『貴女のとりこ』 第十一回 


寝汗の気持ち悪さを覚えて、雪華綺晶の意識は、深い眠りから呼び戻された。
ちょっと呻き、欠伸を、ひとつ。そして――ふと、気付く。

隣に寝ていた筈の巴が、居ない。
耳を澄ませても、彼女が立てる物音は一切、聞こえてこない。

「……巴ぇ~? ねえ、どこに居ますの?」

彼女の呼びかけに応えるのは、闇が生み出す静寂のみ。
もう一度、巴を呼ぶが、雪華綺晶の声は暗黒に呑まれて、それっきり返ってこない。

「ねえ、巴? ……どこぉ? 意地悪しないで下さいよぅ」


――――沈黙。


雪華綺晶の胸に、得も言われぬ感情の波が、怒濤となって押し寄せてきた。
それでも敢えて言うならば、畏怖。
大切な物を喪失した時の、畏れ。
大好きな物を奪われ、二度と取り戻せないと知った時の、怖れ。

そんなの、嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。アレは、私のモノなのに!
雪華綺晶はベッドの上で身体を丸め、両手で頭を抱えて、
幼い子供の様に、漆黒の中で打ち震えた。ひたすらに、巴を求めながら。

「どこなのっ!? 私のお人形、どこに居るのっ?!」

限界まで募った畏怖が、狂気の喚きとなって、雪華綺晶の唇から吐き出される。
けれども、それらは全て、虚しく地下室に木霊するだけ。
雪華綺晶は頭を抱えたまま、半身を跳ね起こした。

「イヤッ! イヤッ!! 返して! 私のお人形、返してぇっ!!」

駄々をこねる幼児の如く、雪華綺晶は泣きじゃくる。
しかし、彼女を宥める――或いは叱りつける――者は、皆無だった。

「巴っ! 巴っ! トモエ、トモエ、トモエ、トモエ、トモエーっ!」

譫言の様に巴の名を連呼しながら、雪華綺晶は涙に濡れた左眼を血走らせて、
ギョロギョロと漆黒の空間に視線を彷徨わせる。


そして――――見付けた。
仄かな光に醸し出される、巴のシルエットを。

にたぁ……っと、雪華綺晶の口元が歪んだ。
彼女の隻眼は、ただ一点、巴の影だけを凝視している。

「あはははははっ。あったぁ! 私のお人形、見付けた見付けた見付けたぁっ!」

涙を拭い、ベッドを、するり……と降りて、軽快なステップで巴に近付く。
下着姿の彼女は、蹲ったまま身動き一つしない。膝を抱えて、眠っているかの様だ。
委細かまわず、雪華綺晶は巴の背後から近付いて、
彼女の華奢な肩に両腕を絡み付かせた。

「……んふふふっ。今日は、何して遊びましょうか。ねえ、巴ぇ~?」

仄かに汗の臭う巴のうなじに鼻を擦り付けながら、猫撫で声で話しかける。
だが、いつもの様な拒絶は、返ってこなかった。

「あらぁ? 今日は、おとなしいですわねぇ。もしかして、本当に寝てますのぉ?」

巴の反応を探るように、雪華綺晶は巴の首筋に接吻し、つぅ……と、耳の後ろまで舐めあげる。
普段なら、過敏に拒否反応を示し、力任せに突き飛ばしてきた筈だ。

――しかし、巴は呻くことすらしない。

「? どうしましたの、巴ぇ。何か、喋って下さいよぅ」

絡めていた腕を解いて、雪華綺晶は、巴の肩を揺すった。
途端、巴の身体は、力無く床に倒れ込んだ。
閉ざされた瞼が、睡眠中であることを連想させる。

「あらあら。折角ベッドが有りますのに、こんな所で眠ってたなんて」

言って、雪華綺晶は巴の右腕を掴み、ひょいと引き上げた。
巴の頭が、がくりと下を向く。
掴んだ彼女の腕を肩に担いで、無理矢理に立たせた時点で、
雪華綺晶は漸く、巴が呼吸していない事に気付いた。
微かに開いた唇に耳を寄せるが、吐息は感じられない。

「巴……貴女、まさか…………死ん、で……る?」

問い掛けても、巴が答えることはなかった。


雪華綺晶は、ぐったりした巴をベッドまで運んで、仰向けに寝かし付けた。
彼女の手首に触れて脈を測ったり、胸に耳を着けて、心臓の鼓動を聞いたりしてみる。
そして、導き出した答えは――


