど)ナップザックを探った。
そして、大切にしまってあった薔薇水晶のトレードマークを取り出し、差し出す。
今更、彼女には必要ない物かもしれない。
眼帯なんてしない方が、よっぽど可愛いんだけど――これは、彼女の物だもの。

「ずっと……持っててくれたのね。ありがとう。とっても嬉しい」

薔薇水晶は、はにかみながら(泣いてたけど)腕を伸ばした。
眼帯を掴む寸前、微かに触れ合う、指先。
ハッと息を呑んで、引っ込められようとした手首を、水銀燈が脇から掴んで引き留めた。
そして、ひとつ頷く。薔薇水晶も、こっくりと頷き返した。

今度は、眼帯を挟んで、私と彼女の掌が、しっかりと重ね合わされる。
伝わってくる、命の温もり。心を満たしていく、幸せな気持ち。
よくよく考えたら、薔薇水晶と手を繋いだのは、これが初めてかも。
あんなに一緒だったのにね。

「ずっと…………夢見ていたの。安心して、めぐちゃんと触れ合える日が来るのを」
「それって――こうして触れ合っても、もう私の命を削り取らなくなったって意味ね?
 並んで道を歩いたり、あなたとひまわりを見に行くことだって出来るのね?」
「そうだよ。だからね、これからは――」

薔薇水晶は、私の手を放すや、勢いよく抱きついてきた。

「こぉんなコトだって……出来るんだよ」

彼女の腕に、ギュッと力がこもる。
水銀燈の力強い抱擁とは、また少し違う、軽く包み込むような抱擁。
今までの、どこか小動物を思わせる、ビクビクした態度ではなかった。

「……ああ。…………よかった」

心から、そう思う。
この旅は、気持ちの整理をつけるため――

「ホントに…………よかった」

悲しい過去と決別するための、儀式だった。
それなのに、こうしてまた、二人に巡り会えたなんて。
あの夏の日から、貴女たちに別れの言葉を伝えられなかったことが、心残りだった。
でも……そんなもの、最初から必要なかったのね。

「私たちは、こうして再び、巡り会えたんだもの」

彼女たちと交わした二人だけの合い言葉こそが、別れの言葉だったのだから。
別れの挨拶って、再会の約束と同じことなのよ。
『また明日、学校でね』『うん、またね』
つまりは、こんな日常会話と一緒。
私たちは既に、この場所で再会することを、約束していたんだわ。


「これからは、私たち……同じ時間を歩んでいけるのよね?」

私は指で涙を拭いながら、二人に問いかけた。
確信はあったけれど、彼女たちの口から、確証を得たかったから。
水銀燈は前髪を掻き上げながら「ええ」と、答えた。
そして、私の隣に歩み寄ると、肩に腕を回し、耳元で甘く囁く。

「それじゃあ、約束どおり『星の海』も見せてあげたしぃ」

水銀燈の吐息が耳に掛かって、くすぐったい。
背筋にゾクリと震えが走り、なんか……ヘンな気分。
私は、耳が熱を帯びていくのを感じながら、水銀燈を横目に睨んだ。

「な、なによ」
「ふふふ……忘れたなんて、都合のいいことは言わせないわよぉ」
「だから、何のコトよ?」
「心臓ちょうだぁい?」


……ああ。そう言えば、そんな戯言をほざいてたっけね。
私は、肩に回された水銀燈の腕を振り払って、彼女と向かい合った。

「この際だから、ハッキリ言っておくわ」

薄ら笑っていた水銀燈は、私に見つめられると、真顔になった。
身じろぎを忘れてしまったかの様に突っ立って、押し黙っている。

「たとえ貴女の願いでも、私の心臓は、絶対にあげない」


だって、私は明日を夢見る乙女だもの。花に喩えるなら、まだ蕾よ。
咲いてもいない内から、あたら命を散らす気なんて無いわ。


――――でもね。


「……その代わりに、私のハートを、貴女にあげるわ」

私は水銀燈の頚に縋り付いて、彼女と唇を重ねた。
脇で、薔薇水晶が「えっ?!」と息を呑んだけれど、キニシナイ。
だって、これは千二百年もお預けだったキス。そう簡単には、止められないわ。
後になって冷静に振り返れば、顔から火が出るくらい恥じらうケイケンだろうけどね。
初めは驚きのあまり硬直していた水銀燈も、私の背中と頭の後ろに腕を回して、
しっかりと抱き締めてくれた。



月明かりの下【満月に照らされて】

数多の悲しみを乗り越えて【痛みさえ包み込む夢】

私たちの絆は、時を越えて結ばれた【愛は永遠の夢】

そして、私たちは、希望という名の夢を見る【夢は終わらない】


  私は、いま――とても幸せです。  


  これからも、きっと。ずっと――

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最終更新:2006年09月24日 21:50