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 定期考査、とは斯くも学生を悩ませる時期であるな、と感じている。いくら進学校とは
言っても、がりがりと勉強一筋な生徒は少ないものだと驚いたものだ。僕はというと、い
つも通り適度に準備を完了し、万全とまではいかないまでも、近々始まるテスト期間が終
了するのを待つばかりである。


 山奥という立地を保ちながらもこの学校が進学校と呼ばれているのは、やはりそれなり
の進学実績を残しているからだ。都会では高校入学早々に予備校へ通う生徒も居ると聞く
が、全寮制のこの場所ではそもそもそれを実行に移すことも出来ない。


 この学校の凄いところは、授業自体に力が入っていることは認めるけれど、特に長期休
暇中には補習授業なるものがカリキュラムとして組まれていないところ。
 『自学必須』。その思想のもとに、生徒は勝手に自分で範囲を進めてしまって、わから
なかったら教師に聞けば良いという体制を推奨している。
 実際数学は特にその傾向が顕著であり、まだ一学期も終わっていないというのに既に数
Ⅰ・Aは終了、Ⅱ・Bも適当にいけるとこまでいってしまっている輩も居る。


 僕はというと、流石にそこまで情熱を傾けることが出来ないので、次の数学の時間に向
けてぱらりぱらりと参考書を繰っている程度だった。


 『m本の平行線とn本の平行線が交わっているときにできる平行四辺形の個数を求めな
さい』―――ううむ? こういう類の問題は、文中に任意の文字が出てくるだけで難易度
が跳ね上がる気がするのは何故なのだろう。


 ちょっと頭を捻らせていると、横から声をかけられる。


「ジュン、何してるのー?」


「ああ……雛苺か。そろそろテスト近いからさ、何となく参考書見てたんだ。ほら、これ」


「……うよー?」


 問題を見た瞬間、まるで頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような表情を浮かべる
彼女。
 そういえば雛苺は文型科目はかなり得意なのだが、理系はそれに比べれば少し劣るんだ
っけ(それでも、決して『悪い』という点数をとるわけではない)。


 仕方ない。答えを見ておくか……と思ったとき、雛苺が口を開いた。


「任意の平行線から、縦横それぞれ二本ずつ選べば良いのね」


「へ?」


「コンビネーションを使えばいいのよ。ただの組合せ。直線に区別がないから、パーミテ
 ーションを使うってことは多分ないわ」


 ああ、成る程。僕は今開いていたページの単元が個数の処理であることを確認して、納
得する。


「おお、そうか。ありがとう、雛苺……って、あれ」


 僕に助言をくれた筈の彼女は、既に居なくなっていた。まさしく風の如し。……雛苺の
行動パターンは、今になっても読みきれないな。


 それにしても、数学は割と苦手な筈の雛苺が的確なアドバイスをされるとは。僕の勉強
が足りないということか。……その考えは結構失礼かもしれないけれど。


 先ほど僕が考えていた思考、『単元が此処だから、使う公式はこれ』という考え方は、
定期テストでは誤魔化しがきいてもいざ受験となったら通用しない。理由はいわずもがな、
受験時は科目的な指定があっても単元的なヒントは殆どないからだ。


 そういう意味で、彼女が僕にしてくれた助言はある種的確である。使う公式が決まって
いる……まあ、『知っているか、いないか』で解けるか決まってしまうような定型の問題
以外については。文章題では特に、いかに問題を『別な言葉で置き換えるか』が肝である
と数学の教師も言っていた。


 僕は其処についてまだまだ"受験脳"に到達しているとは言えない(積極的になろうとは
考えていない)が、適当にそれに馴染ませていくこともこれから必要になるのかもしれな
いと何となく思う。



 そして、そのまま三限の数学が始まってしまった。雛苺は席に戻ってきていない。
 どうしたのだろうと思っていると、僕の疑問を解消する声が他から上がった。


「先生、雛苺さんは具合が悪いそうで保健室に行っています」


「そうか、わかった。じゃあ、授業をはじめるぞ―――……」


 言付けを別の女生徒に頼んでおいたということか。さっきはいきなり居なくなったよう
な気もしたのだけれど、一体何時の間に。


 少し心配ではあるが、流石に僕がここで抜け出すわけにはいかないし。丁度この三限が
終われば昼休みに突入する。その時に、顔を出してみればいいだろう。



――――――



『わあ、うにゅーがあるのー!』


 ……なんて、元気そうな、声なんだ。現在地、保健室へと続く廊下にて。まだ十メート
ル以上離れているというのに、明らかにその存在を示してしまう声の主は。本当に具合が
悪かったのかと疑いたくなる。


