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私は変わってしまった。
ただひたすら義務感に追われる日々。
意識などせず、その日々が当たり前になっていた───


-Heaven inside~それは、心の中に~-


長かった梅雨が明け、じめじめとした高不快指数の日々は終わりを告げた。
初夏。春とは違う、気力に満ち溢れる暑い時期。
そんな時期だが、私の気分は鬱々と沈んでいた。
かつ、かつ。リノリウムの床に靴が当たり、硬質な音を立てる。
私が歩いている訳ではない。さりとて、誰かが歩いて来ている訳でもなかった。
その音の主は、私の目の前に座る男性。表情を変えずキャンバスを見つめている。

「……ふむ」

短く、唸った。
キャンバスから目を離し、続けて視線を私へと向ける。
その表情は起伏に乏しく、感情を読み取る事が難しい。
一息の間を置いて、彼──槐先生は、口を開いた。

「…これでは駄目だ」

どこが悪い、といった指摘すら無く、槐先生は背を向けてしまった。
私はキャンバスを包んで手にし、ありがとうございました、と頭を下げて講師室を後にした。

何が悪いのだろうか。
幾度となく繰り返した自問。幾度もキャンバスに向かい、評価を受け、その度に繰り返す自問。
何故駄目なのか。答えは見つからない。自分一人で解決するのはもはや限界だろうか。
だが、生憎と私と親しかった友人達は別々の道を歩んでいる。絵を選んだのは私一人だった。
結局、一人でどうにかしなければいけないのだ。
答えが見つからない問題を解かなければ、私に先は無い。
そしてその問題は手がかりすら見つかっていない。

「雛苺ーっ」

マイナス思考により鬱々とした気分のまま大学の門を出た時、懐かしい声を聞いた気がした。
気のせいだろう。最近疲れているし、恐らくは幻聴だ。

「ひーなーいーちーごーっ!!」

まただ。また聞こえる。しつこい幻聴だ。
頭を振って幻聴を追い出そうとした矢先、私の体に何かが覆い被さって来た。
危うく、キャンバスを取り落としそうになる。キャンバスを胸に抱え、安堵した。
次いで、私に被さった何かを確認する。いや、正確には確認しようとした。
私は確認する事が出来なかった。なぜならば、答えを自分で探す前に突きつけられたからだ。

「もーっ、雛苺!人が呼んでいるのに無視するなんてどういう了見かしら!?」

ヴァイオリンケースを片手に、ぷりぷりと怒る女の子。私の親友、金糸雀だった。
私が通っているのは美術大学であり、音楽大学ではない。そして目の前に居る親友は、音大へと進学している。
こんな所に、何故居るのだろうか。答えは簡単だった。

「友人に会いに来て何が悪いの?」

「ふーん、それで珍しく落ち込んでたのね」

紅茶のカップを手に、正面に座る親友が言った。
絵に関しては素人だが、彼女は音楽を学んでいる。芸術という意味では同じだろう。
何かのヒントが見つかるかもしれないと淡い期待を寄せていた。

大学に程近い喫茶店『Teegesellschaft』。
初夏の陽気を避ける為、私達はここに居た。
金糸雀が私の通う大学を訪れた時は、必ずこの店に立ち寄る事にしている。
ここの紅茶は金糸雀の心の琴線を刺激するらしく、初めて連れて来た時以来の慣習となっているのだ。
学生御用達ながらも雰囲気は非常に落ち着いており、このような相談事をするにも良い場所。
私はティーカップに口をつけ、一息置いてから肯定の意を含めて頷いた。

「ずっとね、考えていたの。何が悪いんだろう、どこがいけないんだろう、って。
 でも、答えは見つからない…一人じゃ駄目なの。カナは、ヒナの絵を見てどう思う?」

包まれていたキャンバスを金糸雀に見せ、意見を待つ。
僅かに眉間に皺を寄せたかと思うと、考え込むような素振りを見せた。

「うーん……雛苺、カナは絵を学んでいる訳じゃないから素人の意見だけど。それでもいいかしら?」

と、前置きをしてカナは言った。
この絵はどこにでもある、平凡なもののように見える。少なくともカナは、この絵はあまり好きじゃないかしら。
平凡な絵。どこにでもある、誰の心にも訴えかけない「そこにあるだけの絵」。
絵にしろ音楽にしろ、見ている者や聴いている者の心を動かさなければ、それはただの模様であり、またただの雑音だ。
私は、どうしたらいいのだろう。
考え込んでいると、金糸雀が「たまにカナ以外の人の話も聞いてみるといいかしら。真紅とジュンのバカップルとか」と言った。
真紅とジュン。それも、いいかもしれない。

