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【To begin with,】

切り立った崖。
眼下に広がる草原。
そして、青い空から突き出した塔。

――それが、彼の見ているすべて。

誰が建てたのか、誰がいるのか、誰も知らない。
まっしろな円状の雲を纏い、その塔は蒼穹を貫いていた。
常に根元を雲海に隠し、悠然と佇む。
彼はそんな塔に惹かれていた。
全ての常識に抗う、その姿を。
あの塔の中には、何があるのだろう。
あの塔を上ると、何処へ行けるのだろう。
小さな頃からの思い出と、夢を、彼はそれに重ねていた。
振り返って自分の生まれ育った街を見る。
少し歩いてから振り向いて、再び空を見上げる。
――いつか、あそこへ。
そう考えながら彼は坂道を下っていった。

彼は幸せだった。
身近な場所に彼を包む人と、安住の土地があったのだから。
恐れを知らず、畏れを知らず、ただ夢を抱けていたのだから。
夢ほど危ういものはない。
それは真珠と成り得るのか、はたまた泥土と成り得るのか。

疑いを知らない。故に幸せ。


これは、なんてことの無い一人の少年が、一人の青年になる合間のこと。


【here,】

彼は、塔で目を覚ました。
横になっていた床は大理石、のようななにかで出来ているようだった。いずれにせよ、鈍い光沢があった。
身に着けているものは簡素な洋服と、マント。
こつん、こつん、と踵が音を鳴らす。
中央が膨らんでいる、柱――エンタシスでこの塔と外界は区切られていた。
他にこのフロアにある物は、上を目指す為の階段しかない。
他にある物といったら、この部屋がこの部屋であると決定する、たった5本の支柱。
少し手を伸ばせば突き抜けられてしまうような、脆い境界を作っている。
狭間は極めて不安定に作られていた。
それでも、この世界は揺れない。
落ちた砂粒一つですら動かない。

狭い部屋の中を歩いた彼がまず目にした外は、空。あおいあおい、空。
そして、親指のような崖と街。
ああ、随分と高い所だ、と彼は思う。
――その認識は、あながち間違いではない。
ここはとても高い場所。でも、部屋の中に下る階段は存在しない。
下れないという事はそこが領域の最下層ということでもある。
空と隣り合わせの最下層。この異常を彼は感じ取れなかった。

彼は階段に足を乗せた。砂粒一つ無い、まっさらな石の段の上に。
何故昇るのだろう、と彼は自らに問う。
霞んでしまいそうな大気の中で。


これは、小さな頃に見た夢のつづき。


【way,】

あの塔の上には、数え切れないほどの財宝があるという。
あの塔の上には、なんでも願いを叶えてくれる女神がいるという。
あの塔の上には、争いの無い理想郷があるという。

人は空を見上げた。
決して辿り着くことの出来ない、異界を。
引力はいつもと変わりなく、全てに等しく圧し掛かっているはずだった。
あの塔を除いて。
異界の中の、そのまた異界の、それを除いて。

その伝聞には確かにそそるものがあった。
ざいほう、まほう、ようせい、おしろ、おひめさま、かみさま、まおう。
何も分からないからただの空想に肉が付く。
それを喰らうことは至福である。
少なくとも、日々遊びに励むことが仕事のような、子供にとっては。

――やがて人は創りあげる。

天に昇る方法を。地に抗う方法を。
宙に浮き、不完全ながらも漂い、ただ、ただ、目指す場所へ向かうために。

人は再び空を見上げた。
辿り着くことの出来る、異界を。
かつて肉を喰らった子供も、また。
一人は職人になった。一人は政治家になった。一人は塔を目指した。

そしてまた、ひとり―――


彼は笑う。
微笑み、嘲笑い、身体のすべてを使って叫んだ。
なんて、可笑しいのだろう。なんて、オカシイのだろう。
誰も彼もが、ただ、知らないから、知りたいからなどという理由で挑んでくる。
あはははは。――愉快だ、と思う。
あはははは。――滑稽だ、と思う。
世界のすべてを俯瞰し、彼はただ笑う。
たった一人で、周りを荊に囲まれて。

