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消灯時間になるまで、私は一階のロビーに居た。
他の患者や看護婦たちに、それとなく幽霊の噂を訊いて回る為にね。
でも、この話題を振った途端、誰も彼も口を閉ざした。
それまでは、にこやかに話していたのに、やおら余所余所しくなってしまうのよ。
真紅という名前の看護婦さんなんか、私が幽霊と口にするや、両手で耳を塞いで逃げちゃったの。
どうやら、怪しい噂が流れているのは、確からしいわね。

揃いも揃って、あんな態度を見せられては、なんだか噂を信じそうになる。
幽霊話? それなんて『もしもシリーズ?』とか、内心バカにしていたけれど、
ひょっとしたら、本当なのではないか……と。


私は、胸に蟠る不安を打ち消すべく、鼻で『からたちの花』を歌いながら、階段を昇った。
ぱたん(パタン)……ぱたん(パタン)……ぱたん(パタン)……。
私が立てるスリッパの足音だけが、階段のロビーに反響する。
なんとなく、誰かが後を付いてきてるみたいに聞こえた。

だんだん…………私の呼吸と脈拍が、早くなっていく。

(バッカみたいっ! なんで、私がビクビクしなきゃなんないのよ!)

わざと大きな足音を立てながら階段を昇りきって、病室への通路を進んでいく。
所々で、切れかかった蛍光灯が、不気味に点滅していた。

「……ったくぅ。古くなった蛍光灯くらい、取り替えなさいよね」

毒突いた側から、私の真上で点滅していた蛍光灯が切れて、周囲が薄暗くなった。
その時、ほんの一瞬だけど――

――私の横を、黒い影が擦り抜けて行った…………ような気がした。


次の瞬間、私は言い知れぬ恐怖に襲われて、一目散に駆け出していた。
何故だか解らないけれど、あのまま突っ立っていたら危ないって気がしたの。
他の患者さんへの迷惑なんて、知ったこっちゃないわ。

病室に帰り着くなり、私はドアに鍵を掛けて、ベッドに倒れ込んだ。
身体の震えが止まらない。何だって言うの、これ?
夜になって、ぐんと気温が下がったのかしら。ううん、寒さによる震えとは違う。

「もう……寝ちゃおう」

目が覚めた時には、夜が明けている事を期待して、私は頭からシーツを引っ被った。




ふと…………。
物音で目が覚めた。シーツを通して、遠雷を思わせる低周波音が聞こえる。
窓の方を見ていると、時折、夜空が明るく光った。本当に雷だったのね。
無粋な天気。折角、夢の導くままに、ウトウトしていたってのに。

(今って……まだ午前一時じゃないの。もう一度、寝直そうっと)

瞼を閉じた直後に、今度は、どんっ……と低い音がして、私はビクッと背筋を伸ばした。
音源は、やけに近くで聞こえた。

どんっ…………どんっ…………どんっ…………どんっ。

一定の間隔で、音は鳴り続ける。雷だったら、もっと不定期に鳴る筈よね。
暫く耳を澄ませていて、音源を特定できた。誰かが、私の病室の扉を叩いているのよ。
廊下側から、何度も、何度も――

見回りの看護婦さんなら、こんな真似はしない。
じゃあ、隣室の患者さん? ……有り得ない。扉を叩く意味がない。
だって、急に症状が悪化したのなら、枕元のナースコールを使えば済むんだもの。

理由はどうあれ、このまま叩かれ続けてたら眠れない。
私は息を殺して、足音忍ばせながら、施錠された扉へと近付いていった。
依然として、誰かが、どんどんと叩き続けている。

(ここは山の中だし、野犬とか、タヌキなんかが忍び込んだのかな……)

空の花瓶を片手に、そっと……音を立てないように、開錠した。
そして、僅かに扉を開き、数センチの隙間から廊下の様子を窺う。
もし、タヌキとかだったら、思いっ切り花瓶をぶつけてやるわ。


――――でも。

違った。野犬や、タヌキなんかじゃなかった。

部屋の扉を叩いていたモノ…………
それは、どす黒い血で汚れた白銀を振り乱して跳ねる、女の生首だった。
さっきから聞こえていたのは、生首が、扉に体当たりしていた音だったのよ!
ぶつかっては転がり、ダルマみたいに起きあがっては、また、ぶつかる。

……どんっ! ……どんっ! ……どんっ! 

