『猫と鏡と私』
私が目を醒ました時、既に薔薇水晶はベッドの傍らには居なく、残っていたのは私の理性を溶ろけさすような彼女の残り香だけだった。……と思っていた。彼女が寝ていた場所には猫が丸くなっていたのだ。……ああ、そうか薔薇水晶は猫になったのか。私は再び横になる。ちらりとみた時計の針は既に十二時を差しているところから昼、もしくは夜中だろうが、この外界明るさから昼間だろうと分かる。……ぐきゅる~お昼か、と思うとお腹が空くのは人の性。腹の虫に急かされた私は、ベッドから落ちるように起きた。猫も私がフローリングに叩きつけられた音で目を醒ましたのか心配そうに、にゃん、とだけ鳴いた。叩きつけてヒリヒリ痛む背中を擦りながら私はリビングへ降りると、思った通りに薔薇水晶の姿は無く、テーブルに昼食と置き手紙だけが置いてある。『お姉様達と買い物に行ってきます。昼ご飯はテーブルに置いておきました。温めてください。夕方には帰ります 薔薇水晶』ああ、なるほど。水銀燈のお姉様達と買い物に行ったのか。彼女達のような年頃には可愛いお人形やアクセサリーを買い漁るのが普通なのだろう。もちろんそれぞれベクトルの方向性は違うにしろ、だ。例えば真紅、水銀燈はくんくんグッズ、雛苺は苺柄のものや、あのワニのようなゲテモノな人形が好みらしいから、あんな種類ものを求める。しかし、薔薇水晶は何が好きなのだろうか。私には分からない。それは私と薔薇水晶であまりそういった類いを買いに行かないからだろう。それは私のベクトルがリボンやネックレスに向いていないだけでもある。私の場合は言わずもがな食べ物だ。苺柄のリボンと苺クレープが並べてあればクレープを迷わず選ぶ、そんな感じだ。……クレープの事を思ったらますますお腹が空いた。私は普段から三大欲求に素直に生きるようにしているのだ。しかし食欲があるのなら睡眠欲があるように、まずはこの目蓋をどうにかして閉じようとする睡眠作用を払い除けるべく、顔を洗おうと私は洗面所へ向かった。洗面所の大きな鏡の横にはドライヤーを使った跡がある。薔薇水晶の慣れないお洒落の悪戦苦闘ぶりの傷痕、とでも言おうか。そんな可愛いらしい妹に心奪われながら私はドライヤーを片付け、正面を向いた。鏡が私を写す。私は鏡がキライだ。鏡には私が見たくないものまで写ってしまうような気がして。眼帯を外す。何年と毎朝、この眼帯を外しているがこの瞬間だけは慣れない。そして鏡には眼帯を外したいつもの私、ではない私が映る。眼帯が無い私は過去の私で、今の私ではない。思い出したくない過去の私。だけど消されることの無い確かな『私』なのだ。嗚呼、鏡に映るは醜い私。決して消えることの無い傷を背負った私。うみゃーん猫が鳴く。お腹が空いたのだろうか。昼飯を取られたのではたまったものではない、と私は蛇口から絶えず流れる冷たい水で顔を濯いだ。うみゃー時既に遅し。ラップのかけられた昼飯を手慣れているのだろうか、丁寧にサーモンの部分だけ破り、ベッドの猫は私のおかずにしゃぶりついていた。「……うみゃーん」うみゃーご……ネコ語を会得するのはもう少しかかるらしい。私は仕方なく席につき、冷たい昼飯を頂くことにした。うみゃーん、と猫が椅子に座っていた私の膝元へ降り立ち、幸せそうに横になる。……私とネコの一日はもう少し続くらしい。『猫と鏡と私』
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