何処よりも高いところから堕ちた男は、ひたすらに、笑う。


これは、この世界のすべて。


【let's play,】

一人、ただ広いだけの草原を、風と走る。

ここは新しい遊び場。彼が見つけた、彼と、その友達だけの場所。
岩を縛る丈夫なロープがこの異界と街とを繋げていた。
粗い縄の目に指を掛け、露出した岩肌を踏みつける。
ここへ来るのに必要な動作はそれだけだった。
それが僅かな勇気を含んでいると、彼らの内の何人が気付いただろう。
荒々しい崖の表面は痛みを想起するには十分すぎるほど歪な凹凸を繰り返していた。

彼は塔から落ちる何かを見た。
だから、ひたすらに走っている。
強く惹かれていたから。
既知の何よりも、塔は、彼にとって夢そのものだったから。
夢について、何かを知りたいと思うことは自然であり、当然なことだから。
青い草を踏んで、あの塔の真下へ、彼は跳ねた。
風が、彼を押し上げるように吹いていた。
少しだけ地面が盛り上がっているところ。そこが彼の目的地。

息を、切らし、汗を、流し、心を、鳴らした。
やがて彼は辿り着いた。街や崖から何千歩も離れた場所へ。
そこは小高い丘。
平地が続くこの一帯で、まるで塔に吸い込まれるかのように僅かに隆起した場所。

それは、彼の望んだ落し物は、その丘に臥していた。
少女という他に表現することの出来ない少女。
黒い布地のワンピース。
さらさらとしている長い髪。
――幻想的といえば、幻想的な容姿だった。

綺麗だ、と彼は思う。
……………。彼女は、眠っていた。
いや、起きていない、と表現すべきだろうか。
その眠りが、安らかなものなのか、苦しいものなのか、彼には分からないのだから。
もっとも、彼女が生きているのか、死んでいるのか、彼にはそれすら分からない。

薄く開けられた瞳を確かに彼は捉えていた。
こうこう、と風の音だけが響く沈黙。
このとき、この世界には、この二人しかいなかった。
「……あなた、誰……?」
彼は、とても柔らかい声を、聞いて。

――ああ、何と、答えたのだろうか。


「いっしょに、遊ぼうよ」
こくん、と頷いた彼女を見て、彼はにこりと微笑んだ。
二人は、手を取り合って走り出す。
――まずは何処へ行こうか。そうだ、この丘の向こうの桜の木まで走ろう。木陰は、きっと涼しくて気持ちがいいから。

そう、それが彼と彼女の始まり。

桜の木の下。
ただ、二人で空を見ている。
あの青いカーテンの向こう側を覗くように。


これは、祝福すべき、出会いのこと。


【crowd out,】

あの人達は鳴いていた。
喉を震わせ、心を昂ぶらせ――鳴いていた。
彼は何もせずに、立ち去る。
誰も咎めることはない。ただ、一人の人間がこの階を通り過ぎているだけなのだから。

青い海はどこまでも青かった。
見方によっては緑とも採れる、透き通った色。
それに浮かぶ小さな島に、彼はいた。
見渡せば海岸が目に映る。
波が迫り、退き、白砂を叩きつけ、撫でる。
安定しないその様子を少しの間だけ彼は眺めた。

屋内に空が広がり、その空を歩くことが出来る。
魔法としか思えないような、光の段がこの小島から空に伸びていた。
楕円形の小さめなプレートは眩しくないほどに光を放っている。
螺旋を描く階段に足をしっかりと乗せ、彼は進んでいった。

ぽこん、ぼこ、ぼこっ……ぼこ、ぽこん、ぼこ。
底から響く音はうるさい。
円柱状の手すりに両手を置いて、彼は思った。
粘り気のある気泡を形成しながら、眼下の海は歌う。
聞きたくもない歌を、うんざりするほどの遅いペースで。