何度目かに転がった時、生首の死んだ魚みたいな眼が、ぎょろりと私の方を向いた。
私は息を呑んで、ピシャリと戸を閉め、施錠した。
イヤッ! 消えてっ! 早く消えちゃってよぉ!
――でも、私の儚い願いを嘲笑うように、扉は叩かれ続けた。


もう耐えられない。私はベッドに駆け寄って、ナースコールのボタンを押した。
お願いっ! 悪い夢なら、もう醒めて! 一刻も早く醒めてよっ!
看護婦さんが来てくれるまで、私はあの生首が居なくなることだけを祈り続けていた。

程なくして、軽快に走る足音が近付いてきて、扉を叩く音が止んだ。
代わりに、コンコンと、小さなノック音。
私は小走りに扉へ寄ると、鍵を解除して、ガラリと開いた。

「めぐちゃん、どうしたかしらー? うわ、大変……酷い汗。
 顔も青ざめてるかしらっ」

金糸雀と書かれた名札を着けた看護婦さんは、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
私は、今あった事を詳らかに話そうとして、やっぱり止めた。
どうせ、幽霊という単語を口走った直後、素っ気なくなることは目に見えている。

「え……えっとね。ちょっと気分が悪くなって……トイレに連れてって欲しいの」
「ええ、お安い御用かしら。さあ、肩に掴まって」

金糸雀さんの手を借りて、私はトイレに向かった。
気分が悪いというのは嘘だけど、尿意を催していたので、ついでに済ませておこう、と。
尿瓶を使う気にはなれないし、かと言って、尿意を我慢しながら明日を夢見る趣味もない。

トイレに到着すると、私は三つ並んだ個室の、真ん中に入った。
真夜中と言うこともあり、戸を開閉する時の軋みが、やたらと大きく聞こえる。
廊下で待つ金糸雀さんに排泄の音を聞かれるのは恥ずかしかったので、
水を流しながら和式のトイレで用を足した。

はふぅ……と、安堵の吐息。ここなら明るいし、金糸雀さんも声が届く距離に居る。
目の前の壁に、墨汁のような雫が一筋、流れ落ちてきたのは、息を吐いた直後の事だった。
イヤだわ。上の階から、汚水が漏れてるのかなぁ?


見上げると…………あの生首が、隔壁の上に乗って、私を見下ろしていた。
血泥で汚れた形相は、凄惨の一言に尽きる。
バサバサの銀髪から見え隠れする白濁した瞳が、より一層、不気味さを強調していた。

「あ…………あぁ……」

直ぐにでも、悲鳴を上げて金糸雀さんを呼びたいのに、私は恐怖のあまり過呼吸症候群に陥り、
声を出せないどころか呼吸も儘ならない状態だった。
立ち上がって逃げ出そうにも、息苦しさで、全身に力が入らない。
私は下着を穿くことすら出来ずに、へたへたと座り込んでしまった。

生首の切断箇所から流れ出した黒い血が床に届き、タイルの合わせ目に沿って近付いてくる。
汚らわしいっ! そう思うのに、私の身体は頑として動かない。

やがて――――
私の爪先に、どす黒い血が届いたとき、目の前に、すとんと黒い塊が落ちてきた。
見なくても判る。それは、歯を見せて嗤う、女の生首。

『――は――ろ?』

女の生首が、もごもごと口を動かした。
何かを言っているが、喉の奥でゴボゴボと耳障りな音がするだけで、ハッキリ聞き取れない。

『――め――は――いろ?』
(ナニ言ってるの、こいつ! ……何なのよっ!?)

