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 ―――ああ。私はまた、此処へやってきたのか。


 ここは白い。白くて、何も無い場所。こんなところに一人で居たら、とてもとても寂し
いことなのだろうけど……私が此処に来たときにだけ逢える子が居る。


 私は……目覚めているときは、多分このことを覚えていないんだと思う。覚醒している
ときの記憶は今もある。だけど『この場所』についての話題を、一度もしたことが無いこ
とを……今の私は、自覚しているから。


 此処にやってくれば思い出す。私が眠っている―――ジュンや"庭師"が、闘っている間。
私はいつも、この白い空間の真っ只中に立ち尽くしているのだ。


 ……


 辺りを見回す。今は誰も居ないけれど、その内やってくる少女もまた、此処に居るから。


『真紅……』


 この子は私と居るとき、不意にがらりと雰囲気を変えることがあるということに、私は
気付いている。いつもは、無邪気な子供。にこにこと笑っているのに……時々ふと、泣き
そうな表情を浮かべて。そんな顔をしたあとは、決まって私の前から姿を消す。


 暫くすると戻ってくるのだけれど、その時はまた……いつもの笑顔に戻っている。


『……』


 そう、今もまた。私の前に姿を現したのは、哀しそうな顔をしている女の子。
 姿形は変わらないと言うのに、纏う雰囲気が全く正反対だと言ってもいい。



『貴女は……此処に居ちゃだめなの……』



 そう言い残して、彼女はまた居なくなってしまった。


 私はその言葉で、少し考えるのだ。……確かに自分はこんな場所で、のんびりと漂って
居る場合では無いのではないか、と。
 だって、私は護られていて……闘うことが、出来ない。私に付き添ってくれている人達
は、きっと命懸けで闘ってくれているというのに。


 だけど、此処に居ると……そんな感情も、すぐに消えていってしまう。だって、この場
所には何も無い。私と彼女の、二人きり。


 私の心の中も、どんどん空っぽになっていって―――思考も意志も、ゆらゆらと漂わせ
たまま、何処かへ流されていきたいと思ってしまう。



 『生きることは、闘うこと』……目覚めているときの私は、そんなことを考えているこ
とを知っている。でも今の私は、それに従っていると言えないのだろう。


 だから、もうひょっとしたら。私は既に生きることを諦めて、案外と死んでしまってい
るのかもしれなかった。何も無いことは、幸せなのだと。そんなことを、頭の片隅に浮か
べながら―――



 気付くと、また眼の前には彼女が居た。そして言うのだ、嬉しそうな表情をして。



『一緒に遊ぼう? 真紅』



 ほら、やっぱり。……一緒に居て欲しいのか、欲しくないのか。
 私にはよくわからないけど。



 今日は何をして遊びましょうか? それともお話がいいかしら?
 貴女は絵を描くのが好きですものね……それに付き合ってあげても、いいのだわ。



 此処は真っ白で何も無くて、私達が望む分だけ必要なものは"現れる"。けれど、そんな
ものは必要最低限のものだけでいい。
 この場所に漂っているときは、とても穏やかな気持ちで居られるから……



 今日も私と、一緒に居てくれるのね? だから私も……此処に居るのだわ。



私がそう言うと、彼女は本当に喜んでくれるから。そんな彼女を見ると、私も嬉しい。



 だって、此処には私達しか居ないから……そうでしょう? 雛苺。



 私が目覚めて、この白い空間に居たことを忘れてしまっても。
 きっとまた私は、此処にやってくる。


 だから―――何も考えなくていい。多分、それでいいんだろう―――




【ゆめまぼろし】最終話 夢幻




「……」


 本当に此処は、何も無いところだと思う。
 ただただ、白い空間が広がっていて……勿論、普段"庭師"の二人と闘っている"世界"に
も、殆ど何も無い。だけど、あそこには翠星石の張った茨や……とにかく誰かしらの『意
志の残滓』のようなものがあるから。そういったもので、"世界"は埋められているのが普
通だ。


 真紅の精神と同調して、この場所にやってきてから、それほど時間は経っていない……
筈。時間の感覚も、酷く曖昧で。気をしっかり保っていないと、この白に呑みこまれてし
まいそうな感覚さえする。


 僕は指輪のついた左手を見つめた。


「……っ!」


 その途端、風に吹かれた蝋燭の炎のように、左手のかたちが揺らめく。
 観念の状態は、もともとかたち無きもの。その状態を今保つためには……力強い意志を
持たなければならない。


 そうだ、僕は真紅を救う為に、此処へやってきた。
 だからまずは、彼女を早く探し出さなければならない。そして、真紅の指輪の"存在"を、
僕が全て引き継ぐ。そうすれば、きっと彼女は自由になれる……!



「……それにしても」


 確かに彼女の存在を感じているというのに……その『存在』のイメージが、酷く脆いよ
うな気がする。


 ……?
 そうだ。なんでもっと早く気付かなかった。真紅の夢の"世界"は、"庭師"が通ったくら
い穴からいける場所。だが、其処に真紅が居ることは無かった。
 どうして? 自分の夢の"世界"には、その夢を見ている主がが居ておかしいという理屈は無い。


 だけど、今まで。そう、恐らくこの『薔薇屋敷』の指輪の主達は……今まで一度も、夢
の"世界"に現れたことがなかったのではないか? そしてそれは、当たり前のことになっ
てしまっていて……誰も口に出すことが無かった。


 "世界"は全て繋がっていると、魔術師の"知"が教えてくれた。よって、恐らく今"庭師"
が戦闘している場所からも、巡り巡れば此処に来ることが出来るだろう。だが、そこに
通じるまでに、どれほどの道を通らなければならないかわからない。


 今、僕は真紅の存在を感じ、この場所に辿りついた。だから彼女は此処に居る。
 だが……これは、真紅の"世界"では無い。
 僕は直接、彼女の心に同化して。最短の道を通り、時々流されそうになりながら……


「ここは……指輪の持つ"世界"なのか」


 指輪の主達は、眠りにつく度にこの場所へやってきていたのかもしれない。


 しかし、僕は知っている。指輪の存在そのものは、――――――


 思考を巡らせていると、……不意に後ろから、何かの気配を感じた。


「……誰だ」


 ゆっくりと、振り返る。そこには一人の少女が、居た。


『……』


 幼い。随分とまた子供子供した奴だ―――こいつは、"異なるもの"か……?
 ならば、……闘うしか、ない。


『……うゅ……』


「……?」


 待て。僕はまだ何もしていない。―――何でいきなり泣きそうになる?
 ちょっと考えてから、僕は口を開いた。


「お前、名前は?」


 取り合えず、その存在を明かしてみようと思った。『名前』は、その存在を意味付ける
為の重要なファクターになる。まあ、嘘をつかれる可能性も無い訳だが……なんだかこう、
そこまで狡賢いようには見えない。
 その仕草すら作戦というのなら……少し恐ろしい。実際、その『存在の在り方』自体は
生半可な"異なるもの"よりも遥かに大きいから。


「ああ、こういうのは先に名乗るべきなのか。……また真紅に怒られそうだな。
 僕は桜田ジュン」


 さあ……どう出る?


