~第二章~
~第二章~ 戦闘で泥だらけとなってしまった巫女装束を洗濯するため、真紅と双子の姉妹は、夕闇が差し迫る頃になって最も近くの町に入っていた。宿の浴場でのこと―― 「はぁ~♪ やっと、サッパリできたのだわぁ~」肌や髪にこびり付いた泥を洗い流して、すっかり上機嫌の真紅は、鼻歌を唄いながら湯船に身を浸していた。そこへ、場の空気を読まない闖入者が一人。 「し~んくっ♪」 「うひぇぁ! す、す、翠星石。なな、何の用なの?」 「何って、背中を流してやるです。ついでに髪も洗ってやるですよ」 「け、結構なのだわ。そのくらい、一人で出来るもの」 「そうですか? 遠慮しなくてもいいですのに」――してないわよ!そう言いかけて、真紅は口を噤んだ。翠星石とて、好意で言ってくれたのだ。これから一緒に旅を続けなければならないのに、些末なことで仲違いしたくなかった。 「その気持ちだけで、充分よ。それじゃあ、私は先に上がるわね」 「解ったですぅ。次は私が入らせてもらうですよ」真紅は「ごゆっくり」と返事をして、そそくさと更衣室に移動した。そして、ふと自分の胸元に視線を下げ、重苦しい溜息を吐いた。 「ま、負けたぁ……。翠星石って、意外に着痩せしてるのね」退魔を生業としている真紅とて、年頃の女の子。おしゃれには気を遣うし、異性の目……自分に魅力を感じてくれているかという点が気になり始めていた。と同時に、同い年の娘の発育状況も―― その夜、真紅は寝床で身体に異変を覚えて、瞬時に眼を醒ました。 (くっ! 一体…………どうして?)夕食の膳に、毒キノコでも混じっていたのだろうか。全身が痺れている。隣で眠っている翠星石と蒼星石に助けを求めようとしたが、身体ばかりか舌まで痺れていて、満足に喋る事すら出来なかった。それに、もしかしたら姉妹も、真紅と同じく麻痺しているかも知れない。 かた……ん。不意に、隅の天井板が外れて、夜闇の中を、なにかが滑り降りてきた。それは真紅の身の丈ほどもある大蛇で、無数の鱗をぬらぬらと輝かせている。畳に降り立つや、大蛇は真紅の見ている前で、人の姿へと変貌を遂げた。眼鏡をかけた、一見すると鈍くさそうな印象の娘だ。その娘は、帯に差した小太刀を引き抜いて、低く笑った。 「うふふっ。当代随一と謳われる退魔師と、名うての賞金稼ぎの双子姉妹かぁ。 どれほど愉しませてくれるのかと期待していたけれど……毒の前ではひ弱な娘なのねぇ。 他愛なさすぎて、お姉ちゃんガッカリしちゃったわよぅ」ふざけた口を利いてくれるじゃない。あなたなんか、毒を盛らなければ正面切って戦う度胸もないくせに。調子に乗るんじゃないわよ、このヘビ娘!真紅は、思いの丈を視線に乗せて、深夜の襲撃者に叩き付けた。真紅の眼差しがよほど癪に触ったらしく、蛇娘は眼鏡の奥で、冷淡な瞳を光らせた。 「生意気ねえ。気に入らないわ、その目。殺す前に、抉り出しちゃおう」蛇娘は音もなく枕元まで来ると、屈み込んで、真紅の瞼を指で無理矢理に開かせた。そして嬲るように、ゆっくりと、小太刀の切っ先を近付けていく。にへら……と、口元に冷酷な笑みが浮かぶ。真紅は首を振って懸命に抗おうとしたが、実際には、殆ど振れていなかった。皓々たる月の光を反射する切っ先が、ぶるぶると震えていた。おそらくは無上の悦びと、嗜虐趣味による性的興奮に酔いしれているのだろう。振動する切っ先から生じる微かな風すら感じるほど、真紅の瞳と切っ先の距離は縮まっていた。 (い、嫌っ! も……もう、ダメぇ!)殆ど諦めていた次の瞬間、蛇娘は「ぎゃあっ!」と叫んで、部屋の隅に飛び退いていた。一体、どうしたと言うの?目を見開いたままの真紅が見たのは、得物を手にした二つの人影だった。 「まったくぅ、人が寝てる隙に、なにしてやがるですか」 「ボクたちに毒は通用しないよ。