翠×雛の『マターリ歳時記』
―文月の頃― 【7月2日 半夏生】
夏至から11日が過ぎても、依然として梅雨が明けない、七月最初の日曜日。
翠星石は、週末恒例ゆるゆると朝寝を楽しんだ後、机上のノートパソコンに向かって、
文月の名に相応しく、蒼星石からの電子メールを確認していた。
この作業も、すっかり日常生活に織り込まれてしまった感がある。
「うふふ……今日も来てるですね。流石は、私の妹。律儀で感心ですぅ」
気忙しく、新着メールを開く。
ここ数日の話題は、専ら、夏休みのことばかりだった。
気が早いと頭で解っていても、会いたい気持ちは抑えられない。
【おはよ、姉さん。そっちは、もう梅雨明けした?
こっちは、だいぶ気温が上がって、夏らしくなってきたよ。 昨日は、オディールが――】
そこまで読むと、翠星石は眉間に深い皺を刻んで、メールのウィンドウを閉じてしまった。
昨夜から、心待ちにしていたにも拘わらず、である。
何故?
理由は単純で、他人からみれば、至極つまらないことだった。
つまりは、二人だけのナイショ話にオディールの名前が割り込んできたから、
気分が悪くなったのだ。例えるなら、我が家の居間に土足で上がられた様な――
最近、メールの中で頻繁に、彼女の名前を見かけるようになった。
それは取りも直さず、蒼星石とオディールの親密度が増した事を意味する。
実際、彼女たちはルームメイトであり、同じ大学に通う学生なのだから、
仲良くなるのも当然の帰結と言えよう。
メール以外に時間を共有する術を持たない翠星石では、
一日の大半をリアルタイムで過ごせるオディールに、太刀打ちできる訳がない。
翠星石が一刻も早く蒼星石に会いたがったのには、そんな焦りも少なからず関係していた。
実際に会ってみて、悪い娘ではないと判ったものの、彼女が蒼星石の側で、
同じ空気を呼吸していると思うと、心が乱れて平常心を保てない。
翠星石の脳裏に、歪な妄想が拡がり始めていた。
《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日)
二段式のベッドで、ほぼ同時に目覚める蒼星石と、オディール。
上で寝ていたオディールが身を乗り出し、蒼星石の居る下の段を覗き込んで、
『おはよ』
と囁く。彼女の肩から、プラチナブロンドが滝のように流れ落ちた。
だが、次の瞬間、寝惚け半分だったオディールが、体勢を崩して上の段から落下してきた。
蒼星石は『危ないっ!』と叫ぶが早いか、飛翔して彼女の身体を空中で捕らえると、
自らをクッションにすべく背中から床に倒れ込んだ。
『痛たたぁ…………随分と派手な起こし方をしてくれるね、オディール。
ん? 心配しなくていいよ。ボクなら平気……だから、もう泣かないで』
泣きじゃくって謝る彼女の台詞を、蒼星石は、そっ……と重ねた唇で遮った。
・・・続くですぅ><
「だぁ――――っ! なんなんですかっ! その同人誌にありそうな、
ベタでエロリーメイトな展開はぁっ」
束の間、妄想に支配されていた頭を両手で抱え込んで、翠星石は身悶えした。
冗談じゃない。今のは単なる絵空事。現実に起こり得る訳がない。
翠星石は必死の思いで、自分に言い聞かせていた。
そんな心の動揺に付け込み、怪しくも妖しい妄想が再び、頭の中に押し寄せてくる。
《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日)
眩い陽光が射し込むキッチンで、朝食に添えるサラダを並んで調理をしながら、談笑する二人。
オディールは、慣れた手つきでフレンチドレッシングを作っていた。
蒼星石はと言うと、新鮮なレタスを適当な大きさに千切って、サラダボウルに盛りつけていく。
鮮やかなレタスの緑を、トマトとタマネギのスライスで覆って色付けし、
飾りとしてプチトマトを、ちょこんと乗せる。
おいしそうね、と微笑むオディール。
蒼星石は、余ったプチトマトを摘むと――
『キミの可愛らしい唇だって、とっても美味しそうだよ』
オディールの横顔に甘く囁いて、プチトマトを唇に銜えた。
そして、悩ましげに目を細め、オディールに顔を近付けていく。
オディールは羞恥で頬を朱に染めながら、瞳を閉じて…………
雛鳥が親からエサを貰うかの様に、蒼星石が銜えたプチトマトを啄んだ。
・・・まだ続くですぅ!><
「うひいぃ――――っ! もう止めるですぅ!」
思わず口を衝いて出た叫び声が、翠星石の意識を、現実に引き戻した。
恐るべし、mのフィールド。
胸に抱いた微かな不安を、こうも歪めて増幅・投影されるとは、予想だにしていなかった。
あのまま破滅的な妄想に曝され続けていたら、毒電波の侵蝕によって、
翠星石は思考ばかりか、人格までジャンクにされていたかもしれない。
「……はぁはぁ……このまま悶々としてたら、また……mのフィールドに捕まっちまです。
今度つかまったら、逃げられるか判らねぇですぅ」
二度ある事は三度ある。家の中で、ウジウジと腐っていたら危ない。
気分転換に、誰かを誘ってウィンドウショッピングでもしようか?