『……真紅と、知り合いなの?』


「! 真紅を知ってるのか!? あいつはこの"世界"に居るんだろう、……場所はわかるか!?」


『! ……』


 その途端、ビクッと身体を震わせて、小動物のような怯えを見せる。
 なんなんだ、こいつは……?


 様子を見ていると、ぽつりぽつりと彼女は話し始める。


『ヒナね……ずっと頑張ってきたの。だけど、もう無理なの……ヒナはもう、……』


「……」


『真紅は、ここに居ちゃいけないの。本当に、何もなくなっちゃうの……!』


 そう言うと。ヒナと名乗る少女は、白い空間の遥か彼方……とある方向を、指差した。


『このまま……真っ直ぐなの。ジュンは……指輪を持ってるのね?』


「あ、ああ」


『なら多分……大丈夫なの。早くしないと……!』



 そして。何の音も残さず、少女は消えてしまった。
 どうする。この言葉を信じるならば、僕は真っ直ぐ飛んでいけばいい。


「迷ってる暇は、無さそうだな……」


 僕は少女を信じることにする。このまま彷徨っていても、いつ真紅と出会えるかわかった
もんじゃない。ならば、少しの可能性にかけてみるべきだと判断した。


 腹が決まれば、あとは全速力で向かうのみ。
 そして、彼女の物言い。僕は彼女の存在が何であるかを、理解しかけている。
 実際に眼にしたことはなかったが、多分彼女は……"魔術師"が残した魔法、一つのシステム。



 すぐに消えてしまった―――ということは、システム自体に何かエラーが生じているに
 違いない。



――――――――――――



『どうしたの? 真紅』


 え? いえ……なんでもないのだわ、雛苺。



 少し、ぼんやりとしていたようだ。きょとんとした表情で、雛苺は私の方を見ている。
 そしてすぐに、彼女は自分の作業へと戻った。今日はお絵かきをしているらしい。生憎
何を描いてるのかはちょっと抽象的すぎてわからないが……


『~~♪』


 屈託のない、というのはこの子の為にある表現のようにも思える。私には兄弟や姉妹が
いないから……もし妹が居れば、こんな感じなのだろうか。
 そうすれば、さぞかし楽しい―――


『真紅』


 何かしら、雛苺?


『真紅は、そんなことを考えなくてもいいのよ。私と、ずっと一緒に居るんだから』


 ……そうね、ごめんなさい。



この娘は私が特に何も話さなくても、こうやって時々話しかけてくる。とても不思議な
気分だ。


『うん……ずっと一緒よ。多分もう少しで……』


 随分と、楽しそうなのね。


『楽しいわ、本当に楽しい』


そう言って、彼女はころころと笑った。だが、その笑顔が……一瞬の、かげりを見せる。


『でもね、真紅……私が居なくなっちゃったら、貴女は悲しい?』


 それはきっとそうね。貴女が居なくなったら、私はここで一人ぼっちだし……



 私がそう返すと、雛苺はまた笑った。けどほんの一瞬、今までみたことの無いような光
が、その眼に宿ったような気がして。少しどきりとさせられる。


 ……。何だろう、私はさっき自分で言った言葉に。少しだけ違和感を感じる。
 違和感? それはおかしいじゃないか。私はここに居て……彼女が居なくなったら、私
は一人になる。それは間違いのないことだ。


 そうしてふと、何だか口寂しい気分になった。……? 私はいつも、何かを飲んでいた
ような気もする……のだけど。多分私はそれが大好きで、……それは、何だったろうか。



『真紅は一人だよ……私が居ないと。だから、ね? 一緒に、遊ぼう……?』



 いつの間にか私の眼の前に彼女は立っていた。そして、私の方に手を伸ばしてくる。



『一緒に居て……? 真紅は、ここに居るの。ここが、貴女の還る場所。そうよね?』


 どうして……そんなことを言うの? 『かえる』って……


『はじめから、何も無いのよ。眼を逸らしているわけでもない。気付いていないわけでもないの』


 私は、何かを考えようとしている。だけど、……彼女の言葉のひとつひとつが、どうし
ようも無い真実であるかのような感覚がしている。
 そもそも、私に考えることなどがあろうか?
 その言葉そのものが、私に何か想起させようとしているにも関わらず……どうして?
 何故彼女は、こんなことを私に語りかけるのか。


『くすくすくす……これだけ言っても、もう駄目なのね?』


 ……?


『足掻いているわ。もがいているわ。……本当に、楽しいの。
 楽しいというよりは、可笑しいのかな? それは無駄なことだから。そういう意味では悲しくも
 あるかもしれない……』


 誰が、足掻いているの……?


『貴女とは、"全く関係のない人たち"よ。
 ……"世界"はいつだってそうやって成り立っているし、気付かないことでいっぱいなのよ。


 それでいいの。それははじめから、"無かった"。これで全部"無くしてしまう"……貴女も、私も』


 そして伸ばされた手が――――『私』、に触れた。
 ………………



 …………声、


『…………!』


 なつかしい、声だ、


『…………い………しんく!』


 私はこの声を、どこかできいたことがある、


「――――――真紅! ……」



 おかしい。彼女は言った、『そんなものは、はじめから無かった』――――あなたは、だれ、……?


 私はもう、自分が眼を開けているのかもわからない……だってここには、何も無いの
だから。けど……少しだけわかったのは。
 誰かの叫び声がしたということと、――――この光は、きっとやさしい、ということだった。



『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――』




 そして、ひかりの糸は。多分、私の"身体だったもの"を、包み込んだのだと思った……



――――――――――――――――――――



 ……見つけた!


