第二回 「The Mirror」
つくづく日が短くなったものだと、制服姿の少女は濃紺色に塗りつぶされた空を見上げながら、感慨に耽った。 ほんの二ヶ月前、まだ夏真っ盛りの頃ならば、夕方の六時半など充分すぎるくらいに明るかった。それが、十一月に入ろうかという今時分は、街灯がなければ足元も覚束ないほどに暗い。 とは言え、部活で帰りが遅くなりがちな彼女にとっては、もう慣れっこの状況である。 それに、ここは一軒家が建ち並ぶ住宅地であり、ブロック塀を隔てた数メートル先には人々が眩い光に満たされて暮らしている。街が寝静まるほどの深夜でもない。 身の危険に襲われることがあっても、すぐに助けを請えるから、夜道の独り歩きでも心細くはなかった。 しかし、どうしたことか。今夜に限っては、先刻から息苦しいほどに不安を感じている。これが虫の知らせというものか。 できるだけ陽気なポップスを胸裡で唱いながら、少女は家路を急いだものの―― 「……やだなぁ。電球が切れたのかしらー」 いつもなら煌々と灯っている公園の水銀灯が、暗いままだった。そして、この公園を突っ切るのが、家までの最短距離でもあった。 公園の入り口に掲げられた『チカン注意!』の看板が、嫌でも少女の不安を掻き立てる。ついつい周辺に縋るような眼差しを向けるが、人影は見当たらない。 昼間は多くの児童が遊ぶ公園も、日が暮れて勤めを終え、ひっそりと静まり返っていた。どうしよう? 強行突破すべきか。遠回りすべきか。 「走り抜けちゃえば平気よね、うん」 幸か不幸か、少女は子供の頃から駆け足が速かった。運動会でも、徒競走はいつも一番。そこに慢心や油断がなかったと言えば、嘘になる。 けれども、彼女は光に溢れた我が家に帰り着きたい一心で、すべての不安要素を無視した。一刻も早く、胸の支えた想いを、馬鹿げたことと笑い飛ばしたくて。 暗がりの中を、息を弾ませて疾走する。カバンを握り締めた手に汗が滲んで、気持ちが悪くなる。 だが、もうすぐ公園を抜けようかというところまで来ておきながら、少女はギクリと歩を止めてしまった。見開かれた双眸には、恐怖の色が浮かんでいる。 少女は、見通しの悪い道には必ず設置されているカーブミラーを凝視していた。より正しくは、ミラーに映る自分と――自分の真後ろに貼り付くぐらい近づいた、何者かの黒い影を。 『やぁ……ドールズ』 低く囁かれた声は、一切の感情を伝えてこない。悲鳴を上げけた少女の唇は、次の瞬間、何者かの手によって塞がれた。顎も砕けよと言わんばかりの握力で。 恐怖のあまり竦んでしまった彼女に、抗う暇などなく……鳩尾に、焼けるような激痛が与えられた。ばかりか、なにか固い物体で体内を蹂躙される感覚が続く。 ――それが、鋏のような鋭利な刃物で刺され、内臓を裁断されているのだと理解できたところで、彼女はおぞましさに負け、自ら意識を絶ってしまった。 § 動機と環境――人を含めた生物が種の存在価値を一変させるには、少なくともこれらを自前で揃えるか、あるいは、どこかの誰かさんにお膳立てしてもらわねばならない。 後者においては、ただの成り行き任せ……状況に流されているだけとも言えよう。けれど、臨機応変に対処できるものが進化して、この世界を創り出してきたのも、紛れもない事実。 人間が食物連鎖の頂点に立てたのも、餓えをしのぐため数多の環境に適応し、それと同時に脳容量を増やしてきた生存戦略の賜物である。 この課程で得た他の動物と決定的に異なる点は、趣味や興味などの、種の存亡とあまり関係ない幅広い動機によって様々な環境を選べる――つまり、夢を描き、そこを目指せることだろう。 ……では、いざ夢を叶えようとすると、どうだろう? なかなか理想どおりにいかないものだと痛感し、挫折の屈辱にまみれることも少なくないはずだ。 莫大な努力と時間を費やしても、大概は徒労に終わる。しかし、座して待つだけの者には、滅多に機会など与えられない。 ならば、いっそ夢想などしなければ精神衛生上いいのかと極論に走りたくもなるが、それも大いなる過ちである。 