【MADE'N MOOR - 雨夜にとりこ】
周囲が一層暗くなった。迸る稲妻にシルエットが浮かび、森の中に入ったのだとわかった……たどっている道に森があっただろうか……地図など頭にしまわないから、全然思い出せない。 少なくとも、灯りが見えないのだけは確かだ。進むしかない。
ふと我に返って時計を見た。もう午前1時を過ぎている。それで、一気に目が覚めた。ほんの少し前に見たときはまだ午後11時少し前だったはずだ。眠っていたに違いない。カーブの少ない道でよかった。 目が覚めると、雨脚の弱まりに気がついた。前方の見通しも多少ましになっている……なんともありがたい話だ。きっと、雨音が子守唄代わりになってしまっていたのだろう。だからきっと、雨が弱くなって目も覚めたのだ。 出発前に読んだホームズの筋をちまちま思い出して、眠気と戦うことにする。
そして負けた。負けたことに気付いて気を取り直し、改めて前を見つめた瞬間、反射的にブレーキを踏んで盛大にスリップした。
灯りが、見えたのだ。
華麗とは言い難いドリフトをキメながら、運よく私道らしきものに滑り込んだ。そこでようやく、車体が立ち直る。こんどは慎重にブレーキをかけて、徐行させた。雨はさらに弱くなり、ヘッドライトにはっきりと、巨大な鉄の門扉が浮かび上がる。両側に優雅なアンティーク調の灯りを備えた、瀟洒で豪勢な造りだ。もしこれに突っ込んでいたらと思うと、恐ろしい。 目でインターホンを探すうちに、勝手に門扉が内側に開いた。 ……入れということだろうか? インターホンらしきものは見つからないままで、声もかからない。 バックミラーには、雨に閉ざされた森が黒々とそびえている。雨脚が、また強くなりだした。 選択の余地はない。
呆れるほど長いアプローチを走らされ、ようやく車寄せに車を入れた。 目の前には薔薇の彫刻がちりばめられたオーク材の、年季が嫌ほど入って見える大きな扉。首を横に向ければ、屋敷の端は雨の中に消えている……いったい、どういう金持ちの隠居だろう。 不躾なことを考えた瞬間、扉が開いた。慌てて威儀を正す。精一杯の礼を取り繕おうとして……見事に失敗した。相手をまじまじ見つめてしまったのだ。 上品な薄薔薇色のドレスを着こなした、怜悧な金色の眼差しの麗嬢。左眼を悪くしているらしく眼帯をかけているのだが、それが全く痛々しくない。むしろ、そこに刺繍された青い薔薇が、鋭い美貌をさらに研ぎ澄ませていた。 「……どうぞ」 彼女は燭台を……燭台だ! この21世紀に! ……掲げて、薄暗い屋敷の中に、案内してくれた。不躾を咎めるでもなく。
中は驚くほど大時代的だった。玄関は吹き抜けのホールになっており、灯りが一切無いため天井が闇に沈んでいる。セピア色になってしまった、もとは緋色であったろう絨毯が、足音を吸い取ってしまう。 長い長い階段の途中、三つ目くらいの踊り場に、大きな姿見がかかっていた。建物自体の装飾も控えめ、絵や彫刻は何ひとつ無い中で、初めて出逢った飾り気らしい飾り気だ。 彼女は前を滑るように歩いていく。会話は無い。横顔が見てみたくて、鏡に視線を投げた。 そこに、純白の彼女がいた。胸元に覗く淡雪の肌がわずかに見え、頬に血が上った。
思わず振り向き、彼女の後ろ姿を確認した。確かに薄薔薇色のドレスだ。もう一度振り向き……鏡の奥に、階段を登って歩み去っていく、薄薔薇色のドレスを見た。 鏡の奥に眼を凝らしてみる。別段色が変わったりはしない……嵐の中をずっと運転してきて、疲れているのだろう。まして、こんな古典の中から抜け出してきたような屋敷の薄暗い中だ。枯れ尾花があったら幽霊にも見えるだろう。 深呼吸をしているうちに、彼女が階段を登りきったのが、鏡の中に見えた。階段の終わったすぐそこで扉が開き、白い服の人影が彼女を招き入れる。 一瞬ぎょっとしたが、驚くようなことではない、と思いなおした。こんな手間のかかる広大な屋敷に、一人で住めるわけは無い。
部屋にいたのは、彼女一人だった。奥に扉は無い。 扉は無い。彼女は一人で、部屋の燭台に蝋燭を立て、灯している。再び激しくなった嵐に、二つの窓の鎧戸が音を立てる。 侍女の方は? と聞いてみた。彼女は、鸚鵡返しに繰り返して首をかしげただけだった。