 昼休み、いつものように購買でパンを買った。周囲は周囲で喧騒に包まれているものだ
から、学校のとある一室から大きな声が響こうが別に気になる訳ではないのかもしれない。
 僕はとりもあえず、保健室の扉を開く。


「おい雛苺……お前、体調は大丈夫なのか?」


「あ、ジュン~!」


「ああ、桜田君。ヒナちゃんなんだか頭痛いって言ってたけど、これみたらそんなの吹っ
 飛んだみたいだよ」


 そう言って柿崎先生は、机の上の物を示す。まあ、雛苺が『うにゅー』と言ったらそれ
を現すものは一つしかない。


「不死屋の苺大福ですね。ちょっと懐かしいな……なんでここにこんなものが?」


「うん、私の知り合いが買ってきてくれてね。丁度ここにきた生徒には、お裾分けという
 ことで。そんな訳で、今日は緑茶にしとこうか」


「わーい、うにゅー、うにゅー!」


「雛苺、とりあえずお前は落ち着け」


 これがさっき、僕に数学を教えてくれたひとと同一なのか怪しく思えてきた。あ、なん
か僕が頭痛くなってきた……



 そうやって、賑やかながらもゆったりとしたお茶会の時間が始まる。僕は昼食自体がま
だだったので、苺大福は食後に頂くことにするとして。先客であった雛苺は、ここへやっ
てくる時に昼食を持参していたらしく、もう苺大福を頬張っている始末。や、用意周到と
言えばいいのか全く。それにしても、苺大福を食べているときの彼女は、本当に幸せそう
な顔をするんだなあ。


 そんなことを考えていると、ふと先生に話しかけられる。


「試験の対策は万全なの? 桜田君」


「まあ、万全って訳でもないですけど……中間も乗り切りましたし。期末も適度にこなそ
 うと思います」


「ジュンはやれば出来る子だから、大丈夫なの~」


「お前に言われると、微妙な感じだな……」


 ちなみに雛苺の中間考査の順位は、百名を超える一学年において六位。僕は二十番以内
に入る程度に位置していた。


 適度にこなす、とここでは言ってはいるけれど。ある程度やったら、やった分だけの自
信のようなものを持つようにはしている。この学校に入学してからはなくなったが、中学
時代などは定期考査前には『お前勉強した?』と聞いてくる輩が多かった。


 僕のそれについての答えは決まっていた。誰にも馬鹿にされないように始めた勉強だっ
たから、それこそ必死だったので。『ああ、滅茶苦茶やった』と、素直に返していたので
ある。それでも結局、最後まで雛苺に勝つことは出来なかったけど。彼女が一位で、僕が
二位。


 ひょっとしたら雛苺なら、この学校でもトップの成績を収めることが出来るのではない
かとも思っていたのだが。やはり色々な地域から生徒が入ってくる場所は、『狭いコミュ
ニティ』と認識しているのとは『別な意味で』、やはり広いということなのだろうか。


「まあねー。勉強よりも大事なことがあるんだよ、ってよく言われるけどね。一辺倒にそ
 れをいうのはちょっと違うとは思うかな。要はいろんな経験をして、自分の打ち込める
 何かを見つければいいってことだからね。


 それで勉強に価値を見出しているのなら、今は問題ない筈なんだけど。例えば、何かや
 りたいものがあって、その為に勉強するとか」


「先生は、何か"やりたいこと"があったりしたんですか」


「私? うーん、そうだねえ。昔はすっごい身体が弱かったから、医者になりたいと思っ
 た時期もあったんだけど。まあ、ちょっと……成績面でおっつかなっかたし。数学が苦
 手だったのが致命的だったかなあ。


 それでどうしようか頭を捻ったんだけど、それなら文型色の強い学校に進んで……自分
 の好きなこと勉強しながら、カウンセラー的な仕事につきたいなって考えたの。お陰で
 大学では結構やりたいことがやれたし。丁度私が今就いてる仕事なんかだと、いつまで
 も若い世代とお話出来るから。自分としては後悔してないし、やりがいあるよ」


「へぇ……」


 先生の雑学的知識は、そういうところで培われたものなんだろうかと少し考える。
 将来的なことを考えるのは、やっぱり大学選びなんかが大事なものになってくるのだろ
うか。僕の立場からはまだわからないが、少なくとも自分がこの高校を選んだことに将来
のビジョンを見据えるような理由はなかったから。