可能性の坩堝から未来という微細な宝玉を摘出する作業には、夢という繊細なプローブが必要不可欠なのだ。 その日の夕食時―― 内向的でヒキコモリの少年、桜田ジュンは、いつになく上機嫌だった。それはもう、天にも昇る心地と喩えられるほどに。 彼を、この上なく幸せにさせていたのは、目前に差し伸べられた変化の糸口を掴んだ、その確たる実感である。未来を手繰り寄せることが、愉しくて仕方がなかった。 昨日までの引っ込み思案な彼が、いまの自分を見たら、気でも違ったのかと訝しむこと疑いない。 「なにか、愉しいことあったのぅ?」 姉の桜田のりが、控えめ訊ねた。弟が奇妙に浮ついた調子なのに対し、なにやら余所余所しい。まるで、腫れ物にでも触るかのような態度だ。 けれど、少しでも事情を斟酌すれば、それも仕方のないことと言える。普段、このような姉弟のコミュニケーションは、ジュンの冷たい一睨で終了していた。 だからこそ、普段どおりではないジュンの様子に、よからぬ予感を覚えてしまったのかも知れない。 おどおどした姉の態度に、ジュンは微かな苛立ちを宿した目を向けて……徐に、鼻で笑った。「まあね」 まさかジュンが返事してくれるとは思っていなかっただけに、のりの驚きたるや大層なもので。 しかも、「頼みがあるんだけど」なんて嬉しい不意討ちを続けられては、感極まって涙に咽ぶ始末だった。「な、なに泣き出してんだよ。アホか」「ちょ、ちょっと産気づいちゃって――」「ウミガメか、おまえは。感動のあまり泣くのは勝手だけどさ、話の腰を折らないで欲しいな」「……ご、ごめんね」「いちいち謝るな。苛つくんだよ」 などと、ジュンは唇を突き出して姉から顔を背けながら、顰めっ面をする。 だが、それが人づきあいの下手な弟の照れ隠しであることなど、のりは充分に理解していた。曲がりなりにも姉である。指先で目元をひと拭いすると、気丈に微笑んで見せた。 「それで、ジュン君のお願いって、なぁに?」「昨日、チラシ持ってきただろ」「スーパーの特売の?」「ボケッ! マジで脳ミソをペンティアムに入れ替えてやるぞ!」「ひいぃ……ごご、ごめんなさいぃ」「だから、いちいち謝るなって。それから泣くな、鬱陶しい」 だってぇ、と抗議の涙目を向ける姉を無視して、ジュンは本題を切り出した。 「人形製作の教室ってヤツだよ。あれに通ってみようと思うんだ」「えっ?」 そう呟くなり、のりは硬直した。そして、やおら小刻みに震えだしたではないか。 ジュンが怪訝そうに眉を顰めたのと、ほぼ同時。のりは、オヨヨヨ……と布巾を握りしめて、滝のように涙を流し始めた。 「だーからさー、あぁもう! 何度も同じこと言わせるなよ、めんどくさいな!」「だって、だって、ジュン君がぁぁ…………ずびびび」「……とにかく、受講料を工面して欲しいんだけど」「ぬごごご……えぐううぅ……」 まさに滂沱。まともに会話できなくなるほど号泣することか? ジュンは呆れたが、姉のココロ、弟知らず。 一向に泣きやみそうもない姉を疎ましく思い、ゲシゲシと足蹴にしたい衝動に駆られた。実際、いつものジュンなら、躊躇なく粗暴を働いていたはずだ。 けれども、やはり今日の彼は理性的で、完璧に感情をコントロールできていた。 結局、のりが落ち着いたのは、食事から小一時間も経ってからだった。その間、ジュンは自分でも驚いたことに、辛抱強く待っていたのである。 その甲斐あってか、受講料について姉の快諾を得られた。 ジュンの前に立ちはだかっていた二つの大きな問題は、これで一方が解決されたわけだ。 自室に引き上げ、ジュンは日課のインターネット通販を始めた。しかし、イマイチ没頭できない。 彼の視線は液晶ディスプレイに注がれているものの、漠然としたものだ。彼の思考を占めているのは、別のこと。 「薔薇水晶、かぁ。……可愛かったよなー、すごく」 悶々と記憶を呼び覚ませば、身体の芯に鈍い疼きを覚え、知らず熱っぽい吐息が漏れる。 