―弥生の頃 その3―
翠×雛の『マターリ歳時記』―弥生の頃 その3― 【3月6日 啓蟄】その日の仕事を終えて、翠星石と雛苺が、着替えをしていた時のこと。「ねえねえ、翠ちゃん。啓蟄って、どんな意味があるの?」と、雛苺が訊ねてきた。よもや雛苺から暦に関する質問をされるとは思っていなかったので、暫しの間、翠星石は口を閉ざし、考え込んでしまった。「なんです? 藪から棒に」「さっき、カレンダーを見たらね、書いてあったのよー。 何かのお祭りかなって、思ったの」「ああ……なるほど、ですぅ」雛苺らしいと言えば、彼女らしい。お祭り大好きな性分は、昔から変わっていなかった。「それなら、特別に教えてやるです。耳の穴かっぽじって、良~く聞きやがれです」「うぃー。了解なのっ」「良いですか。啓蟄とは……」「ふむふむ」啓蟄。それは、冬眠していた動物たちが目を覚ます頃……を意味する。翠星石も、それは知っていた。――が、ここで悪い癖が、うずうずと疼きだした。「啓蟄とは二十四節気のひとつで、冬眠していた動物たちが目を覚ます頃を 差しているのです。 今日は一年の無病息災を祈願して、冬眠から目覚めたばかりのヒキガエルを――」黒焼きにして食う。と言いかけて、翠星石はモノを想像して吐き気を催してしまい、口ごもった。串に刺したカエルの姿焼き……。「ヒキガエルさんを、どうするの?」「い、いや……勘違いです。なんでもねぇです」「うゅ? 翠ちゃん、なんだか、お顔が青ざめてるのよ?」「心配いらないですぅ。ちょっとした立ち眩みなのです」不安げに眉根を寄せる雛苺に、翠星石は弱々しく微笑み返した。自爆するとは情けない。雛苺は、がっくりと項垂れる翠星石の様子に只ならぬモノを感じたらしい。気分転換になればと考えたのか、やおら話題を振ってきた。「ねえねえ。翠ちゃんは、どんな動物が好き?」「私は、どんな動物でも好きですよ。犬でも、猫でも、タヌキでも、ですぅ」「ホントに? じゃあじゃあ――」雛苺は、そこで辺りをキョロキョロと見回した。そして、自分たち以外、誰も居ないのを確かめてから……翠星石に、こそこそっと耳打ちした。「あのね。これから、時間……ある?」「な、なんです? 内緒話なんて、気色悪いです。ハッキリ言うです」耳をくすぐる雛苺の吐息が煩わしくて、翠星石はサッ……と身を引いた。その拍子に、開け放してあったロッカーの扉に、ばぁん! と後頭部をぶつけてしまった。翠星石の瞳から、じわりと涙が滲み出す。しかし、そんな衝撃が霞んでしまうほどショッキングな台詞が、雛苺の唇から紡ぎ出された。「じゃあ、ハッキリ言うの。翠ちゃん。 この後、ヒナと一緒に…………ニャンニャンしない?」「にゃ……にゃんにゃ――――っ?!?!」なにやら、いかがわしい感じがして、翠星石は赤面してしまった。そして、徐に雛苺の両頬を摘んで、むに――っ! と左右に引っ張った。「ふしだらなコトを言うのは、この口ですかーっ!」「ひ、ひひゃいひひゃい!」「よぉ~く反省するです。私を淫らな行為に誘うだなんて……許せねぇです!」言って、翠星石が手を放す。雛苺は赤くなった頬を両手でさすりながら、涙目で翠星石を睨み付けた。「翠ちゃん、酷いのぉ。猫さんを見に行くのが、そんなに悪いことなの?」「はぁ? ちょ……じゃあ、ニャンニャンって――」なんとも紛らわしい言い方をしてくれるものだ。翠星石は、安堵と諦念の入り交じった溜息を、ひとつ吐いた。雛苺に連れられて、訪れたのは、彼女の家から程近い空き地だった。辺りはもう、すっかり暗くなっている。この時期はまだ、日が暮れてしまうと、気温が急速に低下していく。