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 夏の訪れを感じさせる蒸し暑さの中、ここ最近降り続いている小雨がそれを助長してい
る空気だった。雨の一粒一粒は、勿論冷たいもの。だけどそれは、ちっとも涼しさをもた
らしてはくれない。
 まあ、それでも。もともと小雨模様が嫌いではない僕にとっては別に気になるものでも
ないし、何時も通りに今日も学校に向かえばいいだけの話。

 悪く言えば、色々なことについて僕は無関心なのだと思う。昔(と言っても、僕自身それ
ほど妙齢に達しているとは言えないが)好きだった服のデザインなどについても。思いつい
たらその辺にある紙に書き散らしていたのをやめてしまったのは、一体いつからだろう。

 デザイン画に付随した裁縫なんかも僕の趣味だったが、それが友人達に知れ渡ってしま
ったときは、それはもう酷く気持ち悪がられたものだった。それが原因で学校に行きたく
なくなってしまった時も確かにあって。何を食べても吐いてしまうし、身体はぼろぼろに
なった。

 そして、暫くして。そういう思考自体が恐らく馬鹿馬鹿しいものではないかと僕は思っ
た。どうして僕が苦しまなくてはいけないのか、と。

 ひとの趣味ひとつで、簡単にそれを攻撃出来るような存在。そう、『その程度』の存在
が、僕が今まで友達であると、信じて疑わなかったものだった。

 それに気付くと、一気に何かが『冷めた』。妙なところで悟ってしまった、と言っても
いいかもしれない。兎に角、下らない、と思ってしまったのだ。

 いつしか。自分は何もしていない素振りで、誰にも負けないような存在になろうと思い
たったのだろう。今はそうでもないが、少なくとも、当時の僕はそう考えた。
 この時代、学校というひとつの狭いコミュニティの中、自己を誇示するのに手っ取り早
かったのは勉強だった。勉強、という言葉自体『強いて勉める』を言い換えたものである
から。その言葉通りに、僕はそれを自らに強いた。ひょっとしたらそれ自体も、下らない
ものであると気付きながらも。

 結果は上々。中学ではずっと成績を上位にキープ出来たし、それは高校に入ってから今
に至るまで変わらない。形式上、友人と呼べる存在も数多く居る。高々勉強が出来る程度
で、他の存在を見下すことは下らないと思っていたものだから。僕の趣味を馬鹿にしてい
た存在だって、気にしない様子で接し続けた。その結果、周囲にひとが集まってきただけ
のこと。

 だけど、僕のこころは冷めている。勉強だって、情熱を持って取り組んでいる訳ではな
い。どうでもいいことだから。

 自分という存在を、何処か遠いところから眺める。完全にそれが出来たなら、多分僕の
理想に近い状態になれたのだろうけど、それは無理で。それでも、自分を自分から切り離
した状態で、他の存在を何か大切に思うということは出来ないのだとは思う。

 そんなことを、ぐるぐると考えて。たまに発作的に過去を思い出してしまうこともある
のだけれど……

「……」

 『まあ、いいか』なんて、そんな思考を最後の纏めとすることが多い僕は、取りもあえ
ず玄関先に出て靴をはく。一応、傘もさしていこう。此処から校舎まで、十分ほど歩かな
くてはならない。いくら小雨模様とは言っても、そのまま歩いていけば大分濡れてしまう
に違いなかったし。何より、そんな状態で僕が教室にはいっていったなら。余計なお節介
が好きな輩が、また僕に絡んでくることは容易に想像出来たから。

 始まるは、日常。僕達の住む世界はどうしようもないくらい現実的で、それ以上でもそ
れ以下でもない。そんな世界だからこそ僕は、平穏を求められる。何事も無く、静かに過
ごせればいいだなんて。そんなことを願ってみたり。それ自体は悪いことではないと思う。

 それが多分、幸せと呼んで然るべきものではないのだろうか?



