【テーマ:小説 真紅】 はつ恋
ローゼンメイデンが普通の女の子だったら オムニバス テーマ『小説』 はつ恋「この物語に続きってあるのかしら?」小さな背中が突然尋ねた。背中あわせに優しい声が響く。少しは許してくれたということだろうか。僕は小説のページをめくる手を止めた。彼女が今読んでいる小説に、続編があるかどうかの疑問だと解釈した。「今のところ、書く気はないなぁ」これは今のところ、その予定はないし、展開すら思いつかない。「そう。でもそういうことじゃなかったのよ」どことなく恥じている声だった。思ったままのことがつい声になってしまったようだ。それでも、彼女は思ったままのことを続けた。「これはハッピーエンドで終わってるけど、生きているならその先があるじゃない」「そういやそうだな」「登場人物達はどんな事を思ってこれからの生活を過ごすのかしらと思ったのよ」彼女は一息吐く。どことなく不安そうな響きがした。「ねぇ、ジュン」「ん?」「この二人は本当に幸せになれたのかしら?」「……そう思いたいね」フフ、と微かに笑う声がする。「貴方らしいのだわ。貴方が書いたものでしょうに。断言しないなんて」「そういうなよ、真紅。それは読者の想像に任せるってことなんだよ」こういってしまえば身も蓋もない。「そうね」そう言って彼女は笑った。「それはそうと何を読んでいるのかしら?」彼女の髪がうなじを撫ぜる。「貴方が小説を読んでいるなんて珍しいじゃないの」僕はゆっくり目を閉じた。「前に懐かしい人から手紙、ファンレターが届いたのは言ったよな?」息を吐き、頭を軽く傾けた。「だから、ちょっと昔を思い出していたんだよ」「その本は……大切?」「これはね。その彼女から貰ったんだよ。プレゼントにね」「となると、その本は次の小説に登場させるつもり?」「分からないな。もう少し書き進んでから決めるつもりだ」「何年前に書かれた本なの?」ページを一番最後までめくった。そこに書いてある版を読み上げて僕は言う。「二十年以上前だね。こんなに元が古い者とは思わなかった。結構版数を重ねているみたい」色々な事を思い出す。「どんな内容かしら?」「一人ぼっちの少女が、人々から時間を奪う悪い大人と闘うってものだよ。 まぁ、そんなに重いものじゃないから読みやすいかな。 その頃、僕は本を読まなかったから、ずいぶん新鮮に思えたんだ」微かに唇が笑いの形を作った。「結構ボロボロね。でも」彼女は一息吐き、先ほどよりも優しい声で言う。「大切にしているのがよく分かるわ。 埃も被らないうちから本棚から出して、何度も読んで、傷つけないように本棚にしまって。 そのプレゼントした彼女も本望でしょうね」「そう言ってもらえるとありがたいかな」「でも、一つ言わせて頂戴」声の質が変わった。「今の彼女の前で、他の女の子のこと、そんな感慨深く言わないでほしいのだわ」厳しいのとは違う。「今は、私のことだけ見ていなさい」彼女が怒っていた訳がようやく分かった。僕は本を閉じ、彼女の後ろから軽く抱きしめる。「分かったよ。だからこんな拗ねんなよ。それに今好きなのは真紅、お前だけだから」「知ってるわ」安心したというように言った。「今書いてるのも、止めることにするよ」彼女のためじゃなく、僕のために。「そこまでしなくてもいいのよ。仕事と私も割り切れるわ」「いや、こうしないといけない気がしたんだ。お前のためだけじゃないさ」「なら、素直に喜んでおくわよ」「真紅が好きだからな。仲直りしたいんだ」もう一つ大切に思っていることを付け加える。「そうじゃなけりゃ、プロポーズなんてしなかったさ」彼女の小さな手が僕の袖を握る。そんな2010年3月9日だった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――僕と彼女――桜田ジュンと柏葉巴は小学一年のときに知り合った、いわゆる幼馴染と言う関係だった。家が隣同士というわけではない。三番目に近いコンビニよりも少し遠い。両親がもともと彼女の両親と仲が良かったというわけでもない。そもそも僕は昔から人見知りの気があり、誰かと自分から仲良くなろうと言うのが苦手だった。だから、彼女との出会いは僕から起こした行動と言う訳ではない。姉――桜田のりによるものだった。出会いは偶然、とはいっても劇的なものではなく極めてシンプルなものである。僕自身が覚えているという訳ではなく、これも姉から聞いた話なのだが、出会ったのは夏の多少涼しい日――夏休みも終わりに近づき蝉の鳴き声もずいぶんと減っていたそうだ。1988年8月24日。僕はいつものように午前中、家で宿題をさせられ、姉はところどころ僕に教えていた。そして、昼食を急いで食べ、午前の分を取り戻すように、姉と二人で公園へと遊びに行くのであった。ひとしきり見慣れた風景と見慣れない街並みの中探検をして遊んでいた。そういうことだけは覚えている。だが、この後のことは頭の中に靄がかかったかのように思い出せないのだ。「あらぁ? あの子どうしたのかな?」黄昏の帰り道、のりはそう口にした。のりの見ている方向に目をやると、そこには同い年くらいのおかっぱの少女がいた。