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 彼女は言った。たった一枚の絵を、描きたいのだと。頭の中に曖昧に浮かんでいる絵を
かたちにする為に、筆を走らせていたっけ。

 それは、何処か遠い遠いところにある景色のようなものらしい。小さい頃から、ずっと
一緒だったけど。実際のところ、それが果たしてどんな景色なのか、それとも本当に『景
色』であるのかすら僕にはわからなくて……ともかく、彼女が『描きたい』と願うものを
僕は知らない。
 言葉で伝えられても、僕にはそれを正確にトレースすることは出来ないから。それは当
然と言えば当然のことだったし。それでいて、少しだけ寂しいこと。


 また、彼女は言った。この世界には、世界を作り上げるからくりがあって、そして物語
があるのだと。その物語は、少なくとも。それこそこの世界に生きる人々の数だけ、綴ら
れていることは確かなのだと思う。
 世界のからくりが、物語の中に物語を内包する。だからその数は、実際にはひとの数な
んかよりもっと多い。


 複雑なようで、実は単純な仕組みなのだと彼女の口から聞かされたことがある。世界に
は様々な物語があって。今でも続いているものに、『歴史』という名前がついている。
 その『歴史』の中に含まれたのは、生きる人々の思想の物語。例えば、哲学や宗教だっ
たり。フィクションであれノンフィクションであれ、かたちなきものをかたちにしようと
した、芸術だったりした。


 彼女は、彼女自身の中で。描きたい景色を『知っていながら』、それを『追い続けた』
のだと思う。その事実を知っていたのは、多分僕を除いたら何人も居なくて。少なくとも
……"彼女"は、"知らなかった"。だけど、それでも、描き続けた。『追い続ける』限り、
其処へ到達することは……きっと、出来ないというのに。


『透明なものも……そこにあるの。だから、見たままを描けばいいのよ』

『何処までも透き通って、確かにあるもの。それはきっと、きれいよね?』


 望んだ物を、描こうとしていた彼女。
 世界のからくりを、知っていた彼女。


 大きな海を背にして、その姿を懐かしむように僕は空を見上げた。見上げた先は何処
までも青い空が広がっている。この青すら何かの『物語』に置き換えることは出来るのだ
ろうか?


 彼女の描きたかったのは……それはともすれば、一瞬で消えてしまうようなもの。儚い、
とても儚い、この世界に無数にあるかもしれない、泡沫のひとつではないかと思う。

 そう、泡沫の、夢。そんなことを彼女は、言っていたじゃないか。

 僕はそんなことを思い出しながら。青い海が揺れる様を、見続けている。
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