あんな美少女と一緒に、これから人形を製作していくのかと考えるだけで、ジュンはあまりの僥倖に失神しそうだった。 パソコンのキーボードを脇に押し退け、紅潮した顔を隠すように机に突っ伏して、また溜息ひとつ。 「桜田ジュン、十四歳。初めて本気で惚れちゃったかも――いやいやいや。そんな不埒な気持ちで、受講したんじゃないって!」 しかし、どうにも顔がニヤけるのを抑えきれない。 もしも……もしも……あのプレハブ小屋で二人きりになったりしたら、どうなるだろう? その可能性は、なきにしもあらずだ。 講座の定員は、二名。作業スペースやカリキュラムの進捗状況によって、マンツーマンになることは十二分にも考えられる。 「って、なにくだらない期待してるんだよ、僕は」 世界に一体だけのオリジナル人形を創る。それだけだ。講師と懇ろになることが目的ではない。 いくら思春期の少年とはいえ、ジュンだって物事の分別、公私の区別くらいつけられる。なにより、彼は彼なりに紳士のつもりだった。 ――のだが。 『快楽ふたり遊び』 『おねがい★ばらすぃティーチャー』 『魅惑のどきどきモンスター』 それなんてエロゲ? な語句が、どうしても頭に浮かんできて、にたぁ……と口の端が歪むのを止められない。 激しくうねる熱情の間へと、果敢に立ち向かう愛と夢と本能の戦士。彼は煩悩最前線! なんて、馬鹿げたナレーションさえ聞こえてきそうだ。 ジュンは伏せていた半身を跳ね起こすや、がしがしと髪を掻き乱した。 「だぁー! ぬぁー! もひー!」 じっとしていたら頭がおかしくなりそうで、ジュンは奇声を発するや三点倒立をしたり、ベッドの上で座禅を組んだり、ラジバンダリ……。 その後も疲労困憊の末に眠りに落ちるまで、ずっと奇行を繰り返すジュンだった。 一階の居間で、姉が涙ながらに天井を見上げ、タウンページで懸命にエクソシストの電話番号を探していたことなど、少年は知る由もない。 § それから三日後の土曜日―― 待ちに待った、初の受講日である。チラシを持って訪ねた日に、講義は毎週土曜の朝八時からと取り決めたのだ。 薔薇水晶と逢えることもあって、ジュンは夜型人間であるにも拘わらず早起きして、朝食まで摂るほどだった。 「ジュン君が土曜日に早起きするなんて、夢みたいねぇ」 さりげに姉が失礼なことを口走っても、ジュンは意に介さない。なぜなら、最高に上機嫌だからだ。 トーストを頬張りながら、鼻歌さえ口ずさむ弟の様子に、のりは喜びと不気味さの綯い交ぜになった視線を注いでいた。その比率は2:8。 この数日、すっかり人が変わってしまったジュンを見るにつけ、まるで別人が乗り移ったかのようだと、のりは不安を感じないではいられなかった。 悪霊とか、トカゲ型宇宙人あたりが、弟に成りすましてるんじゃないかしら……。今日はエリア51の連絡先を調べてみなきゃ! なんて奇妙な決意すらしたほどだ。「それじゃ、行ってくる」「ひ、一人で大丈夫なの? 忘れ物ない? これ、八方除けのお守りだから持っていって」「はあ? いらないよ、そんなもん。心配すんな」「で、でもぉ……つい最近、隣の市で女子高生が行方不明になって、騒がれたばかりよぅ。帰りは何時くらいになるの? あっ、確か『バールのようなもの』が仏壇に――」 「あぁもう、うるさいなっ! 無用の長物だっての」 いい加減に疎ましさも限度を超え、ジュンは逃げるように自宅のドアを閉ざした。 実際、彼の本音は、姉の過保護下から離れたがっていたのかも知れない。それが自立心の芽生えか、ただの現実逃避なのかは定かでない。 自宅から遠ざかるほど、心細さは募る。だが、その中にあって少年は、不思議な開放感を覚えていた。 (随分と、清々してるじゃないか) 自身の中に声を聞いたとき、遂にきたか――と、ジュンは思った。 この三日間、完全な沈黙を保っていた、あの『怖れ』だ。 (冷たいヤツだよな、おまえ。さんざん世話になっておきながら、姉ちゃんを鬱陶しく思うなんてさ)(だから、なんだよ) 場所は、自宅と教室の、ちょうど中間くらい。