キミは知らなかったみたいだね」 「お、おのれ……油断したわ」蛇娘は肩で息をしながら、憎々しげに姉妹を睨み付けていた。が、すぐに他人を小馬鹿にするような光を瞳に湛えて、薄ら笑った。 「何者だい、キミは。どうして、ボクらを狙うの?」 「あたしは『鬼祖軍団』四天王が一人、のり。次は、必ず始末をしてやるんだから」捨て台詞を吐いて、のりは大蛇に変身するや、夜闇へと姿を眩ませた。翠星石が追おうとしたが、蒼星石が引き止める。 「待って、姉さん。真紅の治療が先だよ」 「っと……そうでしたね。じゃあ、即効性の解毒剤を――」言って、彼女は腰に下げた革袋から、小さな紙包みを抜き出した。 それから、程なくして――翠星石の解毒剤により、真紅の麻痺は瞬く間に収まっていった。 「ありが……と。だいぶ……よくなったわ」 「油断しすぎですぅ。ロクに警戒もせず、出された料理を完食するなんて、 信じられねぇ愚か者です。性根が卑しいからです。とんだおバカですぅ!」 「そ、そこまで言わなくても……」 「まあまあ。姉さんも、そのくらいにしておきなよ」苦笑混じりに翠星石を宥めると、蒼星石は真顔に戻って、先程の件について口を開いた。 「鬼祖軍団……と言ってたね。穢れごときの軍団が、鬼の祖先とは笑わせるよ」 「一体、どれほどの戦力を保有してやがるですかねぇ」 「それは解らないけれど、奴らの狙いは、どうやら私のようね」真紅の言葉に、翠星石と蒼星石も、こっくりと頷いた。雑兵どもでは埒が開かないので、四天王が直々に、お出ましになったのだろう。翠星石たちを襲ったのも、真紅への繋がりを見出そうとしたからかも知れない。 「さっきの蛇娘も、真っ先に真紅を狙ってたです」 「でも、四天王を差し向けるほど真紅を怖れる理由って、なんだろう?」 「この神剣が……目障りなのかも知れないわ」思いつきを口にしたものの、それが正解だとは言い難かった。剣が怖いなら、それだけを奪ってしまえば話は済む。真紅を付け狙う理由は、彼女に生きていられると厄介だからだ。 「取り敢えず、今夜はボクと姉さんが交代で、寝ずの番をした方が良さそうだね」 「同感です。真紅は鈍くさいトコあるから、心配で心配でしゃ~ねぇですぅ」 「平気よ……過ちは、二度も繰り返さないのだわ」今夜の一件は、全て自分の油断にあった。もし二人が居てくれなかったら、今頃は……。自分の身は、自分で守らねばならない。真紅は改めて、それを肝に銘じた。 翌朝、宿屋を出た三人は、揃って町の飯屋で朝食を食べていた。今度は真紅も、少し口にしては、違和感が無いか確かめながら食事を進めている。 「こういう食べ方だと、あまり美味しくないわね」 「最初は、誰だって、そんなもんだよ」 「訓練次第で、味が判るようになるですぅ」 「ねえ……物は相談なのだけれど、あなた達のどちらかが、毒味をしてくれない?」 「なんですとぉ? こいつ、虫が良すぎるです!」ずびしっ……と真紅を指さし、御飯粒を飛び散らせて激昂する翠星石。そんな彼女を宥めつつ、蒼星石はちゃっかりと、自分の食事を済ませていた。こういう場面には、もう立ち会い慣れているのだろう。蒼星石は食後の緑茶を啜りながら、子供のように啀み合う二人に声を掛けた。 「とにかく、二人とも早く食べ終わってよ。この後、薬とか買いに行きたいし」途端に、しゅん……と静まり返る翠星石。これでは、どっちが姉だか判らない。真紅は苦笑しつつ、味噌汁を啜った。 食事を終えて、店の外に出ると、町は活況を呈していた。行商の売り声、人のざわめき、雑踏……。昨夜、鬼祖軍団の四天王が現れたとは思えないほど、活気に満ちている。ここには穢れの放つ腐臭よりも、人々の生活臭の方が、濃く立ち込めていた。 「薬を買うのだったわね。行商の薬売りは、どこに居るのかしら?」後ろを歩く蒼星石に話しかけるため振り返った真紅は、正面から歩いてきた通行人の男にぶつかられて、ふらふらとよろめいた。