――――――――



「おはよー」 「おはよう、桜田君」 「おーす」 ……

 声をかけてくるクラスメイトに、僕は何時も通りの挨拶を返す。

「ああ、おはよう」

 この言葉から、今日も一日が始まるのだ。特別なことなど何も無い、平和な一日が。

 適当に自分の席について、ぼんやりとしている。今日の一限の授業はなんであったかに
思いを巡らせた。確か、倫理だったか。
 うちの学校が私立だから、という所が影響しているのかどうかは知らないが。どうやら
他の学校に比べて、カリキュラムが少しだけ異なっているらしい。一年生の間の社会科目
が、倫理と政治経済が必須になっているあたりもそのひとつ。歴史系と地理が、二学期後
半に入ってからの選択になっているらしい。

 過去の偉大な哲人が、残した思想を学ぶということ。当時その思索を行っていた人々は、
真に世界を切り開く為にそれをしていたに違いないとは思う。それは今の時代において。
参考になることはあっても、実生活に応用出来るようなものではない。要は、実学ではな
いということだ。
 
 しかしながら。そもそも、勉強と言うものを全て実際の生活に反映させようということ
があまり宜しくない。例えば、数学ひとつとっても。『微分積分が生活の役に立つの?』
という小賢しい論理を立てて勉強しようとしない輩を見るにつけて(実際『数学』という
カテゴリに限らなければ、無論将来的に役に立たないということはないのだが)、それは勉
学というものの本質から遠くかけ離れた考えであると思う。

 僕が本質を語るのはおこがましいことだ、だって僕自身『勉強なんて、どうでもいい』
と思っている口であるし。僕は自分の立場を維持するために勉強しているだけだから。
 ただ、最近では。この『一見無駄なことに打ち込む』ことに、幾許かのカタルシスのよ
うなものも感じている。哲学はそういった意味で、僕の中では思考上の遊びのようなもの。
役に立つ云々とは特に関係が無い。

 カタルシスを感じるということについて、かつての自分の趣味に気持ちが傾かないのは。
……僕自身が、何処かしら意固地になっているところがなくもないのだろうと。最近思わ
なくもない。

「……」

 いまだ降り続いている窓の外の小雨をぼんやりと眺めながら、そんな下らないことを考
えている。こういうのって、時間の無駄ってやつなんだろうか?

「おはよ、ジュン!」

 不意に、かけられた声。視線を戻した先には、見慣れた顔があった。

「ああ、おはよう雛苺。今日は遅刻しなかったんだな」

「朝っぱらから失礼なのね、ジュン。ヒナはちゃんと朝起きてるのよ?」

「その割には、いつもぎりぎりに来るじゃないか」

「う、それは~……」

 一言二言反論するだけで、もう発言に詰んでしまう彼女。相変わらずだ。こんなやりと
りではあるが、別に僕は彼女を苛めている訳ではない。何というか、最早定型になってし
まっている感もある。
 一生懸命言葉を繋げようと頭を捻り始めた彼女に、僕はまた声をかける。

「ま。とりあえず今日は遅刻しなかったところは評価出来る。……から、そんなに悩む
 とこじゃないぞ、雛苺」

「うよ、……そう? えへへ~」

 はにかんだ笑顔を見せる雛苺。そんな彼女は割と喜怒哀楽の激しい方で、自分の感情を
ストレートに現すタイプだから……僕とはかなり違ったパーソナリティの持ち主であると
感じている。
 悪く言えば単純、良く言えば裏表のないその性格は、クラスでも断トツの親しみやすさ
として皆に好かれる要因となっている。

『落ち着いたといえば落ち着いた方だけどな、こいつも……』

「え、ジュン、何何~?」

「いやいや、何でもない」

 家が近いせいもあって、彼女とはいつも一緒だった。結局、小・中学校、そして今へと
続く幼馴染になってしまっている。
 昔はよく『ジュン登り』とやらで頭によじ登られたりもしたものだったが、最近では勿
論そんなこともない。ちょっと前までは可愛い妹分、という感じだったのだけれど。いつ
の間にやら背も僕と同じくらいに(僕自身背が高い訳ではないが)なってしまったし、有体
に言えば、まあ……綺麗、とまでは言わなくても、少し大人びた可愛さを纏っているよう
な印象を抱くまでにはなっている。というか、今の彼女の身体のスタイルを以て抱きつか
れなんぞしたら、僕が保たない。なんだ、その、色々な意味で。

