~第三十九章~
~第三十九章~ 水銀燈の剣技は、技術、腕力とも、蒼星石に勝るとも劣らない。直に剣を交えることで、巴は痛切に感じた。油断のならない相手だ。ここに真紅や雪華綺晶まで割り込んできたら、流石に、独りでは手に負えない。有利な内に、さっさとケリを着けるべきだった。――どんなに卑怯な手段に訴えようとも。 (わたしは、必ず勝つ! そして、今度こそ――)愛する人と、命の灯火が消えるその日まで、添い遂げるのだ。赤の他人によって人生の幕を無理矢理に降ろされる事は、もうイヤ。水銀燈の握力を奪うべく、強烈な斬撃を見舞うものの、彼女は苦痛の色も見せない。刀身の厚味が、かなりの震動を吸収するのだろうか。それとも、本当は痺れているのに、痩せ我慢をしているのか。どちらであれ、このままでは埒が開かない。巴は一旦、大きく飛び退くと、左手の指を銜えて口笛を吹いた。途端、謁見の間に弓足軽の一団が踏み込んできた。素早く展開して矢を番え、弦を引き絞る。その矢が狙うは水銀燈ではなく、重傷で身動きの取れない雪華綺晶と……彼女に付き添い、怪我の状態を調べる真紅の方だった。 「……卑劣ねぇ。真剣勝負の途中で、普通、そういうコトするぅ?」 「勝った者が正しい。それが世の常。卑怯も下劣もないわ。 弱者は強者にねじ伏せられ、醜く穢れていくだけ。生者必滅よ」巴は剣を構え直した。水銀燈に冥鳴を起動する暇を与えないつもりだろう。真紅は雪華綺晶を庇い、弓足軽の前に立ち塞がった。彼女なら、法理衣と圧鎧に護られている上に、縁辺流という迎撃手段もある。弓足軽くらい、縁辺流が放つ聖なる光によって駆逐できる。自分の内に宿る雛苺に指示を出すため、真紅は束の間、瞑想に入った。しかし、それこそ巴が目論んだとおりの展開。待ち侘びていた好機だった。 「かかったわね、真紅っ!」身動きを止めた真紅を狙って、巴が龍の鉤爪を放つ。龍の鉤爪には、精霊の力など無いに等しい。真紅が二重の防御装甲精霊に護られていようが、一撃で致命傷を負わせる。だが、巴と真紅の間に、一陣の風の如く飛び込む人影がひとつ。龍の鉤爪が放たれる直前、水銀燈は巴の真意を見抜いて、疾駆していたのだ。彼女は自分の得物を盾代わりにして、龍の鉤爪を受け流した。 「見え見えなのよ、おばかさぁん」 「馬鹿なのは、貴女の方かも知れないわよ?」巴は酷薄な笑みを浮かべて、もう一度、龍の鉤爪を放った。時を同じくして、弓足軽が一斉に、真紅と雪華綺晶に矢を射かける。先の一撃は、真紅の前面に水銀燈を誘導するため。今度の一撃は、必中を狙った攻撃。 「くぅっ!? まだ縁辺流は起動できないの、真紅っ!」敵の狙いは、あくまで真紅だ。真紅を背後に匿った水銀燈は、その場から身動きが取れなくなってしまった。自分が躱せば、龍の鉤爪は真紅を引き裂く。真紅は、まだ縁辺流を起動する気配を見せない。矢だけでも落とさないと、真紅はまだしも、雪華綺晶が矢の雨に打たれてしまう。 「こうなったら――」迫り来る龍の鉤爪に背を向けて、水銀燈は飛来する矢の雨に、冥鳴を放った。 真紅たちが激戦を続ける一方で、蒼星石はジュンの心を呼び戻すべく、斬り合いながらも懸命に呼びかけていた。けれど、義仲の意志は流石に強いらしく、一向にジュンが目覚める気配が無い。 (やっぱり、もうダメなの?)胸をよぎる一抹の不安が、見る間に大きな影となって、蒼星石が抱いていた一縷の希望を覆い隠していく。 (ボクは……キミを斬りたくないんだ)蒼星石の苦悩など、義仲の知ったことではない。無慈悲、無遠慮な斬撃を、彼女めがけて打ち込んでくる。霊剣『魂蝕』の刃を受け止める度に、零れた穢れが蒼星石に降りかかり、彼女の身を、心を、じわじわと蝕んでいった。 「どうした? 無駄口を叩くばかりで、手も足も出ないではないか」積極的な攻撃を渋る蒼星石に、義仲の嘲笑が浴びせられた。明らかに挑発している。