“思い出”の価値 四箇所目
今日も、二人は争っている。何故争うんだろう?私は二人とも、大好きなのに。そう伝えると、いつも二人はお互いに向ける視線よりももっと、きつく冷たく嫌悪感に満ちた視線を私に向ける。だから私は何も言わない。何一つ理解しない。そしてただ笑って、そして困って右往左往する。何もわからない振りをする。まだまだ幼い振りをする。そして時々こう呟く。「白痴になりたい」と。幼い頃、何があったのかは覚えていない。何故オディールと暮らすことになったのか、その前はどうしていたのかも覚えていない。気がつくと、私はオディールと暮らしていたのだ。私はオディールが大好きで、オディールも私が大好きだった。オディールの家はそこそこ裕福で、とても居心地のいいふかふかのソファがあった。私はオディールとそのソファが大好きだった。オディールは優しかった。そして、とても綺麗だった。オディールはいつも微笑んでいた。窓から見える並木道を、二人で眺めるのが大好きだった。オディールは泣かなかった。だから、私も泣かなかった。いつもいつも二人で、ニコニコと微笑んでいた。とにかく私達はお互いが大好きだった。ある日、オディールが巴の家に来た。オディールは私の顔を見ると、泣きそうになりながら笑みを浮かべた。そして一緒に帰ろう?と言った。私が頷こうとすると、巴が私を隣の茶の間に押しやった。襖の隙から玄関を伺うと、巴が何か呟き、オディールが顔色を変えて走り去るのが見えた。巴は私の所に来て、私を抱きしめながら何度も何度も大丈夫、守ってあげるから、と囁き続けた。私はそれを聞くと、オディールが巴の家を見つけなければよかったのにと思った。まるで呪詛のようだった。オディールはそれから毎日私の所へ来た。最初来た日からしばらくはオディールの顔色が悪かったけれど、しばらくすると巴の方が顔を青くする日が多くなった。最初は穏やかな話しあい、懇願の応酬だったのが、罵声の叩きつけあいになった。日に日に罵倒は大きく酷くなっていった。そしてある日、私はそれを止めようとした。その時二人は、嫌悪の眼差しを私に向けた。その眼差しが私は、怖くて怖くて嫌で嫌で仕方なかった。今日も二人は叫んでいる。私はもう堪えられない。二人の私を見る眼差しはとうに冷め切り、ただただ異様な光だけが灯っている。逃げよう。私は二人の横をすり抜け、道へ走り出る。二人は私に何か叫んだが、すぐにお互いへの罵声へと変る。なにかにぶつかった。どれぐらい走ったろうか。気づかなかったけれど、日は沈みかけている。足には鈍痛が走り、疼いている。「おや、お嬢さん。どうかなさいましたか?」顔をあげると兎のお面をした人がいた。頭のおかしい人だろうか。けれど、その眼差しはかつての二人の眼差しによく似ている。夕日の色によく似た色だ。「なんでもないのよ」「おやおや、そうですか。思いつめた様子で駆けていらしたので、てっきりどうかしたのかと」「そんなことないのよ!ヒナは元気にかけっこしてただけなのよー」「無理はよくないですよ。そんなふうには、とても見えませんでした」「…別にそうだとしても、あなたにどうこう言われるいわれは無いのよ」「これは手厳しい。しかし、あなたのように幼い少女が、暗い顔をして駆けていれば誰しも声をかけるでしょう」どうもさっきから、こいつの言葉の端々に笑いが滲んでいるような気がする。何がおかしいんだろう。「兎さんはやさしいのー。でも、ヒナ、本当に平気なの!」いつも以上に幼い口調で答える。「本当ですか?何か、欲しい物があるのでしょう?」「ヒナは欲しい物なんて何にも無いの!」何故か悲鳴のような声が出てしまった。欲しい物はある。あのソファの上で過ごす時間と、あの苺大福が。「では、何か願いはありますか?」「なにも、ないのよ」一瞬、二人の事が頭によぎる。すると、兎は一つため息をついた。「私はしがない商人、思い出と引き換えにあらゆる願いを商うものです。 私は私を求めるものの前にしか姿を現しません。 私があなたの前に立った時、あなたは何かを求めたはずです。 …ところで飴はいりませんか?ああ、毒ではありませんよ」兎はそういうと、上着から飴を取り出し差し出してきた。兎の動作のあまりの自然さに、思わず素直に飴を受け取り口に含む。何故か、わたしの考えを読まれているような気がする。ぼんやりとそんな事を考えていると、兎がまた何か喋り始めた。「思い出はありますか?喜びはありますか?苦痛はありますか?願いは、欲しい物はありますか?そして、どうかなさいましたか?」続きは聞き取れない。何かぼんやりとした、景色が現れてくる。薬だったのだろうか。どこかで見た風景が目の前をよぎる。初めて会った時の、オディールの笑顔だった。有体にいえば、今までの人生、兎にぶつかるまでの人生をすべて眺めた。薬?そんな馬鹿な。それは無い。口の中の飴玉が今解けきったばかりだというのに。「…今のはなんだったの?」「あなたの思い出ですよ。どうです、あなたはどうしますか? 私は兎、あらゆるものから逃げ回ります。 しかしあなたは兎ではありません。 もう一度、もう一度聞きましょう。 どうかしましたか?喉は渇いていませんか?願い事はありますか? もしそうならば一言。思い出を代償に速やかに願いを叶えましょう。」もしかしたら、本当なのだろうか。そうだとしたら、私は何を願おう。大事な思い出も、今となっては日々の苦々しさに僅かに華を添えるだけ。思い切って渡してしまおうか。けれど、私は二人が大好きだ。 そう、とても好きなのだ。思い出はだから私はあの視線を向けられることがたまらない。二人が罵倒しあうのが死ぬほど嫌いだ。二人の友情を願おうか。いやいや、二人が仲睦まじくなった所で私が二人を二人とわからなければ意味が無いのではなかろうか。別に意味が無くても、きっとそれが最良の、私にとっても最良の選択だ。二人はきっと、両側から私に手を差し伸べてくれるだろう。けれど私は臆病だ。そう、まるで兎のように。だから、若干躊躇いながらも、別の願いを口にした…。私は今、夢を見ている。死ぬまで覚める事の出来ない、白痴の見る夢だ。私にはかわいい二人の娘がいる。一人は美しく、一人は凛々しい。私は二人が大好きだ。とても、とても。そう、とっても。とてもとてもとても好きだ。三人きりの夢はとても楽しい。娘達は常に笑顔だ。そう、そうでなければ…。―――夢は夢であるから美しい。夢におぼれては意味が無い。あの子はそれを理解していながら、夢に溺れてしまった。実に残念です。あの子は兎になってしまった。夢の中にひたすら潜り続ける私のような兎に。彼女の器は壊れ、白痴そのもの。そのうち魂にも黴が蔓延る事でしょう。どんな願いも願いは願い。思い出を頂けるのなら、私はそれを叶えるだけ。さあ、私も彼女の思い出に溺れるとしましょう。
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