 確かに、あそこに『居る』。だが……


「……!」


 その場所には、先ほど僕の前に現れた子供しかいない。それに何だか、様子がおかしい。
――――『あれは本当に、さっき逢った奴なのか?』


 そして気付く、違和感。今、奴が手をかざしている先。そこにある、曖昧な空気のもや
のようなもの……


『……貴方だったの。"この娘"がまた無駄なことをしようとしたのね』


「……お前は、誰だ」


『私は、私。……でも、私は私じゃあ、ないのよ。わかる?
 "確かにここに居る、そしてここには居ない"………くすくすくす』


「禅問答をしてる余裕は無いんだけどな。……真紅は、何処だ!」


「"真紅"? くすくすくす。ほら、わからない。ねえ、やっぱり貴女は一人だって言ってるよ?
 気付かれなければ、貴女は一人……」


 ――――ぞくり、とした。今、僕が話している者は、やはり明らかに……さっき逢った奴とは、
違う。
 さっきの子供は、その存在感がはっきりとあり、そしてそれは大きかった。『存在』とは、
それがその場に『在る』為の力。しかしこいつは……


『少しだけ、遊んであげる。私、遊ぶのが大好きなの。ほら……"真紅"は、ここよ?』


 さぁっ、と。奴が両手を広げ、"もや"が散っていった。
 この曖昧な空気のようなもの……まさか。


「大丈夫か、おい、真紅!」


 なんてこと。今の真紅もまた、器を持たない観念の状態になっている。僕ですら失いそうに
なっていた己の形を……彼女が保っていられる筈が無かったということか。


「真紅! お前は、誰よりも自分の意志を強く持っていたんじゃないのか!
 考えるお前が、お前である由縁だと――――自分で言ったんだろう!」



 駄目だ。もう、その魂の色が……希薄になってきている。
 ならば――――僕が、何とかするしかない――――



 

『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――指輪の"世界"に取り込まれし指輪の主、

 その名は"真紅"……失われしかたち、その魂よ。

 我が"旋律"に包まれ、呼び戻されんことを欲す――――――――!』




 左手の指輪より、紡ぎだされる"旋律"。僕はこの力を使う度に思った。
 これは―――僕の存在そのものから、紡ぎだされる糸なのだと。


「くそっ……戻って来い、真紅……!」


 僕が幽霊になってからの存在は、彼女が居たから証明されるものだった。
 何故なら、彼女が僕の存在に意味をつけたから。あの指輪を通じて――――――
 僕があの時の賭けに負けていれば、ただ儚く消えていく運命だったかもしれない。



『……がんばるのね。そうそう、そのまま……』



 織り成す糸は、かたちを作り。そこに漂う残滓を、纏め上げる。
 真紅、お前は――――――――



「うああああああああっ!!」



 ――――――僕が、護る―――――――!



 白い空間を、更に眩しいひかりが包む。そしてその地面に、倒れている……


「―――真紅!」


「……」


 幽霊の僕でも、その身体を抱き上げることが出来た。やはり……実体を持っていない。


「……ジュン……?」


「全く……お前らしくないな。あんなのに呑み込まれるようなやつでもないだろうに」


「……」

 真紅は僕の言葉に、何も返さなかった。だが、一応『僕が僕であること』を認識して
いるようだ。その証拠に、彼女はちゃんと僕の名前を呼んだ。


「うっ……」


 そして。僕の腕の中で、真紅はぽろぽろと涙を零し始める。


「ジュン、私は――――――」


「……」


 その様子をよそに、其処に居た子供が、ぱちぱちと手を叩いた。


『すごいの。……貴方、お父様の力が、使えるのね?』


「……なるほど。お父様って言うってことは、お前が指輪の"存在"か。いや……確かにそ
 れも、正しくないかな」


『……』


「イメージだけを馴染ませても、無駄だ。お前が、そうなんだろう? 姿を現せ」


 僕がそういうと、奴は一層可笑しそうに笑った。


『貴方は、わかっているのね……ジュン。お父様から教えていただいたのかしら。
 でも、だったらどうして……私の邪魔をするの?
 私は、ただ……初めから、無いことにしようとしてるだけなのに』


「なんだと?」


『皆、間違ってたのよ。私は奇跡を起こしたんじゃなくて……色んなものを、
 "何も無かった"ことにしていっただけ。


 奇跡は、生み出されたんじゃないのよ。私が……そこに至るまでの因果の一つ一つを、
 切り取っていったの。ここでは、因果は掻き消される……この"九秒前の白"の中では』


「"九秒前の、白"……」


『私には元々、かたちが無かったから。"この娘"の身体を使わせてもらったわ。
 お父様が送り込んだ観念……指輪の宿主を、守る為の力』


 奴が、眼を瞑る。途端、その身体からひかりが溢れ出して……『全く同じ姿形をした
少女が二人』、この空間に現れた。


『私は"雛苺"。この娘も"雛苺"……』


「―――!?」


『ヒナはヒナよ! 貴女は私じゃない……!』


『あら、"雛苺"。それでも、このかたちをしている間は"私"は"私"。
 ……貴女こそ、何も出来なかったでしょう。無理矢理自分の意志を覚醒させてるときも
 あったみたいだけど。わかってたのよね?もういいでしょう。運命なんてものは――――――』


『……そんなことは、許さないんだからっ!』



 二人の"雛苺"の一人が両手を前に出し……そこに展開される、苺わだちの蔓。それは糸を織り成し、
ひかりの紐を作り上げて。もう一人の"雛苺"へと向かっていった。


 ……が、しかし。


「消える……」


 その糸は。奴の眼の前まで迫り―――しかし、身体には届かず全て掻き消されてしまった。


『貴女の存在……! 貴女のその姿かたち、それは初めから無かったのっ!』


『そうね……だから貴女の姿を借りたのよ、雛苺。私には……何も無い』



 姿は、雛苺のかたちのまま。少女は、不敵に笑った。
 しかし……その笑みは、さっきまでとは。いや、今までもそうだったかもしれない―――
 彼女は、一度も笑ってなどいない。その眼は、少しも楽しそうではないからだ。
 むしろその色には、寂しさと虚ろさが入り混じっていて、その存在そのものがそもそも危うい。


『お父様は……幸せを追い求めて、私を作り上げた。私がここに居るのは、何か意味があると
 思う……?』


 僕は知っている。その、『何者でも無い正体』を。そして僕は伝えなければならない……
 "魔術師"の、意志の残滓を。


「……存在が無いことを、実現してしまった存在。至高の矛盾律……」


 "魔術師"が作り上げた、幸せの観念を紡ぐ指輪。それは世界を滅ぼせるような、そんな
大層な力を持っているのではない。ただ、それに関わる者達の因果の流れを動かしているだけ。
 だけどそれは究極の魔法だった、何故なら……


『そう。お父様は、一つの至高を作ろうとしたけど、そんなものは存在しないの。


 お父様が作ったのは……"ゼロ"。"究極"に限りなく近づくことは出来るけど、究極そのものは
 存在しないことにお父様は気付いた。だからお父様は、"何も無いこと"を実現してしまったの。
 とある少女の観念として、全ての矛盾を孕むもの。……それが私。


 私は因果を切り取る……
 何かに至ろうとする過程、……この指輪の主の初代が、望んだこと。
 成功を求めれば、そこに至るまでに孕んでいた"失敗の可能性"の因果を、悉く切り取っていけば
 いいの』


「……だが、それによって因果は乱れる。お前は一つの"ゼロ"である筈。なら何故、切り取ったもの
 を『別なかたちで現実に反映させた』?