「ジュン君、ちょっと待ってて」言ってすぐに、その彼女のもとへのりは行った。今でも変わることのないお節介さが、もう既にのりには備わっていたようである。二人は何やら話しているようだが、その声は僕の元までは届いてこない。おそらく、僕はこの時何にも考えていなかったか、もしくは今日の夕飯は何かな、ぐらいのことしか考えていなかったに違いない。話は終わったのか、二人はこちらへ来た。「巴ちゃん、最近こっちに引っ越してきたみたいで、ここら辺のこと良く知らないみたいなのよぅ」姉はいきなり彼女をちゃん付けで呼びはじめていた。「で?」僕は冷淡に言い返す。少なくとも姉にはそう聞こえていたらしい。「で、公園に遊びに来たはいいけど、帰り道、迷っちゃったみたいなの」「送っていくの?」「もちろん!」返事は元気がよかった。この時、僕は面倒臭いなどと思ったのだろうか。姉に聞いてみても、表情からはよく読み取れなかったという。だが、不満も文句も言わなかったらしい。ただ、そこから先はよくある笑い話でしかない。小学生の子供三人、二人は低学年なのだ。すんなり彼女を家へ送り届けられたはずがない。何度も道を間違えた。柏葉自身いまいち家の場所を覚えられていなかったのも大きいだろう。素直に交番でも探して道を聞いた方がよかったのかもしれない。だが、妙な意地がそれを邪魔していた。僕だけじゃない、三人ともがだ。きっと、遊びの続きのようで楽しかったのかもしれない。普段なら、まず目にすることのできない夜の風景も怖がりながらも楽しかったのだろう。今、自分のことを他人事のように想像してみても、これは正しいはずだ。二人に聞いているわけではないのだが、きっとこの感覚は共有しているはずだ。彼女の家に着いた時には、すでに一般的な夕食の時間も過ぎ、好きなテレビ番組も終わっているころだった。家の場所も何のことはない、公園の近くだった。反対方向へと進んでしまっていただけであった。柏葉の両親は見るなり、彼女を抱きしめた。一人娘で、なおかつ引っ越してきたばかりだ。心配で仕方なかったのだろう。そして彼女に紹介され、僕達の家まで車で送ってくれることになった。こうして、僕たちは出会った。らしい。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――2010年3月4日。長い間彼女のことなど忘れてしまっていた。普通なら忘れることなどあり得ないだろうが、事実なのだから仕方がない。しかしその手紙を見た途端、なんともいえない感覚に陥った。ただ単に懐かしいという感覚でも、忘れていたことを後悔するでもない、不思議な感覚だった。血の気が引いた気もするし、逆に体全身が温まった気もする。そして、できることなら二度と味わいたくない感覚だった。柏葉巴。どうして忘れてしまっていたのだろう。唇を動かして、その名を空気中に拡散させる。柏葉巴。その瞬間、彼女と過ごした日々を突如として思い出した。そうして、僕は気付いた。忘れていたんじゃない。忘れたふりをしようとしたら、思い出せなくなっただけなのだ、と。それと同時に、一つの考えが脳裏をよぎった。そのために急いでペンとノートを用意する。思いついたままのことを急いで書きとめていく。主人公の性格はよく分かっているつもりだ。ヒロインの性格も多分、理解はしている。次の小説はいつもとは真逆のもの、恋愛ものでも書いてみようか……。そう、つまり彼女との日々を書いてみよう。もちろん、全て忠実に書くつもりなどない。彼女をモデルに出すだけだ。日々をモチーフにするだけなのだ。胸にしくりと何かが刺さった感触があった。だけど、それが何のせいなのかは思いつかない。いや、嘘だ。忘れるふりを続けるな。後悔だ。彼女との日々についての。でも、本当にそれだけなのだろうか?分からない。胸の痛みを無視して、アイデアをメモする。「タイトルか……。初恋……でいいよな、仮でも」友達ではいられず、恋人にも戻れない関係。でも、真心は変わらない。そういうアオリを思い浮かべた。ただ展開は思い浮かんでも、ラストだけは思い付かない。明日、編集の人と打ち合わせがある。その時に考えてもいいのかもしれないな。そんなことを考えながら、カレンダーを睨んだ。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――1995年6月16日。中学二年になり、すでに二ヶ月が経っていた。何もない毎日と繰り返しの日々、そしてあるはずだった別の時間を想像して絶望する。「僕の居場所はここじゃない」声は無人の教室で夕陽に照らされず、出口を捜したまま消えた。「なんでこんなとこにいるんだよ」周りに誰もいないことを確認して再び呟く。そう、僕の居場所はこんな場所じゃない。こんな公立の中学になんて入るつもりはなかった。ホントはもっと良い私立中学にいって、もっと良い授業を受けているはずだったんだ。どうして、合格しなかったんだろう。筆記も、口頭面接もできる限りのことをしたんだ。叫び出したいのを無理して抑え込む。誰かを怨んでしまえれば楽なのに、僕自身がそれを許せない。