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  『貴女のとりこ』 第九回


午後九時になろうという頃には、流石に、ジュンと薔薇水晶も、
事態の異様さに勘付き始めていた。
巴と雪華綺晶が行方を眩ませてから、五時間以上が経っている。
置き手紙に記されていた帰宅予定時間を、疾うに過ぎているにも拘わらず、
連絡の一つも無いのは、不自然にして不可解だった。

二人とも、子供じゃないとは言え、若い娘たちだけに、やはり心配だ。
最近では幼児誘拐殺人など、常識では考えられない猟奇的な事件が頻発している。
そんな、頭のおかしな人間によって危害を加えられた可能性も、否定は出来なかった。


とかく、この世はストレスの海。
地に足の着いていない者は、うねる荒波に揉まれ、浮遊し続ける他ない。
波間を漂う様に、日常の街中を彷徨い続けるだけ。
そして――先行きの解らぬ不安を打ち消そうと、刹那の享楽に身を委ねる。

全ては、一瞬のスリルを得るため。

たった、それだけの理由。

けれど、最も優先されやすい本能的な欲望。


ストレスを強く感じれば感じるほど、満たされぬ欲望もまた、
強く、大きく…………風船のように膨らんでいく。
その風船が弾けたとき、人は容易く、加害者に成る。
誰もが、幼児的な嗜虐性を内包しているのだ。

もし、巴と雪華綺晶が、そんな身勝手極まりない者が引き起こした犯罪に
巻き込まれたのだとしたら、悠長に構えてなんか居られない。
いくら巴に武芸の心得があっても、不意を衝かれれば不覚を取るだろうし、
必ずしも、単独犯であるとは限らないからだ。
携帯電話に繋がらない理由だって、真っ先に犯人が奪い取って、
川などに投棄してしまった可能性が考えられた。

応接間で、薔薇水晶と一緒に大きな壁掛け時計を睨んでいたジュンは、
やおら椅子を蹴立てて、玄関に向かった。

「やっぱり、これから探してくる」
「あ……それなら、私も――」
「ダメだ。もう暗いし、薔薇水晶は家に居てくれ。
 捜索状況の経過を連絡する、中継役になって欲しいんだ」
「う…………うん」

ジュンは玄関に向かいがてら、後ろに付き従う薔薇水晶に、
地元の消防団と警察にも協力を仰ぐように指示を出した。
日が暮れてしまっているが、日付が変わるくらいまでは、
付近の捜索してくれるだろう。

「みんなには、僕の方から電話しておくよ。頼めば、ベジータや笹塚も
 一緒に探してくれると思うから」
「はい、コレ。気を付けてね、ジュン。きっと、お姉ちゃん達を見付けてね」
「解ってる。それじゃあ、連絡役は任せたからな」

ジュンは、薔薇水晶が差し出したライトを受け取って、夜の闇に飛び出した。



一夜開けた月曜日。
町内や学校では、行方不明になった二人の噂で持ちきりとなっていた。
もしも誘拐事件だったら、いたずらに犯人を刺激しない方がいい。
そんな理由で、学校側は騒ぎを大きくしないように注意を払っていたのだが、
人の口に戸は立てられない。
昼休みを迎える頃には、学校中の生徒の知るところとなっていた。

悪事千里を走る……と、諺にも有るように、悪い噂ほど早く広まるのが世の常。
初めの内は、関係者の身内と言うこともあって、多くの者が薔薇水晶に同情的な
眼を向けていた。
だが、ここ最近の、巴に対する雪華綺晶の異常な接し方が話題に上り、
妙な噂が広がると、忽ち、薔薇水晶を好奇の目で眺め始めた。

実のところ、雪華綺晶が巴を拉致、監禁したのではないか?
犯人の妹なら、二人の居場所くらい知ってるんじゃない?


何処からともなく流れ出す、根拠のない噂話。
フィクションに対して訊かれても、薔薇水晶だって解らない。解らないから、答えようがない。
返答に窮して黙っていると、今度は、謂われのない誹謗中傷が待っていた。

――答えないのは、姉を庇っているから。――共犯者だから。

ただでさえデタラメな話が、人口を膾炙するにつれて、更に悪意ある尾鰭が付き、
終いには聞くに耐えない内容になっていた。
ジュンや、親友たちがどれだけ庇い立てしようとも、一度生じた流れは、
そうそう止められるものではない。

そして、遂に――

「お姉ちゃんは…………お姉ちゃんは、犯人なんかじゃないもんっ!」

耐えかねた薔薇水晶は、悲痛な叫びを発すると、両手で耳を塞いで、
泣き喚きながら教室を飛び出してしまった。

一瞬、しぃん……と静まり返る教室。
気まずい空気に、誰もが動きを止め、苦々しい顔をしている。
そんな中で、ジュンは無言で教室を出ると、彼女を追いかけた。



薔薇水晶は、何処に行ってしまったのだろう。
多分、もう校内には居ないと、ジュンは見当を付けた。
学校の中では、嫌でも聞きたくもない話を、耳にする事になるからだ。
と言って、私物の入った鞄を置きっ放しにして帰るとは考えにくい。

「……やっぱ、あの場所かな」

ジュンは昇降口で靴に履き替えて、校舎の裏手にある丘へと向かった。
そこは城址公園になっていて、昼間なら殆ど人が居ない。
高ぶった気分を落ち着けるには、最適の場所と思えた。

