【恋って、つまり熱病みたいなものなのかもしれないと、不安に思い、それでも想ってしまう話。】
【恋って、つまり熱病みたいなものなのかもしれないと、不安に思い、それでも想ってしまう話。】「ちょっと、ジュン、早くなさい」前を行く真紅が、僕を急かす。というか、「そんなこと言うなら、少しは自分で持て!」僕がどれだけ荷物を持っていると思っているんだ。自分では一つも持っていないくせに。っていうか、これ全部真紅の荷物じゃないか。「うるさい下僕ね。少し自覚が足りないのではないかしら?」「誰 が 下 僕 だ」「あなたに決まってるでしょう? 変なことを聞かないで」さも不思議そうに言う真紅。幼なじみにこの態度。もう慣れたといえば慣れたけども、何となく、物足りない。それはきっと、……あんまり認めたくはないけれど、真紅への、恋心。主従の関係にはもう飽きた。対等の関係に、なってほしい。情けないけど、もっと優しい言葉をかけてくれてもいいと思うのだ。「何してるの? 置いていくわよ」「ああ、はいはい。今行きますよっと」「はいは一回!」「はいはい……」それが、僕と真紅の日常で。いつかは、この距離が近くなることもあるのかな、なんて思ったりしていた。――でも、壊れないものなんて、なかったのかもしれない。あるいは、壊さないように、出来たのかもしれない。今はただ、そんな感傷に浸かる。「ふぁあ……」朝の気だるいひと時。学校に行くときが、一番しんどいような気がする。こんなとき、いっその事ひきこもりになって、怪しげな通販をクーリングオフして楽しみたいと、心のそこから思う。 「……何か、そのビジョンがリアルに想像できた」何故だ。パラレルワールド?「そして何故か、それを悪いことだと思わないと――?」ふと、気付く。朝の、まだ誰も居ない通学路。いつもは、真紅と一緒に通学するのだが、今日は日直で教師に呼ばれていたのだ。その、いつもとは違う通学路に、思わず目を奪われてしまうような、綺麗な銀色の髪でこの辺りでは見慣れない制服を着た女の子が居た。「……見つからないわぁ」女の子は膝をつき、何かを探しているようだった。「……あら?」「う」目が合った。……何となく沈黙。うわ、すげえ気まずい。「何かしらぁ?」「あー……何か、探し物?」「ええ、ちょっとねぇ。友達のプレゼントを、落としちゃったみたいなのよぉ」「僕も、手伝うよ」この時、僕は何故こんなにも素直に、言葉を出せたのか、わからなかった。じっと見つめてしまった罪悪感だろうか。……あるいは、綺麗な銀色の髪がこれ以上地面について汚れてしまうのがイヤだったのだろうか。 あるいは――この女の子と、もっと喋りたいと、思ったのか。「えぇ? ……それは助かるけどぉ、あなた、誰?」「僕は、桜田ジュン。君は?」「私は、水銀燈よぉ。まあ、これも何かの縁だと思うし、お願いできるかしらぁ?」「ああ、任せろ」――それが、女の子、水銀燈との初めての出逢い。「それで、何を探してるんだ?」「友達からもらった、携帯の手作りのストラップ。本当に、大事なものなのよ」そう言った時の水銀燈の顔は、すごく、必死な顔だった。余裕のない人間。僕は、見つからなかったら、それこそ、自殺してしまうのではないかと、不安になった。「わかった。どんなストラップなんだ?」「黒い羽の、天使の人形がついたストラップ」「黒い、羽?」「そうよぉ。とってもかわいいんだから」ピンとくるイメージがなかったが、水銀燈にとってそれは当たり前のことらしい。それから二人で手分けして探した。だけど、中々見つからなかった。ふと気付けば、いつもの時間になっていて、まわりには同じ制服を着たやつらが増えてきた。「ねえ、ジュン? あなたも行かなくていいのかしらぁ?」「いいよ、別に。だって、大切なものなんだろう?」「……ありがとう」「気にするな」探し始めてからの水銀燈の姿を見れば、誰だってそう思うと思った。だって、それくらいに必死なんだ。どぶの中だって、迷わず探そうとするし(それは僕がかわりにやった)、自分のことなんて省みていない。 「早く、見つけてあげないと」それだけが、思っていることだった。他のことは、どうでもいいとさえ思った。――そして、通学する生徒も居なくなり、また二人だけになった頃。