「すごい……」
私は思わず中の光景に言葉をもらした。
朽ち果てた建物。
長年の汚れでくすんだ白亜の壁。
割れた円形の窓。
ガラスや木の破片が散らばった床。
でも、それらを差し引いても……そうではなく、むしろそれらがこの建物の雰囲気をさらに気高く美しいものにしている感じがする。
昭和の初期のモダニズムを色濃く残した建物。
壁や梁の曲線と直線がうまく組み合っていて、バランスの取れた美しい造りを織り成している。
さながら……荘厳な古城のようだ。
私はその場に立ち尽くしながら、周囲のそんな様子に見とれていた。
「ちょっと、先はまだまだあるのよ。こんなのまだ序の口だわぁ」
水銀燈が付いてくるように急かしてきた。
おっと……そうだったね。
私はすぐさま彼女に付いて先に進む。
「夏休みに旅行でもいかなぁい?」
きっかけは水銀燈のそんな一言。
私は特に何の予定もなかったので、即座に彼女の誘いに乗った。
大学が夏休みに入った次の日に出発した。
着いた先は神戸。
ハーバーランド、北野異人館街、南京街と旅行のパンフレットに載っている観光名所は初日に回り尽くした。
その日の夜はホテルの食堂で夕食をとりながら、そこから見える神戸の夜景を楽しんだ――眼下に散りばめられた無数の街の灯りはさながら銀河のようで、結構ぐっときた。
でも何というか……写真やネットですでによく見ているものだった。
だが、やっぱり遠くまで来た以上、何か心に残るものを見ておきたい。
そのことを水銀燈に打ち明けると――
「だったら、とっておきの裏名所があるわよぉ」
今朝は昼過ぎから、タクシーに乗って摩耶山に至る登山道の入口まで行き、そこからハイキングコースを歩くことになった。
道は結構険しい。
あまり体に負担を掛けてはいけないので、小刻みに休憩をとりながら、ゆっくりと登る。
だが、長年の療養生活の末、小さい頃から私を苦しめてきた病気は完治したものの、やはり体に正直こたえた。
さらに、途中から今は使われていない登山道を通ったりしたもので、目的の場所にたどり着いた時には、少し息苦しくなり、顔が青ざめているなんて彼女に言われたが。
でもまあ、あと1年しか命が持たないなんて散々言われていた療養生活の時と比べると、体力はそれなりについていたのかなと思う。
やがて見えたのは……緑の蔦が無数にからまった、白い壁の建物。
ガラスが破れていることから、廃墟であるのはひと目で分かった。
森の木々に囲まれて、少し薄暗くなっているから多少不気味さを感じる。
「着いたわよぉ」
水銀燈のその言葉が、ここが目的地であることを知らせる。
「ここって……廃墟?」
「そうよ。でも、ここはただの廃墟じゃないわぁ。とにかく中に入るわよ、めぐ」
私は彼女に言われるまま、中に入る。
足元に気をつけながら、階段を上った先に見えたのは食堂と思しき場所。
天井は一部が苔むしていて、さらには長年の汚れで黒ずんでいる所もある。
丸いシャンデリアがいくつか吊り上げられていて、一部は床に落ちて壊れている。
周囲は窓が整然と並んでいる。
そこからは外のまぶしい光が室内を照らし出していた。
そこから見えるのは、六甲の山々の緑だったり、神戸の町並みだったり。
一方で中には何も物は無く、あるのは床に散らばった木の葉だけ。
日常と非日常――ここはまさしくそう思わせるのに十分だった。
「……」
これ以上、この光景は言葉には言い表せられない。
私はじっと室内の光景に見とれていた。
その後、厨房だのエントランスホールだのといった所も回った。
「いよいよ、ここのメインよぉ」
彼女がそう言って、行った先は劇場らしきホール。
高い天井。
5つ並んだアーチ状の梁。
所々汚れたり、塗装がはがれたりしている白い壁。
吊り下げられたシャンデリアの残骸。
幕のなくなった舞台。
左右の壁に並べられた、所々が割れたりしている半円状のステンドグラス――
その下にある四角の出入口や窓。
本当に何も無い。
あるのは窓やステンドグラスから差し込んでくる外の光だけ。
それらが、白亜の室内をやわらかく照らし出している。
ここは使われなくなってから、どれぐらい経っているのかな……?
