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【like a kindergarten,】

からん、からん、と鐘が鳴る。
うるさいと思わせず、どこまでも届きそうな、精錬された金属音。
響く、響く。そして空気にとけて、消える。
感情など存在しない。ただ心地よく音が流れていた。

彼は眠たそうに手の甲で瞼を擦った。
――はて、いつから寝ていたのだろう。
そんな、惚けた考えを机の上でしていた。
昼下がりの講義室にはもう彼しかいない。

レンガで舗装された中庭を、人が行き交う。
赤茶色の土を踏みしめて、何処かへと、何処かへと――消えていく。
壁で区切られた四角い空に、入道雲が浮かんでいた。
「退屈そうな顔をしているのね、あなたは」
「そうか?」
ぽつ、ぽつ、と交わされる会話。
ベンチの上には、二人。
鉄のフレームに、木の板を打ち付けただけのシンプルなそれが軋んでいた。
「小さい頃は、もっといい眼をしていたのに」
彼女は立ち上がって、身体を屈めて、彼の眼を覗き込んで、言う。
「……小さい、頃?」
昔に見ていた夢を思い出す。
有彩色の溢れた、決して飽きない、夢。
野望とも言える、果ての無い欲望。
目指していたものは何だったのだろう。

心の底から望んだものは何処に行ってしまったのだろう。

納得のいかない結果。彼が、昔に突きつけられたもの。

青空を仰いで、彼は自嘲気味に語りだした。
まるで嘘のような物語。
つまり、本当かもしれない物語。


月明かりの夜。誰も、いない。
千切った綿のような雲が程好く空を隠している。
型崩れした灰色と白い球体を瞳に収めた。
夜空の月には兎が跳ねている。
ただの、影。

探さなければ見つからない。
たとえ目に入ったとしても認識できなければ意味は無い。
――手に入れたいと、思うのならその手を伸ばせ。
知らないこと。理屈の分からないこと。明らかでない、全ての事象を彼は暴き出したかった。
その先にあるものを指と手のひらの隙間に包み込みたかった。

だから、彼はこの地を発つ。

「……行きますか?」
形のいいシルクハットが彼の目の前に佇む。

ぞく。鳥肌が走る。
彼の中で何かがざわめいていた。……つまりは、危険信号。
目の前のそれは笑っているようにも見える。
人外であるそれに対する恐れなのか。それとも、これからの自分に対する恐れなのか。
一向に収まらない無数の肌の突起物。
それでも、彼は、止まらない。

普通なら辿り着くことの出来ない領域。
もがいてでも足を踏み入れたい世界。
帰れない道を行く。
それがあの塔への道。

人が一人、この地上から消えていく。
かつての誰かと同じように。かつてのあの娘とやや違う形で。
導かれて、空に。

混濁とした意識だけがそこにあった。
目には立ち眩みのようなざわめきしか見えない。
手の感覚は無い。足の感覚も無い。脈の動きさえも感じない。
麻痺する肉体も、神経も無く、ふわりと浮かぶ。
そして、足場をようやく見つけた。

水晶のような空気。少ない支柱。冷たい石の床。消えたシルクハット。自分だけしか、いない。

目の前には階段があった。
とても長そうな上り階段。
迷わずに彼は足を差し出す。まっすぐに、ただまっすぐに。


――ようこそ、塔へ。


【I am able to,】

からりとした日だった。
適度に暖かく、空気があまり湿っていない、そんな日。
爽快という他に彼の心境を語る言葉は存在せず、この感覚が、少なくとも今日中には変わることは無いだろうと彼は思った。
草の剥けた道が街に続いている。
不思議と、土は柔らかい。
付いていた足跡に重ねるようにして、靴の底を地面に落としていく。
音が地面に吸い込まれて、消えた。

彼女の頭の中には赤ん坊から、晩年を迎える人までこの街の全ての人間の顔があった。
お隣さんの長男が誰と仲が良いのか、斜向かいのお家のお婆さんがどんな味付けを好んでいるのか。そんな、どうでもよさそうなことも知っていた。
だから、彼が外から来たことをすぐに理解した。

無地のカップに琥珀色の水が満たされている。
匙で掻き混ぜる。わずかな、抵抗。
ごくりと喉を鳴らした。暖かい嗜好飲料が程よく胃に溜まる。
楕円形のテーブルに、まだ大人でない、子供でもない人間が二人。

「旅人さんなんて、本当に久し振りなの」
まず彼女が口を開いた。
彼は自分の呼称に慣れていないようで、やや遅れ気味に相槌を打つ。
弾む一人と、静かな一人の気の長くなるような会話。
彼は、ただ街の中で誘われただけの存在だった。そうだからこそ分からなかった。
どうして、自分が、ここにいるのか。
ただ上を目指せばいい。それだけのはずなのに。
何とも言えない親近感を、煩わしく思う。

窓から光が差し込む。鳥が鳴いている。とろけてしまいそうな、ひだまりのなか。

ちょっとしたことを話した。
彼女が一人でこの家に暮らしていること。両親は病気で亡くなってしまったこと。寂しいと、思っていたこと。
そっと会話の口を閉じる。二人で片方ずつ紐の先を摘んで。
座っていた椅子から彼が腰を上げた。
お礼を述べて、去っていこうとする彼に、彼女は言う。
「まるで弟と一緒にいたみたいで、楽しかったわ。……変なこと言って、ごめんね」
二人で同じように微笑んだ。
同じようなことを考えて、同じように楽しいと感じていたから。
「また会えたら、またお茶を飲みましょ?」
もちろん、と彼は返した。