「ないな……」「そうねぇ……」その水銀燈の顔は、とてもつらそうで、今にも泣き出してしまいそうだった。「なあ、水銀燈。一度、鞄の中とか探してみたらどうだ? 灯台下暗しとも言うし」「……鞄?」「そう、鞄」「――!」何か、火がついたように水銀燈は鞄をあさり始めた。……もしかして、とは思うけど。「あった……」「マジすか」「そういえば、鞄の中は探してなかったわぁ」あはは、と照れくさそうに笑う水銀燈。そうか、こんな笑い方も出来る子なんだ。「見つかって、よかったよ」「あ、でも、学校……」「いーよ。今さら。どっちみち、間に合わないし」時計を見れば、もう授業が始まっている時間。……うわー、後で真紅に何を言われるかわかったもんじゃない。「……ごめんなさい」「いや、ホントに気にするなって。何なら、これから遊びに行ってもいくか? その程度だからな」それは、もちろん冗談で、水銀燈の悲しそうな顔を見たくなかったから出た言葉で。「――いいわよ? 行きましょうか?」まさか、OKを貰うなんて、考えてもなかった。「えっと、マジで?」「いいわよぉ。私も、今日学校なくて暇なの。だから、付き合って?」で、結局僕がどんな選択肢を選んだかというと。「……じゃあ、遊ぶか?」「ええ、遊びましょう」――思えば、ここが分岐点だった。ここで、学校に行っていたら、きっと、僕は、彼女のことを、好きなままだったに違いないのだ。それからというもの、僕たちはカラオケに行ったりアクセサリーショップを見て回ったり。まるで、デートみたいな時間を過ごし、のどが乾いたので喫茶店で休むことにした。 「ふー、遊んだ遊んだ」「うん、楽しかったわぁ」ふいー、と二人で脱力して座る。カラオケで点数対決をしたり、何故か水銀燈にはどのアクセサリーが似合うかで口論したりして、いろいろ大変だった。「っていうか、よく僕たち補導されないな」「運がいいんじゃなぁい?」それでいいのだろうか。まあ、いいけど。「そういえば、水銀燈って、どこの学校なんだ?」「あら、言ってなかったかしら? 明日、ジュンの学校に転校していくのよぉ。だから、今日は通学路の下見に来てたの」「そうなんだ?」ちょっと、胸が高鳴る。まるで、何かを期待しているような。「一緒のクラスになれるといいわねぇ」「ああ――」その時、頭に浮かんだのは、何故か悲しそうな真紅の顔で。「そうだな。一緒に、なれたらいいな」だから僕は、本当に思っていることを、心のどこかで疑問に感じた。何か、歯車が、ずれてきていた。それは、それは――?「さあ、もっと遊びましょう、ジュン」「……ああ」それは――何なんだろうか。なあ、真紅?ばんっ。「ジュンは居る?」「うわ、ノックくらいしろよ」夕方、真紅が僕の部屋に訪れた。訪れたというわりには、乱暴なドアの開け方だったけど。「……元気そうじゃない。風邪をひいたと聞いたのだけど」「何だぁ? 心配してくれたのか?」「別にしてないわ。私はあなたがどうしてサボったのか聞きにきただけよ」……バレてるし。「だって、いつものあなたならメールくらいするはずでしょう? それに、私が電話しても出なかったし……」「いや、携帯の電源切ってただけだよ」それは、本当だった。水銀燈と遊んでいる間、携帯の電源は切ったままにしてあった。授業中になると不味いので、いつも学校に行くときに電源を切るのだ。だけど。「……そうなの?」だけど――何故、こんなにも真紅の顔を見て、心が痛むのだろう。真紅の言葉には、本当に、という言葉がつく気がした。何となく、真紅はわかっているのかもしれないと思った。もともと、僕たちは幼なじみだ。隠し事をしているのなんて、すぐにわかる。 「――本当に、そうだよ」だけど、僕は、それがわかっていてなおかつ、真紅にそう言った。隠し事をしていると、バレているのに。それでも、真紅にそれは本当だと告げた。「そう」真紅はそれだけ言って、部屋から出て行った。別に、これはいつものことだ。だから、気にすることもない。「……でもさぁ、真紅」隠し事とは言うけれど。僕には、隠し事っていうのが何なのか、まったくわからないんだ――。翌日。ある意味、予想通りの展開になった。「――転校生の、水銀燈だ。