「さ、ホームルームを始めるぞー。皆席につけー」

 担任が入ってきた。別れ際、雛苺が僕に一言残す。

「今日もいい一日になるといいね、ジュン!」

 ……呆れる程の、ポジティブシンキング。僕はそんな彼女に、もしかしたら大分救われ
ているのかもしれない。



――――――――――



「ここで王陽明の唱えた、心即理が……」

 退屈な授業を聞き流しながら、ぼんやりと窓の外を眺めている。雨はまだやむ様子が見
えない。

 三階の窓から見える薔薇の花壇の脇に生えている紫陽花が、なんとなく美しいと思った。
色とりどりとは言わないけれど、青色に偏った花弁が落ち着きを感じさせる。
 眼を閉じれば、聴こえるのは教室内に響く教師の声と、振り落ちる雨粒が空を切る音。
風が無かったから、雨粒は本当に静かに、真っ直ぐ地面に落ちては吸い込まれていること
だろう。

「その、私欲。……人間の欲望というものだな。それに心が侵されていなかったならば、
 その心そのものと理とは一体であることが……」

 心即理、ねえ。相変わらず真剣に聞くつもりはなかったが、とりあえず手持ちの教科書
に視線を落としてみた。
 "理"とは、ここでは理性のことではなく"体"を現すものらしい。心は、すなわち理。心
と体は、生まれもってひとつであるということを言いたいのか。僕は出来るなら、それを
切り離してしまいたいと思ってしまうのだけど。

 どうも過去の哲人達は、以て廻った言い方が好きらしい。そしてそれを、他へ広めよう
とする。歴史なんて、その繰り返しが争いを呼んだりもしただろうに。
 ぱらりぱらりと教科書の頁を繰って、結局この偉人は何が言いかったのかを探してみる。
けれど、その解答は書かれていない。いつも、そう。

『……広く庶民に伝わり、当時国家を治めていた体制に反する勢力を擁護することに……』

 ふぅん。学問は取りもあえず、家柄の良いものの特権ではなく、庶民でも頑張れば成し
得るものである、と。現在の民主主義が聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうな内容だなあ
と思う。しかしこれは、実際にあったことなのだ。

 ひとの数だけ、考え方があっていい。しかしそれだけでは多分駄目だと思って、共通の
思想を広めようとしたんだろうか。

 虚ろだな、と思う。今僕が住んでいる日本が、他の国々とは少し違う毛色を保っている
せいもあるのだろうけど。宗教ひとつとったって、ここまで神や仏に無関心な国はそんな
にない。昔はどうだったか知らないが。

 まあ、ひとつの考えに縛られるよりは、……普段何も考えず、気楽で居られるほうがい
いと思ってしまうような僕にとっては。日本というこの国は、多分住みやすいのだろうと
感じてしまう。

 そういえば―――僕はふと思いついて、彼女の方に視線を向けてみた。

『……』

 はい、一限から壮大に船を漕いでいる雛苺が見える。いつも寝てるよなあいつは。でも
成績はいいんだよなあ。教師もその辺はわかっているのか、あまり度を過ぎない限りは特
に何も言わない。いいんだろうか、そんなんで。