夢は何色? とでも言ってるのかしら。でも、こんなの夢を語る状況じゃないわよ。
じゃあ、なんなの? 解る訳ない。
ひとつだけ確かな事が有るとすれば、私の意識が、もう限界だってこと。
ああ……落ちて行く…………落ちて……ゆく。



私は、金糸雀さんに揺り動かされて、目を覚ました。
少しの間、気を失っていたらしいわ。

「か、金糸雀さん…………あいつ……生首の幽霊は?」
「ええっ? ななっ、何のことかしらー?」

陽気な声と裏腹に、金糸雀さんはギョッと目を剥いて、周囲を見回した。
そして、額の汗を手の甲で拭い、小さな溜息を吐いた。

「んもぉ。めぐちゃん、変な冗談は止めて欲しいかしら。何も居ないじゃない」
「……え?」

今度は、私が驚く番だった。ぐるり一瞥するが、金糸雀さんの言葉どおり、何も居ない。
先程の痕跡も、全てが奇麗サッパリ消え去っていた。

「そ、そんなハズは――」
「嫌ぁね。怖い夢でも、見たんじゃないかしら?」

金糸雀さんは、曖昧に笑うだけで、ちっとも取り合おうとしなかった。
けれど、私は自身に起きた異変に気付き、幻なんかじゃなかったと確信した。

どんな異変かって?

私の左手の、薬指にね、薔薇を模した指輪が填められていたのよ。
トイレに入る前まで、身に着けていなかった指輪が――ね。

  薔薇の棘には御用心♪

耳の奥で、あの女の生首が、嘲笑った気がした。



金糸雀さんに支えられながら自室に引き返した私は、即座に、ベッドへ倒れ込んだ。
何故だか解らないけれど、身体が酷く怠かったの。
まるで、力を吸い取られたみたいに。

(明日は晴れて欲しいなぁ。太陽の光を浴びて、スッキリしたい気分――)

夏の陽気に憧れながら、深い深い眠りに落ちていった。




窓から射し込む明るさを感じて、私は目を覚ました。
気が付けば、朝。今までのこと全てが、悪夢だったと思いたい。

だけど、掲げた左腕が、私の希望を打ち砕いた。薬指に填る、薔薇の指輪。
外そうとしても、肌に癒着したかの様に、ビクともしなかった。
無理に抜けば、指の肉が削げるだろう。

「これって、つまり……薔薇水晶が言ってた、幽霊の噂と関係があるのかしら。
 指輪を填めたままだと、命を吸い取られて、枯れ枝の様に窶れて死ぬってコト?」

あくまで推測に過ぎないけれど、昨夜の奇妙な脱力感を考えると、
満更、的外れじゃない気もする。
病気で死ぬのが先か。それとも、幽霊に呪い殺されるのが先か。
何れにしても、私の未来には『死』だけが待っているワケね。

「なんなのよ、この不公平な巡り合わせは。禍福は糾える縄の如し、でしょ?
 運命は、喜と悲の無限螺旋なんじゃなかったの?」

……悔しい。運命なんてゲロみたいなモノに翻弄されるこの身が、堪らなく口惜しかった。



朝食も摂らずに、私は鬱々とベッドに横たわっていた。
ぼんやりと空を見上げても、病棟の北側で山に面したこの部屋では、木しか見えないわ。
ドアを軽快にノックする音を耳にしても、私は窓の外に目を向けたまま、生返事するだけ。

一寸、間を置いて、静かにドアが開かれた。

「おはよう、めぐちゃん。おかわりない?」

顔を覗かせたのは、蒼星石という、緋翠の瞳が印象的な看護婦さん。
昨日も日中は院内にいたから、きっと今週は日勤シフトなのね。

「……あるわ」

憂さ晴らしに、ちょっと困らせてやろうと思って、私は空の湯飲みを差し出した。

「お代わり。喉が渇いたから、急いで持って来て」
「そうじゃなくって、身体の具合はどう? って、ボクは訊いたんだよ」
「なぁんだ。お茶汲みしてくれるんじゃないんだ? 紛らわしいなぁ」
「キミが勝手に勘違いしただけでしょ」