誰かのせいなんかじゃない。僕のせいだというのは痛いほど分かっている。だからこそ、苦しい。だが、この学校は最悪だ。自分さえよければいいと思っている生徒に事なかれ主義の教師。自分たちで積み重ね、生み出した問題を、誰かが率先して解決しようとするでもなく、誰かが来るのを待っている。あまつさえ、他の誰かのせいにする。何も考えようともしないでくの坊たち。鬱屈した感情を互いに持ち合わせたまま、表面上は慣れ合う。それを嫌うものを弾き出して、糾弾し、擂り潰す。でも、それを自分たちの正義だと信じ切っているから質が悪い。そして、それに慣れ切ってしまっている自分も嫌だった。「桜田くん?」突然投げかけられた声が、負の思考の連鎖から僕を引き戻した。その声の主へ目を向ける。柏葉だった。ずいぶんと久し振りな気がする。いや、実際そうだろう。中学に進学し、しばらくしてからそれぞれに男女のコミュニティの中に引き籠ったのだ。だからなのか、前とは呼び名が違う。「どうしたの? 独りで」「どうしたんだろうな、独りで」言い訳を探す。後ろめたさなどないはずなのに。「あぁ、忘れものがあったんだ」嘘を見つけた。「ふぅん。でもその割には何かを探してた感じはないんだけど?」彼女の声色は変わらないまま、僕の嘘を刺した。「なんだっていいだろ」少しばかり大きな声が辺りに響き、しまった、という気がした。「か、柏葉はどうしたんだよ」気まずさから、質問を返す。「忘れもの」そう言って、彼女は自分の机に向かい、一冊の本を取り出した。「家で読もうと思って」「分厚いな」そんな感想しか持てなかった。「でも、面白いよ」「そ、そうか」柏葉はこちらに向き直るが、西日が逆光となり正直、眩しい。「でもどうしたの? らしくない」急に話題を変えられるから、一瞬考え込んだ。そして、先ほどの逆ギレにも似た返答についてという結論に至った。「別に何にもない。何となく自己嫌悪だな」彼女は首を傾げる。「何があったの?」「言いたくない」彼女の声を跳ねのけた。「変わっちゃたね、桜田君。多分、私も」意味が分からなかった。少なくともその当時の僕には。「誰からも嫌われてないじゃないか、柏葉は」「桜田くんは嫌われてるの?」「そうじゃないんだけど……。むしろ逆かな」「逆――ね」そう言ってくすりと笑った。「ほんとはね、私嫌なの。委員長の立場とか先生にいい顔する自分とか、誰かの顔色窺って過ごすこととか」 彼女の横顔から夕陽が射す。光の中にいた彼女の表情は見えなかった。「正直…ね、…疲れちゃったの」でも、声は穏やかだ。「そうか」何かを言わなくてはならない。「僕も、多分似たようなもんだよ」気休めの言葉ではなかった。「僕もだ」自分の机に座った。「でも、中学生が話すようなことじゃないよな」茶化さざるをえなかった。そうしないと、駄目だ。「それもそうね」少しだけ、声が軽い気がした。多分、笑えているだろう。僕ら、二人とも。そしておそらく、いや十中八九なんとか自分自身を許せるのかもしれない。「中学生だしさ、いっそ」正しいと思う言葉を探す。「逃げちゃおうか、どっか」大人ぶった中学生がそこに、いた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――2010年3月5日。携帯を開き、時間を確認する。三時十分前、予定の時間までもうすぐだ。目の前のほんの少し残っていたコーヒーを飲みほし、店を出た。現在契約している、出版社のビルディングに入る。ホールの待合席にはすでに、担当編集の山本が待っていた。僕に気づいたようで、席を立ち軽く会釈をする。それに倣い、僕も同じく会釈を返した。「前回の選考は残念でしたね」「いや、でも中々楽しめましたよ」「はは、変なことに楽しみを持たないでください」「いいじゃないですか、他の作家さんでも似たようなことする人いますし」「あの人は大御所じゃないですか、あんまり比べない方がいいですよ」「まぁ、そうですよねぇ」確か山本は姉と同い年、いや同じ高校で同じクラスにいたはずだ。姉に仕事について尋ねられた時、山本がそういう経歴を持っていることを聞かされた。だからというわけでもないのだが、彼に対し僕はある程度の信頼を持っていた。編集としての作品への携わり方も、作家にとって楽だった。作家の自由に任せるというスタンスを持っている。彼は割と小説についての口出しをしない。どうしても気になる点があれば、口を出すくらいの物だった。「シンプルだけど良いと思いますよ、このプロットでも」「そうかな。正直、まだ何か足りない気がするんだけど」「多少、周りの人間を掘り下げてみます? でもそうすると、主人公への感情移入がしにくくなるかもしれませんけど」「ですよね。さすがに難しいですね、初めてのジャンルって」「でも、初めてのって、出版としても宣伝しやすいですよ」「なるほど」彼は一口コーヒーをすすり、眉をしかめる。正直、この出版社で出されるそれはまずい。「やはり、気になるのはラストですよね」山本は痛いところをついた。