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 この世界の、風が無かった。
 だから思ったのだ。ああ、これはきっと夢なのだろうと。

『本当に、それは夢だったの?』

 そう言われてしまえば確かな返事は出来ないのだけれど、そんなことを僕に聞いてくれ
るひとも居ないから。

 世界の中で、僕と君の二人きり。いつも自分が見ている風景と何ら変わりは無い筈なの
に、何処かしら『何か違う』雰囲気が漂っているのは何故なのだろう。


 硝子が。


 上を見上げれば、空が青色を見せている素振りで。実は僕らに嘘をついていた。
 世界が、嘘を、ついていた。

「世界は、硝子で出来ていたのよ。初めはみんな、透明だったのに。
 ……ひとが。ひと、という存在が、それに色をつけただけ」

 そんなことを語る君の言葉を信じることにしたのは。この世界で動いているものが、
僕ら以外に何もなかったから。もっとも、それ以前に。僕が君の言葉を、信じないこ
となんて無いのだけれど。

「歩こう、」

 僕は君の手を引いて歩き出す。
 だけど、ほんの少しだけ前。この世界に、僕が気付いてしまう前に。僕らは『せかい』
の風を受けて、確かに歩いていたような気もしている。今はもう、感じられない風を背
にして。

 この世界の、風が無いと思ったから。実の所、またふと僕が気付いたときに。あの
『せかい』の動きを感じたときに。背に受けていた風が、向かい風に変わっているかも
しれないことを……君は知っていたのではないのだろうか?

 だから。

「うつくしい『せかい』は、何処にあるのかしらね……ジュン?」

 嘘をついていたのは、世界では無く、―――


 何処までも透き通るこの世界の中で、僕は君と一緒に居られればそれで良かった。
だけど君は……決して綺麗な色ばかりではなかったあの『せかい』が。とても、とて
も素敵だったことも、きっとわかっていたんじゃないのか。


 手を繋ぎ、一緒に歩いている君の顔は微笑んでいるけど。もう、昔のように。僕に
声をかけてくれることはない。


 ――――そろそろ、眼が覚める頃合だ。どうしてそれがわかるかと言うと、僕達の
頭上に広がる硝子の空が、ひび割れ始めてきたから。
 そうして音も無く、落ちてくる。ゆっくり、とてもゆっくりと、透明な欠片は落ち
てくるのだ。それがきらきらと輝いて見えるのは、この世界にひかりが溢れているか
らに他ならないと僕は思う。

 硝子の空は、とても曖昧だった。砕けることで、それは確かな欠片になる。
 地面に落ちていた欠片を、僕は手にとって。また元のひとつのかたちに戻そうとする。
 何となく、涙が出た。だって、僕がしているその行為は。確かな色を持った欠片を、
また元の曖昧に戻そうとしているだけのことだったから。



――――――――



「――――……」

 眼が覚めると、僕の視線の先には薄汚れた天井がある。学生寮はしっかりした造りをし
ているものの、それほど新しい建物とは言えない。所々に古さを感じさせる部分があるの
だけれど、別にそれで嫌悪感を覚えるということはない。

 カーテンを開けると、眩しい朝日が部屋の中に射し込んでくる。今日は天気が良くなる
ようだ。
 ついでに窓を開けると、更に外側にかけられている網戸越しに穏やかな風が流れてくる
気配がした。空気の美味しさというものを特に実感したことはないのだが、それでも以前
住んでいた街中よりは澄んだ空間の中に居るのだろうと、何となく思う。

 硝子の窓に手を触れて、さっき見ていた筈の夢のことに少しだけ思いを巡らせてみた。
夢というものは大概、目覚めればさっぱり忘れてしまうものも多いのだと何処かで聞いた
ことがある。だけど今の僕は、わりかしはっきりそれを覚えている。

 ただ、いくら覚えていたところで。それが意味しているであろうことは、僕にはわから
ない。僕は誰かと歩いていて、何か哀しい感覚と共に涙を流す。所詮それは、それだけの
こと。