「雛苺はなんか将来の夢とかあるのか」


「うよ? うーん……ヒナはね、絵描きさんになりたいのよ!」



「絵描き? って……画家か」


 彼女が絵を描くことが好きであることは知っている。いや、でもそれなら……


「なんでこんな進学校を選んだんだ? 美術系の専門学校なんかもあるだろうに」


 と、思ったことを口にしたくもなる。暫く彼女の絵を見てはいないが、別にこの学校の
美術部が有名という訳でもないし。
 恐らくは当然の疑問であろう言葉を発しつつ僕は湯のみのお茶をすすり、


「えー、そんなの当たり前なのよー。だってここ、ジュンが志望した学校だったでしょ?
 だからこの学校を受けようと思ったのー」


「!?」


 盛大に、気管へ液体を注ぎ込んだ。


「おや、桜田君。愛されてるねー」


「ちょっ、雛苺! ゴホッ、や、先生、あの……」


「照れない照れない、桜田君。あー、青春だねえ。羨ましいなー」


「ジュン、どうしたのー?」


「~~~―――!!」


 駄目だ、咳が止まらない。いや、雛苺という存在自身、よく僕についてまわる性格の持
ち主ではあったけれど……まさか高校を選ぶ動機が僕だったとは。正直、どう返していい
やらわからない。


「あー、もう……まあいいか。大学選ぶ時は、そういう理由はやめてくれよ。あ、先生、
 ちょっと洗面台貸して下さい」


「はいはい、どうぞ」


 何とかお茶が鼻から出てくるような事態は回避出来たものの、ちょっと口の中をゆすぎ
たい。
 保健室は、小・中の時もそうだったが水周りが配置されているのでこういう時に都合が
良い。や、勿論お茶を気管に流し込んでむせる生徒を考慮したものではないことは確かで
はあるが。


 適当にうがいをして……ふと、先ほどは気付かなかったものに意識が向く。
 これは、……何の香りだ? すん、と息を吸い込むと、何かの芳香が僕の鼻をついた。


「先生、何かいい匂いがするんですけど……」


「え? ああ、それ香水だよ。苺大福持ってきてくれたひとが、私にくれたの。まあ、仕
 事中につける訳にはいかないから、そこに置いてあったんだけど」


 言われてみると、丁度眼の前の台に、何か液体の入っている小瓶が置かれている。


「かわいい入れ物なのー。先生、ちょっとつけてみてもいい?」


 何時の間にか僕の隣に居た雛苺が、そんなことを言い出す。


「流石に香水つけて教室戻るのはまずいんじゃないかな……香りをかぐ位だったらいいよ」


「了解なのー」


 そう返して彼女は小瓶を手にとって、一吹きさせてみる。


「なんだか、爽やかな香りなのー……」


 僕も、そう思った。僕の『香水』に対する偏見がそうさせるのかは知らないが、この小
瓶に詰められている香りは何処かやわらかく、どぎつくない。


「うん、なんかいいよね。ライラックの香りだよって言ってたなあ」


「ライラック?」


「そう、花の名前。花びらが普通四枚なんだけど、たまに五枚あるの。それを見つけると、
 幸せになれるっていう話もあるんだよ」


「なんだか、四葉のクローバーみたいな話なのー」


「ふふっ、そうだね。ああ、それとね……花には花言葉があるでしょう。その小瓶に入っ
 てるのは多分ピンクがかった紫のものだけど、その色の花をつけるライラックの花言葉
 は……愛の最初の感情。すなわち"初恋"だね」


「"初恋"……」


「そうそう、丁度あなた達くらいの年頃はねー」


 そんなことをのたまいながら、にまにまとからかいの笑みを浮かべる先生。ああ、絶対
何か勘違いしてる。
 こないだ水銀燈には、『僕のことをあまりいじるな』と言っていたのに。今の状況は、
十分『いじられている』と言われて然るべきものだと思う。
 何故か、この場に水銀燈が居なくてよかった、なんて考えてしまった。……なんでだ?