しかし、窓の外は雨。出掛けるのは億劫である。足元が濡れるのも気持ち悪い。
「あ! そう言えば、みんなで旅行する目的地を決めてなかったですよ。
丁度いいから、雛苺を呼んで、相談するですぅ」
翠星石は携帯電話で雛苺と約束を取り付けると、そそくさと身支度を始めた。
昼食を摂り終えて三十分ほど経った頃、翠星石は雛苺の到着を待ちつつ、
インターネットで候補地の検索を行っていた。
だが、懸命に探している時ほど、意外に目的の物は見付からない。
翠星石は溜息を吐いて、椅子の背もたれに体重を預けた。
食後ということもあり、何の前触れもなく、翠星石の元に睡魔が忍び寄ってきた。
うとうと……と、船を漕ぎ始める。とろんとした微睡みが、なんとも心地良い。
翠星石は午睡の魅惑に抗おうともせず、ノートパソコンを押し退け、机に突っ伏した。
そこへ、またもや忍び寄る、妖しい影。mのフィールドの気配。
早く、眼を覚まさないと!
頭では解っているのだが、どういう訳か、自発的に覚醒できなかった。
《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日)
薄暗い空間。カーテンの隙間から射し込む、一筋の月明かり。
月の女神ルナが、淡い蠱惑の光芒で指し示すは、狂気の精霊に取り憑かれた二人。
シングルベッドの中で、窮屈そうに身を寄せ合う、彼女たち。
霰もなく剥き出された肌は汗ばみ――
(い、イヤっ! そんな光景、見たくねぇですぅ!)
妄想の中だというのに、翠星石は必死に顔を背けようとした。
けれど、これは自分の邪推が生み出す、歪んだ妄想。
どこまで逃げても、切り離せない影と同じ。
逃れる術は、目覚めるより他にない。それも、更なる衝撃映像を見せられてしまう前に。
(こうなったら…………力尽くでも起きてやるですっ)
翠星石はギュッと目を瞑って、力一杯、自分の頬を引っ叩くために両腕を広げた。
弓弦を引き絞るように、ゆっくりと……確実に……。
彼女の身体が激しく揺さぶられたのは、最大限に広げた腕を引き戻す直前のことだった。
ビクゥッ! と跳ね起きたため、あわや椅子から転げ落ちそうになった翠星石を、
誰かの腕が力強く支えた。
祖父母の頑丈な腕とは異なり、ほっそりと華奢でありながら、とても頼もしい腕。
うっすら小麦色に日焼けした、思慕の情を掻き立てる懐かしい腕。
(あれ? この感触…………蒼……星石?)
――違う。とても似ているけれど、僅かに、蒼星石の腕とは違う。
じゃあ、これは誰の腕?
翠星石は、肩を支えてくれた誰かの腕に両手を添えて、静かに頚を巡らした。
すると、驚くほどの至近に、雛苺の気遣わしげな顔があった。
「間一髪だったの。転んでたら、怪我するところだったのよー」
「……雛苺。お前が、揺すり起こしてくれたですか?」
「ヒナが来てみたら、翠ちゃん、うんうん唸って、酷くうなされてたのよ?
もうビックリしちゃって、つい……力の加減ができなかったの。ワザとじゃないのよ?」
「ふん……おバカ苺のしそうな事は、百も承知してるですぅ」
雛苺の腕を無愛想に振り解いて、翠星石は大仰に肩を竦めた。
が、素っ気ない態度とは裏腹に、雛苺には心から感謝していた。
もしも彼女が起こしてくれなかったら、今頃、どうなっていたか判らない。
口を開けば、また諍いの種を蒔くだけだろう。
ならば、なにも言葉に限る必要なんて無い。
気持ちを伝える術は、多種多様。一挙手一投足でも、意志の疎通が可能なのだから。
翠星石は席を立つと、悄気返っている雛苺の頭を、ぽふぽふと愛情込めて叩いた。
「…………ありがとです。来てくれて……感謝して……やるですぅ」
「うよ?! 今日の翠ちゃん、不気味に素直なのっ。な、なに企んでるのー?」
「ぬなっ!! なんにも企んでやしねぇですっ!」
額にビキビキと青筋を浮き上がらせた翠星石は、一瞬で手首を返すや、腕を振り上げた。
そのまま、雛苺の脳天に手刀を叩き込……もうとして、寸止めする。
頚を竦めていた雛苺は、衝撃と激痛が、いつまで経っても訪れないことを訝しんで、
怖々と双眸を開いた。
すると――
「止ぁめ止め。じゃれ合う暇があったら、さっさと旅行先を決めちまうです」
翠星石は既に、ノートパソコンに向かっていた。
そして、どこで貰ってきたのか、旅行会社のパンフレットの束を、雛苺に差し出した。
「雛苺は、ここから良さそうな場所をピックアップしとけですぅ」
「う、ういー。翠ちゃんの希望は海辺の温泉なのよね?」
「美味しい特産品があれば、なお良しですね」
「解ったの。ヒナ、張り切っちゃうのよー」
「張り切りすぎて空回りすんなですぅ」
軽口の応酬を続けながら、二人は旅行の計画を煮詰めていった。
所要時間や費用など、大雑把なドンブリ勘定だったが、あれこれ考えるのは面白い。
或いは、実際に旅立つよりも、計画を立てている時の方が楽しいのかもしれない。
翠星石も、雛苺も、終始笑顔のまま、夕暮れ時を迎えたのだった。
輝かしい夏の記憶が、二人の胸にしまってある日記に、書き加えられてゆく。
一生に一度しかない、楽しくて、かけがえのない思い出が、また一つ……残った。