―弥生の頃―
翠×雛の『マターリ歳時記』―弥生の頃― 【3月3日 上巳】 前編世間一般に、雛祭りと呼ばれる日の朝、翠星石はパジャマの上に半纏を引っかけ、ノートパソコンを起動していた。今日は金曜日。大学は春休みなのだが、バイトに行かなければならない筈である。けれど、翠星石は落ち着き払って、電子メールの確認などしていた。階下から、祖母の「起きなさ~い、翠星石~」という声が届いた。そう言えば……と思い出して、翠星石は席を立ち、ドアを少しだけ開けた。顔を覗かせると、階段の下で、祖母が見上げていた。「何してるの? お仕事に、遅れるわよ?」「言い忘れてたです。今日は、バイトが振り替え休暇になったですぅ」「振り替え?」「先週の土曜日に、休日出勤したですよね」「ああ! そうだったわね。じゃあ、今日はお休みなのね?」「だから、そう言ってるですぅ」若者と老人の会話は、少しばかり、時間と意志の疎通に差異が生じる。毎日、会話しているから慣れているとは言え、翠星石は痺れを切らして、扉を閉めてしまった。廊下から流れ込んでくる冷気で、足の先が、痛いくらいに冷え切っていた。「あぁ、もう。こうなりゃベッドに潜り込んで、ネットするですぅ」手軽に持ち運べるのが、ノートパソコンの利点だ。生憎、ベッドの近くにコンセントは無かったが、バッテリーで充分に事足りる。LANケーブルの長さだけ気にしながら、翠星石は枕元にパソコンを置くと、ベッドに潜り込んで肘を突き、背を反らせた。「んん~。ぬくぬく……ですぅ」準備は万端。タッチパッドでカーソルを操作して、電子メールの着信を調べた。一通、蒼星石から届いている。履歴を見ると、翠星石が床に就いた後、昨夜遅くに着信した事が解った。「今日は、どんなメールの内容ですかねぇ。wktkですぅ」逸る気持ちを抑えて、ファイルを開く。内容は、蒼星石の近況と、桃の節句にちなんだ画像ファイルが貼り付けてあった。「桃の花……そこはかとなく、意味深ですね」桃の花言葉は『天下無敵』『チャーミング』『あなたのとりこ』だ。最初の天下無敵はともかく、後ろの二つは、非常に気になるところだった。「蒼星石は、私を魅力的だと想ってくれてるです? それとも……」 『姉さん。ボクは、姉さんのとりこ――だよ?』「イ、イヤです、蒼星石ぃ~。なに言いやがるですか~」脳内で蒼星石の音声を合成して、翠星石はベッドの中で身悶えした。一頻り悶絶して、ファイルを閉じようとした時、翠星石は添付ファイルが有ることに気付いた。「? なんですか、これは?」ファイル名は“Triffids.jpg”――画像ファイルである。「トリフィド? ははぁん。この前の悪戯に、仕返ししようって魂胆ですね。 大方、私を怖がらせようとして、グロ画像でも貼り付けてあるです」バレバレですぅ、と得意げに呟き、翠星石はファイルを閉じ……ようとして、ちょっと考えた。今なら外も明るいし、グロ画像と言っても、そんなに気持ち悪くならないだろう。それに、怖いモノ見てみた~い、という厄介な好奇心が、頭を擡げ始めていた。「ちょっとだけ……ちょっとだけです。怖かったら、直ぐに消してやるです」添付ファイルをダウンロード。生唾を呑み込み、アイコンをクリックすると――「!? はぅあっ! こここ、これはっ!?」液晶ディスプレイに表示された画像は、ティランジアみたいな観葉植物のクローズアップ写真と、蒼星石のバストアップ写真を合成したものだった。下着姿の蒼星石が、巨大な植物の蔓に絡み付かれている様な構図だ。僅かに眉を顰めた蒼星石の顔が、やけに艶めかしく、エッチな表情に見えた。 【姉さん、事件です。ボク、トリフィドに襲われちゃったよ♪】そんなメッセージが、添え書きされている。「ば、バカですか、蒼星石はっ! こんな合成写真、も……も、萌える、ですぅ」顔が熱を帯びていくのを感じながら、蒼星石の半裸を凝視しようと、身を乗り出した次の瞬間、ノートパソコンのキーボード部分に、深紅の薔薇が咲いた。ぽた……ぽたぽた……ぽたっ「はわわわわわっ……はは、鼻血でたですぅ!」慌ててティッシュを取ろうとして、翠星石はベッドから転げ落ちてしまった。その騒ぎを聞き付けたらしく、祖母が階段を駆け昇ってきて、ノックもせずに扉を開けた。「どうしたのっ、翠星石っ!」「お、おばば……なんでもな――!!」祖母の視線が、ベッド上のパソコンに釘付けとなっているのを見て、翠星石は慌てて、ノートパソコンを閉じた。その際に、思いっ切り指を挟んでしまったが、痛みを堪えて、作り笑いを浮かべる。「翠星石…………今のは……」「な、なんでもねぇですっ。ただの、映画のポスターですぅ」「そ、そうなの? って、大変! 鼻血が出ているじゃないの!」「あ……忘れてたです」「パジャマ、早く脱ぎなさい! 洗濯しなきゃあ」祖母に促されて、翠星石は鼻にティッシュを詰めてから、パジャマを脱ぎ始めた。朝からドタバタしたせいで、すっかり目が冴えてしまった。もっとも、二度寝するつもりは毛頭なかったので、あまり問題も無いけれど。翠星石は着替えを済ませると、ちょっと遅めの朝食を摂った。洗面所で歯を磨き、自室に引き上げようと、電話の前を通り過ぎたとき、その瞬間を見計らったかの様に、電話がけたたましく鳴り出した。