入ってきてくれ」「はい」そう促され、ドアを開けた先にいるのは、昨日、一緒に笑いあった彼女で。クラスは、水銀燈のかわいさに湧き上がる。「あ、ジュン――」それで、僕の名前を水銀燈が呼んで、クラスの視線が僕に集まって。……そう、それまでは予想がつく展開だったのだ。でも。その先は、僕の、まったく予想も出来ない展開。「――水銀燈?」そう、呆然とその名前を呼んだのは、僕ではなく、「真、紅」僕の横に居る、僕の幼なじみの、「……また、会ってしまったのね」つらそうに目を伏せた、真紅だった。「何だ? 水銀燈は、真紅夫婦と知り合いか?」僕たちのことを、クラスのみんなが冷やかしでそう呼ぶ。真紅は、心底嫌がっているみたいだったけど。……でも、駄目だ。心のどこかが警告している。今この瞬間、その単語は、まずい。 「ふう、ふ?」水銀燈が、不思議そうに僕を見る。「――ええ、はい。あの二人とは、知り合いです」「そうか、じゃあ、学校は真紅と桜田に案内してもらえ」……気のせいだろうか。水銀燈が、一瞬、僕を、信じられないような目で見たのは。「それじゃあ、水銀燈は、桜田の横でいいな?」「はい」かつかつと、歩いてくる水銀燈。そして、僕の横に来て、「……よろしくね、ジュン」目をあわさずに、言った。放課後。「ジュン」「ん、水銀燈?」「案内してくれるんでしょ?」「ああ、そうだな――」目で、真紅を探す。……どこにも居ない。「――行こう」多分、わかっていた。真紅は居ないと。朝から、真紅は休み時間のたびにどこかに行っていた。そんなこと、今まで一度だってなかったのに。その理由は、きっと――「ん、……ありがと」苦い表情をしている、彼女が居るからだろう。僕はそれに対して何も言わず、水銀燈を促し歩き出す。「今日は、大変だったな」「そうね。質問攻めにあうとはよく言うけど、あそこまでとは思ってなかったわぁ」「……あのさ、僕からも質問していい?」「あらなぁに、私のことが知りたいのぉ?」「――真紅との、ことなんだけど」世界が停まった。夕陽がさす、茜色の廊下で、喧騒も、何もかもが、聞こえなくなった気がした。それから、じっと、重い沈黙が降り、「ずばりと聞くのねぇ……」先に世界を動かしたのは、水銀燈だった。「悪い」「何となく聞かれたくない内容だってこと、気付いてたぁ?」「……一応」「まあ、ジュンだから許してあげるわぁ。――それより」「ん?」「あなたこそ、真紅とはどういう関係なのかしらぁ?」そう言った水銀燈の顔は、毅然としていたけど、小さく、手が震えていた。まるで、何かに怯えるように。「……別に。ただの、幼なじみだよ。強いて言うなら、主従関係」「本当にぃ?」「本当だ」今度は、何故か罪悪感がなかった。今度だって、真紅に隠し事をしたように、水銀燈にも隠し事をしているのに。真紅のことが好きだと、隠しているのに。なのに、まるで、隠し事がないかのような、そんな気が、した。「なら、教えてあげようかしら」そして、水銀燈は語りだした。「まあ、簡単に言えば、喧嘩別れした親友ってところかしらねぇ」「親友……? もしかして、中学の――」「そうよぉ。中学で、私たち一緒だったの。……ジュンのことも、聞いていたわ。昨日は、ジュンと、真紅が言っていた人が同じだとはわからなかったけど」中学だけ、真紅と僕は別々の学校に行った。そして、いつのことだったろうか。真紅が、泣きそうな顔をしてたから理由を聞いてみると、喧嘩した友達がいると、それだけを言った。 真紅が泣きそうになるなんて、珍しいことだったから、今でも覚えていた。「原因がなんだったかなんて、もう忘れちゃったわぁ。でも、なんとなく仲直りできなくてね。私たち、お互いに意地っ張りだったから。それで、別々の高校になっちゃって。……まあ、それだけの話よ」 「そうか」たぶん、もっと深い事情があったんだろうと思う。でも、それはきっと本人たちにしかわからない事情で。「でも、びっくりしたわぁ。真紅とジュンが幼なじみだったなんてねぇ……」「僕も、びっくりだよ」「……あのね、ジュン。これは、あまり関係ないことかもしれないけど、一応伝えておくわ」「え?」「真紅は、あなたのことが好きだったわよ。中学のころ」「――え?」水銀燈が、何を言ったのか、理解するのに時間がかかった。「本当よぉ。