街から離れた森の中。不自然な白い石の列が天へと伸びている。
ふと彼女のことを思い出す。そして、楽しかった、と心の底から思った。
最後に彼は、誰もいない町への道に手を振って、石段を踏んでいった。

他の何にも関係の無い、全く関係の無い、お茶会の話。


【call down it,】

波の立たない海が広がっている。
いつの日からか淀み始めて、今はもう、湖のように平たい。
明るい健康的な空がかえって違和感を湧かせていた。
風に揺らされる葉も無く、舞う砂塵も無く、切り取られたように景色はそのままだった。
一人の少女が一つ区切りを迎える前からずっと。彼が訪れてからも、ずっと。
その青は浜の白に突き上げられる。
その白は空の青に押し潰される。
美しいのか、おかしいのか。自然なのか、不自然なのか。爽快なのか、苦悶なのか。
どちらが正しいのだろう。きっと、どちらも――

浜辺から海岸線に沿って進んだ先に、その町はあった。
防波堤をしっかりと組んで波止場を作り漁業で成り立っている小さな港町。
見渡せど見渡せど水平線の彼方には何も見えない。ただ青い海が広がっている。
立つことのできる全ての海岸から目を凝らしても何も変わった物は見えない。ただ青い海が広がっている。
その町は一つの島だった。
大陸というにはあまりにも規模の小さい、土の塊。
多くの生物を養う偉大な資本。

ゆっくりと、それは死につつある。
人らはそれが何故かが分からない――理由は確かに存在するのに。

彼がその町に辿り着いたのは夕暮れの終わる頃だった。
磯の生温い風が鼻腔を衝いている。
あの岩と岩の隙間には二枚貝が眠っているのだろうか。
珊瑚の森が広がっているのかもしれない。
そして、残念な事にこの香りはまるで腐り水のようだ、と彼は心の中でまとめた。

かつて、二人の少女がその町の中に住んでいた。
一人は髪の短い、しっかりとした少女。
一人は髪の長い、活気にあふれた少女。
二人は双子だった。
必然的に互いを照らし合わされる二人。
とても似ている二人。
根本的に違っている二人。
それでも、彼女らは同じであろうと願い、異なるものであろうと望んだ。
全ては、戯言。
一人はいなくなってしまったのだから。

ちょっとした言い伝え。
海を穢す者に罰を与える海の使いのお話。
その爪で肉を貫き、その顎で骨を噛み砕き、その死骸でもって海を肥やす。
誰が恐れ始めたのだろう。
誰が恐れるのだろう。
誰が恐れることを止めたのだろう。
恐れなくてはいけない。
何のために?
それの存在のために。それの存在を確かにするために。
たとえ、あなたが餌になっても。

それを恐れなさい。


彼は日が落ちてしまう前になんとか宿を見つけて、ベッドの上に腰を下ろす。
宿の主は主人というよりは女将に近く、女将というよりも娘さんという呼称が相応しい、そんな、長髪の少女だった。
若いのに大変だな、と思いつつも、三十秒でその思考を停止した。

夕食はパンを食べて水を飲むだけで手早く済ませてしまう。
腹はあまり膨らまない。しかし食欲よりも睡魔が勝ったのか、気が付けば彼はうとうとと目を細めていた。
視界がぼやけていく。
彼は耐えかねて、肩を毛布に落とした。
瞳を閉じ、次に起きたときの予定を考える。

……ふと、気が緩んだ隙に彼はあっけらかんと眠りに落ちた。
心地よい眠りだった。
貯蔵された全ての思考を沈めていくような――
深い深い、眠りだった。

ざわわ、ざわわ、ざわわ。
生暖かい潮風が絶え間なく防砂林に流れ込む。
それに伴って、木の葉が互いにぶつかり合い叫んでいる。
丸い月が雲に隠れた夜。
海の表層のみが波立ち、微かに海岸線を狭めていく。
じわり、じわりと、侵食するように。

その場所に、それは立っていた。
雲の隙間から僅かに漏れる月光に照らされている。
荒れ狂う風のうねりを物ともせず道を歩き、進む。
――それは、幻想のようであり、空想の産物のようであり、しかし確かにそこに存在していた。

こん、こん、と木製のドアが手の甲で叩かれる。
夜は少しずつ更けつつあった。
人が食後の談話を終え、就寝に向けて身体の調子を切り替える時間帯。
こん、こん。再度、ノックの音。
催促ではなく、あくまでも家人の反応を伺うような弱いノック。
家の内に音が響く。
その音は家主に伝わり、睡魔から彼女を呼び覚ました。
眼を擦り、軽く衣服を整える。
彼女はちょっとした焦燥感に駆られて脚を急がせた。

同じように、彼もベッドの上で目を覚ます。
身に着けたままだった眼鏡の位置を整え、外を眺めた。
上に目を向けると、所々に散らばっている雲の塊。
僅かに覗く黄色い月。
下に目を向けると、一人の客人。
誰だろう、と彼は思った。

しばらくして、玄関の扉を開けた。
そして、彼女が呟く。
ぽっかりと口を開けて。信じられないとでも言いたげな目つきで。
「蒼星石っ……」
目の前の少女の名を、呼んだ。


帰ることの出来ない場所に、あなたはいる。


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