『貴女のとりこ』 第六回


鮮血が湧き出す左側頭部を上に向け、横たわる雪華綺晶。
見開かれた琥珀色の瞳は、眦から鮮血が流れ込んでも、閉ざされる事がない。
生々しい血の臭いが、死の気配を宿して、ひたひたと押し寄せてくる。


――まるで、壊れた人形みたい。


そんな感想を懐いた途端、胃が激しく躍動した。
巴は口元を押さえて、すぐ側のトイレに駆け寄る。

が、間に合わず、巴の指の間から吐瀉物が溢れて、床を汚した。

「…………うっ……うぇぇっ……けほっ、けほけほっ」

便器の前に屈み込むや、一気に胃の内容物を吐き出し、
喉を灼く胃液に噎せ返った。
息が苦しくて、巴の双眸から、止めどなく涙がこぼれ落ちた。

「どうして……」

こんな事に、なってしまったのだろう。
数日前までは、ちょっと仲が良い顔見知り――それだけの間柄だったのに。

(わたし……きらきーさんを殺した…………この手で、殺しちゃった)

巴の手には、雪華綺晶の頭をデッキブラシで打ち据えた感触が、今も残っていた。
――ぐしゃっ!

生々しい手応え。頭の中に響く、嫌悪を催す殴打音のリフレイン。
胃袋がビクン! と震えて、巴は少しだけ残っていた胃液と、
多量の空気を吐き出した。
覚悟していたとは言え、こんなにもショッキングな事だとは、思ってもみなかった。
早鐘のような脈拍は、依然として、落ち着く素振りを見せない。
鮮血と、酸味の効いた饐えた臭いが入り混じった、不快な空気が鼻を突く。

「酷い臭い……。息が詰まりそう」

そう呟いたけれど、不思議と、巴の耳には他人の声みたいに聞こえていた。
予想だにしなかった展開に対して、現実逃避の気持ちが芽生えていた。

よろよろと立ち上がり、巴は貯水槽のレバーを回して、吐瀉物を流した。
目の前で、汚物が洗い流されていく。
ほんの少し前に、自分が生み出した汚い現実が、綺麗になっていく。


――こんな風に、全て無かった事にしてしまえたら良いのに。


けれど、流れ去った水と同様に、過ぎた時は取り戻せない。
洋式トイレの水が透明に変わったのを見届けて、巴は小さな洗面台に歩み寄り、
汚れた手を洗うために栓を捻った。
少しの間が空いて、蛇口から弱々しい水流が零れてくる。

手を洗ってから、ちょっと口に含んでみると、水は酷く錆臭かった。
とてもではないが、飲めた物ではない。巴は、すぐに吐き出した。

巴は重い足を引きずって簡易ベッドに戻り、身体を横たえた。
ショックのためか、とても気怠い。身体が重い。

(ダメよ、落ち込んでちゃ……なんとか、助かる方法を探さなきゃ)

とは言え、この部屋には窓がない。通気口らしき物すら無い。
自力で逃げ出すには、鉄扉を開くか、壁を壊して脱出路を造るしかない。
どちらも、かなりの労力を要する手段だ。道具も無かった。

咄嗟に、携帯電話が思い浮かんだ。
首尾よく、ジュンに連絡を取れれば、道が開けるかも知れない。
鍵を開けられない以上、僅かでも助かる可能性に、賭けるしかなかった。

「ここが何処なのかは判らないけど、桜田くんなら、きっと――」

半身を起こし、祈るような気持ちで、ジュンの携帯にリダイヤルする。
だが、巴の期待は、すぐに裏切られた。

「……圏外。これじゃあ、連絡の取りようが無いわ」

途方に暮れながらも、巴は気を取り直して、次の行動に移った。
まずは、ヘアピンで鍵を開けられないかを確かめる。
根気よく、三十分ほど試行錯誤を繰り返してみて、やっと判ったことは、
素人にピッキングなんて無理だという現実だけだった。

「もうイヤっ! もうイヤよぉっ!!」

巴はヘアピンを投げ捨てると、憤りに任せて、両手の拳を鉄扉に叩き付けた。

こんな狭くて薄暗い部屋に、死ぬまで閉じ込められているの?
今、灯っている電球が切れてしまえば、此処は暗黒の世界となる。
死者しか居ない、黄泉の国。
楽園だなんて、とんでもない。

闇の中で死に絶え、身体が腐食してゆく様を想像する巴の脳裏に、
伊耶那岐神が、黄泉の国で伊耶那美神の死体を見るという古事記の逸話が浮かんできた。

(もしも…………間に合わなかったら)

此処を訪れた桜田くんに、わたしの変わり果てた姿を見られてしまう。
恥ずかしい身体になってしまった自分を、彼はきっと、忌み嫌うだろう。
もう二度と、好きになってくれないだろう。