けれど、今日は珍しく、大勢の人間が屯していた。
警察と消防団、野次馬ともつかない近所の人々……。
どこで噂を聞き付けたのか、マスコミの取材班までが、辺りにいた。

「こんなに騒がしいんじゃあ、居ないかもしれないな」

けれど、折角ここまで来て、確かめずに帰るのも馬鹿げている。

この丘の周辺には、戦争中の防空壕や、古井戸の痕などが存在する。
捜査員たちは、茂みの中で藪蚊に閉口しつつも、それらを虱潰しに探索していた。

ジュンは彼らの脇を通り、木立の間を抜け、石段を昇って、頂上にある広場に辿り着いた。
どこか不謹慎な賑わいを見せる公園。広場の片隅のベンチに、彼女は座り込んでいた。
両手で顔を覆い、丸めた背中を小刻みに震わせている。

彼女の側まで歩み寄って、ジュンは労るような小声で、そっと話しかけた。

「隣り…………座っていいか?」

薔薇水晶は、手で顔を覆い隠したまま、微かに頷いた。
並んでベンチに腰を降ろしたジュンは、前屈みの背中に手を添えて、
緩くウェーブのかかった美しい髪と一緒に、薔薇水晶の背中を優しく撫でた。

「あのさ、薔薇水晶。気にするなって言うのは、無理な話だと思うけど……
 あんまり思い詰めない方が良いよ」
「…………でも……酷いよ。あんな言い方」
「確かにな。だけど結局、あいつらだって、本気で言ってるワケじゃない。
 突然、非現実的な日常に放り込まれて、みんな動揺したり、興奮してるだけさ。
 冷静な判断が出来ない状態なんだよ。
 みんなだって、本当は雪華綺晶が犯人だなんて、信じちゃいないさ」
「…………」 
「だから、元気出してくれよ。そして、雪華綺晶の冤罪を晴らすために、
 一緒に頑張ろう。僕たちの手で、きっと柏葉と雪華綺晶を見付け出すんだ」
「……うん。ありがとう、ジュン」

大好きな人に背中を撫でてもらった事で、凸凹に荒んでいた気持ちが綺麗に均され、
薔薇水晶は、心に希望と勇気を芽吹かせるのだった。



――――どれだけ、眠っていたのだろう。

闇の中で、巴は目を覚ました。
左腕に、雪華綺晶の体温を感じる。彼女は巴の左側に、添い寝していた。
嬲られ、弄ばれた記憶が甦ってきて、身体が火照る。
熱を帯びた巴の頬を、彼女の規則正しい寝息が撫で上げていった。

酷く、暑苦しい。それに、生々しい汗の臭いで、胸が詰まりそうだ。
間断なく続く頭痛が、巴を苛んでいた。

(どうして、いつまでも頭痛が治まらないの?)

疲労による頭痛では、なさそうだった。
では、どういう事だろう。この暑さが原因なのだろうか?

ふと……。
巴は、真夏の体育館で、部活動中に熱中症で倒れた後輩の事を思い出した。
窓は疎か、通気口すらない部屋。締め切られた密閉空間。
この環境ならば、熱中症という可能性は、充分に考えられる。
目眩や頭痛などは、分類Ⅱ度の中等度熱中症の症状だ。
閉じ込められてから、一度も水分補給していなかったのも一因だろう。

(水……飲まなきゃ。それに、体温を……下げないと)

朦朧とする思考で、うろ覚えの対処知識を記憶から引き出して、
巴は応急処置をするべく、簡易ベッドから起き出した。
もう、洗面所の水は錆臭くてイヤだなんて、言っていられない。
このまま症状が進行すれば、体温を調節できなくなって、
多臓器不全を起こしてしまう。対応が遅れれば、それだけ死が近付く。

おぼつかない足取りで進みながら、肌に貼り付いたシャツを脇に放り投げ、
汗で湿ったプリーツスカートを脱ぎ捨てた。
どうせ、こんな真っ暗闇の中では、誰に見咎められるものでもない。
その思いが、巴を大胆な行動に駆り立てていた。
下着を外さなかったのは、僅かに残っていた乙女の恥じらいに過ぎない。

(……確か、こっちの方に扉があったはず)

手探りで壁を探し当てると、巴は壁伝いに移動して、洗面台に辿り着いた。
微かに、血の臭いがする。
雪華綺晶が、髪に付いた血を洗い流していたから、その臭いが、
排水溝から立ち上っているのだろうか? 
それとも、右の肩口に付けられた傷の出血が、臭っているのか……。

水道の蛇口を捻ろうと、右腕を伸ばした途端、巴は鎖骨に激痛を感じた。
胸の上を、粘っこい液体が一筋、つぅ……っと流れ落ちていく感覚。
汗の雫ではない。

巴は顔を顰めて、体勢を入れ替え、左手で蛇口を回した。
ややあって、ばしゃばしゃと水の弾ける音が、闇に轟いた。
聞き慣れていた音が、こんなにも大きく聞こえたのは、初めてかもしれない。

差し出した両手が、水流を捉える。表皮が剥けた箇所が、ジンジンと滲みる。
……が、水の冷たさが、とても気持ちが良かった。
水を掬った両手を口元に運び、巴は冷たい液体を口に含み、飲み干した。

もう、錆臭いなんて言わない。そんな悠長なこと、言っていられない。
これは、生命の水。錬金術で言うところの、エリキサ。
巴は無我夢中で、のどを潤し続けた。


  ~第十回に続く~
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