早速真紅にメールを送る。返事はすぐに返ってきた。

『今日は私もジュンも休みだから、たまに遊びにいらっしゃい。待っているのだわ』

二人きりの時間を邪魔するのも悪いと思ったけれど、待っているという言葉に甘える事にした。
喫茶店を出てカナと別れ、私は真紅とジュンが住むマンションへと向かった。

二人は高校を卒業すると同時に同棲を始めた。
高校時代はなんだかんだと喧嘩をする事が多かったので、同棲すると聞いた時は大丈夫なのかと皆心配していた。
だがその心配は杞憂で、案外上手く行っているらしい。
真紅はティーコーディネイターの資格を取るために自宅で勉強をし、またジュンは服飾デザインの学校へ通っている。
そんな二人が住んでいるマンションは、ちょっとした高級マンションだ。
オートロックは当然のこと、住人のプライバシーが一切漏れない強固なシステムを作っている。
こんな所の家賃を学生の身で払えるものだろうかと思うのだが、ジュンのご両親がここの家賃の半分を支払っていると聞いて納得した。
その高級マンションの扉を潜り、インタフォンを取って真紅達の住む部屋番号をプッシュする。
程なくしてかちりと鍵が開き、自動ドアも続けて開く。
自動ドアを抜け、エレベーターで4階へ。このフロアの一番奥に彼女達は住んでいる。
ドアフォンをプッシュすると、懐かしい顔が私を迎えてくれた。

「いらっしゃい、雛苺。暑かったでしょう?」

久しぶりに見る友は、どこか少し大人っぽくなっていた。

応接間に通される。
ソファセットの一角に私は座り、少し離れた隣に真紅も座った。
ジュン、雛苺が来たわ。お茶を淹れて頂戴。
そう言う彼女は相変わらずで、なんだか「あの頃」へと帰ったような錯覚に陥る。
しかし、今の私は大学生。楽しかったあの頃は、もう昔だ。

「いらっしゃい。久しぶりだな、雛苺」
「いらっしゃったのよ。昔みたいにジュン登りしたいけど、真紅が怒るからやめておくの」
「当然よ。ジュンは私の下僕なのだから」

懐かしく、平和な時間。
相変わらずジュンの淹れてくれた紅茶は美味しい。
優しくて、包み込むような味だ。
こんな紅茶を飲める真紅は幸せだと思う。

「それで?相談というのは何かしら」
「うーとね、これなの」

持って来たキャンバスの包みを開封し、二人に見せる。
夏の自然が描かれた、緑溢れる山の絵だ。大学から見える山がモチーフになっている。
二人の目がキャンバスへと向けられて、暫しの沈黙が流れた。

「悪くはないわね」
「そうだな、悪くはない…けど」

二人が口を揃えて言う。
けれど、その言葉はどこか歯切れが悪かった。

「悪くはないけど…っていう事は、やっぱり何かあるの?」

そう尋ねると、ジュンがこくりと頷く。
やはり、今の私の絵には何かがあるらしい。
それについての指摘があるのなら、これは非常にありがたい。

「感じたままを教えて欲しいの。二人に見てもらったのは、この為なのよ」

私は言って、ティーカップに口をつける。
再び流れる沈黙。刑罰執行前に似た緊張感と、長いトンネルを抜けられるという期待感が私の心を交互に去来する。

「雛苺…僕らは絵とか難しい事はわからないけど。それでも一つだけ聞きたい事がある。
 …今、絵を描いていて楽しいか?」

その質問の意図が掴めない私は、ただジュンの顔を見つめるしかできなかった。
そんな私を見てジュンは、「この絵を見て、作られたものっていうイメージを持ったんだ」と言った。
前の雛苺の絵は、見ていても楽しさが伝わってくるものだった。でも、これにはそれが無い。
だから楽しんで描いているのかと聞いた、と。

───ああ、ジュンは私の絵をそこまで見ていてくれたんだ。
彼は何も見ていないようで、その実細かな所を良く見ている。
そんな彼だから、真紅も心を許したのだろう。

私が絵を描き始めたのは、その「描く」という行為が楽しかったからだ。
ずっとずっと変わらないはずの、キモチ。

幼い時、父のカバンにクレヨンで花を描いて怒られた。
その後「存分に描けるように」とまっさらなノートを買ってもらった。
小学生の時、写生会で建物ではなく花壇を描いた。
先生は笑って、皆と違うけれどこれはこれで素敵ねと言ってくれた。
中学生の時、美術の授業でフルーツの静物画を描いた。
そのフルーツは南の島を彷彿とさせるもので、だから背景に大きな海と空を描いた。
高校生の時、皆との思い出を大切にする為に一人一人に絵を描き、贈った。
私の友達は、皆喜んで大事にしてくれると言ってくれた。

それらは全て、ひとえに「楽しいから描いた」はずだ。それが今はどうだろう?少なくとも楽しくはなかった。
いつしか忘れていた、私の根っこ。大切で、忘れてはいけない事だ。
それを、この二人は思い出させてくれた。カナが友に会えと言ったのも、この事を感じていたからなのだろう。
自覚すると、無性に絵を描きたくなった。
友との楽しかった時間。永遠に続くと思っていた、けれど続かなかった時間。今は違う形で迎えている時間。
帰って、それを形にしよう。早く絵筆を握りたい。いや、たまにクレヨン画もいいかもしれない。
私は二人に礼を言い、新作が出来たら見てもらう事を約束して帰路へとついた。

一週間後、私は講師室に居た。リノリウムの床が、かつかつと鳴っている。
目の前には槐先生。私の描いた絵を見ている……一週間前と同じ光景。
ふむ、と短く唸る。これも一週間前と同じ。そして槐先生は私に向き直り、言った。

「うん、これはいい。やっと見つけたようだな」

キャンバスには、青空に舞い散る桜の下で戯れる9人の男女の絵。
皆それぞれが特徴的で魅力的な笑顔を浮かべ、今この時を「楽しんで」いた。
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