「何パターンかは考えたんですど、正直どれも違和感が……」そう、単純なハッピーエンドも、恋人を忘ようとするという終わり方も、再会させるという終わり方も気に入らなかった。ラストの全てを彼に話し、返答を待つ。「まず、最初から話して言った方が早いかもしれませんね」また、コーヒーを啜った。「主人公は虐められて引きこもる。ヒロインは幼馴染だけど、主人公を救えなかったことを悔やむ」ぱらりと、紙をめくる。「それで主人公の親は彼を慮って、引っ越しをする。いじめられたという事実を隠し新天地で生きさせようとする」何かを紙に書き込んだ。「そこで、主人公は新しく恋をする。でも、もとの幼馴染が忘れられない」ペンで、机をトンと叩く。「メインは主人公が引っ越したあとの時間ですよね?」「はい」「えーっと、罪悪感をメインテーマに持ってってみてはどうです?」「罪悪感、ですか」「主人公はヒロインを怨んでないんですよね?」「そのつもりです」「なら、こう考えてはどうです? 主人公は新しく持ってしまった恋心に苦しむ。 それも、前の場所では恋心を持っていた女性と付き合う直前までいっていた。 いえ、むしろ実際に付き合っていてもいいかもしれませんね。 なのに、突然の別れで思いは枯れないままに離れ離れになる。 一方、ヒロインの方も主人公のことを忘れられない。それに救えなかった。 だから自分が許せないし、新しく恋愛を始めるわけにもいかない。 どちらにも、そこで苦しむ要素が出てきます。 そう心情を解釈するとラストも考えやすいのでは?」僕は毎度のことながら驚かされる。そんなこと考えもしなかったからだ。自己投影し過ぎていたため、広い視野が持てなかったのもあるかもしれないが、悔し紛れに考えているようにしかならない。「やっぱり、山本さん。あなたの方が小説家に向いてますよ」「文才がないから諦めちゃいました」そう言って、彼は笑いながらコーヒーで口を潤した。「まぁ、連載なので少しずつプロットも変わっていくと思いますよ。 それに予告掲載はまだ先なので、慌てる必要もないです」「そうですね、ゆっくり練っていきますよ」僕は筆が早いわけではないが、時間の予定通りに書いていく。ある意味安定しているし、そうでなければ気持ちが悪いのだ。多分、几帳面な性格によるものだろう。その時、地震が起きた。驚き、一瞬体が固まるがそれほどのものじゃないとすぐに落ち着く。揺れ終わってから、山本に「揺れましたね」と確認のようなことをいう。「ですね。震度三くらいですかねぇ」彼も落ち着いていた。この時、今仕事中であろう外国人の恋人を思った。初めて地震にあったとき、大騒ぎしてたなぁ、なんてことを思い出す。出会ったのは大学生のころだった。彼女は留学生として日本に来ていた。そして、何かが気に行ったのかこの国で就職をしたのだ。いや、僕がいたからなのかも知れない。うぬぼれなんかじゃないよな、なんてことを少しだけ自問自答する。コーヒーの液面はもう既に波が静まっていた。こぼれてもいない。僕もまだ飲んでなかったコーヒーに口をつけてみた。やはり、まずかった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――1995年7月17日。期末テストの科目数も、残るところあと少しとなっていた。夏休みも目前となり、学校全体が浮足立っているような気がするが、多分傍から見てしまえば、僕も同じようなものなのだろう。去年の僕は夏休みを喜び迎えはしなかった。むしろ、とっとと終わってくれて構わないとさえ考えていた。友人に遊びに誘われたら行き、普段とやることが変わるわけでもなく、ただ面倒くさい宿題が増えただけだった。中学に入ってからは、姉にとやかく言われるのがうっとおしいので、宿題も早めに終わらすようにしていた。すると今度は逆に、残りの期間をどう過ごそうか悩む時間が増えてしまうのであった。何をするでもなく、無為に時間を費やすだけであった。この時得た教訓とは、時間は潰すものではなく、潰れるものであるということだった。しかし、今年は違う。まず時計の針を6月16日まで戻そう。あの後、僕らは互いに笑いあったのだ、幼馴染として、似たもの同士として。そして、何かを分かり合えた気がした。当然、逃げもしなかった。逃げられないものとわかっていたし、逃げたところで何も変わらないことを知っていた。だけど僕たちはお互いに理解者を得た。小学校の頃のようにとはいえないけど、交わす言葉も会う機会も増えた。日直が起立、礼、と放課後を告げるその言葉が耳に入ってきた。途端、ざわめきが広がる。同級生の話を適当に合わせてクラスを出た。廊下に出るとそこには柏葉がいた。別段、一緒に帰るという約束をしたわけではない。実際、いつも一緒に帰っているわけでもなく、むしろ独りの方が多かったかもしれない。だが、この光景を見たクラスメイトはそうは思わなかったようだ。「お、カップル。じゃあな」なんて、冷やかしてくる。その言葉に柏葉が反論するわけではない。おそらく、認めているのだろう。僕はその言葉に違和感を覚えつつ、それ以外の表現の仕方が思いつかないのだった。「帰りましょう、桜田君」柏葉が言う。