だが、そんな安っぽい挑発に熱くなるほど、蒼星石は未熟ではない。徐々に蝕まれていくのを覚悟で刃を交え、ジュンの心に呼びかけ続けた。 「お願い、ジュンっ! もう目を覚ましてよ!」 「ふ……女々しいな。剣の腕は優れていても、所詮は甘ったれた小娘か」 「お願いだから、ボクに、キミを斬らせないで!」噛み合わない、二人の言葉。想いが届かないもどかしさが、蒼星石の憤りを憎悪へと変貌させていく。こんなに想っているのに――やめて、と頼んでいるのに――どうして、目を覚ましてくれないの? なんで、解ってくれないの?ボクを忘れて、巴なんかと仲良くするなんてっ! (ジュンのバカっ! バカっ! 馬鹿っ! 莫迦ぁっ!)蒼星石の身体にまとわり付いていた穢れが、黒々とした陽炎となって、彼女の背後から立ち上り始めた。泣きたい気持ちを押し退け、抑え難い破壊の衝動が、深淵より湧き上がってくる。こんな現実は認めたくない! 受け入れたくない!目を瞑って、最初から無かった事にしてしまいたかった。――ならば、どうする?蒼星石の頭に、問い掛けてくる女の声。それは、自問の声だったかも知れない。或いは、悪意を吹き込む鈴鹿御前の囁きだったのかも知れない。聞き流さねばならない。実際、そうすべきだった。けれど、冷静さを欠いた今の蒼星石は、的確な判断を下せなかった。穢れの声に耳を傾け、答えてしまった。 (これだけ言っても解らないなら……やっぱり別人なんだね。 ならば、出来の悪い模造品は壊さなきゃ。紛らわしい偽物なんて、必要ないよ!)蒼星石の剣が、煉獄の業火を纏う。ジュン――木曽義仲を見詰める緋翠の瞳は、見る者全てを石に変えるかと思えるほどの妖気を宿していた。しかし、流石に征夷大将軍を拝命した男だけあって、義仲は気圧されなかった。ばかりか、愉快そうに笑ったほどだ。 「ようやく、本気になったか。勿体ぶってくれたものだな」 「……キミを壊す」感情の籠もっていない声で、蒼星石は言い放った。突進して、真上から剣を振り下ろす。その斬撃を受け止めた義仲の剣が、ジリジリと爆ぜるような音を立てた。皇剣『霊蝕』が放っている穢れが、煉飛火に焼かれている音だった。 「なんだとっ?! くっ! まさか……これほどとは」 「死んじゃえ! ジュンの紛い物なんか、消えてなくなってしまえ!」 「ぐ、う……」蒼星石は、常人を遥かに凌駕する力で、燃え立つ刃を義仲へと押し込んでくる。炎に照らし出された彼女の目は、今や狂気を宿して、妖しく濡れていた。穢れを奪われ続けたためか、義仲は急激な脱力感に襲われた。蒼星石の剣を押し返そうにも、脚に力が入らず、踏ん張れない。両の膝が、ガクガクと震えだした。勝利を確信する蒼星石の口元が、不気味に歪んだ。彼女の身体からは、義仲をも上回る穢れの波動が発せられている。蒼星石が、更に力を込めて押してくると、義仲は堪らず、片膝を折った。 「お、のれぇ――」 「あははっ! もうすぐ……あと少しで、キミを――」緋翠の瞳を爛々と煌めかせて、蒼星石は、ねっとりと舌なめずりをした。剣を支える義仲の両腕までが、小刻みに震え始める。これ以上は、支え切れそうもない。じわりじわりと近付いてくる炎に炙られて、彼の前髪がジリッと焦げた。しかし、このまま安易に死んでやるつもりなど、毛頭ない。ましてや、こんな小娘に斬られる事は、彼の自尊心が許さなかった。 「なめるなよ、小娘がぁっ!」義仲は吼えて、蒼星石の剣を押し戻した。が、片膝立ちの姿勢は変わらない。所詮は一時凌ぎに過ぎず、燃え盛る剣は、再び押し込まれてきた。二人が発散する穢れの波動が、広い謁見の間に、ひたひたと充満していく。そんな、ギスギスした重苦しい空気を切り裂いて、 「何やってるですか、蒼星石ぃっ!」悲痛な叫びが、謁見の間に響き渡った。満身創痍でありながらも、全力で妹の元に駆け寄る翠星石の叫びだった。彼女は疾駆した勢いそのままに、跳び蹴りをかました。