でも、願わくは、あと一度。もう一目だけ――
感情を知らなかった私に、人の心の温もりを教えてくれた不思議な人。そして、白髪紅眼に生まれた異形の私を、一人の女性として扱ってくれた、始めてのヒト。”貴女の銀髪は流れる様で、とてもとても綺麗だと思いますよ。”私の髪をそっと梳いて、お世辞でも同情でも無く、心の底からそう言ってくれた。切っ掛けはふとした出来事。近所の公園で、引っ掛けて破いてしまった私の服を、たまたま通りかかった貴方が繕ってくれた。其の指の紡ぎ出す旋律はまるで魔法のようで。私は思わず見愡れてしまったのを覚えている。”手芸は趣味ですから。いつも持ち歩いてるんです。”お礼を言う私に、貴方はそう言って照れくさそうに笑っていたっけ。私的な用で会ったことは一度もなかったけれど。貴方が基地に滞在している間、自分でも気付かない内に貴方に会うのが一つの楽しみになっていた。軍人の癖して、其の身に纏う雰囲気はどこか柔らかく、精悍とは程遠くて。男の癖にどちらかと言えば貧弱で、恥ずかしがり屋で。でも、嘘のつけない誠実さと、時折覗く芯の強さに、きっと私は惹かれていた。脳裏に浮かんだ愛しい人は、泣いている様だった。――私の為に、泣いてくれるの?答えは無かった。幻影に身を委ね、一切の思考を放棄してしまいたい衝動にかられたが、鍛え上げられた戦闘機乗りとしての本能は、容易にそれを許してはくれない。冷徹な戦士としてのもう一人の自分が、眼前に迫る死を冷ややかに見つめている。
束の間の幕間劇はこれでお終い。終わりの時が近付いているもの。神様、ありがとう。最期に素敵な夢を見させてくれて。でも、願わくは、あと一度。もう一目だけ――「櫻田中尉、もう一目だけ、貴方に――」最早叶うはずもない願い。それでも、そう願わずにはいられなかった。次の瞬間、頭を殴られたような衝撃が走り、彼女の意識はそこで途切れた。
「うーーーーー。」胸にしがみついた娘が、半分涙目になりながら上目遣いに見上げてくる。やはり、こんな小さい子に今の話は少し刺激が強すぎたか。「ごめんなさいねぇ。いつかは話そうと思ってた事だけど、貴女には少し早すぎたかしら。」よしよし、と頭を撫でてやりながらそう言うと、娘がぷう、と頬を膨らませながらもぞもぞと顔を出して来た。「ひな、子供じゃないもん。 だから、おとなのおはなしだって、わかるもん。でも……。」「でも?」「そのひと、しんじゃったんでしょ? たくさんうたれて、しんじゃったんでしょ?」半泣きになりながら必死に尋ねてくる。――ああそうか、娘に私の話だって言うの、忘れてたっけ。苦笑しつつ、違うわぁ、と否定しようとした時、娘は何か大きな発見でもしたように「あ」と叫び、たちまち顔色がパッと明るくなった。「おかあさんが、そんなによくしってるの。だからたぶん、そのひと、いきてるのよ。」何か良く分からないが、彼女なりの理論で納得したらしい。そうねぇ、と答えつつ、はみ出した肩に再び布団をかけてやる。それが私の事だと話してやるのは、もう少し後でもいいだろう。
そんな事を考えながら指の腹で娘の髪を梳いてやる。流れるように綺麗な髪。あの人が誉めてくれた私の髪を、きっと受け継いでいるのだろう。娘は、暫く心地よさそうに身を任せていたが、ふと思い付いたようにあ、でも、と言って、と再び顔を曇らせた。「のってたひと、しんじゃったんでしょ?」娘の言う『のってたひと』が、私が撃墜した敵の二機の事を指すのだと気付くのに、少し時間が掛かった。この優しさと心遣いは、あの人に似たのだろうか。「そうね。」そう答えた後、そっと娘を抱き寄せ、誰に言うとも無しに呟く。「喰うか喰われるかの極限状態で、私が銃口を向け、殺して来たものは、 ”敵”であり、”敵機”であって、そこに『人間』という意識は存在しようがなかったわ。 ただ、燃え上がる敵愾心に突き動かされるように引き金を引き、 ただ、生き残る為に、此の手を血に染めて、我武者羅に戦って来た……。」でも、此の子には人を思い遣る心を忘れないで欲しい。「そうね、貴女はとても優しい子。」そう言いながらそっと頭を撫でてやると、娘は嬉しそうに、えへへ、と笑った。「さあ、お話の続きはまた明日。今日はもう寝ましょうね。」
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