真紅のあなたのこと話すときの嬉しそうな顔、どんな表情よりも素敵だったわぁ」「な、んで、そんなことを……」胸が、苦しかった。心の一番奥底で、忘れかけていた何かが警告をしている。違う、忘れろ。それは、もう、いいんだ。「――あなたが、好きだからよ」それは、反則の言葉だった。「別に、一応言っておこうと思ったの。正々堂々やろうと思っただけ。真紅は、どうせその気持ちを、素直に表せていないでしょうから」……意味が、わからない。「もしかしたら、ジュンは、真紅のことが――」「違う!」叫び声だったと思う。何で、叫んだのかは、わからないけど。「僕は、水銀燈のことを」心の一番奥底にあるものを、言ってしまいたかった。楽になりたかったんだ。「私の、ことを?」少し甘えるような、水銀燈の声。大丈夫。言える。きっと、言えるはず。――だった。「――水銀燈が、どうしたの、ジュン?」ダメだ。振り向いてはいけない。今、振り向いてはいけない。「あら、いつから、そんな偉くなったのかしら。私を無視するなんて、ジュンはひどいわね」「真紅」「……水銀燈。私は、別に気にしていないわ。それより、ジュンを返しなさい」知らない。そんな水銀燈の睨むような目も、後ろに居る、まるで誰かわからないような、誰も聞いたこともないような声を出している、彼女のことも――。【お知らせ】都合により、連載を終了させていただきます。ID:4KHc0Iho0の次回作にご期待ください。
「――――」 水銀燈は、何も言わなかった。ただ、ジュンの腕を抱き寄せた。とてもわかりやすい、意思表示だった。「返しなさい、と言ったわ」「イヤよ。……今度は、引かない」「それを、貴方が言うのね?」 ジュンは、情けないと思う。この二人の間に居ることではなく、この二人の間に居るのに何も出来ないのが。 怖かった。二人の、知らない表情が怖かったのだ。自分の居る世界は、もっと平凡で、退屈な世界だと思っていた。何となく幸せで、何となくそれが続く、どこにでもある世界。 でも、この世界は違う。断言してもいい。こんなにも敵意に満ちた空間なんて、ジュンは知らなかった。「ジュンは――」「え?」「ジュンは、どちらを選ぶのかしら」「どちら、を?」 水銀燈の言葉を反復した。どちら、とは、真紅と、水銀燈の、どちらかということ?「言って。さっき、私に言ってくれようとしたことを、真紅に言って」 ジュンの腕が、痛いくらいに抱きしめられる。でも、その腕からは震えが伝わってくる。不安に怯えている水銀燈の気持ちが伝わってくる。 なら、言わなきゃいけないはずだった。それが、自分の気持ちなら、ここで言わなきゃいけないはずだった。心の一番奥底にあると、信じたもの。「僕は――」「…………っ」 真紅が、息を呑む。言わないで。嘘でしょう。違うと言って。――ああ、なんて残酷なことだろう。二人は、分かり合えていたから。たった、それだけの動作で、全てが伝わった。 だけど。ジュンは言わなければならなかった。それが、ジュンに出来る最良の選択だと信じて。信じるしか、なかった。「僕は、水銀燈のことが好きだ」「ジュン……」「ん、……何?」 水銀燈が、気遣うようにジュンを優しく抱きしめる。それが、今までに感じたことのないくらい温かくて、何故かジュンは泣きたくなった。 ――真紅は、何も言わずに走り去った。いや、何も言わなかった、ということが全ての答えなのかもしれない。「真紅のこと、好きだった?」「うん、好きだった」 隠さなかった。隠す必要が、ないと思ったから。でも、それはきっとうわべの理由なんだろうな、と思った。 ジュンは、聞いて欲しかったのだ。今、大好きな彼女に。自分の、今も心を燻らせる恋心――否、恋心だった、真紅への想いを。「何となく、生きてた。何となく、一緒に居た。それで、充分だと思ってたんだ。それで、僕たちは満足だった」「知ってる」「……でもさ、きっと違ったんだ。二人とも、違う関係を望んでいたのかもしれないんだ」 真紅の、あの瞳。思い出すだけで、気が狂いそうになる。自暴自棄になって、世界の全てを否定したくなる。 水銀燈が居なければ、ジュンはそうしていただろう。水銀燈がジュンを包み込んでいなければ、ジュンは壊れてしまっていただろう。