 それこそが、お前の限界なんじゃないのか。どんな因果も、無かったことに出来る筈は無い。
 お前はただ、その順番を入れ替えただけだ。
 消すことの出来なかった不幸の観念……それはそのまま、指輪を受け継いだ一族に還ってきている」


『一つ間違ってる。出来なかったんじゃなくて、しなかったの。この"九秒前の白"の中に、因果
 を留めておくことだって出来るんだもの。それは事実上、無くなってしまったことと同じ。
 ここは、誰にも気付かれない場所だから。


 私は気付かせようとしただけなの……望めば望むだけ、その上が欲しくなる。
 そもそも、幸せや不幸せなんて、……その基準を、誰が決めたの? だけどそんな些細なことで、
 足掻いたりもがいたりしているの。それは見てて面白かったし……そして悲しかった。


 お父様は結局人間に殺されてしまった……でも、それも自業自得なの。私という"ゼロ"を生み出して
 しまったばっかりに。存在の意味すら見当たらない私を。


 初めから、何も無ければいいのに。"普通"すら、そこに"在る"限り、波は立つんだから』


 ……。
 言っていることは正しい気がする……しかし、歪んでいる。ただ、奴から言わせて見れば、
それすら些細なことでしかないのだろう。


『……でも、それもおしまい。私は所詮、"ゼロ"でしかない。矛盾は矛盾の元に還る……
 消さなかった不幸の観念も、もう殆ど滅されてしまった。……とびきり強力な虚像が現れた
 筈なのにね……
 私はもう因果の流れを"無かったこと"にはしないし、この運命の円環は―――閉じる。
 そして私は、それこそ何事もなかったのように消える。私は気付いて欲しかった、ずっと……


 それを叶えてくれたのは貴女よ、真紅』


「私、が……?」


『そう。貴女は、何も無かった筈の私の存在に気付いた……覚えてはいないでしょうけど。
 だけど私にはかたちが無いから……"雛苺"の姿に馴染んだ。そうすれば、貴女とお話出来ると
 思ったから』


「……」


『雛苺、貴女は良いわ。お父様から与えられた使命―――指輪の宿主を護る、ただそれだけを
 していれば良かった。それが正義だったでしょう? 何の疑念も抱かずに』


『う、うゅ……』


 雛苺は少しひるみ、そして口を開く。


『けど……けど! 貴女は、真紅を連れて行こうとしたの! 何も無い世界に……一緒に還ろう
 とした! それはさせないの……だって私は、その為にここにいるんだからっ!


 貴女は嘘をついたじゃない……真紅は、一人ぼっちだって。だけど真紅には、ちゃんと別に
 帰る場所があるの、待ってるひとが、居るのっ!―――貴女は、寂しかったんでしょっ!?』



『……っ! 無駄よ、雛苺。ゼロはもう、一点に収束し始める。私は因果の流れを変えない、
 だから私はこのまま消えてなくなる……別に全ての世界が終わらなくても十分。私はその程度
 のものだから、それでいいの。


 だけどそれだと、私は本当に一人ぼっち。雛苺、貴女も随分頑張ったけど……これは決めら
 れたことなのよ? 運命は変わらない。"存在の終わり"は引き起こされる。何処でも無い
 場所、この"九秒前の白"からそれは伝達される……
 指輪に関わったものを全て、無くしてしまう。そうすれば、気付かない。


 ……それが一番うつくしいでしょう?』



 ―――そうか。それが、指輪に囚われるということ。それは『呑みこまれてその一部になる』
のではなくて、……その存在の在り方そのものが、消されてしまうということなのか……


 誰が正しいのか。確かに、指輪そのものが無ければ、こういう因果の流れは起きなかった筈。
それは"魔術師"の……今は僕の存在が、元は引き起こしてしまったこと。
 "魔術師"は、指輪を生み出した時点で一つの間違いを犯した。『何も無い存在』である、一人の
少女の観念。それを生み出したときに、たったひとつ必要だったものを、彼は伝えていない―――



「―――因果の流れを変えられなくても。運命を変えることに、特別な力は必要ない」


『……?』


「一度廻り始めてしまった運命の上に、確かに生きている人間が居る。
 それは、それだけで生きていい理由になるんだ……確かに、自分を脅かすものには、抗いたい。
 そして出来るなら、自分達が幸せだと思う生活を送っていきたい。
 お前からすれば勝手なことかもしれないけど……それが人間なんだ。


 さっき雛苺も言った。真紅もまた、指輪の運命に巻き込まれて……それでも、待ってるひと
 が居る。その一人一人が、皆意志を持った存在―――誇れる、もの。


 意味の無い"個"は存在しない、だから……そのまま消させる訳には、いかない」


『……貴方も結局、私一人がそのまま存在を終わらせればいい、って言うのね。だけどそれ
 は無理よ。だってもう、時間は無いから――――――』


「―――!?」


 突如。白い空間は、激しい揺れを見せ始めた。
 何も無い空間に、黒いヒビが入り始めて――――――


『終わるわ。……そうよ、私は寂しいの。何も無くなるのが……真紅だけ連れて行こうと
 思ったけど、貴方達も道連れね。全て、夢幻の彼方……


 悪夢だって、其処には無いわ。怨念に脅かされることだって無い』


 少女は……泣いていた。生み出されてしまったひとつの"ゼロ"は、その意志を以て泣いて
いる。
 ……僕は思う。少女は指輪を巡る中心に居ながら、しかし自身が『何者でも無い』ことを
理解していた。それはどんなに、辛いことだったのだろう? ―――