「ひぇっ! な、なんです。電話のクセに、脅かすなですっ」悪態を吐きながらも、翠星石は受話器を取って、もしもし……と応じた。受話器の向こうから届くハイテンションな声が、翠星石の鼓膜を刺激する。翠星石は反射的に、受話器を遠ざけていた。「翠ちゃん、おはようなのー!」耳から二十センチは離れているというのに聞こえる、雛苺の声。そう言えば、今日は三月三日。五節句の一つ、上巳である。またの名を雛の節句、桃の節句とも言う。「あー、おバカ苺? もうちょっと、静かに話すです。声が大きすぎですぅ」「うょ……ごめんなさいなの」「別に、謝る必要はねぇですよ。それより、今日は、どうしたです?」「今日は雛祭りなのー! それで、翠ちゃんを招待しようと思ったのよー!」静かに話すように諭した側から、このテンション……。翠星石は、キーンと高周波な耳鳴りを堪えながら、受話器に向かって話しかけた。「わ~かったです。直ぐに行くですよ」それだけ告げて、受話器を置いた。耳鳴りが、まだ治まらない。自宅と一体化した時計店の開店準備をしていた祖父母に、出かけてくる旨を伝えて、翠星石は、雛苺の家に向かった。雛苺の家では、毎年、盛大な雛祭りが執り行われる。愛娘に贈る、両親の心づくしであるのは疑いない。けれど、翠星石には『普段、あまり構ってあげられない事への罪滅ぼし……』という性格が感じられる行事でもあった。見かけは盛大でも、中身が空虚な……まるで、過剰包装のお中元みたいな、寂しいお祭り。雛苺という主賓は居ても、両親という主催者が不在では、楽しい祭典になる筈がなかった。だから、翠星石は勿論、真紅や水銀燈、その他の友人たちも含めた賓客が主催者になって、毎年、いろいろとアイデアを出し合っていた。「今年は、真紅がホスト役になってるですね。どんな催しを考えたのやら」去年の雛祭り――薔薇水晶がホストで、コスプレパーティーとなった記憶が、まざまざと思い出される。くじ引きで、アッガイの着ぐるみを着せられ、屈辱的な写真まで撮られたのは、青春の1ページに記された、苦い経験。まあ、ファンタジックで肌の露出度が高い衣装の蒼星石を見られたから、結果的には満足だったのだけれど……。「真紅だったら、妙なコトにはならねぇハズですぅ」とは思うのだが、真紅も時々、ウケを狙いすぎた事を、やらかしてくれる。さてさて、どうなる事やら。翠星石が雛苺の家に到着した頃には、既に主立った面々が、勢揃いしていた。「今年も、みんな来てくれて、本当にありがとうなのっ!」雛苺の開会の言葉で、宴は始まる。ジュースで乾杯の後、ホスト役の真紅が、立ち上がった。「えぇと。それでは……私こと真紅が、今年の進行役を――」「前置きは良いから、さくさく始めるかしらー」「うるさいわねっ! 話には枕があるのだわ」「……ヒナも、早くして欲しいの」「ま、まあ……主賓がそう言うなら、前置きは割愛するわ。 と言うワケで、早速、みんなで『レッツ! 利き茶』としゃれ込むのだわ!」その一言で、座は一気に興醒めした。この、紅茶バカ一代――口には出さないが、誰の顔にも、そんな想いが、ありありと現れていた。このまま終了? そんな空気が漂い始めた時、救いの女神が降臨した。「えぇ~。そんなの、つまんなぁい。 どうせならぁ、みんなで甘酒を作って、甘酒コンテストをしましょうよぉ」「銀ちゃん、ナイス! それで、いくかしら!」「面白そうですぅ。おばば直伝の甘酒、とくと味わってもらうです」「薔薇しぃ。私たちも頑張りましょうね」「……ラプラス秘伝の……どぶろく」意気揚々と台所に向かう、面々。独り、ぽつねんと取り残される真紅。「ちょっ! 貴女たち、待ちなさいっ!」それから、なんやかや賑やかに、甘酒造りは行われて……。一時間後、全員の前に、各人の名前が書かれた七つの紙コップが置かれていた。中身は勿論、ほかほかと湯気の立ち上る甘酒。――の筈なのだが、妙な色をしているものも、一つ、二つ。「それでは、甘酒コンテストを開始するのだわ。 こけら落としは、私の甘酒よ。さあ、じっくりと堪能しなさい」言われて、全員が真紅と書かれた紙コップを手に取り、くいっ……と呷る。直後、誰もが珍妙な顔になった。「なぁに、これぇ……変な味がするわぁ」「薫り付けに、ダージリンを混ぜたのだわ」「…………真紅、失格」「薔薇しぃの言う通りですぅ。こんなの、甘酒じゃねぇですっ」「し…………失……格? そんな……ことって」跪いて、どーん! と意気消沈した真紅に代わり、金糸雀が立ち上がる。「次は、カナの番かしら。最強にして、妙なるハーモニー、味わってもらうかしらー」「……うぇ。酷ぇ臭いですっ! なんですか、これは」「ショウガだけでなく、ニンニク、麻黄、唐辛子などの生薬を、ふんだんに――」「…………金糸雀、問! 題! 外!」「ですわね。ドクターペッパーの方が、よっぽどマシですわ」「も……問題外?! みっちゃんに習ったとおりに……作ったのに」哀れ、金糸雀も轟沈。けれど、乙女たちの宴は、まだ続くのだった。
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