とある友人から、お前たち二人は付き合っている割りに冷たい空気が漂ってるな、なんてからかわれたことがある。また別の友人からは、僕たち二人の付き合い方が長年付き添った夫婦の倦怠期とも言われた。確かに甘い時間を過ごすわけではなかった。これは、もともと僕ら二人ともが積極的に何かをいようという性格ではなかったからかもしれない。そもそも、同世代の付き合い方と言うのがいまいち分かっていなかったのもある。することと言えば、たまに一緒に帰るくらいで、その下校も互いに言葉を発することが少ない。僕ら二人ともが口べたということも関係するのだろう。他の同級生のカップルみたく、サルのように体を求める、と言うのも何故かしっくり来なく、たまに一緒に下校をする程度だった。もし、抱け、といわれたとしてもその自信があまりなかった。ただ、彼女を好きだという気持ちだけは強くあった。「また明日」「あぁ、また明日」今日した会話なんてこれだけだ。見れば分かる通り、最後の最後のである。彼女が家に入るのを見守ってから、僕はゆっくり背を向けた。僕の家の方が中学から近いのだが、流石に彼女を見送るという甲斐性ぐらいはある。僕のも彼女の家も、自転車通学が余裕を持てあまして認められる距離だ。自転車で大体二十分と言ったところだろう。そんな長い時間会話がなくて息苦しくないのかと聞かれたら、そんなことはない、と断言できる。むしろ、僕には心地よかった。大切な時間であり、空間だったと今でも思う。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――僕は山本さんと打ち合わせを終えたその日、行かなくてはならない場所があった。うまく行くという自信があっても、やはり緊張というものは心に重くのしかかってくる。ありがとうございました、という店員の声を背に受けて、僕はもう一度気を引き締めた。胸ポケットに入れた小箱がどうしようもなく重い。三月と言う時期にしては少々冷たい風が身にしみる。首に巻いたマフラーは、他の人と見比べて浮いているわけではなかった。吐息が白く漂う。そして、消えた。「よし」何度目かの独り言を呟く。時間に正確な彼女のことだ、もうすでに到着しているだろう。その一方で、僕はホテルの中に入れずにいた。周りからは、ただの不審人物に見られたに違いない。「あら? ジュン?」ふいに後ろから声を掛けられた。心臓が止まりそうなほどに驚いてから、ゆっくり息を吐いて振り向いた。「何をしてるの?こんなところで」待ち合わせしているその人、真紅だった。「いや、ちょっと靴紐がね」なんて平然と嘘が口から出てくることに驚き、「それにしても、ちょうど良かった。遅かったな。どうしたんだ?」と続けた。「仕事よ。少しだけややこしいことになったのよ」「大丈夫か?」「えぇ、別に大したことじゃないの。それにしても寒いわ。早く入りましょうよ」彼女に促され、ホテルへと足を踏み入れることが出来た。いつもこうだ。真紅に引っ張ってもらっている。「長くこの国にいると、ボケてくるのって本当だったのね」前菜を突きつつ、をため息交じりに話しだした。「どういうこと?」僕の方はいつ切りだすかを探るので一杯いっぱいだった。そのせいなのか、ワインの減る量が早い。「良くジョークで、自分以外の外国人が電車に乗っていると、『外人がいる』なんて驚いたって言うのがあるじゃない」「そうだな」落ちが読めてしまい、すでに吹きそうなのを堪える。「今日、そう思ったのよ」吹いた。「そこまで笑うことないじゃないの」恥ずかしいのか、陶器のように白い顔にうっすらと赤みがさしていた。「仕方ないだろ。いつもあんな真紅がそんなこと言うとは思わなかったんだよ」「褒められているのは分かるけど、嬉しくないわ」子供のように、頬を膨らませた。「そいうえば、今日地震あったじゃないか。大丈夫だったか?」笑いが収まらない。「素直に心配している風じゃないのだわ」そう言い、こほんと一つ咳ばらいした。「安心してちょうだいな。初めての時みたいに取り乱したりしてないわよ」「そっか、それならいいや。それにしても、この国にそこまで慣れているとは思わなかった」「私もよ」また溜息をついていた。しかし、どことなく嬉しそうに見えた。「それならさ。ずっとここにいないか?」襟元を正して言った、出来る限りの自然を装って。「どういうこと?」まだよく分かっていない様子だ。僕は胸ポケットから小箱を取りだし、開けて彼女に見せた。中に入っているのは指輪だ。宝石は、薔薇の形にかたどられている。「結婚して下さい」色々考えていたわりに、口から飛び出したのはそんな月並みなことばだった。一瞬、空気が固まった。まずかったのだろうか、なんて僕は思い、目を固く閉じた。そして、真っ暗な中、彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。恐る恐る目を開ける。確かに、彼女は泣いていた。初めて見るかも知れない。呆然としたまま、僕はその顔を眺めていた。「遅いわ」泣きながら彼女はそう言った。「ずっと、待ってたのよ」そう、続けた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――1996年11月7日。