少年の胸中に不安な翳りが生まれるのを、手ぐすね引いて待っていたのか。 ジュンは忌々しげに歯噛みしながら、声にしない言葉を続けた。(おまえだって、僕の立場なら同じことするんだぞ、きっと) そりゃ違いない。『怖れ』はジュンが拍子抜けするほど、あっさりと認めた。 (あんなアホにつき纏われたんじゃあ、ストレス溜まりっぱなしだからなー)(……別に、そこまで言う気はないけどさ)(おぉ? 今更、いい子ぶるなんて小賢しいんじゃないか? いい性格してるよな、おい) うるさい。どいつもこいつも、口を開けば苛つくことばかり言う。この世にいるのは加害者ばかりだ。そんな被害妄想が、ジュンの胸に溢れてくる。 (おまえ、もう黙れよ。二度と出しゃばるな) ジュンは憤然として、胸裡の『怖れ』に辛辣な想いを叩きつけた。 しかし、それは呆気なく跳ね返されて、思いがけず彼を息苦しくさせた。 (おいおい、現実から目を背けるもんじゃないぜ) いや、跳ね返ったわけではない。 (忘れるな。俺は、おまえだ。鏡写しの自分同士なんだ) そうなのだ。『怖れ』に向けた言葉は、すべてがジュンに向けた言葉でもある。罵詈讒謗を浴びせれば浴びせるほど、自分自身を罵っているのだ。 他人に向ける悪口はコンプレックスの表れだと言うが、それは自分の内に宿る『別の自分』にも、当てはまるのかも知れない。 そうして、また憂鬱になって……苛立ちを罵声に変えて自らを貶める。なんと滑稽な自虐だろうか。 (どんなに俺を嫌っても、おまえは俺を切り離せない。それは、俺も同じだ。正直、おまえの女々しい根性には辟易してる。腕を自在に動かせるものなら、ぶん殴ってやりたいくらいさ) 黙れと命令しておきながら、逆に黙らされてしまうジュンに、『怖れ』は戯けた調子で続ける。(あぁ……でも、そりゃむしろ幸運なのかもな。リストカットなんて自傷行為すら、俺の意志ひとつで可能になっちまうもんな) 確かに、そのとおりだ。自殺者とは、誰の裡にも宿る『怖れ』に身体を明け渡してしまった逃亡者でもあるのだろう。 その点では、ジュンを取り巻く環境は、まだまだ恵まれたものだった。こうして『怖れ』と対等以上に語らうことができるのも、ココロの余裕を生み出せる源があるからだ。 (結局なにが言いたいんだよ、おまえ) すっかり気勢を削がれて、吐き捨てるように言ったジュンに、答えが返される。それは意外にも、穏やかで親しみの籠もった声音だった。(おまえに向けられた暴力は、俺にも降りかかる。自分だけ被害者ぶるなってコトさ) こいつ、口は悪いが根はいい奴なんじゃないか? ジュンの想いが伝わったらしく、『怖れ』は、へっ! と嘲笑った。 (お人好しだな。情けは人のためならずって言うだろ。おまえが浮かれすぎて足元を掬われるのは勝手だけど、巻き込まれる俺は、いいとばっちりなんだよ)(ああ、そういうことか)(そういうこった。ま、少しは黙っててやるから、おまえの望むままにやってみな) ジュンは思った。僕が望んでいることって、なんだ? さっき『怖れ』にぶつけた、ふたつの命令句が脳裏に甦る。その逆が、コンプレックスとなって表層に浮き上がった本心なのか。 黙れ――黙りたくない。もっと普通に、誰とでも会話したい。 出しゃばるな――鬱ぎ込んだまま、世界から切り離されたくなんて、ない。 「僕は……」 だから、『怖れ』を抱いて俯きながらも、ここに立っている。そして、ジュンの求めた舞台は、もう眼前に用意されていた。 あれこれ考えながら歩く内に、薔薇水晶の待つ屋敷へと着いていたのである。 「さて、と」 二度目の訪問ながら、ジュンの身体は震えた。それが極度の緊張によるものか、はたまた武者震いだったのかは、彼だけが知ることだ。 とにかく、浮かれすぎないように。『怖れ』の忠告を聞き入れたつもりはないが、ジュンは気持ちを引き締め直して、門柱を潜った。 今度は、約束をしてあるだけに躊躇いはない。母屋のドアベルを鳴らすと、すぐに離れのプレハブ小屋から、薔薇水晶が出迎えてくれた。 