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  『貴女のとりこ』 第四回


さらさらの、美しい黒髪。肌理が細かく、すべすべした柔肌。
左眼の下の泣きぼくろは、魅力的なアクセント。
可愛らしい桜色の唇。

地下室の天井から吊り下げられた裸電球が放つ、黄色がかった淡い光が、
巴の姿を幻想的に浮かび上がらせる。

「はふぅ……。なんて魅惑的なのでしょう。この美しさは最早、芸術ですわ」

熱を帯びた溜息を吐きながら、雪華綺晶はベッドに腰を降ろして、
眠っている巴の頬を撫でた。
温かく、柔らかい。

「私は、貴女のとりこ。私の心は、貴女への想いで占められているのですわ」

人が、名画や優れた彫刻を求めるように、雪華綺晶は、巴という芸術を欲した。
人が、名曲や素晴らしい演奏を愛するように、雪華綺晶は、巴の全てを愛した。
容姿は勿論、儚げな声も、真っ直ぐな眼差しも、さり気ない仕種も、健気な性格も。

「柏葉さんだなんて、間怠っこしいですわ。ああ……巴さん。巴! 巴っ!」

この異様な世界が、彼女の精神状態を、より一層、狂わせるのだろうか。
雪華綺晶は両腕で巴の上半身を起こすと、抱き締め、頬を擦り寄せた。

「もっと近くに居たい。もっと触れ合いたい。
 ああ……ダメよ。そんな事をしては、巴が汚れてしまいますわ。
 でも、衝動を抑えきれない。
 この真っ白なキャンバスを、思いっ切り、私の色で汚してしまいたい」

雪華綺晶が、チューリップの蕾を想わせる巴の唇を啄み始めた。
二度、三度――

「……んっ」

四度目に触れ合う直前、巴が、微かに呻く。
長い睫毛が揺れ、徐に開かれる瞼の奥で、澄んだ瞳が輝いた。

「んふ。お気付きになったかしら?」
「っ?!」

目を覚ますなり、至近に雪華綺晶の顔が在るだけでも想定外だと言うのに、
抱き締められていると判って、巴は反射的に両手を突っ張っていた。

「い、イヤぁっ!」

肘で、雪華綺晶の腕を振り解き、自由になった両手で、彼女の身体を突き飛ばす。
跳ねるようにベッドから離れた巴は、一目散に鉄扉に駆け寄り、ノブに指を掛けた。

がちゃっ! がちゃがちゃがちゃ!

だが、開かない。
なんで? どうして? 小声で呟きながら、懸命にノブを回し続ける。
けれど、鉄扉は開かない。
巴は、今にも泣き出しそうになりながらも、虚しい努力を続けた。

「無駄ですわ、巴。その扉には、鍵を掛けておきましたから」

背中に投げ付けられた、冷酷な宣告。
巴は半狂乱になって、雪華綺晶に掴みかかった。

「何故? なんで、こんな事するの? 鍵を開けてよ! ここから出してっ!」

けれど、雪華綺晶は涼しげに微笑み――

「……あらぁ、残念。鍵は、もう開きませんわ」
「ど、どうしてっ!?」
「捨ててしまいましたから」

トイレを指差して「流しちゃったぁ」と、戯けた。

巴の表情が、見る見るうちに青ざめ、恐怖に引き攣ってゆく。
その変化を愉しげに見詰めながら、雪華綺晶は舌なめずりした。

「だから、出られませんよ。私も、巴も。この部屋で、ずぅっと、二人きり。
 くふふふふっ…………愉しい愉しい。ゾクゾクしてきますわ」
「っ! 貴女、おかしいわ。狂ってるわよ!」

雪華綺晶の胸ぐらを掴んでいた手を放して、巴は鉄扉に引き返し、拳を叩きつけた。

「イヤっ! こんなのイヤっ! 助けて、桜田くんっ! 桜田くんっ!!」

鉄扉を叩き、叫び続ける巴の肩を、雪華綺晶は鷲掴みにして引き戻した。
振り返った巴の頬に、雪華綺晶の掌が振り下ろされる。
思いっ切り殴られた巴は、小さな悲鳴を上げて、鉄扉に肩を打ち付けた。

「私の前で、彼の名前を呼ぶことは許しませんわ!」

巴は、撲たれた頬に手を当てて、涙を溜めた瞳で雪華綺晶を睨み付けた。
雪華綺晶の隻眼が、妖しい金色の輝きを増す。
口の端を吊り上げて、ニタ~リと嗤った。

「ねえ、巴ぇ。冷静になって、よぉ~く考えてね」
「冷静になるのは、貴女の方よ! きらきーさん! こんな事、もう止めて!」
「イヤですわ。折角、私と貴女の二人だけになれましたのに。
 ここは、私たちだけの世界なの。他には誰も居ない。邪魔する者は居ない。
 なんて素晴らしく、幸福なんでしょう。まるで、アダムとイブみたい」
「……この、キチガイっ!」