べつに何の祝い事があるわけでもない木曜日だ。外は身を切る風が少し痛い。枯れ葉が風に舞う。人に踏まれて散り散りにはまだなっていない。それに、まだしぶとく木にしがみ付いているのも多かった。この日の放課後、僕は柏葉の家にいた。カーテンを閉めた僕の部屋は、薄暗かった。布団の上、柏葉は制服姿のまま横たわっていた。どうしてこういう流れになったのか分からない。ただ、現実が目の前に横たわっていた。暑いわけでもないのに頬に汗が伝わる感触がある。「どうしたの?」柏葉の声はいつも通りの淡々としたものだった。時間は多少遡る。中学三年になり、クラスメイトも教室も変わる。僕と柏葉は同じクラスになった。僕らの関係で変わったことと言えば、一緒に帰る機会が遥かに増えたことぐらいだろう。互いの呼び方は今も変わらず、“桜田くん”と“柏葉”だ。付き合いだしてから、一年以上経った今でも、付き合い方は変わらなかった。そして、三年の三学期にもなればクラスが落ち着かない雰囲気を持ち出す。受験だ。高校受験。一生関わってもくるものだ。僕としても二度目の失敗はしたくなかった。柏葉のおかげで、まともにはなれたものの、この時期になって激しい自己嫌悪を思い出してしまった。そんな時期だった、一人のクラスメイトにからかわれたのは。二週間前の10月24日。この日の天気は曇りだったのを覚えている。「まだ、彼女とヤッてないのかよ」皰面のそいつは、いきなり笑いながら僕に話してきた。「は?」そんなことしか言い返せない。「だぁかぁらぁ、まだヤッてもねぇのかよ」もともと、話をしたこともない奴だった。そんなことを言われても、固まるのは当たり前だ。普段は後ろの方の席に陣取り、いつでも構わず馬鹿でかい声で話をしている男だ。少なくとも、教師からも、普通の生徒からも評価は良くない。いわゆる不良である。そいつがいきなり絡んできた。「お前さぁ、何もしない癖に何で彼女とか作っちゃてんだよ。ふつー、彼女ってヤるために作るもんだぞ」「で?」「お前、賢い癖に馬鹿だろ」絶対に相容れない価値観だと最初に気づいていたが、ここまでとは思わなかった。それからの記憶は残っていない。呆れてものも言えないというのを経験すると、ここまで疲れるものとは知らなかった。ここで、殴ったら何かが変わっていたのかもしれない。だが、彼の馬鹿にしてきた言動に、呆れと怒りを覚えつつ、僕の意識の何かが変わったのだ。そして今に至り、彼女を家へ呼んで、気づけば押し倒していた。「どうしたの?」また聞いてくる。本当に不思議そうな様子だった。「柏葉」そう言って、彼女にキスをした。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――3月8日。結婚式の予定やら何やらを決めたこの日の夜、真紅は珍しく僕の書いている途中の小説に興味を示した。いつもなら、一読者として何も聞かずに楽しみたいというスタンスを持っていたため、驚かされた。きっと、結婚するということを契機に何かが彼女の中でも変わったのだろう。「純粋な恋愛ものに挑戦してみようかと思うんだ」「それって、初めてよね」へぇ、という表情を取った。「まぁな」「どうしてなのかしら? これまで、そのジャンルは苦手だとか言って逃げてたじゃないの」目が多少輝いている気がした。「うーん。懐かしい人からファンレターが届いたんだ」「懐かしい人?」「うん。昔の恋人」一息おいて、「みたいな人」彼女が黙る。それに気づきながらも僕は話を続けた。「その昔の経験を元にして書いてみようかと思うんだよ」僕はなんだか恥ずかしくなっていた。「初恋みたいなものかな。中学生の頃のことなんだ」真紅の声のトーンが下がっている。「ふーん。結末はどうするつもり」僕は一瞬考え込み、ありのままを言う。「まだ考えてないんだ。そこが思いつかなくて、編集さんと話し合ってるんだよ」「そう。そのプロット考えるのは楽しい?」いまいち意味が分からなかった。「? まあ、今までよりかはいいかもしれないね」完全にゼロから作りだすより、楽でもあるし、苦い経験を思い出すのも楽しかった。「そう。それなら、いいわ」彼女はぷいと僕と視線を合わせなくなった。怒りが伝わってくる。真紅は、よほどのことがない限り、怒らない。だからよほどのことがあったのだろう。それに怒り方も違う。彼女と、彼女の腐れ縁の喧嘩を見たことがあったが、もっと激しいものだった。もっと分かりやすく怒っていたのだ。顔色が変わったわけではないが、その名の通り、真っ赤に。だから、この怒り方は僕としても面喰らうものだった。そして、後になって思うがこの時たぶん最悪の言葉の選択をした。「なんで、怒ってんだよ?」「自分で考えなさい」そうぴしゃりと撥ね退けられた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――結論から言うと、彼女とセックスをすることはなかった。原因は僕だ。ハッキリ言おう。勃たなかった。お互い裸になり受け入れようとしたまではよかった。