 雛苺は、確か母親がフランス人だったような……小学校に入る前までは、向こうに住ん
でいた時期もあったとか。だけど、雛苺の両親は、もう―――居ないけれど。

 フランスというと……キリスト教だったか? ということは、結構彼女は信仰が深いと
ころがあったりもするのだろうか。

 ……いやいやいや、ないか。とりあえず今までの付き合いで、彼女から神様なんていう
単語を聞いたことがない。思わず頭を抱え、溜息をついてしまう。

 そんな様子を見ていたのか、教師が不意に声をかけてきた。

「桜田、大丈夫か? 体調悪いなら保健室にいってこい」

「え? ……あ、はい。ちょっと頭痛いんで……じゃあいってきます」

 教室の後ろの扉から、そそくさと出て行く。全く……こういう気配りが出来るんなら、
寝てる生徒に一声かけたらどうだ。

 何でも最近では、生徒の体調管理に関してはこと敏感らしく。
 ともかく、教師のお墨付きがあるならば、堂々と休めるというものだ。僕は嬉々として
保健室へ向かう。あそこには、よく話を聞いてくれる……恐らく僕が、ただ一人。この学
校で『先生』と呼べるひとが居る。



――――――



「すみません、ちょっと頭痛薬を貰いに……」

「はいはい。……って桜田君じゃない。またきたの?」

「真剣に授業に取り組んでたら、知恵熱が出ました」

「ふふっ。じゃあ薬よりも休憩だね。お茶でも飲んでく?」

「はい、いただきます」

 またきたの、と言われる辺り。僕が頻繁にここを出入りしているのが知れるというもの
だ。先生は机の脇に置いてあったきゅうすにお湯を居れ、湯のみに注ぎ始める。

「はい、粗茶ですが」

「ありがとうございます」

 今は先生が淹れてくれたが、たまに僕が紅茶を淹れてあげる時もある。何故かここには、
本格的なティーセットがあったりするのだ。先生の私物ではないのだが、どうやらここの
生徒にやたらめったら紅茶の好きな女生徒が居るようで、それは彼女のものらしいのだけ
ど。

「それにしても、一限からサボりとは感心出来ないなあ」

「違いますよ。ちゃんと教師の方から声かけられたんですから。僕はそれに倣っただけで
 すよ」

「ふーん? じゃあ、そういうことにしとこうかなあ」

 にまにまと笑っている様子からして、果たして僕の言葉が信じられているのやら。とい
うかこの先生は、いつ仕事してるんだろう。いくら保健室の主だからって、書類の整理と
かありそうなものだが。

「私は生徒とお話するのがお仕事だよ? 桜田君」

 ぎくり。

「……参りました」

 本当に、参ったな。ひとの心が読めるんじゃないのか、このひと。

 柿崎先生は、どうやら三年程前からここに配属されたらしい保健室の先生。生徒の悩み
には親身に接してくれると評判で、信望も厚い。一部女生徒の間では、下の名前で呼ばれ
ていたりもする。


 五月の連休が過ぎた頃に。普通に友人と廊下で話していたとき……唐突に、それはやっ
てきた。
 もう無い、と思っていたこと。僕の中でしまってしまいたかった、記憶のフラッシュバ
ック。何もかもに対して『冷めて』、全てが平気だと思っていたのに。唐突に僕は気持ち
悪くなってしまった。呼吸も荒く、手足も段々痺れてきて……ひゅうひゅうと荒い息をし
ながら、保健室へと駆け込んだ。

 僕が其処へ行ってから、暫く何も話せる状態ではなくて。先生はその間何も言わず、僕
をソファに座らせ、そっと背中に手をあてがった。

 今でも鮮明に思い出せる、先生がぽつりと零した言葉。

『静かに息を……吐き続けて。―――そう。取り込むのは、ちょっとでいいよ』

 言うとおりにしていたら、本当に落ち着いてきた。何とか話せるようになって、すみま
せん、と返した。

『謝ることなんて、ないんだけどな。……まあ、お茶でも飲んでゆっくりしてってね』

 何があったのか、このひとは聞かないんだな……そんなことを思ったりして。それが逆
に、僕の口を開かせたような気もした。
 ぽつりぽつり、色々と話し始める。


『……そう、頑張ったね。無理するな、とは言わないよ。無理しなきゃいけないときだっ
 て、あるんだからね。だけど多分、今はその時じゃない。だからゆっくり、休んでね?』