どす、と鈍い音が響く。
粘着質の海に朱色が一滴、二滴。
彼から遠く離れた海の上で、巨大な何かが蠢く。
そこは浜。
決して波の立たない、あまりにも不自然な砂の庭。
それは、ゆっくりと、全ての人に恐れの気持ちを走らせる。
それの指は地を抉り、叫びは天を貫く。
そして、にたりと笑った。
口の両端を吊り上げずに、ただにたり、と。

それの姿を見たのは彼女一人。
つまり、彼女以外の人間は全員、事切れていた。
屍が散らばる浜辺で、一人と一匹が対峙する。
……じわり、じわりと不気味な沈黙が続いた。
彼女は改めてそれの全体像を見る。

――不思議なことに、彼女はそれを美しいとも感じていた。

ぼろ、ぼろ、と零れるもの。
砂地に落ちて、光る。
頭の頂、肩、腕、――彼女の身体を挟んで指と爪。
薄く粘っこい液体が、彼女とそれの狭間に満たされていた。
霞んだ目と、ぎらりと光る目が見つめ合う。
――そして、彼女はゆっくりと堕ちていった。


ふと、足を止める。
見下ろす大地が身体を引き摺る。
白い雲が、目の前にあった。
彼は動かない。
階段は雲を貫いて上に伸びている。
――彼の、脚は、竦んでいただろうか。瞳は、移ろわずにいただろうか。

薄いヴェールを突き破って、彼は昇る。


これは、幼い頃の夢の断片。


【in running order,】

きっと今、胃の中で朝食が消化されているだろう、と彼は考えていた。
ついさっき紐を結んだばかりの靴が飛び跳ねる。
焦ることはなく、ほのかに胸をどきどきと鳴らして、彼は走った。

――なんてったって、今日は久しぶりにみんなで遊べるから。

それはもう何十年も使われているかのようにぼろが目立っていた。
縄に指を巻きつけ、とん、とん、と岩壁を蹴って降りていく。
落ちる。少しして止まる。落ちる。少しして止まる。
そんな動作を十数回繰り返して、彼は緑の絨毯を踏みしめた。

木の葉が舞う。
ゆら、ゆら。人の意思などお構い無しに。
一体何処から――そんなことを考えることは、どれだけ無粋なことだろう。
ただ、揺れる葉を見つめて、面白い、と。
誰もが、思っている。

さて、『遊び』とはなんだろう。
足の速さを競うこと?――それは本質から遠すぎる。
ボールを蹴って競うこと?――それは本質から遠すぎる。
遊びとは、遊びだ。
一人でも、大人数でも、何かをすること。
楽しめば――それは遊びである。

汗が額を走る。
思う様駆けている彼らのそれは、きっと何よりも美しい。

一人が提案をした。
もう一人は喜んで賛成した。
またもう一人は面白くするための意見を言う。

簡単なルールを、一つ。
それでいて適度に複雑なルールを、一つ。
小さな集団の中で通用するルールを、一つ。
噛んで味の染み出るルールを、一つ。
創造の限りを尽くしたルールを、一つ。
心に浮かべて、謳え。

五感を使い、四肢を動かし、脳から麻薬を迸らせ――遊べ。

その時間はとても貴重だから。
帰ることの出来ない、生の行く末から見通すものだから。


木の下に、二人。
さらさらと風に撫でられて、心地よく眠っている。
手と手を握って、肩を寄せる形になって。
そんな様を見た一人が、ボールを投げる動作を止めてくすりと笑う。
なんて、微笑ましい光景なのだろう――というかのように。
風はゆっくりと、決して何も傷つけないように吹いていた。
明る過ぎない木漏れ日だけが彼らを照らす。
桜の木は優しく支える。
この世のすべてに守られながら、二人は眠る。
安らかに、健やかに、幸せに。