 揺れはおさまらない。入り始めたヒビはどんどん広がっていき―――果てしなく続いて
いた頭上の空間から、壊れたビルのように岩が落ちてくる―――



 全てが終わる前に。たったひとつ、僕が言われなければならないことは……



「"魔術師"の伝言だ。お前に伝えなければならないこと―――」


『……何? 今更何を言われたって、どうしようもならないの』


「……お前は、『何も無い』ひとつの存在だった。だけど、お前の存在には意味があったん
 だよ。


 だって、お前には名前があるんだ。それは――――――」




――――――――――――――――――




「あ、ああ……」


 ジュンがここにやってきてから。私がずっと雛苺だと思っていた少女と対峙してから、
どれほどの時間が経っただろうか。きっとそんなに時は流れていないのだろう―――
でも。私はその間、殆ど言葉を発することが出来なかった。


 彼が今、少女に告げた一つの『名前』。それを聞いてから、彼女は膝から崩れ落ちて
しまって、動かない。彼女は自分の存在に意味が無いと言っていた……けれど、名前が
あった。それは命そのものを、この世界に現す言葉……



 そして今、この空間が崩れ始めている。"存在の終わり"―――私は、何も出来なかった。
ただ、護られているだけで。こんな私こそ、消えてなくなった方が良いのかもしれない。


 だってそうすれば、皆苦しまなくても済む――――――


「真紅」


「……え?」


「また馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな。お前がここで消えちゃったら、僕らの
 苦労は台無しだぞ。全くらしくないったら、ないな」


「……」


「お前は、僕が護る。それは前にも約束しただろ。だから……その、指輪の存在。
 それを最後に、僕に渡してくれ。……それで、全て終わる」



 そんな、そんな。だってジュンは幽霊だけど、今も生きていて……



「嫌、嫌なの、もう! 私の為に誰かが苦しむのは……! どうしてジュンがそれを
 引き継がなきゃいけないのっ!」


 泣き叫ぶ。そんなことしたって、どうしようもならないこと位、わかっているのに。


「……さあ、どうしてだろうな。ひょっとしたらこれが夢かなんかで、目覚めたら
 いつもの日常が始まって……なんていったら、随分といい話かもしれないな。


 だけどそれは、もう今の僕らにとっては幻なんだ。


 僕が望んだことは……真紅、お前の運命を変えること。変えられた因果は、誰かが
 請け負わなきゃいけない……
 指輪を受け継ぐには、お前が僕に『指輪を渡す』という意志が必要だ。……頼む、真紅」



 どうして彼は、こんなに穏やかな顔をしているのだろう。それに比べて私は、もう
涙が流れすぎて酷い顔になっているに違いない。



 私は思う。何故彼らは、こんなにも私を守ろうとしてくれるのか。確かに、"庭師"達が
所属する組織―――其処にいる人たちは、何かしらの義務感を担ってそれを遂行しようと
してくれているのかもしれない。
 それでも。翠星石や蒼星石、それに金糸雀やみっちゃん―――彼女達は、私に本当に真
摯に接してくれて。そんな存在に、私は何を応えるべきなのだろうか……
 運命。特別な力を持ち、悪夢に囚われた存在を助ける者達。これが運命と言うのならば、
もし神が存在したとして―――何故、そのような因果を彼らにもたらしたのだろう。


 そして、ジュンは……? 彼は幽霊で。いや、実際は生きているようだけど―――私を
護るために、ずっと傍に居てくれた。
 彼という存在を、私は失いたくない。


 穏やかな表情を浮かべているジュン。貴方は、自分の運命を……どのように、感じてい
るの? ジュン、貴方は……とても、強い。この"世界"に囚われてしまって、闘うことを
諦めようとしてしまった私なんかよりも、ずっと。


 私がずっと駄々を捏ねていたところで……彼はずっと、待ち続けるのだろう。この、
残り僅かな時間。私を救う為に、私の決断を待って―――


「……私が決断しなければ、外の世界に居る皆も消えてしまう。……そうなのね?」


「……ああ。多分そうなるな。そういう意味じゃ、多分僕は随分酷いことを言ってる。
 お前に全てを託そうとしてるんだから。


 けど、僕はお前を救いたいんだ。それが僕の、存在の意味だから……」


―――全てを救うことは出来ないと。頭の中に直接、ジュンの声が響いたような気がした。
私は、……決意しなければならない。


「ジュン……約束して。貴方も必ず、無事でいること……それだけで……いいから……」


 私がそう言うと、彼はやはり。穏やかに微笑んで、言った。


「ああ。紅茶の葉を用意しとけよ。とびっきりのを淹れてやるさ」


 その声は、あまりにも涼やかに。この空間を静かに震わせる……。


 私は、ジュンの左手の指輪に―――口付ける。
 その瞬間。パァッ、と指輪から眩しい光が溢れ出た。


「……っ!」


 熱い。自分の左手の薬指の――――


「指輪、が……」


 ずっと、私を戒めていた薔薇の指輪。それが無くなっていた。そして指輪は、ジュンの
左手の薬指に―――はめられている。
 気付くと私の身体は、徐々にその色を失いつつあった。どうして、私は―――


「お前はもう、指輪の運命の輪からは外れたんだ。
 ここから居なくなるのは……お前が多分、目覚めようとしているせいだろう。


 大丈夫、目覚めたら……全部、終わってるよ」


 そんな。私はまだ、話したいことが一杯あって―――
 身体が消えていくにつれて、その思考も曖昧になっていく。
 待って、待って……



「―――じゃあな、真紅」



 私が最後に聞いたのは……そんな、彼の別れの言葉だった。




―――――――――――――




「……さて、と」


 崩れ落ちる空間に残された僕と、"雛苺"の姿をした少女が二人。


「これで僕が指輪を継承した訳なんだけどな。あとはここから……」


『……どうするつもり? 確かに真紅は助かったかもしれないけど、私がここに
 居る限りは"存在の終わり"は止まらないのよ』


「―――お前が消える場所を、変える。全ての観念の終わる街があるんだ。
 別にお前は神様じゃない……あの空間は、そう簡単には壊れないさ。
 ……それに、消えるのはお前一人じゃない。僕もついてってやるよ」