『……自分が頑張るタイミングは、自分で見つけるのが理想的だから。大丈夫、時間なん
 てね、無いときは本当に無いし、在るときは在るの。まあ、時間は無限、物質は有限っ
 て言うひとも居たけどね。兎に角……それなら、力抜けるときには抜いとかないと、潰
 れるのは当たり前だよ』


 このひとは、決して生徒に『甘く』接しているのではないと感じた。先生自身、どのよ
うな体験をしてきたのかは僕は知らない。けれど、その言葉ひとつひとつに……重みとい
うか、何か安心と呼べるようなものが……載せられているような気がしたのだ。


 そのときから、今に至るまで。僕は暇なときは、保健室に出入りするようになってしま
ったのである。先生は保健医だけど、何故か無駄に(と言うと怒るので本人には言わないが)
知識が多いので、話していて全く退屈しない。

「さて、桜田君。今回知恵熱が出たって言ってる位なんだから、何か考え事してたんだよ
 ね? どんなことを考えてたのかな」

不意に先生に話しかけられる。

「ええと、まあ……一限が倫理だったんで、宗教について色々と」

「宗教?」

「はい。日本人って、結構節操ないなあと思って。下手すると神社も寺も一緒みたいな感
 じだし、結婚式はチャペルで、なんて言ってるしなあって」

 先生は、手元の湯のみを一すすりして。ふう、と一息ついてから口を開く。

「うーん……そうだねえ。其処は別に、良いとも悪いとも言えないかな。まあもっとも、
 そんな風土がこの国で新興宗教なんたらを流行らせる原因になったりしてるのかもしれ
 ないけど。この学園は少なくとも、日本風って感じではないよね」

 ん、確かにそうだ。仏教を重んじてる学校の庭に、薔薇の花を植えたりはしないだろう。

「宗教っていうのも、何か不思議な感じですよね……」

 思っていたことを、また零してみる。

「色々あるからね。とりもあえず、信じるものがあるっていうことは悪くないんじゃない
 かな。その程度の問題はまた別にしとくにしろ、仏教・キリスト教・イスラム教。全部
 挙げろって言われたら無理だけど、それぞれの信仰があるだろうから」

「ああ……それで、キリスト教徒の人たちって、割と信仰が深いイメージあるんですけど。
 日曜日は教会へ、って映画でもよくあるじゃないですか」

「んー、それはやっぱりひとに拠るんじゃないのかなあ。今時の若い子達の宗教離れって
 いうのは、何処の国でも結構みられるらしいよ?」

「ヨーロッパ……フランス、とかもですか」

「え? ……その辺りは流石にわかんないなあ。どうしたの、いきなり」

「いえ、なんでもないです」

 別にここで、雛苺の名前も出すこともないだろうと考える。ちょっとだけ、気になった
だけだったから。
 僕も湯のみに口をつける。お……今日は梅昆布茶か。

「キリスト教って言うとね。真面目に研究すると、色々面白いかもしれないよ」

「どういうことですか」

「キリスト教で"子なる神"、と言えば誰でしょう? 桜田君」

「え……そりゃあ、キリストですよね」

「そう。だけどあの教えの中で、キリストは死んでるよね」

 確か、そうだな。だけどその後で、キリストは確か復活してるよな……
 ここでは流石に、先生の言いたいことの意図が掴めない。

「うん、まあ。私の質問は、何故キリスト教は、一度キリストを殺したのでしょうっていうこ
 となんだけど」

「……なんでですかね?」

「えっと、これはあくまでとある一説だけど」

 ちょっと齧った位だから、と前置きをしておいて、先生は話し始めた。

「宗教上の教え……その限界を、超える余地を残した。えっと、更に広げた、って言い直
 してもいいかな。それをする為だったのかもしれないって言われてたりもしてるの」

「……?」

「えっと、ごめんね。私も専門で勉強してる訳じゃないから、まともにしてるひとに聞か
 せたら石投げられちゃいそう。だから聞き流す位でいいよ。

 ほら、神様ってよく、絶対の存在って言われてるよね。キリスト教だとまた三位一体と
 か考えないといけないからちょっと話が変わるけど」

「はい」

「絶対の存在は、他に比べることが出来ない存在だからこそ"絶対"。だけど、其処に超え
 られない存在を設定しちゃうと、もし万一……"其処に、ひとが、辿りついたら"。
 どうしようもなくなっちゃうと思わない?」