――――――



 結局先生の誤解(?)は、はっきりと解けないまま。昼休みも終わりとなって、僕と雛苺
は教室へ向かうこととなった。くそう……なんでこんなことに。


 保健室と僕達の教室は校舎そのものが違い、途中長い渡り廊下を通らなくてはならない。
硝子窓から外を覗けば、植えられている夏薔薇が美しく咲き乱れている。長らく降り続い
ていた雨は今日はそのなりを潜め、久しぶりに太陽が顔を覗かせている。


 さっき、ライラックの話が出たけれども。僕は実際にその花を見たことがない。花屋に
行けばあるものなのかもしれないが、この地方ではひょっとしたら咲かない品種なのかも
な、とも考える。


「ジュン……次の授業、体育だっけ?」


「ああ、そうだっけな」


……だるいな。晴天をかこつけて外でマラソンということになったりしたら、迷惑なこと
この上ない。
 そんな僕の表情を読み取ったのか、雛苺が口を開く。


「ジュンがさぼっちゃうなら、ヒナも付き合うのよー」


「……だからな。いちいち僕についてくる必要はないんだって。お前はお前、僕は僕。さ
 ぼったりしたら、教師から眼をつけられるぞ」


僕がそう返すと、彼女はにこやかな笑顔で言う。


「だって、ジュンと一緒に居ると、ヒナ楽しいもの。ヒナはジュンのこと、だーいすきな
 んだからねっ」


「……」


 ああ、笑顔が眩しすぎる……
 素で言ってるんだよな、これは。昔から言われ続けている言葉であるだけに、もう慣れ
てしまってはいるものの。高校生にもなって、大っぴらにこんなことを声に出せる彼女が
少し羨ましい。


「じゃあ、ジュン。れっつごーなのー」


「おい、何処行くんだよ!?」


 強引に手を引かれる。……図らずも次の授業は、欠席確定となってしまったようだ。



――――――



 繋がれた手が離れたのは、長い階段を昇りきったあとだった。


「あ……」


 幼い頃、彼女はあまり外へ出たがらない子供だったから。僕が彼女の手を引いていたこ
ともあった。僕と、彼女と……その手を離してしまったのは、……


 何故か、胸が締め付けられる。この感じは、良くない兆候であることを僕は知っている。


『―――静かに、静かに……きれいな呼吸を。取り込むのは、少しでいい』


 先生から教えてもらったこと。心の平静は、ゆっくりとした息遣いからまず生まれるの
だと。雛苺から離れてしまった右手を、今は自分の胸の真ん中に添える。


 そんな動作もほんの僅かな間のことで、彼女はそんな僕の様子をよそに、眼の前の扉を
開けた。


「うーん、風が気持ちいいの~! ほら、ジュン?」


「……ああ、そうだな」


 本当だった。僕が彼女に連れられてきたのは、学校の屋上。七月の空から降り注がれる
陽差しは、自分が思っていたものよりもやさしかった。丁度良い具合に風が吹いていたし、
本来ならぎらぎらと照りつけてきてもいい筈の太陽には、うっすら筋雲がかかっていて。
少しだけその姿を隠している。


 何時の間にか、胸が締め付けられる感覚から解放されていた。一歩前へ歩み出て、眼を
瞑り。静かに、息を吸い込む。


 丁度、屋上の入り口が添えられている場所が木陰になっていたので、其処に二人並んで
腰掛けた。思えば、こうやって二人きりになるのは久しぶりのことかもしれなかった。
 暫く無言の時間が流れる。風の流れる音だけが聴こえる空間で、有体に言えば、『時が
止まってしまったかのような』感覚がする。


 そんな時の流れを、不意に。静かに動かしたのは、雛苺の言葉だった。


「ジュン、最近元気なかったり、する……?」


「ん……そうでもないよ。いつもどおり」


「……なら、いいの。けど、ジュンが昔と比べて、少し変わったかもって……ちょっと、
 思ったのよ」


 雛苺の言葉を聞きながら、僕はそれに対する言葉を返さず。そして彼女の表情を見るこ
とはしなかった。


「……えへっ。なんだか懐かしいの。ジュンはもう……お洋服、縫ったりしないの?」


「どうだろうな。今はもう、そんな興味もなくなっちゃったし」


「どうして?」


「……」


 『どうして』と言ったのか、彼女は。……どうしてだろう? 僕は中学の時に、その自
分の趣味を馬鹿にされて、一気に"冷めて"……
 その理由は、自分で認識している筈のものだった。だけど、其処に。そんな下らない理
由ではなく、もっと別な要因はなかったのか?


「ジュンの描いたデザインは、とっても綺麗だった。お人形の服を作るときのジュンの指
 は、まるで魔法を見ているようだったのに」


 僕はまた、何も答えない。……そして、胸が締め付けられる。
 そうだ。どうして僕は、そんな下らない理由で、デザイン画を描くことをやめてしまっ
たのだろう……?