夕暮れ。
鮮やかな黄昏が地表を照らす。
何もかもを黄金色に輝かせながら、日は沈んでいく。
彼らは、桜の下で二人きりだった。
落ちていく夕日を見つめながら、きゅっと互いの手を握り締める。
酔いしれる。どこか、ほんのりと甘い雰囲気に。
脳から伸びる幹と、その根毛さえも、そのクスリで浸す。
二人は顔を合わせて、立ち上がった。
空は、濃紺に染まりつつある。
まさに、まさにそれは日没だった。
そうすることでしか形容できない、日没だった。

目を覚まして、呟いて、彼女は走り出した。
彼は少しの間取り残されて、少し笑った。
彼女も、笑っている。

――ああ、こんなにも世界は快い。

走る彼らは、まるで燕のよう。
ひゅるり、ひゅるりら、ひゅるりらら。


彼女は高い高いところからその様子を眺める。
朧月を背負い、ゆらりと――身を揺らす。
顔に浮かべた感情は、おそらく喜び。
雲が空を覆う。
ぼんやりと、微かな光を放ちながら――消えた。

さて、彼女は誰だろう。

彼は眠りに就いた。
今日という日の興奮を胸に収めながら。
次に目覚めた時も夢のような時間が過ごせるようにと祈りながら。


これは、穏やかな彼らの顛末のこと。


【meets his fate,】

耳障りな音と共に、血と鉄が混ざっていた。
極めて似ているそれらを、何かの目的のために、散らす。
いくつもの人影が倒れていく。
小さなものから、大きなものまで、いくつも、いくつも。
彼は、離れたところから、その光景を見ていた。

喧しい破裂音が止む。
火薬の香りが彼の鼻の裏を通り抜ける。
やがて匂いが鼻の付け根にまで達すると、鉄塊が胃に沈みこんだ気がした。
焼けた石畳が、ヒトを焼く。

彼女は苦痛に耐えている。 
いつ終わるのかと耐えている。
彼女も耐えている。 
二人だから大丈夫だと、囁きながら耐えている。
所謂、シェルターという密室に、少女が二人。
明かりはある。食料も二人では余ってしまうほどにある。空調も万全だ。
――でも、二人きりということが、長所で、二人しかいないということが、このシェルターの短所なのだ。

荒れている街。空に階段は見えない。
屋根の欠けた民家に入る。人間はいない。
ぎりり。彼の顔が少し歪んだ。
空腹からの胃の痛みが彼を襲う。
ここにも食べられるものはなかった、と一人ごちて、彼は街の奥へと足を進めていった。

赤光が空に広がっていた。
全ての道に散らばる瓦礫から、真っ直ぐな長い影が伸びている。
少し薄く黒いそれらを、更に大きな影が包む。
光は街の外、防壁で止まっていた。
明かりの届かないこの景色を彼女達が見ることはない。
大きな屋敷の庭の奥、薔薇の荊に囲まれた、分厚い鉄の扉の向こうに、いたから。

扉は静かに威圧感を放っている。
それは少女二人にとってはあまりにも重く、冷たい。
ひっそりと、空気がかすかに蠢く音が、彼女達を襲う。
ごぉん、ごぉん、と鼓膜に響く――年端も行かない子供の聴覚を麻痺させるにはそれほど時間はかからない。
もう日が暮れる頃だろうか、彼女達の内の一人が起き上がる。
確実に、確実に――蝕まれていると、彼女は思った。
だんっ。出入り口に手を当てる。
足に力を込めて扉を持ち上げようとしても、逆に彼女の腕が折れそうになるだけだった。
二人でも開かなかったのに、一人で開けられるわけがない。
どさり、と寝床に腰を下ろす。
外はどうなっているのだろう。
ここに自分達を匿ってくれた大人達はどうなっただろう。
気が狂ってしまいそうな密室の中で、彼女は思った。