「欠片……か」

 僕が今、眼の前にある硝子を割ってしまったとしても。それはただ『硝子が壊れた』と
いう事実を表すだけで、何の意味も持たないことだ。その欠片に手を触れて、せいぜい手
を切ってしまうかもしれないという可能性がある程度。割れた硝子は勿論元には戻らない。

 確かな破片を、元の曖昧に戻すということ。それは、その曖昧というものが……壊れな
ければ、その存在を認めることが出来ないものだったという意味なのだろうか? 自分で
考えてみて、少し混乱してくる。

 まあ、いいかと。本当は、そんな簡単に切ってよい話題ではなかったのかもしれないの
だが。ここでこれ以上考えたところで、答えが見つかる訳でもないから、僕はそれ以上の
思考を止めておいた。

 さて、今日は……街で花火大会がある。二週間前に水銀燈に誘われてから、早くも学校
は夏休みに突入していて。今日は少し早めに起きてしまったものの、特にすることもない。
しょうがないから、とりもあえずもまたベッドに転がりつつ、だらだらと過ごすことに決
めた。街へ移動する手筈が整ったら、どうやら連絡をくれるらしいから。

 期末考査の復習などをしておくべきなのだろうか、という考えも浮かばなくはない。だ
けど、如何せんやる気が出ないのだからしょうがないのだ。
 今回のテストで、僕は少しだけ順位を上げて学年で十四番という位置につくことが出来
た。僅差ではあるものの、まだ十番以内の壁は厚いらしい。
 水銀燈は相変わらず一位の座をキープしていた。本当に大したものである。雛苺はひと
つ順位を上げて五位。全く、彼女はいつ勉強しているのだろう。

「……」

 そうして寝そべりながら、雛苺のことを考える。僕が美術室に行った次の日。予想通り、
彼女は僕に対していつも通りの様子で接してくれた。
 だが。その『いつも通り』の態度が、逆に『美術室の出来事は触れないで欲しい』とい
うサインにも思えてしまった僕は、多分捻くれているのだろう。何にせよ、普段どおりの
会話が出来るということは、自分にとって有難いことだというのに。

 結局、彼女の『変貌』について、先生に相談することは出来ないまま今に至る。いざ言
葉にしようとすると、丁度それが喉のところで引っかかって出せないのだ。

 仰向けになりながら、両の手を空に突き出す形になる。何を掴む訳でもなく、僕の手は
ただ、其処にあるだけ。
 久しぶりに。……本当に久しぶりに、自分から服のデザインでも描いてみようかという
気分に一瞬なったのだけれど、結局僕はベッドから起き上がらなかった。


――――――


 結局朝早くに目覚めた僕はあれからとりもあえず二度寝して、適当なところで起きだし
てから今までずっと本を読んでいる。読んでいるとは言っても軽く流していく程度で、内
容が頭の中に入り込んでくる訳でもない。
 本は、先生から貸してもらったものが多い。ハードカバーの哲学書から文庫の小説から、
内容は多岐に渡っているのだけれど。

 哲学書の方は、『真なるものは全体である』とかどうとか書いてあるのを見た時点で本
を閉じてしまった。保健室にあった哲学に関する本がそれしかなかったのでこれを借りて
はみたものの、『初めにこれを読むのはお薦めではないなぁ』と言っていたのがよくわか
った気がした。こんなの読んでる高校一年生というのもどうだろうという感じもするが、
まぁ、夏休み中に眼を通してをくのもいいだろう。

 小説は色々あったのだが、その中に一冊だけ詩集が混ざっていたのでそれを読んでいた。
短い言葉で心情や情景を描写していく様はなかなかにして壮観なものがある。
 もっとも僕にはそれを読み解く読解力が足りないので、それらを暗記して諳んじること
は出来ても、意味を理解するまではきっと至らない。