日を改めて目にする妙齢の乙女は、左目を眼帯で隠しているにも拘わらず神々しいまでに美しく――にこ、と向けられる無垢な笑みが、少年の胸を妖しく掻き乱す。 「いらっしゃい。待ってたわ」「ど、ども。今日から毎週、お世話になります」「そんなに畏まらなくていい。気楽にして」 それは無理な注文である。ここ暫く、姉以外の他人とは没交渉だったために、すっかりコミュニケーションが不得手になっていた。その上、相手が美少女ときては……。 だがしかし、ここで臆したら、また『怖れ』がしゃしゃりでてくるのは必定。ジュンは唇を引き結んで、喉まで迫り出していた弱音を呑み込んだ。 彼の硬い表情を、薔薇水晶は初心者にありがちな緊張と見て取ったらしい。柳眉で八の字を描いて、苦笑った。 「まあ、最初だものね。それじゃ早速、工房の方へ」「よろしく。あ、受講料は、銀行に振り込んどいたけど」「確認してる……昨日」 薔薇水晶の口振りは凍てつく真冬の夜気のように冷ややかで、それでいて昏冥に妖しく揺らめく水面のような、得体の知れない怖ろしさを内包している。聞く者に、息苦しさを感じさせる響きがあるのだ。 うっかり近づけば進むべき道を見失うばかりか、ワケの解らない淵に嵌まるとか、引きずり込まれてしまうかも知れない。 溺れて、黄泉竈食ひの様相を呈して、もう元の生活には二度と戻れなくなるかも……。 ジュンは前をゆく彼女の揺れる髪を見るとなしに眺めながら、自嘲気味に唇を歪めた。 ワケの解らない世界に自ら飛び込んでおいて、今更なにを怖れる必要がある。引き返したところで、空虚な時間を持て余すだけ。 そんな生活から抜け出すことが、本来の目的だった。どんなカタチであれ変われるのなら、むしろジュンにとっては願ったり叶ったりだ。 (やってやるさ。とことん突き進んでやる。なにがあっても後悔なんてしないぞ) 前方には、プレハブ小屋。このパンドラの箱に収められているのは、至福と愉悦か、それとも悪夢と苦刻か。 叶うものなら前者であって欲しいと願うのは、ジュンに限ったことではないだろう。 薔薇水晶と、ふたりきり……。特殊な状況は、特別な感情が生まれる土壌となり得る。あるいは、ジュンと薔薇水晶の間にだって―― ――が、しかし。 期待とは所詮、欲により歪められた夢想。ご都合主義と現実が乖離していることは、ギャンブルという卑近な例を挙げるまでもない。 そしてジュンの期待も多分に漏れず、呆気なく失望に変わった。 「そっちの彼が、もうひとりの受講生さん?」 プレハブ小屋には、既に先客がいたのである。年の頃は、ジュンと同じくらい。陶器みたいに色白な肌を控えめな化粧で包み、つややかな長い髪を背中へと流している。一般的に見て、美人の部類に入る少女だ。 その、どことなく儚げな印象を抱かせる乙女は、初対面だと言うのに気負った風もなく、話しかけてきた。「キミ、若いね。何歳?」 いきなり歳を訊いてくる馴れ馴れしさにジュンが閉口していると、さすがに空気を読んだらしい。どこの誰とも知れない娘は後頭部に手を遣り、てへ、と照れ笑った。 「先に自己紹介するのが礼儀よね。もしかして、怒ってる?」「別に、そこまでじゃないけど。ちょっと面食らっただけ」「ごめんなさい。私、ちょっと浮かれすぎかも」 はにかみ顔はそのままに、少女はまっすぐな瞳をジュンに注いでくる。深く澄んだ神秘的な光沢を放つ双眸は、さながら黒真珠のようだった。 「私、柿崎めぐ。今日から、ここでお人形づくりを始める予定よ」「君も? 実は僕も、今日が初日なんだ」「あら奇遇ね。それで、キミの名前は?」「桜田ジュン、だよ。薔薇水晶にも言ったけど、ジュンって呼び捨てにしてくれて構わないから」「いきなりそれだと、少し馴れ馴れしすぎないかな。じゃあ、桜田くんって呼ぶから、私のことも柿崎って呼んで。そうしましょ」 なにやら強引に決められてしまったが、それもいいかと、ジュンは頷いた。桜田ジュンという少年は、元々が受け身な性分なのだ。「柿崎さんも、毎週土曜日の受講スケジュールなのか?」 