二人の吐息も、仄かに白く染まって、冷たい風に流されていった。「こんな所に連れてきて、野良猫でも見せる気です?」「うん。子猫なのよ。とっても可愛いのー」「そりゃまあ、犬でも猫でもタヌキでも、小さいときは可愛いもんですぅ」翠星石の言葉を受けて、雛苺は不思議そうな眼差しを、彼女に向けた。「……どうしてタヌキに拘るのー?」「え? なんとなく、音感が良いからです。深い意味なんてねぇです」「うぃー。あ! 居た居た。翠ちゃん、見て見てなのー」「どれどれ……おぉー。確かに、愛嬌のある顔してやがるですぅ」小さな段ボール箱の中で、一匹の仔猫が丸くなっていた。側には、牛乳の入った器が置かれている。近所の誰かが、あげたのだろう。しかし、何か妙だ。翠星石は、不自然な気配を感じ取っていた。「猫は一度に数匹の子供を産む筈なのに、一匹だけとは、どういうコトです?」「……可哀想に、他の子は死んじゃったの」「この季節じゃあ、寒さに負けてしまうのも、無理ねぇです」「違うのよ」雛苺は、悲しそうに頚を振った。「この子の兄妹と、お母さんはね、車に轢かれちゃったの」翠星石は、なるほど……と、納得した。それで、こんな小さな仔猫が、たった一匹で寒さに堪えていたのだ。「おいで、なの~」雛苺は仔猫に話しかけて、手を差し出した。しかし、仔猫は反応を見せない。丸まったまま、じっとしていた。お腹が規則的に上下しているので、死んではいないと判る。「眠ってるですか?」「いつもは、すぐに出てくるのよー」「ふぅん? 撫でてみれば、目を覚ますかも、ですぅ」言って、翠星石は指の背で、仔猫の頭を撫でてみた。だが、僅かに耳を動かすだけで、目を閉じたまま、起き出す気配がない。「なんか、様子が変ですっ。病気かも知れねぇですよ!」「?! ど、どうしよう。どうしよう、翠ちゃん!」「狼狽えるなです。とにかく、動物病院に連れてってみるです」翠星石は即座に、首に巻いていたマフラーで仔猫を包み込むと、両手で抱きかかえて走り出した。たかが野良猫一匹と、人は言うかも知れない。でも、いま手を差し伸べてあげなければ、この子は死んでしまうだろう。自然の掟だと言って、突き放すことは容易い。けれど、死ぬと解っていながら見殺しにする事なんて、翠星石には出来なかった。動物病院で点滴と注射をしてもらうと、仔猫はすぐに、元気を取り戻した。だいぶ衰弱していたらしい。しかし、今はしっかりと目を開いて、時折、可愛らしい声で鳴いている。「さっき気付いたですけど、この子、オッドアイだったですね」「そうなの。それで、翠ちゃんに見せてあげたかったのよー」仔猫は翠星石の腕に抱かれながら、青と金の瞳で、彼女の顔を見上げていた。交通事故で、親兄弟を失った子供――それは、ずっと以前に、翠星石が経験した悲しみだった。自分には、蒼星石が居てくれた。でも、この子には……。「決めたですっ!」「うょ?」いきなり大声を出したものだから、雛苺と仔猫が、ビクンと身体を震わせた。「な、なにを決めたなのー?」「暫くの間、こいつの面倒は家で見てやるですぅ」「ええっ!? 良いの?」「ったりめぇです。ここで投げ出したら、意味ねぇですよ」翠星石がそう告げると、雛苺は心底、安心したように胸を撫で下ろした。本当は、雛苺が面倒を見たかったのだろうが、彼女の家はペットの飼育が禁じられている。もしかしたら、雛苺は翠星石に仔猫の面倒を見てもらいたくて、誘ったのかも知れない。でも、翠星石には、どうでも良かった。似た者同士の仔猫が助かるのならば、それだけで、満足だった……。
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