一番に想っている人に、永遠に忌避される事を思うと、巴は今にも発狂しそうになった。

「イヤ! イヤ! イヤ! イヤ! 厭! 嫌! イヤあぁぁぁっ!!」

ダン、ダンダン、ダンダンダン、ダンダンダンダンダンダン…………。

滅茶苦茶に鉄扉を叩き続け、叫び続けた。

「助けてっ! 誰でもいいから、わたしの声を聞いて! 誰か、応えてよぉっ!」

叩き付ける拳が腫れ、皮膚が破れて血が滲み出しても、巴は手を止めなかった。
涙に濡れた頬を拭いもせず、渇いた喉から、掠れた声を絞り出していた。

ただ一つの目的――――生き延びる為だけに。

けれど――

どれだけ騒いでも――

どれほど叫んでも――

応える者は皆無だった。
唯一、応えてくれていた者は、巴自身の手で黙らせてしまった。
もう二度と聞きたくなかった声を、もう二度と聞けないと残念に思うのは、
なんとも皮肉で、矛盾した事だった。


鉄扉を叩く間隔が、徐々に開いていき……パッタリと止まる。

「…………痛……い」

興奮が冷めるに従い、腫れ上がった拳の痛みが押し寄せてくる。
血に濡れた両手が、痛い。
叫び続けた喉が、痛い。
そして――頭が痛かった。

心臓が血液を送り出す度に、ズキン、ズキン……と激しく痛む。

(なんとか、此処から出る方法を……)

模索しようと試みるが、間断なく苛んでくる頭痛に阻害されて、思考が纏まらなかった。
吐き気すら覚える、酷い頭痛。小一時間ぐらい、休んだ方が良いのかも知れない。
巴は左手を額に当て、這うようにしてベッドに辿り着くと、重い身体を横たえた。




腕時計が示す時間は、午後七時。
ジュンは応接室の窓越しに、まだ明るい六月中旬の空を眺めながら、
苛立たしげに爪先を踏み鳴らしていた。

雪華綺晶の手紙にあった『夕食までに帰る』という約束は、守られていない。
彼女たちは外出したっきり、連絡の一つも寄越さなかった。
こちらから連絡を取ろうにも、彼女たちの携帯電話には繋がらない。
念のため、巴の家に電話してみたが、彼女はまだ帰宅しておらず、
帰りが遅れる等の連絡も、全く無いと言うことだった。


(どこに行っちゃったんだよ、柏葉)

彼女は今も、雪華綺晶と共に居るのだろうか?
だとしたら、二人は携帯電話の電波が届かない場所で、何をしているのだろう。
ジュンは、思い付く限りの可能性を、模索し始めた。

(圏外って事は……山奥とか、地下街とか……)

二人が二人とも、携帯電話の電源を切っているとは思えなかった。
何らかの目的があって巴を連れ出した雪華綺晶が、そうするなら解る。
だが、雪華綺晶を怖れていた巴が、自ら連絡手段を絶つ筈はない。
夕方近くから、公共機関を用いて山奥に行ったという仮定も、非現実的だ。

(駅ビルの地下街だったら、状況的にも有り得るな)

携帯電話の会社によっては、地下に降りた途端、著しく受信感度が下がる。
仲直りした二人が、地下街の喫茶店で、時の経つのを忘れ、お喋りに興じている姿を、
ジュンは思い浮かべた。
実際、そんな結末であったなら……と、ジュンは願わずにはいられなかった。
窓の外を見遣ったまま、渋面を浮かべる彼の背後に、
パタパタと軽快なスリッパの音が近付いてくる。

「ジュン~。そろそろ、お夕飯の時間だよ~」
「あのさ、薔薇水晶」
「? どうしたの、ジュン。怖い顔してる」

険しい表情で振り返ったジュンに、薔薇水晶は少し怯えた様子で、口ごもった。
胸元で両手を合わせ、指を絡めている。
ジュンを見詰めたまま、どんな話を切り出すのか、不安そうに眉を顰めていた。

「折角、夕食を用意して貰ったのに悪いんだけどさ……僕は、もう帰るよ」
「えっ?! 急に、どうして?」
「これから、駅のショッピングモールに行ってみようと思って」
「お姉ちゃんと、巴ちゃんを探しに?」

薔薇水晶は、頷いて見せるジュンに無理矢理つくった微笑みを向けて歩み寄り、
ジュンの腕に縋り付いて引っ張った。

「でも、今から行ったって、入れ違いになっちゃうよぅ」
「……それは、有り得るけど」
「でしょう? だから、お夕飯を摂りながら、ウチで待っていようよぉ。
 食べ終える頃には、お姉ちゃん達、きっと帰ってくるよ。だから……ね?」

瞳を潤ませて引き留める薔薇水晶の熱心さに、ジュンの心は動かされてしまった。
それに、夕食の支度をしてもらった後ろめたさもあったし、薔薇水晶の意見も尤もだ。
鼻の頭を人差し指で掻きながら「解ったよ」と呟くジュン。
薔薇水晶は無邪気に笑って、ジュンと寄り添いながら、食堂に向かった。


 ~第七回に続く~

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最終更新:2006年10月26日 01:16