『ヒナもついていくのよ。今はジュンに指輪がついてるんだから。
 けど、真紅は本当に大丈夫……なの……?』


 雛苺は心配そうに言う。ずっと指輪の主を守り続けてきたのだ、気にかかるの
は当然のことだろう。僕は彼女の頭に手を置いて言った。


「大丈夫さ。お前はよくやったよ……じゃあ、とりあえず行くか。もう時間がなさそうだ」


 僕は少女の手を握り、自分の『肉体』が置いてある場所―――"虚ろなる街"へ
通じている"旋律"の紐を辿り飛び始める。



 "旋律"を辿り猛スピードで飛びながら、僕は少しだけ考えていた。


 真紅、お前とは。もっと普通のかたちで、逢いたかったかもしれないな―――




―――――――――――――――




 ……


 久しぶりにやってくる、"虚ろなる街"。
 僕の指輪に関わる運命は、思えばここから始まったのかもしれない。


「はは、まだ崩れたまんまだ……あの建物」


 最初に水銀燈と邂逅したときに、いきなり放たれた"黒い羽根"によって瓦礫と化した
建物は、まだそこにあった。


『ジュン……』


 手を握ったまま、話しかけてくる彼女。


「なんだよ」


『本当に、良いの? 私と一緒に居なくなっちゃっても』


「一人で寂しかったんだろ? 僕も付き合う」


『でも……それだとジュンは、真紅との約束を守れないじゃない。
 約束を破る男は、嫌われちゃうよ?』


 ……くそ。ここで茶化す余裕があるなら、大したもんだ。
 まあ、約束を破ってしまうことになるのは事実だけれど―――


「―――ああ。僕はまだ生きてるけど、肉体の方がもう余命僅かなんだ。
 そんなに長くは生きられない―――


 それに。僕がお前と一緒に"居なくなれば"、僕も外の世界には最初から存在しなかった
 ことになる。思い出して、悲しまれることもないよ。


 ところで雛苺―――お前は僕に付き合う必要は無いぞ。あそこに放っておく訳にもいか
 なかったから連れてきたけど……」


『うぃ……けど、此処に居てもヒナはお外には出られないの。だったらジュンについていく
 の……』


『……』


 そんな雛苺の言葉を聞いて、同じかたちをした少女は何も答えない。"九秒前の白"は今頃
完全に崩れてしまっただろうけど、そこを抜けさえすれば……彼女には今、『名前』がある
から。たとえ観念の存在であるとして、まだ少し余裕はあるようだった。


 消えてしまうっていうのは、どれほどの恐怖なのかな。いや、それすらも無かったこと
になるし……きっと怖いのは、消えてしまうまでの空白の時間。


 『何も無いことは、うつくしい』と。彼女はそう言っていた。それが、何も無い真っ白
な空間の中で……長い長い間ずっと独りでいた彼女の出した、一つの答え。


 "魔術師"の誤算は……彼の作り上げた一つの魔法が、意志を宿るまでに至ってしまった
こと。もっとも、それ故"雛苺"という護る存在も実現することが出来た訳だが……結局
それにも、"魔術師"自身の命を使ってしまう結果となった。それはやはり、奇跡の代償だ
ったのか。


 不思議なほど、今の僕のこころは静かに凪いでいる。
 僕は真紅を……その存在を、世界に残すことが出来た。


 だから―――もう、いいんだ。
 何も無いことを存在させてしまった、矛盾の奇跡。
 僕はその責任を、取らなければいけないんだろうな……


 ……?
 そんなことを考えていると。胸の辺りが、熱くなってくる。


「……なん、だ……?」


 幽霊である自分の身体で、鼓動が鳴り響いているとしたら。早鐘を打ちすぎて、息も
まともに出来ないくらいだろうと思うほど―――


 そして、僕の胸から―――ひとつの輝く塊が、幾重にも重なった光の輪に包まれて
飛び出してきた。これは……石……?


 その輝く石は、僕達の前に静止し……やがてひとの形を成し始める。


『お父様……!』『お父様なのー!』


 驚いた表情でそのひとのかたちを見る少女。
 ―――お父様、とは。こいつが、"魔術師"ということか―――


『私も居るわよぉ、ジュン』


 声と共に、大きな黒い翼を広げて降り立つ人影。


「……水銀燈!? 何でお前がここに……消えちゃったんじゃなかったのか!?」


『あらぁ。貴方のことが心配だったから、ずっと見ててあげてたのにぃ。
 私はお父様と一緒に居るのよ? 全部見届けるまでは、消えられないわよぉ』


 茶目っ気たっぷりな様子で笑う彼女。―――こんなキャラだったか?
 こいつは……思わず額に手をやる。居るんなら手伝ってくれよ……


『まぁまぁ……それよりもねぇ。私が伝えたいのは、お父様の意志……
 これはお父様のかたちをしているけど、直接語りかけることは出来ないから』


「……」


 納得いかないが、とりあえず耳を傾けることにしようか。


『……ジュン、貴方の下した決断は、その娘と一緒に消えることだったみたいねぇ』


「ああ、そうだよ……こいつ独りじゃ、寂しいじゃないか」


『ほんとにもう……貴方はまだ生きてるんだから……本当、優しすぎるほど優しい
 のねえ、貴方は。


 だけど……お父様は、それを望まない。もう既に、ジュンの身体からお父様の
 魂は離れたの。だから、その娘を連れて"居なくなる"のは……お父様自身だって、
 言ってるわぁ。


 けれど勘違いしないで……生きるというのは、それだけで辛いことに遭遇する
 可能性を孕むのよぉ。


 その上でお父様は、その存在を残せと言っているの』


「……!」


 ……だけど、僕には指輪があるし、その存在を背負う限りは――――――


「―――あれ?」



 指輪が、無かった。代わりに、"魔術師"の左手の薬指に―――それは、つけられている。


「これで満足なのか? お前は……」


 "魔術師"は、少し悲しそうな眼をしてこちらを見ている。
 もうどれほど謝罪をしても仕切れないと―――そんな声が、僕の頭の中に響いた気がした。


 そして。口を開けないと言っていた筈の彼が、僅かに唇を動かす。



『―――――おいで、"アリス"』



 紡がれた、言葉。何も無い存在を実現した、一人の少女の名前を―――


 少女は"父"の元にかけよる。"魔術師"は雛苺の方も向き、その名前を呼ぼうとしたの
だろうが……それを"アリス"が制止する。
 そして彼女は、僕たちに語りかけた。


『ありがとう、ジュン。貴方が私と一緒に居なくなってくれるって言ったとき―――
 嬉しかった。私がこんな存在じゃなくて、普通の女の子だったら……良かったのにね。


 あと―――雛苺』


『うぃ……?』


『真紅がね……中身は私だったけど、貴女みたいな妹が居たら楽しいだろうって……そう
 思っていたのよ。貴女はその願いを……私の代わりに、叶えてくれないかしら。
 普通の身体を持って、普通の生活を送っていくの。私にはもう、それをする資格も無い
 から。私自身が消えてしまう運命は、もう変わらない。