孤独は、牙より鈍く、毒よりも苦い。


その屋敷を、奇妙と言わずになんと言えばいいのだろう。
本来二階のあるべき場所は吹き飛び、伸びている壁だけが見える。

――それだけならば、それはこの街の空気に馴染んでいた。

凍りついていたのだ。
屋敷とその周囲の有象無象が――白く、輝いていた。
彼は恐る恐る扉の前に立つ。
金属製のドアノブは触れればきっと自分の皮膚を引き剥がしにかかるだろう。
靴を扉に乗せて、軽く重心を後にずらし、前へ――勢いよく蹴り飛ばした。
ばり、と目を断たれ、木質の扉が割れた。

お腹を空かせた一人の男が屋敷の厨房に入る。
凍てついた床のタイルが、どこまでも硬い。
食べるものはないか、と彼は手袋をつけて棚を漁る。
……食べ物が一つもない厨房があると、誰が想像しただろうか。
落胆した、苦しげな顔をして、彼は屋敷の探索を続けた。

中庭に出る。
芝は凍り、歩く度にぱりぱりと割れる音が鳴った。
白い冷気が、奥から漂う。
凍りついた、巨大な薔薇の園が、そこにあった。
それはまるで迷路のよう。
夕日を浴びて、きらきらと輝く凍った荊。
先を見渡させまいと生えている。まるで、何かを守るかのように。
身体の底から湧く好奇心に駆られて、彼は思わず走り出した。

完全に凍りついた植物など、簡単に砕けてしまうだろう。
事実、彼には竹を割るように真っ直ぐに、この荊の迷路を破ることが出来た。
そうしないのは、ヒトが、簡単な道を遮られることを心の底から喜ぶ、生物だから。
捜し求め、その知識と経験を、感動を取り込んで喜んでしまうのが、それの性だから。

やがて袋小路に辿り着く。
荊と壁に三方を囲まれたその場所に、白い何かが鎮座していた。
それは、人間。
睫毛の一本、指の微細な凹凸にまで霜の走った、極めて精巧な氷のオブジェ。
誰かはそれを老人とも言う。
手を地面に突いてうずくまっている。
彼はゆっくりとした動作で老人を持ち上げ、横にどかせた。
人間であったことを疑うほどその身は硬く、体中の水分を凝固させ嵩を増している。
どかした際に、荊の棘が老人にぶつかって折れた。
……非常識とはこのことだ。
きっと、本人も、彼も、何も感じていない。

そこには、白く曇った鉄の扉。

二人で夕食を食べる。
缶詰の瑞々しい、どこか素っ気の無い味が口に広がった。
飲み干した浄水は水の味がしない。
吸い込む新鮮な空気は淀んでいる。
快適な環境の中で、胸の中に、五臓六腑に、黒い何かが絡み付いていくのを彼女達は感じていた。
悲しくて、切なくて、この狭い世界を二人で分け合う辛さを噛み締めている。
手を握って、指を絡めて、二人はこのまま一緒に眠ろうと小さな約束をした。
自分達だけではどうすることも出来ないと自覚しながら。

しばらくして、がちゃり、と整った金属音がした。
聞くことの無かった、鳴らしたかった音。

――この世に、運命というものがあるならば。

二人、目を合わせる。
その場にあるものは互いへの疑念などではなく、敢えて言うのであれば、純粋な好奇心だけ。

――それは突然に、冷たい風と共に。

温まっていた頬が瞬時に冷える。
何日も感じたことの無かった、命を絶やす感覚が迫っていた。
危険はない。
ただ、熱を奪うということは身も心も削り尽くすのには最適な事象だから。
「あなたは……だぁれ……?」
彼女は、比較的ゆっくりと尋ねた。

……彼は、そのまま消えるつもりだった。

じっと黙って、彼と彼女は対峙する。
氷の屑が風に運ばれて落ちる。
床に落ちたそれは、何の音も立てずに溶けて消えた。


これは、きっと幸福への道。


【take aim,】

家というものが生を持つとするのなら、その部屋は心臓であり、脳でもあった。
住まう人間の中心地、それゆえに心臓。
すべての情報の保存室、それゆえに脳。
必ず、存在する。