彼の問いに、めぐがビッ! と親指を立てる。それって使いどころ違うだろ……なんて思っても口にしない僕は大人だな、と一人で悦に入るジュンだった。 一瞬、会話が途絶えたのを逃さず、薔薇水晶が騒がしい子供を黙らせる教師よろしく、ぱんぱんと手を叩いた。 「では自己紹介も済んだところで……早速、講義を始めましょうか」「あ、ちょっと待ってくれ」「なにか?」 やおら挙手するジュンを、薔薇水晶とめぐの視線が射抜く。いきなり興を削ぐような真似をした彼を、詰っているかのようだ。思ってしまうと、そうとしか感じられなくなるから困りもの。 ジュンは眼を伏せて諂笑しながら、おずおずと唇を開いた。 「始める前に、トイレ貸してもらえないか。なんか緊張しちゃってさ」「そういうの『ソーロー乙』って言うらしいわよ、桜田くん」「……ねーよ」「なにそれこわい」 ジュンと薔薇水晶によって一刀両断に斬り捨てられる、めぐの妄言。 当の本人は「えー? アフリカではよくあることって、ネットで教わったのに」と不服そうに眉根を寄せたものの、すぐに気を取り直して、性懲りもなく一言。 「ところで『ソーロー』って、焦げつき難いお鍋みたいなものかしらね? あ、それとも、お侍さんが使ってた『ホニャララで候』のこと?」「どっちも違うだろっ! と言うか、柿崎さん。わざとらしくボケなくていいから」「いやいや、ホントに知らないんだってば」 嘘か、真か。手をひらひらさせて苦笑するめぐに氷塊のごとき冷淡な視線を叩きつけつつ、ジュンは席を立った。「とにかく、先に用を片づけさせてくれ。これじゃ集中できない」 薔薇水晶も、仕方がないと言わんばかりに鼻で吐息した。 「トイレは、母屋にしかない。案内する」「ありがとう。次からは、できるだけ煩わせないようにするから」「気にしないで。そもそも講義は長時間作業だから、いつかは使うことになる。めぐ、貴女も一緒にきて。場所だけは、憶えておいてもらわないと」「なるほど。二度手間になるのも馬鹿らしいわよね」 こく、と諾うと、薔薇水晶は一刻も惜しいとばかりに、そそくさとプレハブ小屋から出てゆく。滑るよう、という形容そのものの足取りだ。 ジュンたちが慌てて追いかけたときには、既に母屋の玄関を開けているところだった。その人間離れした速さ、まるで瞬間移動のごとく。 彼の背中に走った悪寒は決して、穏やかな晩秋の日和に吹いた冷たい風のせいばかりではなかった。 屋敷に招き入れられるなり、静かすぎるとジュンは思った。一般の日本家屋に比べ、間取りが広いのもあるだろう。しかし、それにしても閑散としすぎていた。 もしや、薔薇水晶はこの広い家で独り暮らし? めぐも同じ印象を抱いたらしい。廊下を進みつつ訊ねた彼女に、先を歩く薔薇水晶が歩を止めて振り返った。 「……お父さまと暮らしてる。いつも夜中に作業するから、いまの時間は寝ているの」「私と同じく、昼夜逆転の生活なのね。じゃあ、あんまり騒がしくしたら悪いわね」「お父さまは気難しいから、怒らせると、とても怖い。トイレが済んだら、速やかに教室に戻ることを奨めるわ。それから、もうひとつ――」 やおら、薔薇水晶は応接間の窓を指差した。レースのカーテンと窓を隔てた先には、裏庭の濃い緑が迫っている。「裏庭にも近づかないで。お父さまが精魂こめて手入れしているから、他人にいじられるのを極端に嫌うの」 冬も間近い季節にも拘わらず、青々と繁る木々。手入れする者の情愛を鏡映しにしているのだなと、ジュンは軽い感動と神聖さを覚えた。 不用意に触れてはならないものは、確かにある。ジュンとめぐは厳粛な面持ちで頷き、誓いを立てた。そんな彼らに注がれる薔薇水晶の隻眼は、どこまでも深く澄んで――覗けば吸い込まれそうな魔鏡にも似ていた。
夢の中、生まれた心……。 それはやがて、空の器を待ちこがれる一個の魂となる。 鏡の中で描かれる夢は、幸せな楽園か。あるいは――
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