「いいの」「僕の勇気が、足りなかったから」「いいのよ」「でもさ、水銀燈――」 君のことを想う気持ちに、嘘はないんだ。それだけは、信じて欲しい――。想いを言葉にすることが出来ない。だって、ジュンは、泣き出してしまったから。 水銀燈の、優しい瞳に、身を委ね。ただ、赤ん坊みたいに、泣いた。「――ありがとう、ジュン」 その、水銀燈の言葉は、どういう意味だったのだろうか。自分のために、つらい選択をしてくれてありがとう、という意味だろうか。あるいは、こんなに想ってくれてありがとう、という意味だろうか。 ただ、一つだけわかっているのは。 ――ジュンは、その言葉に救われた。 それからの日々は、別にこれといって変わった日々が過ぎるわけでもなかった。 ただ、ジュンと真紅が一緒に居ることがなくなって、クラスの皆も、二人を夫婦と称することがなくなって、そして、ジュンと水銀燈が一緒に居るようになった、だけ。 それ以外は、普通の日々だった。何も変わらない。それが、ずっと続くのか、と、ジュンは思っていた。「――ね、ジュン」「ん?」 そんな、既に日常と化した水銀燈との帰り道。水銀燈が、いかにも隠し事があります、みたいな悪戯めいた笑顔で言った。「明日は、何の日でしょう?」「明日? 何か、あったっけ?」「むか」 ジュンを無言で水銀燈がつねった。「い、痛い! 痛いよ水銀燈!」「んー、ジュンー? もう一度聞くわよぉ。あ・し・た・はぁ、何の日でしょうかぁ?」「嘘、嘘だって、覚えているよ! 水銀燈の誕生日だろう!?」「はぁい、正解。最初から素直にそう言えばいいのよぉ」「ごめんなさい」「んー、許してあげてもいいけど、条件があるわぁ」 楽しそうな水銀燈の表情。それだけで、ジュンは大体わかった。そんな関係に、二人は既になっていた。……まるで、誰かと、誰かの関係だったように。「明日、デートして?」「いいよ、もともと、そのつもりだったし」「ん、うれしっ」 そして、また抱きつく水銀燈。クラスでの評価は、バカップルだった。ジュンとしては反論したいところだったが、水銀燈がそれを聞いて嬉しそうな顔をしたので、何も言えなくなった。 こういうとき、男はつらい。好きな子の笑顔に勝るものなんて、何もないんだから。「じゃあ、明日、楽しみにしてるわね」「うん、また明日」「ジュン、好きよ」「僕も、好きだよ」 二人は、別れ際にキスを交わした。二人は、幸せだった。【ある少女の話】 とある少年と、とある少女がキスをした。その場面を、ある少女が見ていた。「――あ、」 胸が苦しかった。締め付けられるどころではない。細胞の一つ一つが壊されていく錯覚だって覚える。 そんな少女に気づかず、二人は幸せそうに、名残惜しそうに別れるのだ。きっと、お互いがお互いのことしか考えていない。 だから、少女は泣きそうになるのだ。選んでもらえなかった。通じているものだ、と信じていた。それは、怠慢だったのだろうか。自分を判ってもらえると思ったのは、怠慢だったのだろうか。 でも、そんなはずはないのだ。時折見せる、彼の優しい瞳。それは確かに、他の少女に向ける瞳の色と違っていた。自信を持って言える。だって、少女はそれで幸せになれたのだから。 それなのに、いつからだろう。すれ違ったのは、いつだったのだろう。 これが、彼女の気持ちだったのだろうか。遠い昔、この気持ちを彼女に味あわせたのだろうか。もどかしく、決して晴れることのない気持ち。 因果応報、とはよく言ったものだ。自分のしたことは、自分に帰ってくる。「だけど、」 ダメだった。もう、我慢できなかった。 たとえ、彼女が今自分と同じ状況に居て、諦めたとして、何故自分が諦めなければいけないのだろう。 だって――彼を、一番必要としているのは、他でもない、自分なんだから。「 」 彼の名前を呟く。明日、きっと全部決着がつく。 夢を見た。それは、とても悲しい夢だった気がする。「ん」 そして、ジュンは目を覚ました。何も、気づかずに。「起きよう……」「あら、やっと起きたの、ジュン」「――え?」「相変わらず、寝顔は無防備なのね。でも、もう少し用心した方がいいわ。ずっと見ているのに、気づかないんですもの」「しん――く?」 呆然とする。ありえないものを見た気分だ。いや、実際、これは夢か。