 貴女は、真紅と一緒に居たいでしょう……?』


 
 言われて、何処か戸惑いの素振りを雛苺は見せる。当然のことだろう。いきなりそんな
ことを言われても、彼女はまだ子供だ。


『雛苺、この娘が言ってることは……決していいことばかりではないわぁ。それはさっき
 私がジュンに言ったのと同じこと……


 けれど私も、貴女と言う存在が、消えてしまう必要は無いと思うの。この娘が消えて
 しまったら、指輪そのものに関わる全てが"無かった"ことになるだろうけど。
 貴女がこの娘の意志を継いで……外の世界に実現するのなら、きっと忘れることは
 無いでしょうね。


 忘れ形見って言うと縁起でもないけど……それを残したいのねぇ。そうよね、"アリス"?』


 水銀燈に言われ、少女は小さく、頷いた。


『うゅ……わかったの。ヒナ、貴女のこと……忘れないから……』


 雛苺はそう言って、涙を零す。"アリス"もまた、泣いていた。そして彼女は、恐らくは
この"世界"で使う、最後の力を解き放った。因果を無かったことに……いや、その流れを
入れ替える歪みの力を。それは、多分最初で最後の。『彼女自身の願い』を叶えるもの―――


『……!』


 輝く、ひかり。それに包まれて、雛苺の身体もまた……この"虚ろなる街"から消えていく。
外の世界へと、還っていったのだろう。


「―――あ、」


 そして気付くと、僕の右手には、……薔薇の紋様はあしらわれていなかったものの。
シンプルな銀の指輪が、はめられていた。


『ジュンにも、私からプレゼント……私のこと、忘れないでね』


「また物騒なものを……しかもわざわざ右手か……まあいいか。ありがたく貰っとく。
 ……忘れないよ、保障はしないけど」


 僕がそういうと、彼女は綻んだような笑顔を見せる。―――ああ、この娘は。その存在に
意味が無いなんてことはない。だって、こんなに嬉しそうな顔をして笑えるのなら……



『さて、私もお父様達についていくから……今度こそお別れよぉ、ジュン』


「水銀燈……」


 はにかんだような笑顔で、彼女は僕に何かを差し出した。
 僕が始めてあったとき、"黒き天使"だと感じる象徴になった―――黒い羽根の、一枚を。


『私達は、これから"居なくなる"―――だけど、確かに私達は存在して……それは今、この
 娘が言った通りねぇ。知識はお父様のものだったけど、貴方は勇敢に闘い、そして護り抜いたの。


 ありがとう、ジュン……その羽根は、私達と、貴方の……存在の、証……』



 三人が、消えていく。光に包まれて。それに触れると、彼らの身体は光の砂になって
散っていく。


『ジュン。真紅に、伝えておいて―――貴女に逢えて、良かったって。本当に、
 楽しかったから……』


 最後に少女は、僕にそう言い残す。三人の姿が完全に掻き消えてしまう間際、僕は"魔術師"と
眼があった。


 そして僕は、最後にこう言ってやる。



「いつか生まれ変わったら……今度は間違うなよ、"魔術師"……いや、」



――――――ローゼン……



 その言葉は、この"虚ろなる街"に小さく響いて。彼らの存在は……『無くなった』。



「……」


 彼らが居なくなってしまったあと、僕は指輪のつけられた右手で……黒い羽根を持ち、
それを見つめる。


 彼らの存在は、"終わってしまった"。けれど……指輪に関わった者達の記憶。変えられ
てしまった因果の流れ。そういったものを含めて、僕は今も覚えている。きっと外の世界
に居る人たちもそうだろう……


 案外と、彼らのことだから。消えたと見せかけて、また何処かで僕らのことを見守って
いるのかもしれない―――そんなことも、考える。


 真紅は無事に目覚めただろうか。雛苺は、どうだろう。……きっと、大丈夫だよな。


 そして、ふと。後ろからひとの気配がした。


「……」


「……薔薇水晶……」


 そこに居たのは、"虚ろなる街"を展開してやってきた、薔薇水晶だった。


「大分時間かかっちゃったけど……全部、終わったよ。外の世界は、どうだ……?」


「うん……大丈夫。皆頑張ったよ。真紅も目覚めたし……あと、雛苺っていう娘も居たよ」


 そうか、良かった。僕はほっと胸を撫で下ろし、そして今度は、これからの自分のこと
を考えた。


「さて……本当にありがとな、薔薇水晶。これからじゃあ、"アメジスト"を抜いて元の
 身体に戻って―――」


「ジュン」


「ん?」


「ジュンは……ずっと幽霊のままで居ることは出来ないのかな。だって、元の身体に還っ
 ても……ジュンは……」


 うん……まあ、それはそうだ。幽霊になっている今は意識していないけど、僕がこの
状態になる直前などは本当に肺が苦しくて大変だった。喀血は茶飯事のこと、ひとと逢
っているときはなるべく楽な状態の時を選んで……
 そんな状態に、僕はこれから戻ることになる。


 普通に寿命で死んだ場合、僕の存在はどうなってしまうのだろう。
 またこんな風に、幽霊になってふらふら彷徨うことが出来るのだろうか。


 そんなことも少しだけ考えるが、多分それは無理なのだろうとも思う。通常の因果の
流れとして死んでしまったのなら、きっと魂はこの世にかたちを残すことが出来ない。
 僕は、水銀燈やあるいは"魔術師"のように、この世に魂を留まらせ続けるような強い意
志を……きっと死ぬ間際には、持っていないに違いない。