  やっぱり、死んでいる。


――だった。

「死んだ? 巴が、死んでしまった?」

愕然とする雪華綺晶。
彼女の肩が、小刻みに震え始めた。時折、く……と、喉が鳴る。

「くっ………………くく…………くっ……くっ」

段々と、喉の鳴る間隔が狭まっていく。

そして遂に、

「あっははははっ! はははっははっあはははははっ!!」

爆笑。
耳を聾する哄笑。

「最っ高! これこそ理想のお人形ですわ! 貴女は最高にして、至高の存在よ、巴ぇ。
 なんて素敵なんでしょう。なんて素晴らしいんでしょぉ! あははははははっ」



巴を死に追い遣った原因は、餓えでも病気でもなく、二酸化炭素だった。
窓も通気口も無い地下室には、知らぬ間に、二酸化炭素濃度が上昇していたのだ。

通常、ヘモグロビンと強力に結合する有毒ガスは一酸化炭素で、
二酸化炭素には、殆ど毒性がないとされる。
もしも二酸化炭素が有毒だったら、炭酸飲料など販売されていないだろう。

しかし、それとて少量に限ったこと。
空気中の二酸化炭素濃度が高くなるにつれて、人体には深刻な変化が生じてくる。
血中の二酸化炭素濃度が3~4%を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、
7%を超えると、炭酸ガスナルコーシスという麻酔されたような状態に陥るのだ。
この状態になると数分で意識を失い、そのまま適切な処置を施されなければ、
麻酔作用による呼吸中枢の抑制によって呼吸は停止し、やがて死に至る。

巴の場合、長い間、しゃがみ込んで文字を書いていたのが災いした。
二酸化炭素は空気より重いため、下方に溜まりやすい。
つまり、彼女は高濃度の二酸化炭素に包まれながら、手紙を書き続けていたのである。
体力の消耗が著しい状態で、自分の置かれた状況を知る由もなく。
同室の雪華綺晶が事なきを得たのは、ベッドの上で眠っていたからに他ならなかった。


雪華綺晶は、巴の携帯電話を拾って戻ると、彼女の枕元に置いた。
もう二度と目覚めることのない、美しい少女の横顔が、妖しく浮かび上がる。
掌で包み込んだ巴の頬には、まだ温もりが残っていた。

「うふふ……これでもう、貴女は私を拒絶しない。
 私が、どんなに無茶な要求をしても、黙って受け容れてくれる。
 正しく、私の為すがままに踊り続けるだけの、素直で可愛いお人形ですわ」

くすっ……と微笑して、雪華綺晶は右手の人差し指と中指を口に銜えた。
粘りけのある唾液が、這い回る舌によって、二本の指に塗りつけられていく。

そして――

雪華綺晶は、ぬらぬらと濡れた指を、閉ざされている巴の唇に宛い、
ゆっくりと……こじ開けていった。
すぐに、しっかりと噛み合わさった前歯が、異物の侵入を拒む。
だが、雪華綺晶は前歯の間に爪を差し入れ、指先をねじ込み、僅かに下顎を開かせて、
無理矢理に押し通った。
顎や頬が硬直していない事から察して、死後2時間以内と言ったところだろう。
身体に温もりが残っていることからも、それは明らかだった。

たった2時間前まで、生きていた巴。
生前の彼女が、この状況に置かれていたら、間違いなく噛み付いただろう。
それこそ、指を食いちぎるまで。
しかし、今の彼女は、雪華綺晶に蹂躙されるがままだった。


――だって、人形なんだもの。


何をされようとも。
どんな悪戯をされようとも。
ただただ、ご主人様の為すがまま。ご意志のままに……。


ご主人様の疲弊し切った御心を癒し、慰める事こそ、人形の本分。
ねえ、そうでしょう?

「ああ……綺麗。長い睫毛も、可愛い唇も、全て私のものですわぁ。ねえ、巴ぇ?」

雪華綺晶は、唾液に塗れた指で、口腔の奥に縮こまっている巴の舌に触れ、ふにふに……と摘んだ。
まだ、柔らかい。ぬめぬめ、うにゅーっと、餅菓子みたいな触感。
それは、挟み込もうと蠢く指の間で、ぬるりぬるりと逃げ回っていた。

「んふ。こんな鬼ごっこも、背中がゾクゾクするほど愉しいですわねぇ。
 ほらほらぁ、捕まえちゃいますわよ」

ふにふに……ぬるりん……。

指先から駆け昇ってくる官能が、雪華綺晶の脊髄を震わせ、脳を痺れさせる。

「あぁん……もぉ、食べちゃいたいくらい可愛いっ!」


――いっそ、食べちゃおうか?

頭の中で、誰のものだか判らない声が、彼女に囁きかけた。
それは、尚も濃くなり続ける二酸化炭素が生み出す、穢れた幻聴か。

雪華綺晶は、引き抜いた指を口に運び、ちうちうと啜った。甘美な……巴の味がする。
夢見るような面持ちで、唇を重ねる。
禁断の果実は、とても美味。一度でも味わったら、止められない、止まらない。
前歯の間から滑り込ませた舌を、巴の舌に絡み付かせて、飽くことなく舐めまくった。


まるで、キャンディーをしゃぶる様に。
いつまでも、いつまでも……。


  ~第十二回に続く~

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最終更新:2006年07月31日 02:12