 ただ、印象的な言葉はいくつかあったりもした。

『金魚のうろこは赤けれども その目のいろのさびしさ。―――』

 こういった言葉を繋ぐひとたちは、何か僕らと『何かを着眼する点』が異なるのだろう
か――などと考えたりもする。僕も、またはこの作者も。勿論金魚ではないのだから、そ
の心を理解出来る筈がない。この『さびしさ』は、言葉の繋ぎ手が感じ取った印象だ。

 もしこのことを、『ひと』という存在に置き換えたとしたら――やはり同じことを言う
ことは出来ないだろうか。所詮他人は他人、自己は自己であるのだけれど。他人の様子や
仕草から、その心情を察することも、あるいは可能なのではないか?
 僕は其処から目を逸らしてしまったけれど、……

 と、ここでその思考を打ち切ることにする。随分と、らしくないと思ったからだ。どう
も、あの美術室で雛苺と話をしてから――僕の中の考え方が、少しずつ変容していってい
るような感覚がする。
 加えて、昨夜見ていた夢のことも。僕はもうあの夢を、今までに何度も見たことがある
気がする。繰り返し見る夢には、何か意味があるものなのか。

 ――わからない。何も、わからない。僕はひょっとしたら、何かを思い出さなければいけ
ないのかも……

 ――と。不意に、机に置いてあった携帯の着信が鳴る。手にとってみると、一件のメー
ルが届いていた。

『ジュン、用意は出来てる? 校門の前で待ってるわぁ』

 水銀燈からだ。保健室で彼女と頻繁に出逢うようになってから、携帯の番号を交換した
りしていた。たまに他愛の無いメールが届いたりもする。個人的にはこの携帯電話という
ものが好きにはなれないのだが、いざ使い始めてみるとあればあったで便利ではあるよう
な感じもする。

 とりもあえず、僕は読んでいた詩集を閉じて机に置いた。もう着替えは済んでいるし、
届いたメールに『これから行くよ』という返信をした後に椅子から立ち上がった。
 帽子を目深にかぶり、もう随分前から持っているのに、全然くたびれた様子の無い黒のオ
ールスターを履いて外へ出る。大分、辺りは薄暗くなっていた。


――――――


「あ、きたきた。ジュン、遅いわよぉ」
「ジュン~、こっちなの~!」
「これで揃ったね。出発しようか」

 三人の女性陣のお出迎え。水銀燈と雛苺は浴衣を身に纏っている。水銀燈は薄い水色に
白の花模様があしらわれたものを着ていて、涼しげな印象ながらも何とも大人びた雰囲気。
雛苺は薄紅色生地に金魚が描かれているのが可愛らしい浴衣だった。
 こうなると、僕のTシャツにジーンズという出で立ちも微妙な感じで。本当は浴衣か甚平
でも用意出来れば良かったのかもしれないが、生憎そういった服装は持ち合わせていない。

「さて、皆車に乗ってね。ここからならそんなに道は混んでないと思うけど、一応余裕持っ
 て出た方がいいだろうし」

 そんなことを言う先生は、浴衣ではなかった。やはり運転するとなると、浴衣は邪魔にな
るものなのだろうか? 少し残念だったけれど、今先生が着ているノースリーブの白いワン
ピースも、とてもよく似合っているように感じた。何だか、みんな普段見慣れない服装なの
で……どきどきしてしまう。

 そして、車中。助手席には水銀燈、後部座席には僕と雛苺が並んで座っている。車内には
備え付けのオーディオから、控えめのボリュームでBGMが流れている。何処かで聴いたこと
があって、きっと知ってる筈のメロディー……普段音楽を聴かないと、こういう所の知識に
はとんと疎くなってしまうものなのだな、と実感してしまった。

 ふと、水銀燈が後ろを振り返って僕に話しかけてくる。

「ジュンは花火大会、行ったことないんだっけぇ?」
「ああ。特に興味もなかったしね」

「寂しいこと言うのねぇ。まぁ……今日は楽しみましょう? 綺麗よぉ、きっと」
「……そうだなぁ」

言いながら、水銀燈の浴衣をまじまじと見つめる。こんな時に、着ている服の方に眼がいっ
てしまう僕もどうかなあとは思うのだけど。それにしても、よく似合ってるな。
 そんなことを考えていると、また彼女が口を開いた。