だが、僕の中にこれでいいのかという気持ちが大きく膨らんでいた。柏葉が大切なのは確かだったが、こんな自分自身の気持ちを無視した流れで正しいのだろうか。そんな感情が渦巻いていた。そして、彼女の目を見てしまった。その瞳の中には覚悟めいた何かがあった。そして、彼女の瞳の中の僕は何とも言えない雰囲気を醸し出していた。それに気づいてしまうと、もうどうしようもなくなっていたのだ。何をしても無理だった。ひたすらに苦しかった。二人とも最終的には諦めたのだが、笑い話にする術を僕たちは持っていなかった。「大丈夫だよ」という柏葉の慰めがひたすら痛く感じた。彼女がどんなに大切であっても、言葉にもカタチにも出来なかった。こんな時にやさしさなど無意味だと、僕は悟った。「そういえば、中二で初めて会話した時に持ってたあの本って面白いの?」空気に耐えきれず、そんな間抜けなことを聞く。「面白いよ」一瞬の間をおいて、彼女は答えた。そしてこの日以来、僕らの間で会話は無くなった。1996年12月2日。この日の夜、僕は両親から急に相談を持ちかけられた。いや、相談という類のものではない、彼らの中で結論は出ていただろう。父の転勤が決まったというのだ。つまりは父が単身赴任するということを知らせるつもりだけだったようだ。両親としても僕の受験まっ只中のこの時期の引っ越しなど願っていなかったはずだ。だが、この時の僕はまともじゃなかった。「一緒に行きたい」一も二もなくそう言いだしたのだ。普段は素直に言うことを聞く子供だった僕の反抗に彼らは戸惑っていた。受験はどうするんだ、と怒鳴られた。引っ越し先の状況に合わせる、と頑として聞かなかった。結果、僕と父で新しい家に、姉と母が今の家に住むということになった。つまり僕の意見は通った。いや通させた。何故か?彼女から逃げるためである。二月二十二日、二十三日。二日にわたり、受験は行われた。その県で最も偏差値の高い高校を受けたことは、今となってみてはすごい危険な賭けだったと思う。しかし、もともと中学の成績はよかったので、引っ越す先の試験内容に対応するのもすぐだった。試験の傾向自体、もとの県のそれと変わっていなかった。試験も、普段以上の成果を出せたと自負していた。そして3月3日の合格発表、僕の受験番号は掲示板に掲載されていた。つまりは合格である。だが、不思議と僕の心は躍らなかった。嬉しいとも、当然の結果とも思わない。心が落ち着いてるわけでもない。何かと何かの板挟みでの気持ち悪さを抱えていた。この時、この精神状態が何に由来するのか僕はすでに気がついていた。柏葉だ。彼女のことだ。彼女に引越しのことは言わなかった。言えなかった。そのせいだ。3月4日、つまり合格発表の翌日に僕は移動することになっていた。すでに、新しい家の方には父が住んでいる。荷造りは、滑り止めに合格していた段階で終えていたので、もう今となっては何もすることがなかった。そして移動する日の朝、僕はいつもより多少遅い時間に起きた。顔を洗い終え、朝食を食べ、歯を磨く。いつも通りのことだった。服などを詰めた鞄と、簡単なものを入れた鞄の二つの中身をチェックしていたら、いつの間にか昼になっていた。母と姉の作った昼にしては幾分豪勢な食事を摂る。時計の針は、そろそろ予定の時刻を指そうとしていた。いつもより慎重に靴を履き、玄関から外へ。空は皮肉なほど青かった。外の郵便受けに何かが入っていることに気づいた。やけにパンパンに膨らんだ封筒だった。中学で使ってた辞書ほどはあるかもしれない。宛名を見る。僕宛だった。まだ、母と姉は家にいる。ブーツを履くのに時間がかかったいるのだろう。気づかれないように、肩にかけた小さいほうの鞄に滑り込ませる。二人に詮索されたくなかったのもあるし、心配されたくなかったのもある。なぜなら差出人は分からなかったからだ。名前が書いて無い。そして、一人バス停から別の街まで続いているバスに家族に見送られ、乗り込む。異様に大きく膨らんだそれを恐る恐る開封する。中には一冊の分厚い本が入っていた。背表紙も見えないので、何の本か分からない。封筒を逆さにし、中身を滑りださせた。そして、ようやく気付いた。柏葉の本だ。あの時の本だった。読むことはなかったが、その表紙とタイトルは覚えていた。その本の重みが腕にのしかかる。きっと分厚いせいだ。そう思い込もうとする。思い込みたい。多分、彼女は引越しのことなどすでに知っているだろう。教えていないのに。どう考えても、あのおしゃべりな姉のせいだ。でも、恨むことが出来なかった。むしろ、感謝してさえいた。少しだけ、胸のモヤモヤが薄れた気がする。柏葉が求めていることは一つだけだろう。十分に分かる。行く前に、会いに来てほしい。そんなシンプルな願いだ。泣きそうになる。泣くな、と自分を叱りつけた。それでも、いつの間にか涙はこぼれた。彼女の言葉じゃないやさしさに触れたからの涙なのかもしれない。彼女を迎えに行く勇気が無かったことを泣いていたのかもしれない。僕らの呼び名が変わらなかったことがこの結末の原因なのかもな、なんて呟いてみた。