いつまでも変わることのないこの光景。
私はしばし時の中にいることを忘れていた。
「どぉ?結構たまらないでしょ?ネットでは案外有名だけど、ここ」
「……そうだね!?」
水銀燈が話し掛けてきたので、彼女の方を見たそのときだった。
何気なく私を見つめている彼女。
そんな彼女の遥か上にある円形のステンドグラス。
そこから差し込んでくる黄色い光。
彼女の銀色の髪をまぶしく照らし出している。
「……天使さん……」
私の口から思わず出たそんな言葉。
頭の中によぎったのは――初めて彼女と出会ったときの頃。
私がまだ入院生活を送っていた――病院の使われなくなった礼拝堂で出会ったときの様子――
その礼拝堂も使われなくなってから長く、中は荒れ果てていた。
夜中にこっそりと忍び込んだ私の目に飛び込んできたのは――
頭上のステンドグラスを通して中を照らし出す月明かり。
そして――その光の中にいた一人の銀髪の少女。
さながら天使ようにじっと佇んでいて。
それが、彼女だった。
確かあの時もこう言った。
天使さん――と。
「それ聞くの、貴女と初めて出会った時以来ねぇ」
水銀燈は優しい目つきで微笑んでいた。
「本当ね」
私はくすくすと笑う。
あの時――私は1年も生きられないなんていわれていた。
病気は治りそうに無く、いつ死んでもおかしくなかった。
よそよそしい親に病院の人たち。
表向きはあきらめないでなんて言っているが、本心では厄介者と思っている。
そんな本心が丸見えだったので――生きていても仕様が無いと思っていたのだ。
食事にも手をつけず、ただ早く死にたいとだけしか思っていなかったあの時。
彼女と出あった。
丁度、彼女は階段から転んで足を骨折して入院していた。
彼女にも友人はあまりいなく、一見きつい印象があった。
でも、私とはすぐに打ち解けた。
話にはすぐに乗ってきて、彼女も私といるのは本当に楽しそうだった。
彼女が退院するまでの2週間――いつも彼女と雑談とかして楽しんでいた。
でも、やはり生きることに絶望を覚えていたのは変わりなかった。
彼女を私はあの世へ連れて行ってくれる天使だと思っていた。
そして、彼女が退院する時の頃――
その日も両親の姿は無く、病院の人たちの態度への苛立ちが頂点に達した。
――結局、私のことなんてどうだっていいと思っているのだ。
こんな中にいたって仕方がない。
いや、いたくない――。
私は病院の屋上にいた。
すぐにも真下へと飛び降りて、この世から去りたいと思っていた。
そして、フェンスを乗り越えようとした時――!
「やめなさい!何してるのよ!」
見ると私を睨みつけている彼女がいた。
そして――怪我が治りかかった足を引きずって私のところへと歩み寄り――
頬に平手打ちをした。
痛かった。
「バカじゃない……貴女。死んだら……悲しいじゃない!
友達が死ぬのを見るのは嫌よ!」
涙目で私を見つめる水銀燈。
嘘偽りの無い本心からの言葉。
友達――
私にはそんなものはいなかった。
ずっと一人ぼっちだと思っていた。
でも、彼女は心から友達だと思っていて――本気で心配してくれている。
彼女がいる限り――私は一人ぼっちなんかじゃない。
私がもしいなくなったら、彼女は――!!
「ごめんなさい……」
私はその場に蹲り、駆け寄る彼女に抱きつき――泣いた。
その時――私は思った。
彼女を悲しませるなんて、なんて悪いことをするのか。
そうした感情が生まれたのは――生まれて初めてのことだった。
その時から、私はそのときの言葉が耳に残り……
とにかく生きてやろうと思うようになった。
――彼女のために。
彼女を一人ぼっちになんかさせないために。
そうして私は何とか入院生活を送った。
やがて不治の病なんていわれていた私の病気の手術が行われ――
――完治させることが出来た。
そして、今は普通の女の子と変わらない生活を送ることが出来ている。
死なんか考えない、今を楽しむ生活に。
思えば、彼女はあの世へ連れて行く天使ではなく――私を救ってくれた天使だったのかもしれない。
――孤独という闇の底から……。
「……どうしたのぉ、貴女」
水銀燈が不思議そうに私を見る。
「ううん。なんでもないよ」
私は笑顔で答える。
「そろそろ日が暮れるし……行くぅ?」
時計を見るとすでに5時。
結構時間が経っていた。
「そうだね」
私と水銀燈はゆっくりとホールを後にした。
外に出ると、夏のまぶしい太陽が西へと傾きかけていた。
まだ明るいものの、夕方といった様相になっている。
周囲の山々がやや赤く照らし出されていた。
正面には立ち入りを妨げる柵や有刺鉄線が張ってあったものの、隙間をなんとか潜り抜けて外へと出る。
ここが本当に立ち入り禁止の廃墟だということを思い知らされる。
そして、少し登って振り返ると――
眼下には緑の木々に囲まれた白亜のくすんだ建物。
木々で生い茂った山々の中にぽつんとある、蔦に絡まれて、緑に溶け込んだ――マヤカンといわれたこの廃墟。
その下にはかすかな靄が広がっていて。
そしてその遥か下に広がる神戸の町並み。
――天空の城――。
そんなイメージがふと湧いた。
雲の上にあるお城。
誰もいない、ただ朽ち果てるだけ――それでもその美しさは人の心を魅了している。
それは心に焼き付けるには十分だった。
「本当にありがとう。素晴らしかったよ」
「でしょぉ。また行きましょ」
「そうだね」
目の前の友人は嬉しそうに前へと進む。
その先には街へと降りるケーブルカーの駅が見える。
建物を後にしながら、私は思った。
今は――寂しいひとりぼっちの子じゃないから。
天使さん――ではなく、水銀燈がいるだけで十分だから。
これからもずっと彼女といよう。
そんな思いをはせながら――私は前へと進んでいった。