「あらぁ、ジュン。ひょっとして見とれちゃったぁ?」

 言いながら、彼女は僕の帽子をひょいと取り上げて自分の頭にかぶせる。

「うーん。なんというか、な。綺麗だよ、確かに」

「……!」

 僕がそう返すと、水銀燈は顔を紅くして固まってしまった。僕がしていたように深くか
ぶって、前を向きなおす。……何だ、一体。浴衣にその帽子は流石に似合わないぞ。

「鈍感も罪なものだね、桜田君」
「なんですか?」

「ふふっ、何でも無いよ。あ、今日は後からもうひとり来るからね。現地で逢うことにな
 ると思うよ」

 ……何で一緒に来ないのだろう、と少し考える。学校の生徒ではないということだろう
か?

 そんな僕の思考を余所に、車は走り続ける。住んでいる場所は多少山の中にあるとはい
え、車中から見える景色はあっという間に街の色を映し始めていた。
 まだ高校に入学してから半年も経っていないというのに、随分久しぶりな感じがする風
景。いよいよ市街地に入り始め、街中の電柱と電柱の間には何やら明かりの灯った提灯の
ようなものがぶら下がっていた。こういうのを見ると、いかにも祭りがあるのだという感
じがする。

 ふと、雛苺の方へと視線を向かわせた。彼女は特に何も言葉を発することも無く、僕が
先ほどまでしていたようにぼんやりと窓の外を眺めている風だった。彼女が何を考えてい
るのかはわからないが、やはり僕と同じように……何処かしら感慨に耽るようなところが
あるのかもしれない。

 暫くして、車内は無言のまま。いつのまにやら曲は切り替わり、ゆったりとしたテンポ
のギターの音が流れ始めた。そして響き始めるボーカルの声とともに、女性独特の高音域
の声が混ざる。

 ……先生が、息を普通に吐き出すのと同じくらい自然な声で、唄を歌っている。その様
子を見て水銀燈が、それに声を合わせ始めた。
 元々流れている音量は大きくなかったので、二人の澄んだ声はよく響く。

『♪―――I remember……all my life……――』

 静かな静かな二人の歌声が、美しいハーモニーをみせる。歌詞を全て聴き取ることは出
来ない。短い……少し短い唄だったが、僕はその間、旋律に耳を傾けていた。

『♪In my……life――I love you more……――』

 そして、曲が終わる。BGMは次の旋律へと移り変わり、また何も変わらない車内の空気へ
戻るかと思われたが、

「二人ともすごいのー!」

 と。パチパチと手を叩く雛苺が居るのだった。
 それは先生にとっては全く以て不意の出来事だったらしく、普段なら見られないような
慌てぶりを見せる。

「え、え!? 聴いてたの? ……もう、恥ずかしいよう」
「あらぁ、私もめぐに合わせてたのよぉ。すごい気分よさそうだったからぁ」
「むぅー」

 何だか拗ねた感じの先生だ。座席越しにも、頬を膨らませてしまっている様子がわかる
位。……こんな先生を見るのは、多分初めてかもしれない。

「先生。さっきの曲、何ていう題名なんですか?」
「イン・マイ・ライフっていう曲だよ、桜田君。随分昔の曲でね。流石にリアルタイムで
 聴いてた訳じゃないけど、好きなんだよねえ。ビートルズは高校時代に結構聴いてて、
 この曲はお気に入りなんだ」