叫んだ巴の頬に、雪華綺晶の張り手が飛んだ。
狭い地下室に、小気味よい破裂音が響く。

「慎みなさい。口汚く罵るなんて真似は、許されざる蛮行ですわ。
 貴女には、理想の乙女であり続けて欲しいの。容姿も、仕種も、全て」
「っ…………」

巴は、覚悟を決めた。助かるためには、雪華綺晶を黙らせるしかない。
彼女を殺して、誰かに聞こえることを祈りながら、扉を叩き続けるしかない。
喉が渇いたらトイレの水を飲んででも、お腹が空いたら雪華綺晶の身体を食べてでも、
生き残るつもりだった。

(桜田くん…………わたし、きっと戻るよ。貴方のところへ)

絶好のチャンスを得るためなら、喜んで、雪華綺晶の慰み物になろう。



「随分と遅いな、柏葉のやつ」

薔薇水晶と雑談をしながら待ち時間を過ごしていたジュンは、
腕時計を一瞥して、ぽつりと呟いた。
この屋敷に来てから、もう小一時間が過ぎようとしている。
幾らなんでも、時間が掛かりすぎだった。

「なあ、薔薇水晶。話に水を注して悪いんだけどさ」
「どうかしたの、ジュン?」
「ちょっと、柏葉の様子を見に行っても良いか?」
「……じゃあ、私も一緒に行く」

雪華綺晶の部屋に入ることになれば、薔薇水晶には居てもらった方が良い。
ジュンは「ああ。案内、頼むよ」と短く答えて、薔薇水晶を促した。


二人は連れ立って階段を昇り、雪華綺晶の部屋を訪れた。
妙に、ひっそりと静まり返っている。ジュンがノックをしてみるが、返事は無い。

「お姉ちゃん? 居ないの?」

扉越しに薔薇水晶が訊ねても、周囲は静まり返ったままだった。
眉間に皺を寄せたジュンと顔を見合わせて、薔薇水晶は、ひとつ頷いた。

「……入るよ?」

言って、薔薇水晶はドアノブを回して、扉を押し開けた。
雪華綺晶も、巴も、どうして返事をしないのか。
理由を確かめるべく立ち入った室内には、誰の姿もなかった。

「おい……柏葉? 雪華綺晶? どこ行ったんだ、あの二人」
「私に訊かれても、分かんないよぉ」

何か二人を探す手懸かりが無いものかと、辺りを見回していたジュンが、
机の上に礼儀正しく置かれている封筒を見付けた。
ジュンは、薔薇水晶の肩を左手で叩き、右手で封筒を指差した。

「薔薇水晶、あれを見てくれ」
「封筒? お姉ちゃんの書き置きかなぁ……読んでみるね」
「頼むよ。僕が、勝手に見るのは拙いだろうから」

真っ白な封筒を手に取り、薔薇水晶の白い指が、三つに折り畳まれた便箋を抜き出す。
琥珀色の瞳が、広げた紙面を左右に走って行く。

「お姉ちゃんは、巴ちゃんと一緒に出かけたみたい」
「なんだって? そんな気配は、全くしなかったよな。あいつら、何処へ?」
「書いてないけど……お夕飯には帰ってくるって」

言って、薔薇水晶が手紙を差し出す。ジュンは、それを手に取って目を通した。
いかにも女性らしい、綺麗な文字が、規則正しく並んでいる。
人の性格は書体にも現れるが、書面から、雪華綺晶の几帳面な性格が見て取れた。

「今は……もう五時か。薔薇水晶の家って、何時くらいに夕食を摂るんだ?」

ジュンが腕時計を見ながら訊くと、薔薇水晶は小首を傾げて「七時くらい」と答えた。

「あと、二時間くらいだな。往復分を考えても、あと一時間は自由に動ける計算か」

それだけの余裕があれば、何処にでも行ける。
無闇やたらと探し回っても、絶対に見付からないだろう。
ジュンは携帯電話を取り出して、巴に電話してみた。

「…………出ないな。圏外みたいだ」
「じゃあ、お姉ちゃんの方は、どうかな?」

薔薇水晶も、ジュンに倣って携帯を操作した。が、直ぐに表情を曇らせる。

「こっちもダメ。繋がらないよぉ」
「参ったな。連絡の取りようが無いんじゃあ、帰ってくるのを待つしかないか」
「ねえ、ジュン。それなら、ウチでお夕飯、食べていかない?
 一緒に、巴ちゃんを待ってようよ」

確かに、それが一番、確実な方法だと思える。
雪華綺晶と巴を二人きりにする事は、かなり不安だけれど、現状では打つ手が無い。
置き手紙を信じて、七時まで待ってみるしかなかった。

「……それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ホント? あはっ♪ やったね」

ジュンの不安など気にも留めずに、薔薇水晶は踊るように、クルッと回って見せた。

「期待しててね、ジュン。私、お夕飯の支度、手伝ってくるから」

笑顔でお礼の言葉を口にしつつも、ジュンの心は曇ったままだった。


 ~第五回に続く~

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