鍔迫り合いをしていた蒼星石に、躱す余裕など無い。真横から直撃を食らって、蒼星石は息を詰まらせながら、床に倒れ込んだ。 「この、バカちんっ! お前が、穢れに心を支配されてどうするですか!」 「ね……姉さん」 「真紅も、銀ちゃんも――みんな、辛い想いをしてきたですっ! それでも、みんなは運命を呪ったり、現実から目を背けたりはしなかったですよ! なのに、蒼星石は何ですか! 目的を忘れて、あろう事かジュンを殺そうとするなんて!」蒼星石は、自分が何をしていたのかを思い出して、愕然とした。危うく、取り返しの付かない事をしてしまうところだった。姉が――翠星石が止めてくれなかったと思うと、心底ゾッとする。だが、蒼星石が礼を言うより早く、それは起こった。 「ひぁっ!」体勢を立て直した義仲が、素早い動作で翠星石を後ろ手に捻り上げて、彼女の細頚に剣を宛っていた。 「姉さんっ!」 「ふ……形勢逆転、だな」 「ジュンっ! お前も、さっさと目を覚ましやがれですっ。 蒼星石の声は聞こえてる筈です! なのに、なぜ応えねぇですか! 思い出すですよ。お前は、こんな卑怯な真似する奴じゃねぇですっ」 「こっちもまた、ピーピーと威勢が良い小娘だな」苦笑しつつ、翠星石の右腕を更に捻り上げると、彼女は小さな悲鳴を発した。やや前屈みになった拍子に、頚が刃に触れて、糸のような傷をつけた。 「だが、姉妹揃って、口の利き方を知らないようだ」 「やめろっ! 姉さんを放せっ!」 「放して欲しくば、先にする事があるのではないか?」義仲の言う『先にする事』の意味を、蒼星石は鋭く察した。煉飛火を格納して、剣を義仲の方へと投げ捨てた。 「ばっ……バカ、バカっ! なにしてやがるですっ!」 「姉さんを助けるには、これしか……ないんだ」 「こいつはまだ、ジュンじゃねぇですよ。 そんな口約束を律儀に守ると思ってるですか! お人好しもいい加減にしやがれです」 「どうするかは、ボクが決めることだよ。 これで姉さんを救えるのなら、躊躇ったりしない」 「蒼星石……」翠星石には、蒼星石の気持ちが、痛いほどよく解った。何故なら、自分もまた、同じ考えだったのだから。蒼星石の立場に居たら、きっと、妹と同じことをしたから。今までだって、蒼星石を護るために、進んで自らの身体を盾にしてきた。それこそ、枚挙に暇がないくらいに。 「ふふん。聞き分けが良いな。者共、であえっ!」翠星石を人質としたまま、義仲が号令をかけた。丸腰となった蒼星石など、近衛兵に始末させるつもりだろう。このまま手も足も出せずに、蒼星石が殺される場面を見なければならないのか。 (そんなのイヤですっ。蒼星石は絶対に殺させないですよ。私の命に替えても)イザとなれば、睡鳥夢を起動するだけだ。外の敵が城内に入ってきてしまうが、その時は、その時。蒼星石を死なせるよりは、遥かにマシだった。だが、待てど暮らせど、近衛兵は現れない。義仲は眉を顰め、再度、怒鳴った。そして、姿を見せたのは―― 「そんなに大声を出したって、手下は誰一人、来やしないかしら」 「なんたって、俺たちが全てブッ倒しちまったからな」氷鹿蹟を引き連れた金糸雀と、汗まみれの上半身を露出させたベジータだった。忍びの機動力を活かす為、翠星石を先行させて、城内の敵を駆逐していたのだ。 「遅くなったから心配してたけれど、どうやら間に合ったかしら」 「らしいな。よお……お前が鬼祖軍団の親玉か」金糸雀は短筒を、ベジータはトンファーで、翠星石を盾に取る義仲を指差した。 「お前も武人なら、正々堂々と一騎打ちしちゃあどうだ」 「それとも、まともに闘えば蒼ちゃんには敵わないかしら?」 「……なんだと?」二人の言葉が、義仲の自尊心を傷付けたのだろうか。彼は右の眉を吊り上げ、あからさまな不快感を示した。先程、あわやと言うところまで圧されていただけに、心中、穏やかでなかったのだろう。 