直後、真紅は片手に喪失感を覚え、ぶつかって来た男を指差して叫んだ。 「しまった! スリよ、その男っ!」 「えっ? 何を盗られたの?」 「け……剣を」 「はぁ? そんな貴重品を、あっさり盗られるなですぅ!」男は雑踏の中を、縫うように駆け抜けていく。常習犯なのだろう。身のこなしが、場慣れしていた。 「ここは、私に任せるですよっ」敏捷性なら、忍びである翠星石の方が圧倒的に勝っている。人混みの中でクナイは使えずとも、見る見るうちに距離を縮めていった。そして、腕を伸ばせば肩を掴める距離まで接近したとき、男は逃げ切れないと判断したのか、やおら振り返って剣を引き抜き、翠星石に斬り付けた。 「ふん。甘いですぅ」賞金稼ぎという職業柄、追い詰められた鼠が反撃してくることぐらい承知していた。振り回すだけの斬撃を躱しつつ、翠星石は男の肩を狙って、クナイを投じた。狙い違わず、クナイが男の肩に突き刺さる。男は苦痛の呻き声を上げると、戦意を喪失して、再び走り始めた。 「あっ! 待ちやがれですっ! 剣は置いてけですぅ!」無論、言う事を聞く筈もなく、男は細い路地裏へと駆け込んだ。その途端。 「ぎゃあっ!」鈍い衝撃音と絶叫を引いて、男の身体が路地裏から吹っ飛ばされてきた。今まさに路地裏へ踏み込もうとしていた翠星石が、慌てて後方に飛び退く。危うく、巻き添えを食らうところだった。 「な、なにが……あ! それより、剣ですっ! あれは――」吹っ飛ばされ、路上で気絶しているスリに目を遣ったが、男は剣を握っていなかった。辺りを見回しても、転がっていない。路地裏に落ちているのだろうか?翠星石はクナイを手に、路地裏に踏み込んだ。 「ふふ……貰っちゃった貰っちゃったぁ♪」そこに立っていたのは、朝風に銀髪を靡かせた、着流し姿の女性だった。機嫌良く、歌うように呟きながら、スリから奪った神剣を惚れ惚れと眺めている。翠星石は彼女を指差し、声高に怒鳴りつけた。 「その剣を返すです! それは真紅の物ですぅ!」 「はぁ?」彼女の視線が、神剣から翠星石へと向けられる。紅い瞳には、明らかな侮蔑と、不快感が込められていた。 「うっさいわねぇ。なんなのぉ?」 「だからっ! その剣を返しやがれと言ってるですっ!」 「やぁよ。これを売ったら、纏まったお金になりそうだしぃ」そこへ、真紅と蒼星石が追い付いてきた。 「おやまぁ……団体さんのご登場ねぇ」紅い瞳が、三人を矯めつ眇めつ、眺め回していく。 「貴女たち、何者ぉ? さっきのコソ泥の仲間とは違うみたいだけどぉ?」 「あんな奴の仲間にするなですっ」 「悪いけど、その剣は力尽くでも返してもらうよ」 「と言って……おとなしく返す人ではなさそうよ、蒼星石」 「ふふ……解ってんじゃなぁい」鼻で嘲笑うと、彼女は神剣を深々と地面に突き立て、自分の得物を手にした。それは六尺六寸は有ろうかという、異様に長くて、厚身の太刀だった。とても、こんな狭い路地裏で振り回すことなど出来ない武器だ。にも拘わらず、彼女は余裕の笑みを浮かべて、真紅たちを見据えていた。 「別々なんて面倒臭いからぁ、同時にかかっていらっしゃい」 「随分、ナメた真似しやがるですね。なら、私が後悔させてやるです!」言うが早いか、翠星石の腕が一閃した。数本のクナイは全て、急所を目掛けて放たれたものだ。銀髪の娘は、得物の切っ先を地面に着けたまま、柄だけを左右に動かした。得物の胴で受け流されたクナイが、近所の家の壁に突き刺さる。この程度? 小馬鹿にした様な娘の瞼が、驚愕で見開かれた。散発的な攻撃と侮っていたが、それは蒼星石が突進する為の、陽動に過ぎなかったのだ。 「……煉飛火」蒼星石が剣同体型精霊を発動させると、刀身は紅蓮の炎を纏った。斬るもの全てを焼き尽くす、煉獄の劫火。その炎を振り翳すとき、蒼星石の心に慈悲の念は無い。