夢と言われた方が、納得できる。 だって、いつも通り――いや、昔と変わらない、優しい微笑みを向ける真紅なんて、もう夢でしか逢うことがないと思っていた。「おはよう、ジュン。ああ、朝ごはん、準備しておいたわよ。のり、出かけたみたいだし――」「何で?」「……どうしたの?」「何で、真紅が居るんだ?」 夢ではない。目の前に居る真紅は、現実だった。それでジュンが感じたものは、よりによって、恐怖だった。怖かった。何か、とてつもなく怖かったのだ。 今の幸せが崩れる音が聞こえてきそうで。昔と変わらぬ、最近は一言も喋ったことのないはずの真紅を見て。「別に、居たっておかしくないでしょう?」「おかしいよ! 何で、僕が寝てるところに――」「ジュンが、好きだからよ?」「――――」 それは、殺し文句だった。もし、二人が二人だった頃に聞いたら、ジュンはだらしなく顔を緩めていたかもしれない。「――ごめん、真紅。僕は、水銀燈が、」 今は違う。ずっと逃げていた。それは、言わなければいけないことだったのに、ジュンは逃げていた。だから、今度は言おう。ちゃんと、真紅に伝わるように――。 でも、それは言えなかった。真紅の、呟きとすらいえない、小さな声が、聞こえたから。「……嫌」「え?」「嫌よ。そんなの――そんなの、絶対に嫌っ!」「真紅……!?」 真紅は、泣き叫んでいた。泣き叫んで、ジュンを押し倒し、感情をぶつけていた。「どうして、どうしてそんなこと言うの!? 私が、ジュンなしで生きていけると思っているの!? 私が、どれだけ寂しくて、どれだけつらかったか、ジュンはわかっていないの? ずっと死にそうだったわ。ジュンが私でない、あの子に笑うたび、ずっと、そのたびに死にそうになった!」「真紅、落ち着け」「落ち着けない! ……お願いよ。本当に、心の底からお願い。 私、何でも言うこと聞くわ。貴方が身体を求めるなら、全部あげる。貴方が死ねって言えば、すぐに死ぬわ。 それくらい、好きなの。私は、ジュンが必要なの……っ。ジュンが居なければ、生きてなんかいけないの!」「そ、んな、」 ジュンは、わかってしまった。真紅は、嘘を言っていない。本当のことだ。きっと、真紅は、自分が居なかったら、死ぬ。「お願い……っ。今までのこと、謝るから……どんなことだって、言うこと聞くから……お願いだから、見捨てないで……っ」 もう、言葉にならなかった。「……真紅」 そして、ジュンは、そんな真紅を見て――「――ごめん、遅れた!」「遅いわよぉ、ジュン」 若干拗ね気味に、水銀燈が言った。ジュンも、素直に謝る。これも、水銀燈の愛情表現だとわかっていたし、それが心地よく思う。「もう、彼女より先に待ってるのは、男の子の務めよぉ?」「ん、今度から気をつけるよ。――それより、」 ジュンは、鞄の中から“それ”を取り出した。「誕生日おめでとう、水銀燈」「わぁ、ありがとう、ジュン。開けてみてもいい?」「いいよ」 水銀燈の、本当に嬉しそうな顔。これを見れて、ジュンもどこか嬉しくなる。「これ、天使?」「そう、天使のペンダント」 ジュンがあげたのは、天使を象ったものがついているペンダントだった。「もしかして、あのストラップの?」「そうそう。似てるなぁって思って。即決だったよ」 それは、水銀燈と逢ったとき、水銀燈が探していたストラップについていた人形に似ていた。「ありがとう―― 一生大事にするわぁ」 何よりも大事そうに、水銀燈は胸に抱きしめた。「あはは、喜んでくれて、よかった」「ううん、絶対、絶対大事にするから。私の、一番の宝物だから」 見れば、水銀燈の瞳には光るものがあった。感極まるとは、こういうことなのだ、と水銀燈は知った。嬉しすぎて、涙が出る。それは、なんて幸せなことなんだなろう。 「さあ、デートしましょう。今日はきっと、最高の一日よぉ」「うん、楽しもう」 二人は、歩き出した。それはきっと、昨日よりも近い距離で。昨日よりも、幸せそうに。それを示すように、水銀燈の胸元で、天使が微笑んでいた。【………………………】「ふぅ……疲れた」 けど、楽しかったとジュンは思う。あんなにプレゼントを喜んでもらえたのは、とても嬉しかった。 水銀燈は、かわいい。感情を素直にぶつけてきてくれる。