こうして、何も言えないまま僕の初恋は終わった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――2010年3月9日夜。「えっとでは、いつも通り推理物ということですか」「すみません。どうしても書くわけにはいかなくなったんです」山本の声は電話越しにも困ったというのが分かるものだった。「プロットは最初から最後まで立ててましたので、大丈夫とは思うんですけど……」「それもそれでちょっと……」「本当にすみません」「とりあえず明日、伺いますのでその時に詳しくお聞かせ下さい」「いえ、社の方に行きます」なんとかなるのだろうか。いや、なんとか交渉しなくてはならなかった。2010年3月10日。「でも、どうしてです?」山本は尋ねた。午前11時、ブースの外では慌ただしく人が働いている。「すみません。理由を言う訳には……」あまりに個人的すぎる。「まぁ、代案を見せてもらいましたが、こっちの方が安定してるというのは確かですしね」「いつも通りだからですか?」つい聞いてしまう。「他の編集にも聞いてみましたが、十分に面白いという意見でしたよ」僕は、ほぅ、と胸を撫で下ろした。だが、山本はつづけた。「ですが、上の方の人間としては、先生が初めてのジャンルに挑戦するということだけで宣伝になったのに、と惜しんでます」「そうですか……」「ただ、予告を刷るまで余裕があったのがよかったですね。何とかなりそうですよ」「本当ですか!?」つい、身を乗り出してしまった。「本当です。今までの習慣が良かったですね。先生なら原稿を落とすことはないという評価でした」「でも、すみませんでした。わがままに付き合わせてしまって」ひたすら申し訳ない気持ちだったが、まだ連載開始まで期間があるということで許してくれた。落としたわけではないということが、今僕にとっての唯一の救いだった。頭を下げる。彼はゴホンと咳ばらいをした。「それなら、今度夕食でも奢って下さい」頭を上げ、前を見た。彼は笑っていた。「そういえば、のりさんは元気ですか?」何でもないように尋ねてくる。流石に、彼の姉に対する想いは特に気づいていた。「えぇ。ならその時、呼んでおきましょうか?」いつもなら、そんな気を回すことなどない。姉は極度のブラコンだが、弟の僕もシスコンに近かった。だが、今流石に拒むわけにはいかない。そして山本ならいいかな、なんて僕は思ってしまていたわけで。「ありがとうございます」こんなに嬉しそうな彼を見たのは初めてだ。「それと、ご婚約、おめでとうございます」彼にはもう、僕が恋人にプロポーズして成功したということは伝わっているらしい。「ありがとうございます」僕は照れながら、そう答えた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――出版社をそのまま出た僕は、人並みの中考え事をする。あの時、真紅に言っていなかったことがある。どうしても言えなかったことがある。真紅を愛していることは、それは間違いなく正しいことなのだが、柏葉が今でも好きなのだ。初恋は終わったが、火はくすぶり今でも残っていた。その感情を頭から振り払うように、携帯を取り出し、電話をかけた。誰に? もちろん真紅にだ。「今から帰るけど、仕事終りに一緒にどこかに行かないかい?」彼女の今の都合を聞き、大丈夫とのことなので尋ねた。「そうだね、じゃあ、七時頃にそっちの会社まで迎えに行くよ」出来る限り、手短に済ませたつもりだが、思った以上に会話してしまっていた。電話を切り、ポケットにしまう。その時、人ごみのなか、一人の女性とすれ違った。見覚えのある顔、いや忘れられない顔だった。僕は思わず立ち止まってしまう。瞬間、周りの人の流れなどどこかに消えてしまっていた。少し後ろで、彼女も立ち止まっている気配がした。僕たちはきっと、繋がっている。僕が振り返れば彼女も振り返るし、振り返らなければ同じように振り返らないだろう。これは僕の意志でもなく、彼女の意志でもない。いわばハッピーエンドの続きだ。振り返ってしまえば今を失ってしまうかもしれない。それが途方もなく怖く、それでも代わりに得られるものは輝かしく思えた。僕達の関係は儚い。友達ではいられないことも、恋人には戻れないことも分かっていた。永遠のはつ恋と呼ばせて。せめてはつ恋と呼ばせて。そう誰かに願ったこともある。けど、また逢いたいなんて願ったこともない。思い出なら思い出のままで、と願っていた。そんな中、願いが最も良い形で悪趣味に叶っている。空は、別れの日と同じくらい皮肉に青い。その青さのせいだ。振り返り、彼女を探し、見つけた。そこにあるのは、背中だった。昔より長くなった髪が、風などないのに、一瞬揺れていた。まるで振り返り、前を向きなおした直後のように。僕は思わず苦笑してしまった。これでいいんだ、と。僕らは歩きだす。二人の気配は人並みの中に消えていった。ローゼンメイデンが普通の女の子だったらオムニバステーマ『小説』はつ恋 了
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