 ああそうだ、ビートルズの曲か。いわずと知れた、有名なグループじゃないか。

「さて、着いたね。とりあえず車は此処に停めといて……あとは歩いて行こうか」

 先生の一声と共に、全員車を降りる。辺りに灯っている街灯が目立つ程に、もう空は暗
くなっていた。


――――――


 会場となっている河川敷には、出店が多く見られる。ひとはもう呆れる程溢れかえって
いたが、僕らはそれに巻き込まれることはなかった。先生が、河川敷から少し離れた所の
所謂『穴場』に僕達を案内してくれたからである。少し林がかった場所なのだが、丁度そ
の一角に樹々が途切れる場所があって。其処から花火を存分に楽しむことが出来るという
寸法らしい。

 喧騒。この林を越えてひとたび河川敷に降りれば、其処にはひょっとしたら、中学時代
の同級生が居るのかも……
 そう考えると気分が少し欝っぽくなる。――まあ、どうでもいいか。これだけの人間が
集まっているのだ、彼らに出くわす自体なんぞそうそうないだろう。

 そして聴こえてくる会場アナウンスと共に始まる、花火。

『……協賛でお送りします……第一号、スターマイン――』


 ドォン、という音に少し遅れて、夜空にひかりの華が咲く。

「たーまやー、なのー!」
「綺麗ねぇ……」
「うん、来て良かったね」

 僕と一緒に座っている女性陣三人は、めいめい楽しんでいるようだ。
 かく言う僕も、久しぶりの花火の光景に眼を奪われている。少し離れた場所であがって
いる歓声と、打ち上げられ続ける花火。その音と、闇と、空に描かれるひかり。それだけ
で構成されている世界に、僕も溶け込んでいく。

 単純に、うつくしい世界だ。これはひとつの祭りであって、この瞬間だけ感じることが
出来るもの。――悪くない。本当に、悪くないことだと、何となく思う。


―――――


「ちょっとお腹空いちゃったねー……出店でなんか買ってくるよ」
「あ……めぐ、私も行くわぁ」

「そんな、僕が行って来ますよ」
「いいの。桜田君はヒナちゃんと待ってて」

 そう言い残して、先生と水銀燈は出店の方へ行ってしまった。必然的にこの場所には、
僕と雛苺だけが残される。
 ――別に気まずい筈も無い、空気。ただ、あの美術室の一件依頼、僕と雛苺が二人きり
になるのはこれが初めてだった。

 花火はどうやら、十分ほど途中休憩になるらしい。そういうアナウンスがたった今耳に
入ってきた。
 僕は何も話さない。雛苺も声を発さない。彼女はどうか知らないが、僕は何を話せばい
いのか……わからなかったのだ。

「ジュン?」
「――なんだよ」

「先生達――遅いわね」
「ああ、そうだな」

 それぎり、また無言。花火が夜空に上がる訳でもなく、僕達はただ、ここに居るだけ。
 そういえば、現地集合すると言っていたもう一人はいつくるのだろう……?

「ジュン、あのね――」

 そして唐突に切り出してきた、

「お話が、あるの」

 彼女の言葉に、僕は吸い込まれていく。
 どくん、と。自分の心臓が鳴った音を、まざまざと聴いた。
 この、この感覚。この息苦しさを、僕は知っている――

「先生には、あらかじめ言っていたから。水銀燈も、気を利かせてくれたんでしょう」
「――……」

 よくわからないことを言う彼女。――そう、これは『彼女』で、……――雛苺では、ない、

「ジュン、貴方と――こうして逢うのは、最初では無いの。度々、顔は出していたから。
 だから、初めましてとは言わないわ」

「お前は――」

 言いかけた僕の口に、彼女の人差し指があてがわれた。

「貴方は私を、覚えてはいないわ。まあ、それも正しくはないのかもしれないわね。何し
 ろ、いくら貴方が"覚えていたとして"。貴方が覚えている"私"は、"貴方の覚えていた
 私ではない"」

 普段の雛苺からは感じ取ることが出来ない雰囲気だった。今の『彼女』の瞳は、決して
冷たいものではなく――それでいて、何処かしら陰を落としたような色をしている。

「懸命な貴方なら、私が『雛苺』ではないことを察しているようね」

 そう言うと、彼女は僕の唇から指を離す。

「――まあ、そうだな。少なくとも、あいつは今のお前のような眼で話をしたりはしない」
「あら、それはどうかしらね。貴方がそう言う基準は、必ずしも正しいとは限らないのだわ」