「よかろう。ならば…………返してやろうではないかっ!」義仲は蒼星石に向けて、翠星石の背中を思いっ切り突き飛ばした。蹌踉めき、倒れ込む翠星石を正面から抱き留めた蒼星石は、姉の肩越しに、腰溜めに剣を構えて突進してくる義仲の姿を認めて戦慄した。この体勢では、避けようがない。 「姉妹仲良く、串刺しにしてくれるっ!」 「そんな事、カナが許さないかしら!」抱き合う双子の姉妹を刺し貫こうとする義仲に向けて、金糸雀が発砲した。 金糸雀が銃を撃つ、ほんの少し前――水銀燈が起動した冥鳴は、弓足軽どもの放った全ての矢を撃ち落としていた。次の瞬間、真紅が目を開き、縁辺流を起動する。真紅が放った精霊は、弓足軽の一団に飛び込んで、忽ち敵を殲滅した。が、その光景を見る前に、水銀燈は凄まじい衝撃を背中に受けて、仰け反った。意識が薄れて、倒れそうになる。しかし、ここで斃れる訳にはいかない。 (まだ……よぉ。真紅を…………護らないとぉ)前に倒れそうになる身体を支えるために、一歩、足を踏み出す。再び、背中に衝撃が走り、水銀燈は前方に突き飛ばされた。しかし、倒れない。両脚を踏ん張って、巴の射線から真紅を庇い続けた。 「水銀燈っ! 貴女!」もたれかかってくる水銀燈の身体を、真紅は全身で支えた。真紅の肩を、水銀燈の左手が掴む。 「もう良いわ! これ以上、庇ってくれなくても良いからっ!」 「……そぉいうワケにも…………いかないでしょぉ」水銀燈の背中に龍の鉤爪が食い込む衝撃が、真紅の腕にも伝わってきた。 「くぁっ!」水銀燈が喉の奥から、苦悶の声が漏らす。我慢できずに真紅が彼女の身体を脇へ押し退けようとするのを、水銀燈は頑として押し止めた。なぜ、そうまでして護ろうとするの?明らかな拒絶が信じられず、真紅は涙を浮かべた眼差しで、水銀燈を見上げた。水銀燈は、そんな真紅を見下ろして―― 「こうして……いれば、巴は私を狙うわ。真紅と、雪華綺晶には……」 「貴女、初めっから、私と雪華綺晶を庇うために?!」 「こんなの、私らしく……ないんだけどねぇ」穏やかに微笑んでいた。悔いも未練もない、清々しい笑顔。水銀燈は、徐々に弱まる呼吸を圧して、真紅に語りかけた。 「でも、鈴鹿御前……を斃すには、私たち……の御魂……集めない、と」 「っ! 貴女、何故それをっ!」 「……金糸雀に……訊いたわ。ぜぇんぶ、ね」もう一度、背中に龍の鉤爪を受けて、水銀燈は息を詰まらせた。 「ダメよ、水銀燈っ! こんな事は、絶対にしてはいけないのだわ!」 「と言っても……貴女、みんな……を殺せない……でしょぉ?」 「それはっ! だけどっ!」 「これで、私の御魂を……真紅に……渡せるわぁ」肩を掴む水銀燈の指が、痛いくらいに食い込んできた。 「そろそろ……お別れ……みたぁい」 「イヤっ! 死なないで、水銀燈っ!! 私には、貴女が――」 「……泣くこと、ないでしょぉ。私は真紅の……中で生き……続けるんだからぁ」水銀燈の身体が、真紅の上にのし掛かってきた。肩を掴んでいた彼女の左手が、力無く滑り落ちる。 「また……ね……真紅ぅ」そして、水銀燈の身体から、すぅ――っと力が抜けた。【仁】の御魂を宿した娘はもう……呼吸していない。満ち足りた表情を浮かべて、幸せそうに眠っていた。けれど、その安らかな姿は涙で曇り、すぐに見えなくなってしまった。 「す……い銀、燈? ねえ……冗談でしょう?」真紅は、水銀燈の服を握りしめながら、懸命に呼びかけ続ける。 「お願いよ、水銀燈。意地悪しないで。早く、目を覚ましなさい!」けれど彼女は、優しい微笑みを浮かべたままで―― 「嫌よ……こんなの、嫌。ねえ、起きて! 起きてよ、水銀燈ぉ――――っ!」真紅の絶叫と慟哭が、謁見の間にいつまでも木霊していた。 =第四十章につづく=
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