喜びも、悲しみも、表情豊かで、見ていて飽きないのだ。自分には、もったいないな、と思う。まあ、そんなことを言ったら水銀燈は怒るだろうけど。 とても、幸せだった。水銀燈となら、いつまでだってそうして居たいと、思った。今日だって、別れたくなかった。それはきっと、水銀燈も同じ気持ちだったと思う。確信できるほど、自分たちはお互いが好きなのだ。 「――ただいま」 そして、ジュンは部屋の扉を開ける。「――あら、おかえりなさい、ジュン。遅かったのね」 そこには――「水銀燈と、デートしてきた」「ふぅん……楽しかったのかしら?」「幸せだった」 男に媚びる、妖艶な笑みを浮かべた――「キスはした?」「した」「――それ以上は?」「してない」 ――“彼女”が、居た。「ならジュン。抱いてちょうだい。あの子にしなかったことを、して頂戴」「ああ、わかったよ――真紅」 ジュンは、世界なんて死んでしまえばいいのに、と思った。 ジュンは、うまく生活していた。「ね、ジュン」「うん」「もー、何よぅ、その反応は」「ごめんごめん」 水銀燈と、二人で過ごし、「――ただいま」「おかえりなさい」「待った?」「ええ。ずっと、待っていたわ」 家に帰れば、待っている真紅と過ごす。それが、日常になった。 それは、どこか滑稽だった。どうでもいいし、気にすることでもない。そんなはずはないのに、ジュンはそう思い始めていた。 もしかしたら、自分の何処かの回路が壊れてしまったのかもしれない。このあまりに異常で、誰もが自分を非難するであろう状況に慣れてしまったから。 だけどそれでも、この世界は続いていた。何も変わらず。何も起こらず。水銀燈と真紅が、幸せそうにして、世界は続いていた。 ……ジュンは、どうだったか、自分ではよくわからなかったけど。 そして、ある日。世界は、急変した。「――おいしい?」「うん、水銀燈、料理が上手なんだな。ちょっと意外かも」「それ、家庭的な女の子に見えなかったってこと?」「そういうわけじゃないけど」 ジュンは、水銀燈の家に来ていた。水銀燈が、夕飯をご馳走してあげたい、と言ったのだ。 ――真紅には、遅くなるからとしか言わなかった。でも、真紅もそれでわかったようで、わかった、と短く一言言って、会話は終わった。「ごちそうさま。ホントにおいしかったよ」「うふふ、いっぱい食べてくれたわね」 いつもの微笑だった。ジュンに向ける、信頼や愛情の表れ。これに、罪悪感を覚えたこともあった。もう、何も感じなくなったけど。「んー、ジュン、これからどうする?」「そうだな、」 一瞬、誰かの顔が脳裏にちらついた。「――そろそろ、帰るかな」「えー、何でよぉ。別にもっと居てもいいじゃない?」「でも、ご両親とか帰ってくるだろう?」「今日、居ないわ」「――え?」「今日居ないから、呼んだんだけど?」 冷静な口調と裏腹に、水銀燈の顔は羞恥で真っ赤に染まった。それは、どう解釈したらいいのか。「ね、ジュン。それでも、ダメ?」「……そんなこと、ない」 甘える、声。それに逆らえるはずがない。だって、ジュンの好きな女の子は、水銀燈だから。 ――そして、その日、初めてジュンと水銀燈は結ばれた。【――、…………! ―……――】「――――」 彼女は、部屋に一人きりだった。明かりもつけず、ただじっと待っていた。彼は、遅くなると言った。だから、待っているのだ。帰ってくるのを。 いつまでも、待っているつもりだった。本当に。世界が終わるまでだって。 ――その、電話があるまでは。「真紅ちゃん?」「何かしら、のり」「ジュンくん、今日、友達の家に泊まるって。ごめんねぇ、ずっと待っててもらったのに」「――そう。わかったわ」 それを聞いた真紅はすぐに立ち上がり、のりに挨拶して、桜田家を後にした。「…………っ」 振り向く。ジュンの部屋を、睨みつけるように見る。 どうして、遅くなると言ったのに。それは、帰ってくるということだ。たとえ、何があっても、誰とどこで何をしていようと、自分の下に帰ってくるということだ。 それなのに、どうして居ない。友達? 誰のことだ。嘘だ。自分には、全てがわかる。ジュンは今、あの少女と一緒で――もしかしたら、睦んでいるのかもしれない。 「あ、………ああっ!」 嫉妬する。