それで気力を失って、ベッドにへたりこんだ。彼女の方は、そのまま無言で出て行ってしまった。 夜食にスコーンかベーグルでも欲しいところだが、余計なことは言わないことに決めた。寝られるだけで充分だ。好奇心にはフタをする。 服を弛めながら、ベッドのややかび臭いシーツに埋もれる。頭の中がはっきりぐらつく。思ったよりよほど疲れていたようだ……治まるまで少し眼を閉じて、鎧戸を叩く嵐の音に耳を傾けた。
閉じた眼の奥に、はっきり浮かんでくる。彼女の美貌が。自分で自分が嫌になりかけたが、そんな自制心はすぐに吹き飛んでしまった。彼女はそれほどに美しい。高尚な意味でも、あるいはもっと下品な意味でも。 初めて見た切れるような眼差し、青褪めた頬、招き入れてくれた白魚の指、手の平にはほんのわずか余るであろう大きさの胸のふくらみ、階段を登る脚の運び、腰のしなり……
不意にノックの音が聞こえ、あわてて身を起こした。ドアの方を見ようとして、巨大な姿見に目を吸い寄せられた。部屋全体をほとんど映しこんでいる。 姿見はドアのすぐそばだ。入ってきたときはそのまま真っ直ぐベッドに倒れこんだから、ちょうど背中になっていて気付かなかったのだろう。 燭台に揺れる炎は、灯りよりもむしろ、灯りの届かない闇を際立たせ、鏡に映しこんでいる。その闇に、純白のドレスをまとった人影が浮かび上がる。 薄薔薇色に血の気が失せて、奇妙に両端を引き上げた笑みを浮かべる唇。アラバスタの顔(かんばせ)に嵌め込まれたサファイアの瞳と純白の薔薇。波打つブロンド。 ベッドに這い上がり、背後に迫って来ている。向こうの壁とベッドの間には、わずかの隙間しかなかったはずだ。
前に跳び出していればよかった。 しかし、身体は彼女を求めて振り向こうとし、間に合わずに囚われていた。頬を摺り寄せられ、無理に前を向かされる。鏡の中で絡め取られてゆく。 耳元に、含み笑いの微かな息遣い。「……いい匂い」 胸元に伸ばされた指が、優雅なつくりに似合わぬ乱暴さで服を引き剥いていく。身をよじっても、縄で厳しく縛められているかのように、抜け出すことが叶わない。固く抱きすくめられている感触はあり、鏡に彼女の姿は映るのに、ここにあるのは自分の体だけだ。 「……とてもいい匂い」 耳に歯が立ち、噛み破られた。血が滴る感触、舌が這う感触。「美味しい……」 陶然とした声。背中で、彼女の動悸の高まりを感じる。
現実のドアが開いた。出迎えてくれた、薄薔薇色の彼女だ。鏡に映る二人の顔立ちはよく似ている。輝くシルバーブロンドとブロンドが、煌く一つづつの黄金の瞳とサファイアの瞳が、揺れる火影の中に見事な対を成して浮かび上がる。 「欲しい?」 問うた薄薔薇色のひとは一振りの剣を握っていた。「欲しい」 答えた純白のひとの身体が、一層強く絡み付いてくる。 剣は透き通る水晶。振り上げられた刃が、揺れる炎を透かして見せる。
一撃。声の代わりに、血を吐いた。氷のような冷たさが、ずぶずぶと捩じ込まれる。背を突き抜けた感触。背中の方で、背筋を撫で上げるような柔らかな悲鳴が上がる。きつくきつく、抱きしめられる。 突き立てられた刃が、血を吸って薔薇色に染まり、火照った人肌の熱を帯びる。霞み始めた目が鏡の中に、血の赤を吸い取るように染まっていく純白のドレスを、辛うじて捉えた。 剣がゆっくりとこじられ、派手に血が噴き出した。あやまたずに心臓を貫いているのだろう。薄薔薇色のひとの半分が、びしゃびしゃと赤く染め分けられていく。ごりごりと音がし、あばらが折れていく。 純白のひとが、赤黒いまでにしっとりと血を吸い、満足の溜息をついた。 白い白い薔薇の花びらが一ひら、どこかからどこかへ落ちていく。 耳の中に生まれたホワイトノイズが外の雨音に混じり、世界が色を失っていく中、煮えたぎる刃が、胸から腹へと身体を開いていくのを感じた。
* *
「……まだ染まりきらないのね。雪華綺晶」「そうね……まだ足りないのね」「ごめんなさい……こんな少しづつで」「ごめんなさい……こんなにたくさん貰ったのに」「でも、いつか」「きっと、いつか」「待ちましょう」「貴女となら。薔薇水晶」
猫がミルクを舐めるような、てちてちとした音が暗がりに響く。
- 了 -
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