街は薄黒く焦げて、ランプの光が頼りなさそうに揺れていた。
明るい場所もあるのに、それを覆い尽くすほどに影が潜む。
どこか好ましい。
暗いのに、寂しいのに、何故か。
影が無ければ見えてしまう。
影があれば見られない。
理由はそこにあるのかもしれない。

でも一番の理由はきっと、人が眠りに就くときの色だから。

少女は寂れた街を走る。
よく見知った顔に元気よく挨拶をしながら、駆けていく。
時折荷物を落としていないか確認しつつ、彼女の拠点へと。

眼鏡の位置を整えて、彼女は一つ息を漏らした。
ついさっきまでキーボードを叩いていた指を解す。
ぽき、ぽきと小気味のいい音が鳴る。
ふと指先を見る。
爪が伸びてきている、と彼女は思った。
放っておけば延々と伸び続けるそれは、不潔なものなのだろう。
爪を切って、気分転換にコーヒーでも淹れようと考えて、彼女は部屋を出た。
ぱたん、ぱたん。
床を鳴らして廊下を歩く。

カップを黒い液体で満たす。
香りを伴ってとぽとぽと流れるそれは、色の割には穏やかだった。
口から、まるで脳に直接干渉するかのように苦味が走る。
決して苦しい味ではなく、美味しい味。
酸味の少ない後味が彼女の頭を覚ました。
最後の一滴を飲み干してカップを置くと同時に、ドアの開く音がした。

帰宅を知らせる詞を口にする。
帰宅を喜ぶ詞を口にする。
向き合った小柄な少女は、眼鏡を掛けた彼女よりも頭二つ分ほど小さい。
顔に笑みを満たしながら少女は今日の戦果――もとい、収集物を報告した。
小さい手でリュックサックから何かの基盤を取り出す。
彼女はそれを受け取り、目の前まで持ち上げた。
ふふ、と期待と合致した喜びを、一つ顔に浮かべる。
望みは彼女の手に握られていた。

誰の望みなのか。――おそらく、この街の人間すべての。

少女に語りかける。
ゆったりとした、落ち着いた声で。
こく、と少女は頷く。
少女はコーヒーカップを片付けに台所へ向かった。
背中が少し遠ざかって、曲がり角に消えた。
薄い小さな板を持って彼女は再び部屋に戻る。

キーボードの音が再び。
何かと、何かを繋げて、何かを作る。


赤。朱。紅。
鮮やかな血の色。
どれもみんな、情熱的で、狂った、色。
赤は憤怒。――頭の頂にまで血液を押し上げる。
朱は血潮。――まるで、燃え盛るかのように。
紅は焔。――泣いてしまうほどに、怒れ。
似ているけれど、僅かに違う。
違いはあれど、想起するものは、同じ。
絶妙に、狂っている。

一閃とは、まさにこのことだ。
何が起きたかも分からないまま、環境が、状況が変化していく。
痛々しく砕けたコンクリート。
止まない風。
焼け焦げた鉄柱。
……さっきまで、声の響いていた街。

叫び。
燃える街路樹を背景に。
涙。
あっという間に蒸発する。
見知らぬ誰か。
もう、動かない。

しばらくして、炎も消えて、普段と同じように街に影が戻る。
ただ、泣き声だけが止まらない。
涙を含んだ、鼻に引っ掛かった声が止まらない。
小さな子供が、二周りほど大きな大人を運ぶ。
腕を狭い肩に回させて、ゆっくりと、這いずるように。

その階段は暗闇に続いている。
目指すべき道。そこにさえ辿り着けば――助かる。
全身の筋肉が緊張する。
ぷるぷると震えて、汗を搾り出す。
足を一段目に置いた。穴は、どこまでも深い。