「……」

 超えられない壁に、とりもあえず"それが在る場所"へ、辿りついてしまったイメージか。
遅かれ早かれ、場所がわかってしまえば……いずれは超えてしまうかもしれないと。恐ら
くそれが、"超えてはならない壁"であったとしても。

「だから其処で、"一度キリストを殺した"。一度限界点を設定しておいて、その一線を崩
 したの。そしてその更に先―――限界の、向こう側へ。復活っていう形で、存在を配置
 し直したっていうこと。

 限界へ辿りついても、まだその先が用意されてる状態になってるんじゃないか? って
 いう学説的な話でした」

 以上、という言葉で締めくくり、またお茶をすすり始める柿先先生。……いや、本当に
貴女は保健室の先生なんですか?

「一応、臨床心理士の勉強くらいは真面目にやってたかな、大学院では」

……ひとの心を読まないで下さい、先生。

 緩やかに、時間は流れる。僕は多分、この場所で過ごすときが……本当に、好きなんだ
ろうと思う。
 全てのものに、『冷めて』しまったと思っているような僕。唯一、僕が僕であるための
ような場所。そんな風に、最近は考えているのかもしれない。

「同じ宗教同士でも、宗派の違いで争ったりもしてきたからねえ。色々複雑だね。真面目
 に勉強してみると面白いかもっていうのは、その辺りのことかなあ」

「……そうですね」

「ひとはね、色々なことを知りたがる生き物だから。

 多分、学んでも学んでも……ひとの中にある好奇心が埋まってしまわないように、全て
 が"わからないように"してるのかもしれないって思ったりもする」

「……」

「あるいは……そうやって、他に謎を残しておいて……」

 先生はふと眼を細めて、言いかけた言葉を途中で止めた。

「まあ、いいかな。桜田君も、色々と知りたいことが出来れば、それを追っていけばいい
 んだしね。ただ……」

「ただ、なんです?」

「"知りたい"と思う対象には、たまによくないことも含まれるから。知らなきゃ良かった、
 って思ったりすることだよね、所謂。桜田君は、その辺りに疎そうだからなあ」

「ああ、多分大丈夫ですよ。今のところ、色々なものに興味は持ってないつもりなんで」

「ん……そうだね。その内だよ、その内。
 ―――さ、そろそろ一限終わっちゃうよ。二限は流石に出てきなよ。具合悪くなったら
 また戻ってきていいから」

「はい、ありがとうございました」


 僕は礼をひとつ残して、保健室を後にした。

「知りたいと思うこと、か」

 生憎僕は、今のところ情熱を持って何かを探求しようという気にはなれない。大学に入
ったら、それも少しは違ってくるのかもしれないけれど。
 僕はまた、さっきの話を少しだけ胸の中で反芻する。

 この世界に、神様なんて一杯いる。本当に、本当に沢山居る。僕はさっきの話を思い出し
ていた。

 限界を、一歩先へ進めるために?
 ひとつの限界を超えて、改めて配置されたキリストは……何処へ行ってしまったのか?

 その居場所、統べる先は教義上設置されているのかもしれない。
 だけど本当は、誰にも、わからないことなんじゃないのか。だって多分それは、誰も見
たことがないものなのだろうから。

 追い求めても追い求めても、辿りつけない場所がある。
 それを知っているからこそ、追い続けられる。……それで、いいのかもしれない。
 世界はなんて、複雑なんだろうと。そんなことを、少しだけ考えたりもした。

 外の雨は、まだ。綺麗に、まっすぐ地面へと降り注ぎ続けている。



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