『彼女』は身を翻し、少し離れた位置で……空を、見上げる。
 今居る場所は林ではあっても、所詮は街の中。それほど綺麗に星が瞬いているとも言え
ない空を向きながら、彼女は言葉を紡ぐ。

「『心に刻まれたいくつかの場所がある、たとえ姿を変えても決して忘れない……
 良くも悪くも永遠に変らない場所、今はもうない場所――昔のままに残る場所』」

「……?」

「行きがけの車の中で先生が歌っていたじゃない。イン・マイ・ライフの冒頭の歌
 詞よ」
「それが、どうかしたのか」

「――そうね。望郷の念の果てにあった変わらない場所は……自分のこころの中にのみあ
 る。今の私の心情にぴったりだって、そう思っただけよ。そう、その場所は――
 "今はもうない"のに、"昔のままに残る場所"なのね」
「……」

「私はあくまで、『今の私』でしかない――」

 その言葉に続けて、彼女は言った。……とても、透き通った声で。

「改めて紹介しなければならないわね。私は、――真紅。先生が言っていた、この会場へ
 『来る筈のもう一人』。それが、私」

「なん……だって……?」

 何を言ってるんだ、こいつは。姿かたちは、明らかに雛苺で。しかし明らかに、纏う雰
囲気が異なる眼の前に居る少女。

「雛苺、あの娘はね。彼女自身の人格の他に、私と言う存在も持っているの。こう語って
 しまうと、サイコパスやら何やら言われてしまいそうだけどね。私"達"の生活自体に
 は特に支障が無い――そんな関係を、保っているつもり。

 もっとも雛苺は、それを認めようとはしていないかもしれない。例え"私"という存在を、
 おぼろげに自覚していたとしても」

淡々と語り続ける彼女に、僕は何の言葉も返すことが出来ない。

「水銀燈も私のことを知っているわ――ひょっとしたら、貴方もその内気付くかもしれな
 いと思っていたのだけれどね。何しろ、定期考査の順位表に『真紅』という名前は無い
 のだから。

 まあ、いいわ。今の貴方に理解して欲しいのは、この『真紅』という存在だけ。身体は
 確かに雛苺のものだけど、意志は確かに、今は"私"のものなの。
 もっとも――この出来事を、雛苺は覚えているかどうかはわからないけれど」

「ま、待ってくれ――そんな一度に言われても、理解が追いつかない。大体、何でいきな
 りお前が現れたりするんだよ。その、……雛苺は、昔からお前とずっと一緒に居たって
 言うのか?」

 そう、それは。僕が知っている、幼い頃からの彼女が。いつでもこの『真紅』と名乗る
少女と、存在を共にしてきたのかという問い。
 彼女は。その問いにすぐ応えることは無く、ふっと眼を伏せた。

「貴方が――『ジュン』が、そう言うならば、それが『全て』。ここはそういう世界だし、
 そういう"物語"が紡がれているということね」

 彼女の眼の色の陰が、一層深くなったような気がしたから。僕は呼ばないといけないと思ったのだ、

「――真紅、」

 ……彼女の、名前を。

 呼ばれて、僕の眼を真っ直ぐに見つめてくる彼女。

「お前が、――真紅。お前が今、其処に居るなら。……それは、それ以上でも、それ以下
 でも無い。それは、事実だから」

「いい子ね、ジュン。それでいいのよ。貴方が認識する私が"そう"であるならばね。

 けれど、ジュン。貴方はあの娘――雛苺の傍に、ついていてあげて。貴方自身の恋愛感
 情やら何やらとはまた別にして、ね」
「また、俗っぽいことを――」

 僕がそう言った所で、彼女――真紅は、いたずらっぽい笑みを浮かべて言う。

「あら、貴方は随分鈍いみたいだから。余計なお世話だったかしら?」
「少なくとも今のお前から言われる分には、な」

「――ふふっ」 「……はははっ」

 思わず、笑い出す。何だか、可笑しかったからだ。いきなり『真紅』という存在を明か
されて、そして話をする。大分、滑稽な図じゃないか。彼女という存在を認めて、話を続
ける僕も変だ。