羽根が一枚、ひらりと空を舞った。
――破壊者は、佇んでいる。


これは、絶対の爪痕。


【pastime,】

二人で遊ぶ。二人で遊ぶ。
お花畑で楽しく遊ぶ。
れんげの香りが芳しい。
花の冠作りましょ。茎と茎とをくるくる絡めて。

遊びましょ、遊びましょ。
おにんぎょさんで遊びましょ。
ピンクのひらひら着せ替えて。お家の綺麗な御部屋の中で。

楽しいわ。楽しいわね。
二人で一緒に紅茶を飲むの。
あつあつクッキーこしらえて。
楽しく食べたら御昼寝しましょ。

おやすみなさい。おやすみなさい。
れんげの冠頭に載せて。
ふかふかベッドで一緒に眠る。
お口の周りにかけらが一つ。

ゆらゆら火影。やさしい火影。
暖炉の前で御本を読むの。
ある王子様とお姫様。
挿絵の中でキスしているわ。

朝日が昇る。ぐんぐん昇る。
今日は何して遊ぼうかしら。
昨日は何して遊んだかしら。
たくさんたくさん遊びましょ。

今日も明日も明後日も。

いつまでも どこまでも つづけばいいのに


これは、たった二人のためだけの春。


【ill at ease,】

清潔な白い床が果てしなく広がっている。
それは廊下だった。
部屋と部屋、個別化された空間を結ぶ、細長い、細長い、道。
幾つもの曲がり角を進んだ先には薄暗い階段。
ひっそりと静まり返っている。
誰かの話す声など聞こえはしない。……陰とした空気だけで満たされている。
ここは、そのような閉め切られた空間。

骨格がパイプで作られた簡素なベッドと、洗面台、外を見るための窓が部屋にあった。
腰まで届く長い髪を弄りつつ、彼女はベッドの上で歌を謡った。
伴奏の無い音楽会。たった一人の音楽会。
添えるのであれば鍵盤楽器の高い音が良い。
ぽろん、ぽろん、と一つでも響くそれは、一人しかいない彼女によく似ているから。
ア・カペラは続く。誰もいない小部屋の中で。

落ちる雫は誰のものだっただろうか。
シーツに吸い込まれて消えるそれはほのかに熱い。
熱は苦しみの表れか。それとも、意志の表れか。

――どちらにせよシーツは冷えていく。


これは、小さな小さな部屋の中の話。


【a dime a dozen,】

朝。心地よい靄の中。

目覚めの挨拶を交わす。
彼女の言葉に彼が答える形で。
彼の寝癖を細い指で弄りながら、彼女は頬を膨らませて文句を言う。
目の前の少年のことを愛おしいと思いながら。

軽く微笑んで、彼は小言をかわす。
早く起きる努力はするよ、なんてありふれた言葉で。
彼女の髪を暖かい手で撫でながら、彼はゆっくりと身を起こす。
目の前の少女のことを愛おしいと思いながら。

朝の日差しが街を青白く彩る。
ひんやりとした空気の中を、二人は歩く。
しん、と吸い込む空気が肺を冷やす。
石畳で出来た道は崖に続いていた。
口を開けることなく進んでいく。
そのままでは動きそうにない静かな空気を全身で楽しんでいた。
まだ、二人の視界は建築物に覆われている。
少しずつ、少しずつ、足を進めていく。

最後の石を踏み終え、露出した地面を踏みつけた。
ぱあっと世界が開けた。
左右には草の地しか見えない。
崖の向こうには塔が見えた。
二人は並んで崖に座って、その様子を眺めている。

言い出したのは彼。
何気ない気持ちで、彼女を散歩に誘った。
特に何かを狙い定めることも無く――ほんの、気まぐれのような気持ちで。

陽光が雲を突き抜ける。
輝いて、紫紺の影をその身に作る。
何もかもが露に消えてしまいそうな景色だった。

他愛も無い話。
友達のこと。近所のこと。世間のこと。
普段でも出来るようなことを、今も語り合う。

なんてことのない、朝の散歩だった。


昼。長い長い日溜り。

退屈な講義を聴いていた。
ためになるもの、と考えていても彼は聞き流してしまう。
違うことを、考えているから。
ずっと、ずっと。関係のない、深刻なことを考えていたから。