しかし、相対する銀髪の娘も、並外れた膂力で長い太刀を支えて、ひた……と、蒼星石に切っ先を向けた。 「冥鳴!」ぴしぴしっ……ぴしっ! 太刀の刀身に、黒い稲妻が走る。並の者なら一瞬で気を失うだろう破壊的な衝動が、周囲の空気を一変させた。なにか、そこはかとなく危険な気配が漂い始める。直感的に危機を悟った真紅は、脇目も振らず駆け出し、蒼星石に体当たりした。そして太刀の直線上に身を晒し、発動型装甲精霊を起動する。 「法理衣っ!」赤い陽炎が真紅の身体を包むのと、太刀の切っ先から漆黒の塊が放たれたのは、ほぼ同時だった。華奢な真紅の体躯を押し流そうと、漆黒の塊が牙を剥く。なんと凄まじい衝撃だろうか。少しでも気を緩めれば、弾き飛ばされるどころか、五体がバラバラに引き裂かれてしまう。真紅は印を結ぶと、真言を唱え、気合いと共に両腕を衝き出した。ぐぐっ……と、冥鳴が押し戻される。銀髪の娘は、信じられないという風に、右の眉を吊り上げた。直撃して吹き飛ばなかったばかりか、押し返してくる者が居るとは、思ってもみなかったのだ。今まで、そんな人間に出会った経験は無かった。 「あ、貴女…………何者なのよぉ」動揺が声の震えとなって、彼女の唇から紡ぎ出された。信じられない。こんな馬鹿な事が、あっていいの?視界の隅を影が走る。鳥だろうか?一瞥すると、屋根の上に陣取った翠星石が、今まさにクナイを投じようとしていた。このまま一点に留まっているのは拙い。銀髪の娘は、やむを得ず太刀同体型精霊を収納して、後方に飛び退いた。だが、それで追撃が止む訳ではない。後を追い掛けるように突進してきた真紅の拳が、彼女の頬を強打した。一瞬、くらっ……と、意識が飛びそうになるのを堪えて、踏み止まる。倒れてなるものか。まだ、負けじゃない。鋭い眼差しで睨み返すと、真紅は丁度、地面に突き立てた神剣を引き抜いたところだった。 「剣は、返してもらうのだわ。貴女も、潔く引き下がりなさい」銀髪の娘は殴られた頬を手で押さえながら、小さく舌打ちした。紅い双眸は、怒りに燃えている。 「偉そうに……何様のつもりよぉ!」憎々しげに吐き捨てる彼女に対して、真紅は穏やかな口調で応じた。 「私の名は、真紅。ただの退魔師なのだわ」 「真……紅ぅ? 退魔師ぃ?」どこかで、聞いた憶えがあった。うら若い乙女ながら、その実力は当代随一だとか。無論、有名人の名を騙る不届き者も多いが、目の前の娘は本人に間違いあるまい。手合わせして、それだけは確信できた。怒りの感情が、急激に萎んでいく。 「……参ったわぁ。そんな大物に、喧嘩ふっかけてたなんてねぇ」 「どうでも良いことよ。剣さえ返してもらえればね」 「と言って、もう取り返してるじゃないのよぉ」殴られた頬をさすりながら、拗ねた子供ように唇を突き出す娘に、真紅は「それもそうね」と微笑みかけた。 「貴女、名前は?」 「私は…………水銀燈」 「そう、良い名前ね。ところで、貴女……私たちと旅に出るつもりは無い?」 「――はぁ?」いきなり、何を言い出すかと思えば……。水銀燈は勿論のこと、翠星石と蒼星石も、真紅の申し出を聞き、耳を疑った。 「ちょっと待つです! こいつは神剣を横取りしようとしたヤツですよ!」 「安易に信用するものじゃないよ、真紅。ボクは反対だ」 「でも……腕は立つわ。精霊を使役できるのも、大いに魅力的だし。 戦力に乏しい私たちにとって、何よりの助けになる筈だわ」それに、もしかしたら――この娘も、同志かも知れない。正直に言えば、そうであって欲しかった。穢れの者……鬼祖軍団の魔手は、確実に真紅たちの側まで伸びているのだ。仮に同志でなかったとしても、残る五人の同志を捜す間だけは、水銀燈に協力してもらいたかった。しかし、当の水銀燈は、真紅たちの遣り取りを冷ややかな視線で眺めていた。 