「……っ……馬鹿だよ……ジュン、は……」


 薔薇水晶が、涙を零している。僕はその涙に、なんと応えれば良いのだろうか。
 ……僕は、このままの状態でいるわけにはいかない……


「死ぬ運命がわかっていても、僕は僕だ。他の何者でも無い。逃げることも出来ない。
 だから……終わってしまうときが来るまで、僕は生きるよ。これが、僕の意志なんだ」


 彼女はまだ泣き止まないが、これが僕の言える全て。
 消えてしまった三人の分まで、という訳でもないけれど……
 桜田ジュンという存在は、まだ終わっていないから。


 真紅との約束もあるしな。とびっきりの紅茶を淹れないと、それこそ彼女は納得
してくれないだろう―――



 そして、とある崩れかけた建物の中に横たわっている、僕の実の身体。その胸に突き刺さ
っている薔薇水晶の"アメジスト"が―――引き抜かれる。


「……」



 曖昧になり始める意識。
 きっと彼女は、薔薇屋敷へ。そして僕は僕のあるべき場所へ、還るのだろう―――




――――――――――――



「う……」


 目覚める。其処には、大勢のひとが居た。私は床に倒れている状態から、上半身だけ身
を起こした。


「真紅っ! 大丈夫ですかっ!」


「翠星石……私は――――――」


「……終わったみたいだね、真紅。ほら、左手を見て……」


 蒼星石に促され、私は左手を見た。そこには指輪が、……無い。


「……」


 私は、薔薇の指輪の戒めを解かれた。だけど……


「うっ……」


 ぽろぽろと、零れ落ちる涙。私は皆に、何て言えば良いのだろう。
 こんなに護って貰って、私は――――――


「真紅……あの、ところでですねぇ」


「―――え?」


「真紅にくっついて寝てるその娘……誰です?」


 すると。私の腰の辺りにひっつかまって眠っている少女が一人。


「……この娘は、雛苺と言うの。今まで私を―――いえ、指輪の主を護り続けてきた娘。
 今度は私が……この娘を、護るのだわ」


 私は目覚める直前、少女の声を聞いた。


『この娘を―――護ってあげて……』


 それは私があの真っ白い世界で聞いていた、雛苺の声だったけれど。きっとその意志は
指輪の存在であった少女のものであろうと薄々感じていた。


 すやすやと眠っている雛苺の髪を、そっと撫ぜる。


 この娘は、あの少女の……意志の残滓。
 けど、この現実世界で……生きていくこと自体が、この娘にはきっと厳しいことだ。


 姿形は、普通の女の子で。あの不思議な力は、まだ残っているのだろうか。
 もう、それも必要ないものだけど……この娘は、ずっと私達を、護り続けてきたのだから。
 これからは、ゆっくりとした時を過ごして欲しい。



 私は、白い空間であった出来事を、皆に話す。
 もう早くも、その記憶は断片的なものになってきていたけど……それでも、思い出せる限り。


 私は、ジュンと約束をした。だから彼は……きっと無事でいてくれる。
 そんなものは、希望的観測だってことはわかってる。私がまだ指輪をつけていたのなら、
彼の無事を一心に願ったに違いない。だけどそれは、もう出来ないから……



 飛び切りの紅茶の葉を用意して、私は待とうと思う。彼が、ここへやって来るのを―――




――――――――――――
 




 私が指輪の戒めを解かれてから、二週間が経とうとしていた。


 六月の―――雨。梅雨もいい加減あけて良いような頃合だと言うのに、空は昨晩から
相も変わらず涙を零し続けていて、泣き止む様子が全く見られない。
 庭にある薔薇にとっては、もう十分なくらい水分が蓄えられていることだろう。


 "庭師"の姉妹は、もうここに住み込むことはやめて……それでもあれからもう四・五
回は、庭の薔薇を手入れするために館を訪れている。私が寂しがってないか、という配
慮であるらしいことを蒼星石から聞いた。


 もっともそれを真っ先に言い出したのは姉の翠星石で、私がそのことを知ったあとは
彼女を宥めるのが大変だった。そういう気遣いを人に知られるのは、翠星石にとっては
非常に恥ずかしいことであるらしい。


 ただ、その配慮は。私にとっては、とても嬉しいことだった。"庭師"もまた薔薇屋敷
の主を護り続ける運命から解放され、今は別なところでの仕事を待っている状態らしい
けど……


 雛苺は、館に一緒に住んでいる。なんだか妹が出来たみたいで……彼女の明るさには、
随分と救われている。随分と懐いてくれているし、とても可愛いと思う。


 彼女はかなりアウトドア派だ。雨が降っているというのに、今日も傘を差して遊びに
いってしまった。なんでも、私を護ってくれた組織に居る―――巴という娘がお気に入り
のようで、ちょくちょく顔を出しているらしい。


 雛苺はずっと孤独だった筈だから。楽しいときを過ごしてくれれば、それを越すものは
ないと思う。ひょっとしたら、彼女は肉体を持っていても……普通の人間としてのそれと
は異なる成長をするかもしれない。寿命一つとっても、そう。


 彼女自身は、私よりも何倍も長く『生きている』ことになる。だけど、その中身は……
驚くくらい子供で。だから私が、保護者として、また姉として。彼女の成長を見守ってい
くのだ。たとえ、私が先に死んでしまったとしても――――――


 もう私は外には自由に出られる身だけど、そんな状態になっても私はあまり外出という
ものをしていない。その辺りが、私と雛苺の違うところ。


 傘もささずに出かけてみようか、という誘惑も無い訳でもないけれど。今日もやっぱり、
自分の部屋で本を読み、そのうち巴と一緒にここへやってくるであろう彼女を、待ってい
るのだ。



―――そして。私が館をあまり出ない理由の一つは……




「ジュン、紅茶を淹れて頂戴」



 彼がいつここにやってきてもいいように、待っているから。
 こうやって独りで居るときは。もうここには居ないとわかっている存在に、語りかける。


「ジュン?」


 あたかも、其処にいるかのように。そうすれば、ひょっこりとまた、顔を出してくれる
ような気がして――――――


「ジュン、出てきなさい―――早くしないと、怒るのだわ」


 わかっている、わかっているのだ。


 
 だけど。何故だか今日は、いつにも増して、感傷的な気分になって。


 空がずっと泣き続けているように……私の両目からも、涙が零れ落ちる。



「……っ、今日、は……何処から、出てくるの? ……床? ……それ、ともっ、……天、井?」



――――――なんだよ、真紅―――――――



 姿はおろか。声すら、返ってこない。


「いつもの様に―――あの頃みたいに、出てきて、頂戴……早く、早くするのだわ」


 私は、ジュンの存在の消失など……微塵も望んだ訳がない。
 だけど結果的に―――彼に、指輪を託してしまったから。
 だからこれは……私の望んだ、結末だったということになる……



 新しい紅茶の葉も、用意してあるのよ。とても良い香りがするの―――


「ジュン」


 私は、呟く。そしてまた思い出すのだ、彼の言葉を……



『今の僕らにとっては、幻なんだ――――――』



 私は……弱い。両手を顔に当てて、私はずっと泣き続けていた。




 雨はまだ……やみそうに、無い。




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