何もかもを気にせず、狂ったように叫びたかった。最後には、自分のところに居るはずのジュンが憎くて。自分からジュンを奪った水銀燈が憎くて。「ああ――!」 でも、真紅は気づかなかった。自分が泣いていることに。――自分が、孤独に苛まれている、ということに。「ねぇ、ジュン」「ん?」「私、幸せよ?」「僕も、そうだ」 心の底から、二人は幸せだった。 ――だから、二人の世界に、真紅は居なかった。【その時】 いつから壊れたのだろう、と彼女は思った。「ごめん、真紅。僕は、やっぱり君と居るわけにはいかない」 少なくとも、この言葉を聞く前から、壊れていたと思う。「わかったわ。……だから、最後のお願い」 ――自分は、とてもずるいと思った。ざまあみろ。【その少し前】 ジュンは、決めた。もう、終わりにしなければならなかった。ただの、自分の惰性で続けた関係。自分が、真紅を失いたくなかったから続けた関係。 言い訳でしかないけど、ジュンは確かに真紅のことが好きだった。今でも好きだ。水銀燈と、同じくらい好きだった。 だけど、それではいけないのだ。三人で過ごす関係がない以上、二人にならなければならない。“ジュン――” 水銀燈の、脳髄を痺れさせる甘い声が耳に残る。絶対の信頼を寄せる瞳。惜しみない愛を与えてくれる水銀燈。そんな彼女を、これ以上裏切れない。 契機だったのだ、とジュンは思う。水銀燈と愛を確かめたから、わかった。本当に大事なものから、逃げちゃいけない。【その、ちょっと前】 準備は出来た。きっと、ジュンは別れを告げる。だって、優しいから。――彼女は、正しく彼を理解していた。【そして、その時】 ジュンは、彼女と相対した。彼女と会うのは、一日ぶりだ。水銀燈と、ずっと共に過ごしていたから。「真紅、話がある」 わかってくれるだろうか。とても、ひどいことを、自分は言おうとしている。いや、わかってくれるなんて言葉、そもそもおかしかった。謝って、謝って、それでもなお謝るしかない。 許してもらいたい。いつも通りの関係で居て欲しい。でも、それは出来ない。だから、謝るしかない。真紅が、それでどれだけ悲しもうと。 ――自分は、最低の人間なんだ。確実に。「何かしら」 いつも通りの、冷静な瞳。――ダメだ、ひるむな。情を捨て、ただ真紅のことを想え。どちらが幸せになれるかなんて、思うまでもない。 たとえ、ジュンと居るのが真紅にとって一番の幸せであっても。それを、奪ったのだとしても、真紅のことを想え。「――ごめん、真紅。僕は、やっぱり君と居るわけにはいかない」 その声だけが、やけに響いた。長い沈黙の始まり。 二人の間に、言葉は要らなかった。瞳と瞳をあわせるだけで、お互いの心のうちを見ることが出来た。「わかったわ」 そして、真紅は言うのだ。いつも通りの、冷静な瞳で。「……だから、最後のお願い」「私を、抱いて」 ――彼女の微笑みは、今までで一番、狂っていた。【その後】「あらぁ、電話? ……知らない番号ね。誰からかしら?」 彼女は、その電話をとった。『だから、最後のお願い』「え?」『――私を、抱いて』 聞いたことのある声の気がした。――そして、彼女は絶望する。『ああ、わかった、真紅』 それは、ついさっきまで一緒に居た、彼の声によく似ていて――「あ、ああああああああああああああああああああああああああああ!」 彼女は、壊れた。【その、心の中】 きっと、聞いている。あの子は、私たちの睦を聞き続けている。一体、どんな気持ちで聞いているのだろう。考えるまでもない。その気持ちは、自分が一番よく知っている。 だけど、これでいいのだ。全部、ジュンが悪い。ジュンが、遅くなるといって帰らなかったのが悪い。ジュンが、私を見捨てるのが悪い。 私は、ジュンが居なければ生きていけないのに。それを、ジュンは理解しているのに。それなのに、ジュンは私と別れようとした。抱かれている今、こんなに幸せなのに。 悪いことをしたという気持ちもある。最低だという気持ちもある。――だけど、ざまあみろ。ジュンは、私のものだから。「ジュン――好きよ」だから、もう逃がしてあげない。
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