「はんっ! ばっかじゃないのぉ? どぉして私が、貴女たちみたいな甘ちゃんと、 一緒に旅をしなきゃなんないのよ。寝言は布団の中で、ほざきなさいよねぇ」 「それは、こっちの台詞ですぅ! お前みたいな胡散臭いヤツ、仲間だなんて思えねぇです」 「でも、私たちには――」 「止めなよ、真紅。来る気のない者を、無理に誘っても仕方ないよ」ぎすぎすした空気が、水銀燈と三人の間に漂う。暫しの睨み合いの末に、水銀燈は鼻先でせせら笑った。 「冗談じゃないわぁ。おままごとの仲間入りなんて、こっちからお断りよぉ。 じゃあねぇ、お間抜けな退魔師さぁん。今度は貴重品を盗られるんじゃないわよ」言い捨てると、水銀燈は得物を肩に担いで、真紅たちに背を向けた。このまま、彼女を行かせてもいいの?真紅は悩んだ。翠星石や、蒼星石の言い分は解る。しかし、水銀燈ほどの手練れを、みすみす逃すのは惜しかった。 (せめて……同志か、そうでないかだけでも――)確かめようと一歩を踏み出した真紅の肩を、蒼星石が掴んで、引き留めた。なぜ? その思いを表情いっぱいに表す真紅に、蒼星石は黙って、頚を横に振るだけだった。 ――同じ頃、とある村で。見窄らしい小屋の中、藁の筵を敷いただけの粗末な病床で、一人の娘が苦悶に喘いでいた。胸が苦しい。息ができない。誰一人、看病する者の居ない中で、娘は自らの胸を掻きむしった。誰か……助けて!私は、まだ生きているの。こんなに苦しみながら、まだ生き長らえているの。お願いだから、この苦しみから、私を救い出してよ! 誰でも良いからっ!日に日に増してゆく苦痛の中で、娘は幼馴染みの少女を思い浮かべる。――水銀燈。あなたは今、どこに居るの? ずっと、私の側に居てくれたのに。毎日、欠かすことなく、水銀燈は娘の看病に訪れていたのだ。一ヶ月前までは。必ず、めぐを治す方法を知る医者を見付けて、連れてくるから。死んじゃダメだからねぇ!水銀燈は、そう言って村を出て行った。以来、一度も……便りの一つも寄越さない。ああ……きっと、私は見放されたんだ。めぐの瞳から、苦痛によるものとは違う涙が零れ、藁の筵に染み込んでいった。医者に見放され……。両親に見放され……。幼馴染みにも見放され……。早く、死にたい。心から、そう思った。そんな彼女の枕元に、いつの間にか煌びやかに着飾った乙女が立っていた。彼女の身体は透き通っていて、幽霊を思わせた。が、不思議と怖ろしくはない。同性でも羨むほどの美貌が、恐怖心を払拭してしまうのだろう。めぐは見惚れながら、この女性こそ天使に違いないと思った。 「随分と、苦しそうね」天使の様な美しさに相対して、乙女の声は、地の底から響いてくるかの様に冷たかった。けれど、自分を見下ろす眼差しには、慈愛に似た感情が宿っている。めぐの抱く一抹の不安を掻き消すように、乙女の声が響いた。 「貴女は、憎くないの? 周りの人間は、みんな貴女を裏切ったのよ。 親や、医者や、友人さえも、足手纏いの貴女を見限ったのに」 「やめて! 私は、両親や水銀燈を憎んだりした事なんて無いわ!」 「そう思いたいだけでしょう? 本当は気付いている筈よ。 自分の中で燃え立つ、憎悪の黒い炎を」 「そんなのっ! そん……なの……」無い、とは言い切れなかった。めぐは確かに、憎んでいた。こんな身体に産んだ両親を。いつまでも苦しみを長らえさせる医者を。そして、自分を裏切った全ての人々を。 「心の闇に、感情を委ねなさい。そうすれば、わたしが貴女を楽にしてあげる」 「……本当に? それが本当なら――」苦しみから逃れる為ならば、なんだってする。壊れた身体と、夢も希望もない未来なんかに、どんな未練が有ろうか。めぐは微塵も躊躇わなかった。そして……この日を境に、めぐはプッツリと消息を絶った。 =第三章につづく=
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。