彼女は辛い顔を塗り隠して笑う。
貼り付けた笑みは普段のそれと何ら変わりなく周囲に映っていた。
誰も気が付かない。彼女が、気付かせない。
――大切な、親友にも。

何気なく時間が過ぎていく。
ほんの一瞬も硬直せずに、満遍なく。
それは、極めて遅々とした動き。
葉が色を変え、落ちる。そこでやっと大概の人間は大きな流れを知覚する。
とても、些細なこと。
気にしてしまえば、その程度のことか、と簡単に片付けられてしまうようなこと。
ある種、その認識は精神のなによりの支え。
経過した時が大きければ大きいほど――まいって、しまう。
何もなくても、流れを認識してしまうから。

響く教師の声。
彼はただ傍観者になりきる。無意識の内に。
彼女は道化を演じる。はっきりと、意識して。

日は傾いていく。


夜。囁きを空に。

雲一つ無い、澄んだ空だった。
彼の視線の向こう側には丸いランプが浮かんでいる。
動かずに、目が眩みそうな金光を放っていた。その強さは真夜中なのに影が浮き出てしまうほど。
光の粒を辺りに撒き散らして、夜空は漂う。
――揺れる人影が、草の上に一つ。

異様なまでに明るい夜だった。
陰になる場所なんてないとさえ思わせる明るさだった。
それでも、彼と彼女は影を作る。
それが目的ではなくても、外に出る際に必然的に。どうしようも、無く。
これは、彼女が誘った遊歩会。
人工的に削られた石を踏んで歩む。

朝と同じ場所。
崖の方向に少し足を進めて、彼は空を見上げ、佇む。
長めの影が、街に向かって伸びていた。
彼女はそれに身体を包まれて後ろに立つ。
一帯はどこまでも凪いでいる。
無駄に音を立てることも無い。
静かな、夜。

大切なことを思い出して、包みを取り出す。
リボンで口を縛った簡潔な袋。
片手で全体を抱擁できるくらい小さな袋。
彼はさり気無くそれを彼女に手渡す。
授受。本心から喜ぶ顔に一滴涙が添えられる。
彼女は、微笑みながら涙を流す。
――なんて、歪な様なのだろう。

少しの間、彼は呆気に取られた。
ひょっとして、自分は何かを間違えてしまったのではないか、というような戸惑いを露にする。
彼は何も間違えてなどいない。ただ贈り物をしただけなのだから。
感謝と、謝罪のために彼女は口を開いた。

ゆらり。彼女が朧になる。
空気を震わせない、ひっそりとした声で笑う。
くすくす、くすくす。くすくすくすくす。

……彼女は、途切れ途切れに発した独白を終える。
彼は凍りついた。悲哀した。恐れ、戦慄いた。
これから、あと少しで起こるはずの問題の解決策を強く求める。
否定を表す彼女の首の動き。
何度も、尋ねる。返事が一向に良くならないと分かっていても。
何度も、答える。どうしようもないことを知っているから。

彼女は思慕する。
ある特定の、一度も話したことの無い人物を。
理由は何処かへ飛んでいった。はるか空の向こうへ。
いつの頃からかなんて、誰も知らない。
――考えることすら無意味なのだ。

ばちん。少しずつ、裂けていく音。
それは空か。それとも、踏みしめた大地か。
存在と、周囲の空気そのものが虚ろになっていく。
瞳は姿を捉えているのに脳に信号が上手く伝達されていないような、浮いた感覚。
彼の中で何かが軋む。
遠い向こうの空が見渡せるほどに彼女の存在は希薄になっていた。

「……さようなら」

言葉だけが残った。
落ちる少女の涙一滴さえも絡め取って、ただ悲しい言葉だけが。

消失。

今、彼の目には紫紺の帳に包まれた塔しか見えない。

障害物など無い。

しかし、目の前が、一滴の雫で、ぼやけた。


これで、ほんの少しおしまい。


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