 そこで初めて、雛苺の表情を見やる。彼女もまたこちらの方を向いていて、眼が合った。
そこには、いつも僕が見慣れている彼女の笑顔があって。


「ジュンもきっと、"やりたいこと"が見つかるの。それまでは、ゆっくり過ごしていくの
 が、きっといいの」


「先生みたいなこと言うんだな」


「ちょっと真似してみたの。……だってジュン、先生のこと……好きなんじゃない?」


「! ……水銀燈の真似までするのは頂けないな」


「えへへ~……」


「えへへーじゃないだろ、全く」


 そう返しながらも。僕は水銀燈に言われたときより、冷静な自分ではなくなっているこ
とに気付いていた。
 僕は、色々なことに冷めてしまって。きっと誰かのことを大切に思うことなんて、出来
ないのだろうと普段から考えている。ましてや、ひとを好きになるだなんて。


 先生は僕にとって、どんな存在なのだろう。色々なことを知っていて、素直に尊敬出来
て。……まあ、年は少し離れているけれど。少しでも長く、先生と一緒の時間を過ごした
いと思える。これが、『好き』という感情なのだろうか?


「お前も、ませたこと言う年頃なんだな―――って、あれ?」


「すー……すー……」


 雛苺は、僕に言うだけ言って、眠ってしまったらしい。とん、と。丁度僕の肩あたりに、
頭を預ける形になった。


 僕は彼女を起こさないように気をつけながら、少しだけ大きめに息を吸い込んだ。
 庭園に咲いているであろう薔薇の香りが、風に運ばれてやってくる。


 ただ、あの保健室で感じていたライラックの匂いは、ここへは届かない。



―――――――――



 夜、自室にて。あの後、体育の時間が終わる位に雛苺を起こし、一緒に教室へ戻った。
少し他の生徒から非難されたけれど、別に気になるところではない。案の定、あの時間は
マラソンをさせられたようだ。


 僕は収納棚の奥から、スケッチブックを取り出す。いつも捨てようと思いながら、結局
それを実行に移すことが出来なかったもの。
 開くと、僕が昔描いたドレスのデザイン画がそこにはあった。


『お洋服、縫ったりしないの?』


 今日の午後に聞いた、雛苺の言葉を思い出す。……少なくとも今の僕にとって、デザイ
ン云々は必要のないものだと考える。下らない、こんなのは下らないものだ。


 彼女は、画家になることが夢だと言っていた。それに向かって、頑張っている。そんな
彼女に対して、……僕という存在は、一体なんなのだろうか。



――――



 時は夜、日付もそろそろ変わろうかという所。とある一室で、ひとりの女生徒が、机に
向かって勉強をしている。そこに控えめなノックの音が響いた。


「どうぞぉ」


 その声のあとに入室してきた女生徒は、ティーセットを一式手にしていた。


「頑張ってるのね、水銀燈。紅茶で休憩などいかが?」


「あらぁ、真紅ねぇ。こんな夜遅くに珍しいじゃなぁい」


「そんなことはないのだわ。最近はいつもこの位の時間だし。まあ、九時に眠るのが本当
 は理想なのだけど」


 ふぁ、と小さめの欠伸をする女生徒。


「……ま、しょうがないわねぇ。お言葉に甘えさせてもらって、少し休憩にしようかしらぁ」


 そう答えた女生徒は、丁度部屋に備え付けられていたポットからお湯を注ぎ、紅茶を淹
れる。どうやら茶器の類を持ってくるのは入室してきた女生徒の方で、淹れる係はもとも
と部屋に居る女生徒、と役割が決まっているらしい。


 紅茶を飲んで、一息つく二人。そして、何かを思い出したらしい女生徒が口を開く。


「紅茶っていうとねぇ……その、雛苺と知り合いの子だけどぉ。ジュンっていう男の子と、
 保健室で逢ったんだけど。その子がすっごく紅茶を淹れるのが上手だったわぁ」


「そう?」


「そうよぉ。その内逢うこともあるんじゃないかしらぁ」


「そう?」


 同じ言葉を、二度繰り返す女生徒。


「夜遅くまで熱心なのね。貴女ならきっと、今回も一番をとれるんじゃないかしら?」


「どうかしらぁ。順位がついてるって言っても、僅差だしねぇ……」


「雛苺も頑張ってるのだわ。まあ、最近は夜遅くまで絵を描いてるみたいだけど」


「コンテスト用の絵?」


「そうね。一度見てみたけど、色使いに悩んでいるみたい」


 他愛のない、会話が続き。そうして時間は流れ、とある一室の夜は更けていく。



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