「そう言えば、ジュン。貴方、随分と紅茶を淹れるのが上手らしいじゃない。今度私にも
 ご馳走して欲しいものだわ。何しろあの茶葉は、私が用意したものなのだから」
「雛苺の家から、送って貰ったのか?」

「――そうよ。私が、彼女のふりをしてね。とてもいいひと達よ、叔父も叔母も。雛苺を、
 本当の娘のように可愛がっていてくれている」
「……」

 それを聞くと、少し複雑な気分だ。そして僕は、ひとつ思い当たった節を確認してみる。

「――真紅。お前の存在は……雛苺のこころの問題に、何か関係があるものなのか。
 雛苺の両親が、交通事故で亡くなったこととか――」

 そう言うと、彼女はまた僕から視線を外し、俯く。

「――そうね、ジュン。貴方は少し間違っているけど、概ねそう」

 そこで、また。真紅が口を開いてから、ドォン、という音が響き。夜空に咲いた華のひかり
が、僕達の姿を朱色に照らした。

「そろそろ私は引っ込むわ、ジュン。先生と水銀燈も、戻ってくる頃合だしね。
 もう私は貴方に存在を確認して貰ったから。また時々、出てくることもあるかもしれない。

 ただ、ひとつ覚えておいて。私は真紅というひとつの人格で――確かに、その存在自体
 は曖昧。もし"私"が、誰かの幽霊で――それがこの娘の身体にのりうつって
 居ると言えたなら、それはそれでひとつの説明になっていたかもね。

 けどそんな幻想は、今、此処では起こっていない。――この世界に幽霊は居ないだと
 か、そういう話をしたい訳じゃないのよ?
 "少なくとも、今の私達の物語には、それは起こり得なかった"だけのこと。

 私がまた貴方に逢ったなら、私という存在を認めて欲しい。
 今は、それだけでいいから――」

 言い終えた後、またあの美術室の時のように、彼女の身体が崩れ落ちそうになる。慌て
て僕はそれを抱きとめた。
 きっと彼女が『居なくなる時』は……こんな状態になってしまうのだろう。
 両腕に抱えてから暫くして、彼女はまた眼を覚ます。

「……ジュン?」
「おう。どうした、雛苺」

「んっとね、――ヒナ、夢を見てたのよ。ちょっと眠ってたみたい」
「ああ。――ほら、花火が綺麗だぞ。眠るにはちょっと勿体無い」

「花火、綺麗なのねー……」
「……そうだなあ」

 少し花火の方に眼をやりつつ、雛苺を地面に座らせてから僕もその隣に腰掛ける。
 浴衣姿の彼女は、その瞳に夜空へ咲く華を映し続けていた。

 対する僕はと言うと……ほんの数分にも満たない、真紅という少女との邂逅のことに思
いを馳せていたりした。

 先生も、水銀燈も。『彼女』の存在を、知っていたという。今まで幼馴染で、わりかし
雛苺に近い存在だと思っていた僕は、それを認知することが無かったのだが。

 無邪気に花火を楽しんでいる彼女。真紅の言葉を借りるならば、恋愛感情は抜きにした
ところで――僕は彼女の、何かしらの助けになることは出来るのだろうか。


 彼女の姿を改めて見やる。
 とても似合っている、彼女の浴衣姿。其処にあしらわれた金魚の模様。僕は彼女自身の
気持ちのひとつすら察してやることが出来ないというのに。描かれた赤い金魚の瞳を見て、
何となく。これが『寂しさを感じる』ということなのかと、考えたりもしたのだ。
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