売り言葉に、買い言葉。私の挑発を真っ向から受け止め、投げ返してくる。
ショートカットのヘアースタイルといい、蓮っ葉な口調といい、結構、負けん気が強そうね。
こういう人って、割と嫌いじゃない。寧ろ、好きなタイプよ。
私は湯飲みを引っ込めて、蒼星石さんに作り笑いを向けた。

「変わりないわ。用件は、それだけ?」
「ああ、そうそう。キミに、面会したいって子がいてね。どうぞ、入って」

促されて、病室に顔を覗かせたのは、薔薇水晶だった。
蒼星石さんは用件を済ませると、すぐに病室を後にした。かなり忙しそうね。
ベッド脇の椅子を勧めると、薔薇水晶は腰を降ろすより早く、口を開いていた。

「ダメだよ、めぐちゃん。あんまり看護婦さんを困らせちゃあ」
「うるさいわね。それより、どうしたの。今日って平日よ? あなた、学校は?」
「えへへぇ……サボっちゃったぁ」
「……あっきれた。何やってるんだか」
「めぐちゃんのせいだよ。紫陽花の枝に、手紙なんか結び付けておくんだもの」

そう言えば、未練がましいことしてたっけ。
私の想い、無事に届いてたんだね。なんだか、ちょっと嬉しい。
薔薇水晶は胸に手を当てて、心の丈を打ち明けようとしていた。

「たった一日なのに、めぐちゃんに会いたくて、会いたくて……。
 気付いたら、この病院行きのバスに乗ってたんだよ?」
「へえぇ。薔薇水晶って、意外に情熱家なのね。もっとクールな性格かと思ってたわ」
「杜甫の漢詩に『愛、妄想 恋、色盲』って件が有るの、知ってる?」
「そこはかとなくウソ臭いわね。要するに、恋は盲目とでも言いたいワケ?」
「うんっ! めぐちゃん大好き~。私……もう手放さない」

薔薇水晶は天使の微笑みを浮かべながら、立ち上がって、私の肩を優しく包み込んでくれた。
ああ……なんて心地良いんだろう。癒される。
心に沈んでいた不安という名の澱が、彼女の真心で漉されていく。

――私も、薔薇水晶を、ギュッと抱き締めてあげたい。

けれど、私が背に腕を回そうとした矢先、薔薇水晶は小さな悲鳴を上げて、私から離れた。

「薔薇水晶? どうしたのよ、急に?」
「い……今……」

薔薇水晶は、不自然に表情を強張らせていた。一体、何があったって言うの?
合点がいかず、眉を顰めた私の前で、彼女はわなわなと震える指先を、窓に向けた。

「今、誰かが覗き込んでたのっ! 窓の外からっ!」
「はあ? バカ言わないでよ。ここ、二階よ? 外に、人が立てる場所なんて無いハズだけど」
「でっ、でも、ホントに見たんだもんっ! 確かめてみれば解るよっ!」

しつこく見たと言い張るものだから、私と薔薇水晶は、一緒に窓の外を確認する事になった。
息を殺し、怖々と近付き、二人並んで窓の外を覗き込む。
だが、填め込まれた鉄格子の向こうは、垂直の壁があるだけ。人が立てそうな場所は、一切ない。
真下は花壇になっていて、踏み荒らされた痕跡は見出せなかった。

「……やっぱり、見間違いだったんじゃないの?」
「そんなコトないよ! 確かに、銀髪の女が、部屋の中を覗き込んでたんだってば!」

銀髪の女――――薔薇水晶の一言が、私の背筋を凍り付かせた。




その晩。私は強烈な金縛りに遭った。身体は硬直して、声も出ない。看護婦さんを呼ぶことも、無理。
絶体絶命、乙女のピンチ! 私は、脂汗を全身に滲ませながら、ベッドに寝ていることしか出来なかった。

……ず、ずっ……ず、ずっ……ず、ずっ……ず、ずっ。

部屋の中で、何かが、這う音がする。段々と、確実に、私の方へ近付いてくる。
そして遂に…………私の足首を、氷のように冷たい手が……握った。

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